Think Globally, Act Regionally:『言葉の背景、カルチャーからの解放、日本人はどこへ往く』

身のまわりに見受けられるようになった「グローバル化」と生きる上での大事な「こころの健康」。さまざまな観点から考えます。

●第22回「個人の個人主義と社会の個人主義社会~日本的個人主義社会へ~」

2007-12-23 21:32:01 | ■日本人はどこへ往く?

●第22回「個人の個人主義と社会の個人主義社会
~日本的個人主義社会へ~」

国や文化について、個人主義社会と集団主義社会に2分することが一般的に行われている。
英米は個人主義社会で、日韓は集団主義社会だと言うように。
学界では、ホフステードの「個人主義と集団主義」、トランペナーズの「個人主義と共同体主義」などがそうである。

つまり、個人を優先に考えるのか、個人を取り巻く社会を優先に考えるのかの2分法である。

もう少し、じっくり考えてみると、どうも、社会は、西欧人が見るように、そんなに単純ではないようだ。

つまり、個人が個人主義に向かうのは自然なことで、それをどうやって、西欧的な個人主義ではなく、日本の集団主義のよいところを残しながら、日本的個人主義社会をつくっていくかが、ポイントになるのではないか。

今回は、このことを考えてみたい。

日本では、米国の文化に影響されて、表面上は、個人を尊重する風潮は確かにある。しかし、社会のシステム(制度)は、いまだ、集団優先の制度になっている。

小学校を見よう。集団的朝礼はまだまだ存在するし、教育の枠そのものは、集合的教育法そのものだ。これは、大学まで続いている。会社へ入ったらどうだろう。これも、周りを気にする、特に、日本的な集団的研修、仕事の進め方になっている。集団的教育法とは、個人のキャリアを主体に考えると言うことではなく、学校や会社などの組織がはじめにありき、個人、その家族は、会社などの組織に従属するという考えが基本にあり、それが日本の組織優先社会の実態である。

さて、2分法的な個人主義社会と集団主義社会の枠に戻って、双方のプラス面とマイナス面とを考えてみよう。

個人主義の良い点は、自己実現優先のため、所属する会社など組織は、自分や家族よりも優先度が低くなる。一方、会社など組織の効率と言った観点から見ると、個人主義の弱点であるセクショナリズムや利己的なことが強調され、例えば会社のパワーが、一部の経営者あるいは有能社員に集中し、組織力全体としてのパワーがどうか、という問題が生じる。しかし、会社組織で言えば、80年代からの日本企業による世界の席巻に伴い、西欧企業は、いかに、個人主義の中にチームプレイを入れて、日本企業のような効率性を高めていくかを、熟慮し、その実行を果たしてきた。そして、その成果がでている。

個人主義社会での生活面の善し悪しではどうだろう。メルボルン(のような個人主義的社会)に限っていうと、他者のことは関係ない、自分の生きたいように行動することが普通である。何々に気兼ねする、誰々に考慮しながら、行動を制限すると言うことは、あまり見られない。一方、個人としては活動が難しい人たち、例えば、デイケアの人たちのためには、近くの公園で、その人たちのためのパーティなどが頻繁に催され、個人主義の弱点が補強されている。個人だけではできない、グループとしての楽しみを、社会がシステムとしてもっているようだ。

振り返って、集団主義的社会、とくに日本社会はどうだろう。

集団主義の良い点は、一々言葉に表現しなくても、相手の行動、行為、好意が自然と分かり、気持ちの良いほど、効率的にものごとが処理される。一方、集団生活で大切なのは、「和」であり、「個」の主張は極めて制限される。集団生活でのルールが口やかましく教え込まれる。例えば、公共交通機関では、うるさいほどの案内があり、公共の場所でも異常なほど、個人を守る安全対策(柵の設置など)が常態化している。会社組織を見ると、仕事上は和の流れに身を任せれば、いごこちよく仕事ができるが、逆に、革新的な仕事をしたい人間にとっては、伝統的なルールに
縛られ、なかなか新しいスタイルをとる事ができない。アイデアの創出など他との違いを強調することは、会社組織ではまだまだ価値が置かれない方が多く、ともあれ、従順な性格の方が無難に仕事を進められる。

