それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

外国語と母国語の間

2017-07-31 22:24:35 | 教育

 (もらい物のズッキーニ)

 昨今は、母国語である日本語は、相対的に外国語特に英語よりも軽く見られている。中等学校レベル(アメリカンスクールにあらず)でも、すべての教科の授業を英語で行うというところもある。公立のスーパー・グローバル・ハイスクールなる珍妙な英語名の学校も設立され、グローバルという、今更はやりもしない視野や思想を持つ人材を世に送り出そうとしている。江戸末期か明治初期のような欧米絶対主義の時代にいるようで、はなはだ落ち着かない。
 明治の時代には、わが国の文部大臣が、まじめに、日本語を止めて英語を採用しようと思いつき(この思いつきは、今日の視点からは滑稽であるが、当時としては必ずしも笑うべきものではなかったようである)、アメリカの言語学者を訪問して相談して、窘められ、断念したというエピソードがある。行き着くところまで行くとこうなるのである。
 英語で言語活動ができれば、グローバル・マインドの人材が生まれるのか?英米の国民は、すべてグローバルな人間か。むしろその言葉(用語)と反対に、グローバルという主義、主張に反対する人たちが多いのではないか。
 日本語を止めて英語をという発想は、わが国を植民地化しようとする発想に近い。せっかく優れた言語を持ちながら、それを否定して、習得に多くのエネルギーを要する外国語を採用する必要があるのか。例えば、日本の政治家がグローバル・マインドを持たないのは語学力が低いからではない。認識能力が低劣であり、日本のことを碌に理解していないからではなかろうか。
 
 もっとも、日本語第一主義にも陥りがちな問題がないわけではない。(「ないわけではない」は、外国人には分かりにくい表現であるが、日本人で、これが分からない人間はいないはずである)
  日本語は、語彙量の点でも第一級の言語である.東南アジア諸国の大学では、母国語で授業をすることは難しいという.特に、語彙の点に問題があると聴いている。日本人は新しい概念にその衣服としての言葉を創造し、新しい語彙を生み出す名人である。漢字は中国由来であるが、漢字で表現される語彙、語句も、すべて中国由来ではない.日本製の語句が多数存在する。不自由を補う才に長けているのは、高度な技術力を生み出し、世界トップクラスの製品作りを可能にしていることにも通じる。
  しかし、一方で、日本語を尊重するために余計な労力を要するものも生み出した。漢文という、外国語なのに「国語」の教科書に収録されている教材の存在は奇妙であるが、その解釈は、さらに奇妙である。返り点、送り仮名などの工夫によって、原文の中の語句の位置を飛び越したり、引き返したり、日本語の論理で外国語を読もうとしているのである。維新の志士の中には、漢文能力の低いことを逆手にとって、原文の順序の通りに読んでいるふりをして、中国人と同じような読み方をしているのだと嘯く者のいたことを、司馬遼太郎の小説で読んだ記憶があるが、細部については自信がない。しかし、原文通りに読むというのは理にかなっている。
 外国語学習に、「意訳」と「直訳」という二種類があるというのも奇妙であるが、「直訳」は、外国語を日常言語とは別の次元で扱う、一種の知的活動ととらえているところがある。世間一般の人間は、その分かりにくさに絶えながら知的活動に参加させられていたのである。英語というものを、日常的な言語である日本語とは別の、ちょっと分かりにくいものととらえ、それを漢文読解のように、日本語でも中国語でもない発想、論理の、しかし、なんとしても日本人独特の言語に置き換える努力の結果なのであろう。通常の日本語とは異なる訳文としての日本語も、実は、日本語の論理に引きずり込んだ外国語であり、日本人が、日本語の論理という枠の中で理解しえた外国語なのである。日本人の、あの長い英語学習の時間に比して、少しも語学力が進歩しないのは、「直訳」主義の日本語化(新言語としての日本語)が原因ではないかと疑っている。近年は、直訳調の訳文の分かりにくさにた得かねる人たちのために、「超訳」なるものが生まれた.中国語の古典を、日本語だえはない、例えば、英語やドイツ語に翻訳されたものを元に、原典によらずに日本語に直す方法である.明らかに、日本人には分かりやすい.ここまでしなくとも、同一の作品でありながら、過去の翻訳本と最近の改訳本を比べると新しいものの方が分かりやすいことが多い。「直訳」の分かりにくさが露わになってきたのであろうか。
 外国語の学習における「訳」は、「意訳」であって当然であろう。意訳によって、「ああ、日常的に日本人である私が口にしたり書いたり、読んだり、聴いたりしている文や語句は、外国語ではそう言うのか!」とその発想の違いに目を開かされるという知的な刺激が得られる。人工言語のような新・日本語である「直訳」には、その手がかりがない.日本語という刀を武器に、外国語を料理して、自分のものにしようとする、しかも料理し過ぎるところから生じた問題であろう。
 かつて、オーストラリア人の友人に招待されて、短期間かの国を訪れたことがある。公的な目的でもないのに、小学校、中学校、大学を訪問して、授業に参加したり、先生方と交流したりの楽しい日々であったが、英語を使用する人たちの「発想」の違いに驚かされることが多かった。そして、それは、直訳したり、単語に分解したのでは理解できない。外国語を外国語としてまるごと受け入れ、自分の母国語の場合(「意訳」としての言語)と比較することで初めて分かる感動であった。他言語を母国語にしている人との相互理解は、単純に同一化、等質化するのではなく、彼我の違いを理解する必要がある。
 学校訪問には、友人の奥さんの車で送迎してもらうことが多かった。あるとき、訪問先からの帰りに、「家まで、あとどのくらいの時間がかかるの?」と訪ねたところ、次のような答えが返ってきた。直ちに理解できた。
 We are almost there.
  この発想に、びっくりし、感動もした。「ああ、この国の人たちは、こういう発想をするのか」と。
 意訳すれば、「もうすぐよ」ということなのである。
 同じ人から、まもなく手術のために入院するというメールが届いたが、その中の一節である。
  Please don,t worry, no amount of worry will change this situation.
  直訳してはいけない。「心配しないでね。いくら心配してもらったって、しょうがないんだから。」である。こういうnoのつく言葉を含む英文にはいつも感動させられる。日本語にはない発想である。

  日本語を母国語とする人間にとって、日本語は他の言語と置き換えられる存在ではない。英語よりも価値の低い言語などでないことはいうまでもない。また日本語が、他の言語に比してとりわけ優れているという訳でもない。優れている面もあろうが、そうでない面もあるというのが正しいであろう。ただ、優劣の判定ではなく、母国語と外国語の特徴の違いを知ることは重要である。その特徴は、その言語を使用する人たちのどのような発想や論理の違いを反映しているのかを知ることが大切である。


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