それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

教育・国語教育におけるいくつかの誤解-その3

2017-07-25 03:30:10 | 教育

(散歩の途中、公園で見かけた「栃の木」.マロニエの親戚。)

3 「引用」について:
 論文やレポートを書く際に、他者の論文や作品の引用をすることは少なくないであろう。学生のレポートなどは、ほぼ90パーセントが引用の産物ということもあり、特に、ネットからの引用の是非が問題になっている。ネットからの引用がある場合は、即座に不可という措置をとることもあるというが、私は、書籍はよいがネットはダメという立場は取らない。内容の質次第である。誰でも本を書ける時代にあっては、ろくでもない本(書籍)も多いからである。
 引用を巡っては、困惑した事例が自分自身にもあって、考えるところが多かったので、まずそのことを書いておきたい。
 数年前に、『「評価読み」による説明的文章の教育』なる本を出版した。国語科教育の専門書には、教材研究をはじめとして、教科書教材に触れることが多いが、肝心の教材文が掲載されておらず、検定教科書が手元にない場合には、専門書中の記述が正しいのかどうか理解しにくいということが多い。こういう不自由なことのないようにと考慮して、私の本の巻末には、書中で扱った教科書教材全文を収録することにした。教科書の教材を収録するについては、「著作権」を考慮しなくてはならない。従来の専門書に教材本文が収録されなかったのは、この「著作権」の問題が原因ではなかろうかと推測している。
 教材文収録については、教科書会社に了解をとらなくてはならない。出版者の責任者に相談して、教科書会社への交渉は、その責任者が行うことになった。教科書会社の了解が得られない場合には、残念ながら、教材本文の収録は断念するというのが、私の意向であった。書物が完成した時点で、念のために教科書会社との交渉が済んでいるかどうかを確認すると、驚いたことに「失念」していたという。昨今の政治家の「記憶にない」を想起するような事態である。すでに完成した本には、教材文が収められている。したがって、出版、販売するには、教科書会社の了解が必須になる。
 出版社の責任者は大慌てで交渉を開始したが、やっかいなことに、教科書会社は、著作権の処理については、別組織に移管しているとのことで、問題は複雑を極めたようで、多くの時間を無駄にした。出版前なら、「教材文は削除」で、簡単に解決したものを。
 出版社による案内では、「森田氏の著書は、著作権の問題で、出版が遅れます。」という無神経な説明がなされた。あたかも著者が著作権に抵触するような行為をしているかのような内容である。
 「引用」にかかる文章では、ついでに触れておこうとした事例が、ついつい長くなってしまったが、「引用」とは、まじめに考えれば、かくもやっかいなことなのである。TPPはアメリカによって、困ったことになったようだが、著作権にかかる措置が厳しくなり、本の執筆は、難しくなると言われていたので、それはそれでよかったのかもしれない。少なくとも、検定教科書の教材文を、専門書に収録することなどを規制する必要はないと思われる。大体、専門書で儲かることなど、ほとんどないのであり、教育活動の一環であると考えれば、小さなことに拘泥する必要はなかろうと考えるのであるが、どうであろう。第一、私の著書からの引用に際して、著作権関係の相談や了解の申し入れなど一度もなかった。すべて無断引用であるが、それを問題に使用などとは思わない。(時に引用文献名も明らかにせず、私の著書とまったく同じ表現の論文を書き、また講演している事例があったが、一瞬怒りを感じたものの、こういうこともあり得ると考え直した。)わが国の国語科教育研究の過去の事例では、著作権を厳密に保護しようとするなら、ほとんどの専門書は出版不可となる。出版を萎縮させることになりかねない著作権問題をどう考えるべきだろうか。私としては、専門書については、出典を明記し、利益追求でない場合は、「悪意なし」として、あまり厳しい措置をとらないことが適切であると思うのだが……。
  ところで、「引用」の問題(本題)に戻ろう。
 私たちが引用するのは、どういうばあいであろう。
 ①自分自身の意見、見解等がない場合
 ②自分と同じ意見、見解等の場合
 ③自分とは異なる意見、見解を問題にする場合
 このうち、①は、学生のレポートや、強制された報告書、論文などに見られる行為で、論外であるが、時に研究者の場合にも見られ、出典を明示しない悪質な物もあるので注意したい。
 特に問題にしたいのは、②の場合である。自分の意見の権威付けのために、先人や、著名な人間の著書論文から、該当する部分を引用するのである。だれもが、一度や二度は手を染めている(犯罪のような言い方であるが)に違いない。 
 しかし、考えてみれば、すでに自分以外の人間が、主張したり解明したりしていることなら、敢えて、自分が言う必要はないのである。二番煎じや三番煎じになるはずだからである。権威付けのつもりが、自分のダメさ加減を暴露することになっているのである。しかも、時には、権威をたくさん引用して、内容を豊かにしている(つもり)の人もいる。いろいろな論文や書物を読んでいることは分かっても、本人が創造的で主体的であることの証明にはならない。
 ③の場合は、引用は必須である。偏りのないように、恣意的にならないように、正確かつ誠実に引用しなくてはならない。引用もなく、あってもつまみ食いのような扱いをして独善的な解釈や批評をしてはならない。むりやりに主張をしなくてはならない立場に追いこまれた人間(研究授業の構想に新機軸を打ち立てなくてはならないとか、修士論文等で批評的論考を書かなくてはならない人など)が、問題のある引用に走ることが多い。私も迷惑をこうむったことがある。しかも、問題のある引用を含む論文の写しを送りつけてくる剛の者もある。
 このように見てくると、「引用」とは多くの問題を含む怖いものであることが分かる。オリンピックの広告デザインが問題になったが、これも他人ごとではない。
 これまで、安易に、他者の意見を自分のもののようにしていたかもしれないことや、アンフェアな扱いをして他者の評価や批判をしてこなかったかを反省してみたい。


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