集団主義での生活レベルではどうなっているか。日本社会は、ある意味で監視社会的な習慣があり、常に、他者は見られる存在であり、とくに目立つ行為は疎まれ、やっかまれ、好まれない。一方、利己的行為が少しずつ増えはじめ、自分の殻に閉じこもりがちな者も増えており。彼らは、伝統的な「和」の社会スタイルになじめない。ただ、生活レベルでの長所をあげると、長年しみついた日本的環境や生活スタイルが、特に海外生活(個人主義の世界)から戻ってきた日本人を、よりリラックスさせることは言うまでもない。

個人主義社会での伝統マナー

メルボルンで経験して、これはいいなと思うことがある。
トラム(電車)で、重い荷物をもっている婦人には、自然と誰か(男性)が手を差し伸べる。
重い荷物だけでなく、ベビーカーなど困っているひとには、手を差し伸べる余裕がある。座席も、当たり前のように老人にゆずる。
個人主義だからこそ、殻に閉じこもらないように、この種の社会的習慣やルールが存在するのかもしれない。
大人が自然とやるから、子供もそれを見て、育ち、自分も手を貸すようになる。
大学構内でも、勤め人のひとにもよるが、ドアを手で押さえて、レディファーストの習慣を見ることも、一度や二度ではなかった。

でも、考えてみると、これは、個人主義や集団主義の習慣・ルールというよりも、成熟した社会の基本的なマナーじゃないんだろうか、と思い直した。

他者への気配りは、大切な社会生活のマナーであって、数10年前までは、日本人も普通にやっていたような気がする。今では、そういった気配りの習慣は、地方都市、それも伝統的な田舎のなかだけでしか経験できなくなってしまった。

いつから、日本では、このマナーが忘れられた、捨てられたのだろうか。

核家族化して、家族、一族のつながりが薄くうすくなっている日本。同じ、集団主義や家族主義の伝統をもつ、他のアジア諸国、たとえば、中国や台湾、韓国などでは、大都会をのぞいて、まだまだ、お年寄りを大切にする伝統は残っているようだ。

高度経済成長、バブルを経て行き着いたところが、他者への気配りも喪失したマナー棄却の国、となると、ますますもって、将来の日本のゆくえに不安がよぎってしまう。ここのところの出生率の減少もこういうところから来ているのでしょうか。

さて、嘆きを入るのはこのくらいにして、どうやって日本的な個人主義社会を見出していくかを考えてみたい。

個人が自己実現を求めるのは自然な人間の感情だと思う。一方、国は、(日本では)、まだまだ統治しやすい個人を求める。つまり、これまでのような大きな政府で、行政側のパワーは以前と同じく持たされたままで、未来の時代を生き抜こうとしているかのようである。

地方自治体では、参加型のセミナーが以前より増えていることは確かだ。また、情報の扱い方、情報の入手面でも、インターネットの普及とともに、情報の非対称性(例えば、行政とそのサービスを受ける市民の持っている情報の量と質の差があるということ)が少しずつではあるが、情報公開法の施行などによって、そのギャップが解消されてはいる。

けれども、冷静に考えてみれば、参加型、情報の非対称性の解消なども、上から下へ(お上の行政からしもじもの市民へ)の流れが基本的に変化していることでは、ない。つまり、企画のアイデアは、市民からもらいましょう、でも、実施や評価は、そもそも、行政側のパワーに属するもので、あくまでも、市民、住民は、参加の一部であって、主体ではないのです。

バブル崩壊以降、政府も自信をなくしたように思われる。なにせ、知的レベルの最も優れた人たちに、国の舵取りをまかせ、結果として、経済面で失敗してしまった。でも、誰もその責任は問うていない。あたかも、地震のように、天から降ってきた天災の部類で、誰もこれが人災だとは思いもしない。経済面での失敗も、お上=天から与えられたもので、責任はひとにはない、かのようである。

さて、日本的な個人主義社会を見出すためには、

まず、身近な個人レベルでは、他者に対する気配りを、例えば、お年寄りに対する優しさを、大人自ら実行していく風潮をつくることである。

次に、社会レベルでは、お上に頼ろうとする、その依存心を捨てなければならない。これは、個人も、企業も、そしてマスコミもである。自己責任、自律/自立心を持とうでないか、ということである。
ここから、少しずつ、日本的な社会の個人主義が芽生えてくる可能性もありそうだ。

今の日本は、なんだか得たいの知れない「閉塞感」に覆われているようだ。この「閉塞感」のみなもとの一部は、どうも、このお上への依存心や他者に対する気配りの喪失から来ているのかも知れない。

知的レベルの最も優れた人たちに国を動かす権力を与え、知らず知らずのうちに、日本という国が過去の一定期間成功し、その美酒に酔っているあとで、失敗が繰り返され、最終的に、自信をすっかり喪失し、閉塞感に囚われた。

これはどうしてなんだろう。

エコノミック・アニマルだと揶揄されながらも、日本企業は西欧世界にチャレンジを繰り返し、その結果、闘いとった経済的繁栄は、確かに素晴らしかった。それに、市民レベルでも、海外へ行ったときほど、円のチカラを実感することはない。
これは、政府、企業のなせる業であった。

経済的に失われたこの15年の責任を、もちろん、政府と企業だけに押し付けるわけにはいかない。

しかし、

失われたこの15年間に、

何か、

大事ななにかが、

あらゆる日本人のこころから忘れ去られたように思われる。

それは、なんだろう。



もしかしたら、

未来を恐れず、

未知なるものへ挑戦する

『気概』や『勇気』

なのかも知れない。


【参考】
右上の詩は、Piet HeinのCollected Grooks より。

「勇気がある」ということは、心が挫けた時にそれをものともせず立ち向かうこと。
だから、実際にあなたが勇敢でないときだけ、ほんとうの勇気ある人になれるんだよ。

彼は、オランダ人の詩人/科学者/建築家(1905-1996)。
Grookとは、オランダ語のgrukのことで、警句的詩を意味する。
http://chat.carleton.ca/~tcstewar/grooks/grooks.html

●第21回「クロスカルチャー下でのチームワーク、そして朝青龍問題(新版*補遺**)」

2007-12-01 15:20:14 | ■カルチャからの解放

●第21回「クロスカルチャー下でのチームワーク、そして朝青龍問題
~それぞれの国の文化・習慣をどう乗り越えるか~」

[時間感覚と仕事]
まず、自分が日本人だと気づいたのは、時間に忠実なこと、「時間厳守は当たり前」というのが、小さい頃からDNAに刻まれた、習慣だった。
この時間感覚が、なんとモロクモくずされたのが、東アフリカでの仕事場。ミーティングの開始時間になっても、顔をみせるのは、日本人ばかり、現地の東アフリカ人は、15分、30分遅れが当たり前。

何で、日本人はいつも最初に座っているんだ、という顔をされるのが普通だった。

メルボルンでは、グループ・アサインメントが学生に課せられていて、科目によっては、1回~2回は、他カルチャーの学生と組んで、レポート書きをやるのが一般的だ。
今までのクラスメイトの国籍を思い出してみると、中国、韓国、ベトナム、タイ、インド、 インドネシア、オーストラリア、フランス、 メキシコ、フィリピン、パキスタンなどだ。他のグループでは、また、違った国籍の学生がいたが。これはもう、多国籍企業の各地域の職場が一つになったような雰囲気。

今から振り返れば、各学生は、知ってか知らずか、それぞれ自分の文化を背負っているんだなあ、との思いがある。

例えば、直前に平気でミーティングをキャンセル(何回も)する仲間もいれば、
必ず、指定時間を守って、最初から待っている仲間(私も含めて)もいるし、
レポートの最終段階のまとめで、自分の担当分野は提出したので、自分の役割は終わったからあとは皆さんでどうにかしてくれ、という仲間もいたし、最後まで、一緒に協力するのが当たり前という仲間もいた。
文化の影響なのか、個人の価値判断の基準なのかは不明だけれども、厳然と違いは存在した。

[時間厳守]
この時間感覚による文化の違いは、クルックホーンやトロンペナーズなどによる、
時間感覚(過去志向、現在志向か未来志向か)の違いなんだな、と思われる。

日本人は、未来志向というか、段取りが分かっていて、今これをやらなければ、将来はこうなるというのが知らず知らず見えてくるので、今の時間を几帳面に重視する。

一方、現在志向の人たちは、不確定の未来より、今、一番自分にとって大事な事柄を優先する。だから、ミーティングのキャンセルも一向に構わない。日本人の思考・態度は、どうも未来志向の代表選手、アメリカの仕事文化に影響をされているようだ。もちろん、このグローバリゼーション/フラット化の世界では、文化の収斂化(コンバージョン。ある文化が他へも伝達して、一定の影響を与える)があり得るわけで、これは、国民性というより、個人の文化かも知れない。

[異文化の衝突:朝青龍問題](~謝罪か矜持か~)

さて、昨夜の記者会見と横綱審議委員会(横審)での「反省・謝罪」で、朝青龍問題は一見落着を見たようだ。

身近のモンゴル人の友人に、一連の朝青龍問題を率直に聞いた。

彼は一言、

「あのような細かいことは、モンゴルの文化にはない」との答えだった。

複数のモンゴル人に尋ねなければ、正確なことは言えないが、クロスカルチャー(交じりあう文化)の理論を勉強した立場としては、この朝青龍問題は、日本文化とモンゴル文化の衝突のように思われる。

日本文化によれば、「謝罪」をすれば、水に流してくれる文化がある。「謝罪」とは「ごめんなさい」と皆の前で、頭を下げることである。会社の不祥事のたびに、トップが頭をさげるニュースを、これまで何度見たことか。この「頭を下げること」で、感情的には満足がもたらされるが、筋の通るような結論は得られず、概してうやむやになり、将来に向けて失敗を活かすことが不可能になる。

角界は、伝統的日本文化を体現しているため、この「頭を下げる」ことをまず望んだし、国民も、それを見て、胸をなでおろし、許してしまう。

他方、
会見の内容を読む限り、
朝青龍は、非常に、合理的な人間のようだ。
プライバシーのことについては、個人主義の国の人間と同じ回答をしている。

ここからは、私の推測だが、

もし、モンゴル人の矜持(プライド)あるいは価値観に関して、「細かいことをぐずぐず言うのは、男らしくない」、「モンゴル人は、大きなこと、つまり、相撲で実績を出せばいい」という価値観が大勢をしめるのであれば、この問題の発端になった、『腰や左ひじのけがを理由に夏巡業への休場届を出しながら、故郷のモンゴルでサッカーに興じたこと』に対しての、相撲界の反応は、彼には、全くと言っていいほど、理解できなかったのではないか、と思う。

今回の問題を振り返ってみよう。
モンゴルでの病欠時のサッカーを端緒に、
最終的には、
「横綱としての品格に欠ける」がスローガンとなり、
ある種のキャンペーンが始まったように思われる。

-礼をしないで土俵を下り、花道では座布団を蹴り上げた。
-過去、朝青龍は03年名古屋で旭鷲山のまげをつかんで横綱として史上初の反則 負けを喫し、綱の品格を厳しく問われた。
-けたぐりで勝利した。
-報道陣に舌打ちし、にらみつけた、等々....。

何か話しがオカシイなあ、とずっと思っていた。

そこで、二三の疑問がある。

誰が、朝青龍を横綱として選んだのか。選んだ人たち(横綱審議委員会。横審)の責任は、どこへいったのだろうか?
まず、品格の欠ける横綱を選んだ、自身の反省を述べ、選んだのが間違ったのだから、後から、ぐずぐず言うのも、なんだか、大人気ない気がする。
よっぽど、内舘牧子女史の言うように、「引退勧告」を主張した方が、筋が通っているように思える。

次は、「横綱の品格」とは何か、だ。

スポーツの世界では、勝負に勝てばいい。しかし、相撲や、伝統的武道では、勝負だけでなく、「礼」が重視される。これは、日本文化で育った人であれば、言わずとも、分かっている。もちろん、世界の一流のアスリートたちは、マナーを含め、それなりの風格を備えていなければならない。さて、日本文化で育てられなかったスポーツ人はどうすれば、いいのか?

よきメンター(指導者)を探す。この場合、身近にいなければ、過去の尊敬された横綱の態度(特に、日常の作法など)をビデオや門下生から学習すること(ロール・モデル)が必要だ。日本文化で育った人では当たり前のことが、そうではない人間には、理解できない。理解できなければ、態度として表れない。理解できない者に対して、「違う、違う」といっても、どう違うか、分からない。

ここは、はっきり、「こういう人が横綱の見本だ」と説明し、示さなければならない。

次に、日本側、特に、横審の態度だ。

スポーツ報知12月1日によれば、
『26日の委員会終了後には「私の中では引退した力士だ」として、引退勧告をするべきという意見を持つ内館牧子委員(脚本家)も態度を軟化。「私の正面に座った横綱の目をじっと見ていたのですが、終始伏し目がちだった。もっとふてぶてしいと思ったが、反省のあらわれが出た態度だと思った。横綱として、してはいけないことをしたことは十分、分かっているようだった。今後を見守りたい」と、話した。』 とある。

あの理知的な内館委員でさえ、他文化の理解を拒否し、日本文化を強要し(「終始伏し目がちだったから、反省しているだろう」)、胸をスッキリさせたかったのであろうか。ふてぶてしさは、日本文化ではマイナスだ。でも、モンゴル文化では違う意味をもつとしたら、どうなるのだろうか。それとも、日本人になれ、と要求しているのだろうか。朝青龍は確かに外見的には、日本人に好感をもたれない顔つきだ。その種のことが、言外に、品格に含まれるとしたら、美顔の大鵬のような横綱以外、ちょっと考えられない。彼にはどうしようもないことだ。
これも、なんとも、大人気ない。

一方アメリカでは、大リーグで活躍する、アメリカ的でない小刻みな(日本的な)ベースボールは、勝負に勝つという視点から、非難されるどころか、受容され、尊重されてきている。

文化によっては、同じ態度が違う意味合いを持つことが多い。
例えば、
「腕を組んで話を聞く」:他の文化では、相手に対しての丁重さを示すこともある。
「貧乏ゆすり」:他の文化では、リラックスのための単なる運動以上の意味合いはない、等々。

* ちなみに、ある心理学者による、「この笑顔が本当かウソか」を見極めるテストを受けてほしい。どれだけ、人間の眼識が不確かかが理解できるに違いない。(時間は、約10分間、20の表情で判断されます)
http://www.bbc.co.uk/science/humanbody/mind/surveys/smiles/
<やり方は、下記参照>

クロスカルチャー下での人間関係をスムーズにさせるためには、
次のようなモデル(解決策)が推奨されている。

○エスノセントリック(拒否・否定、守り、脅威を最小限にする)から
 エスノレラティブ(受諾・容認、認知的適応、態度的適応)へ。

**エスノセントリックとは、
一民族中心主義、自国中心主義、自グループ中心主義のことで、自分以外の他の文化に対して、知識も興味もない状態で、まず他文化への理解拒否あるいは否定。次の段階では、他の文化の存在を知るが、それはその国だけに有効だと考える。他の文化を取り入れるときは、自国文化より優れていると認めたとき、取り入れる(その国の人のようになる)、これは「守り、防御」の段階。3番目の状態は、「守りの段階」で感じていた脅威が、自国の文化がなんだか普遍性(優位性)がありそうだという感覚になり、脅威を最小限にするために、文化の差を受け入れる。

エスノレラティブとは、
自国文化を、数多くの他の有効な世界観の正に一つであると感じることで、他の文化を容認する。次に、共感の段階。つまり、他の文化を理解し、それに相応しい方法で行動できるような段階。この経験を深めることが、2元文化あるいは多元文化理解の土台になる。異なった文化世界観の中に入ったり、出たりする、融合の段階となる。

また、心がまえとしては、HEROがよく言われている。
H: Honesty (正直・率直な会話につとめる。腹芸は通じない)
E: Empathy(共感をもって接する。同情ではなく、EQの問題)
R: Respect(相手を尊重する。見た目や態度だけで判断するのではなく、相手の文化・価値を尊重した上で、判断する)
O: Open Mind(偏見をもたない、広い心で接する).
これを実現するには、現実には、かなり大変だが。

さて、蛇足になるが、ちょっと気になることを。
英語のCross Cultureを日本語に翻訳すると、「異文化」と言うらしい。日本文化が、自文化あるいは同文化で、異文化とは、日本文化以外の他の文化ということらしい。私の理解では、クロスカルチャーとは、異文化と異文化の出会いの場、つまり、文化が交差する場所、「交じりあう文化」と考えた方が、未来志向だと考えますが、いかがでしょうか。

その場合、見た目(相手の態度など)で判断するよりも、より合理的(理知的)に判断する方が、的確な結果が得られるのではと、思われます。


<やり方:笑顔のウソかマコトか>
http://www.bbc.co.uk/science/humanbody/mind/surveys/smiles/
このサイトを開いたら、
最初に、
・Overall outlook on life (人生への全般的な態度。楽観的か悲観的か)当てはまる位置をクリック。
・Confidence rating of your skill at descriminating between fake and real smiles (ウソか本当の笑顔かを見極める目についての自信度。低いか高いか)当てはまる位置をクリック。
⇒next をクリックして、スタート。
⇒1ページ目。写真の左下のボタンをダブルクリックして、その笑顔が、Genuine(本当)か Fake(ウソ)か、どちらかのボタンをクリック。
⇒next をクリックする。以下、同じ。

上記のクイズは、
カリフォルニア大学の心理学者ポール・エックマン教授の研究を基に作成されたもの。

【参照】
■一転!?甘~い横審「今回の件はこれで終わり」…朝青龍帰国(2007年12月1日06時02分スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20071201-OHT1T00067.htm

■朝青龍逆ギレ「反省」謝罪会見直後、報道陣に舌打ちにらみつけ(2007年12月1日06時02分 スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20071201-OHT1T00069.htm

■【朝青龍会見ライブ(1)】心からおわび申し上げる
【朝青龍会見ライブ(2)】サッカー頼まれ断れなかった
【朝青龍会見ライブ(3)】進退問題が出ないよう頑張る
【朝青龍会見ライブ(4)完】品格磨いていきたい
(11/30 MSN産経ニュース)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/sports/sumo/106960/
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/sports/sumo/106962/
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/sports/sumo/106967/
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/sports/sumo/106984/

■朝青龍黒星、座布団蹴散らす/夏場所
(日刊スポーツ2007年5月23日)
http://www.nikkansports.com/sports/sumo/p-sp-tp3-20070523-202798.html

■朝青龍ひざ蹴り!6連勝1差接近も波紋…春場所8日目
(スポーツ報知 2007年3月19日)
http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20070319-OHT1T00104.htm

■朝青龍の「けたぐり」批判「横綱らしい取組を」…横綱審議委員会スポーツ報知(スポーツ報知 2006年11月28日)
http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20061128-OHT1T00077.htm

●Milton J. Bennett (1998), Basic concepts of intercultural
communication, Published Yarmouth, Me. : Intercultural Press

●Kluckhohn, F. R. and Strodtbeck, F. L. (1973), Variations in value orientations, with the assistance of John M. Roberts, Westport, Conn., Greenwood Press

●Trompenaars, F. (1998), Riding the waves of culture: understanding cultural diversity in business, McGrow Hill

●Trompenaars, F. and Prud’homme, P. (2004), Managing Change across Corporate Cultures, Capstone Publishing

☆左側の写真は、(c) 1998 Oliviero Toscani for Benetton and the United Nations Celebrate the 50th Anniversary of the Decalration of Human Rights - 1998