●一般の方へ被ばくの不安をどのように説明するか。「賞味期限が切れた食べ物を翌日食べてしまった。とても心配だ!」「息子が車で走行中、制限速度が50㎞から30㎞に変わったのに100mほど50㎞で運転した。事故を起こすかとても心配だった。また、違反をしたことで犯罪者の父親の心境だ、正直に警察に届けるべきか悩む。」「インフルエンザの子どもの痰を誤って手につけてしまった。洗っただけで十分か。皮膚移植の必要はないか。また、面倒なのでマスクは付けていなかった。心配、心配・・・。」
⇒聞き漏らした部分もあり、細かい口頭説明の文言までは覚えていないのですが、上記のカギかっこの引用部分は福士氏のスライドに書かれていたことをそのまま引用しました。このカギかっこの例えの語り口は、福島の事故後、放射能に不安を抱く専門知識をもたぬ一般人の不安心理をまるで揶揄しているかのようにさえとらえ得る表現です。
福士氏は低線量放射能の影響について、さまざまな実証データと知識から、冷静にとらえ行動する準備ができているのかもしれません。しかし、私たちはそうはいきません。危険を指摘する専門家、予防原則を主張する専門家もいます。上記の例えはデリカシーに欠ける表現ではないでしょうか。
先に「正しく怖がること」という言葉が出てきました。しかし、その「正し」い怖がり方がそもそも学者間でも異なるのではないでしょうか。
●フランス政府は、福島の事故後、希望する自国民をチャーター便で帰国させた。採用された便のルートはより短い北回り。この間、乗客は宇宙線により50マイクロシーベルトの被ばく。さらに、パリの線量は東京の3倍の毎時0.3マイクロシーベルト。
●ヨードによる水汚染が心配で半減期の1週間、水を保存して飲んだ。ここでは、水の腐敗リスクが忘れられている。放射性物質汚染のない産地のホウレンソウをネットで安く買った。ここで残留農薬のことは忘れられている。
⇒フランス政府や水、野菜の事例で福士氏が言わんとすることは明らかです。全体でリスクを考えるべし、ということです。確かに、福士氏のこの指摘は正しいと思います。目の前の放射能の心配のみならず、食物の腐敗や残留農薬についても考慮しなければなりません。健康にとっては同様のリスク要因です。
しかし、です。
「リスクは全体で考える(福士政広氏の講演 その3)」の冒頭の「子どもの生活で気を付けるべきこと」でも議論しましたが、専門家ではないわれわれ一般人にとっては、目に見えず、また統計学的優位性の確立しておらず、学者間でも意見の相違がある低線量被ばくのリスクについて、不安視するなと言われても、あまり説得力はありません。
リスク全体をとらえるという指摘はとても重要ですが、子どもの身に起こるかもしれない確率的影響を心配する親の心理に寄り添うことも同じくらい重要ではないでしょうか。保健物理学の専門家にそこまで期待するのは欲をかきすぎでしょうか。ですが、科学も人間生活に貢献してこそ意味をなすものです。閾値なし直線仮説のスタンスにある方であれば、語り方の工夫ひとつで、全く違ったメッセージを発することができるのではないかと思います。
福士氏は、最後の二枚のスライドで、人の死亡原因とその死亡率の表、そして、講演冒頭に提示した「全てのものは毒である。・・・」というパラケルススの言葉を再度表示していました。あちこちにリスクはあるのだから、放射線の確率的影響ばかりを過度に心配するべきではない、と言いたかったようです。
最後に、私からのまとめとして二つのことを記したいと思います。
第一点目です。福士氏の90分の話の要旨を、学校の国語テストのように25字以内でまとめよと言われれば、それは間違いなく「放射線リスクばかりではなく、全体のリスクで考えよ」だろうと思います。安全だとか、危険だとかいう論点ではありません。
しかし、この議論の過程においては、私もところどころでコメントしてきたように、福士氏が、目下、低線量被ばくと子どものリスクを心配している一般の親たちの心理に寄り添っているかというと、やや疑問に思うところがありました。福士氏はアカデミックな実証データを示すことに懸命になるあまり、学者であることにとどまっているという印象を周囲に付与していたと思います。無論、ご本人としては、それでよしということなのかもしれません。学者でらっしゃるわけですから。
しかし、いま、放射線を専門とする学者の方々に社会が要請しているのは、政治的とまではいわずとも、多少なりとも政策的なアドバイスを提示してくれることではないか、と思うのです。安全宣言派であるか、危険宣言派であるかはともかく、放射線の専門家には、国はこのように対応すべき、自治体はこう対策をとるべき、といったアドバイスが求められているのではないでしょうか。
福士氏はご自身で「学者は社会一般へメッセージを伝えることに慣れていないことが多い」と吐露されていました。恐らく、そうなのでしょう。でも、それでは、人間社会への貢献が期待されている科学や科学者への希望が果たされないということにつながります。
最後に、もう一点、福士氏のアカデミックな講演を聞き、得た部分についても触れておきたいと思います。
多少、フランスアカデミー寄りの部分も鼻につきましたが、福士氏が低線量被ばくのリスクについて「安全」「危険」の判断には踏み込まず、さまざまな実証データや学説の客観的な提示に終始していたことは、ブログの最初でも触れました。その政策的メッセージ性のない対応は時宜を得たものとは言えないという話をしたばかりですが、逆に、私としては、客観的な賛否両論にわたるデータに触れることができたのは幸いだったという気もしています。
というのは、自分の立場に近い、都合の良い論拠やデータばかりを編集してきたような議論は、科学的かつ論理的裏付けの必要な分野では禁物だからです。そのような議論では最初から結論ありきで、反証には耐えられず、論拠も論理も貧弱なものとなってしまいます。
チェルノブイリ原発事故におけるゴメリ調査の分析は、私個人の気持ち的には受け入れがたい分析結果なのですが、こうしたデータがあるということは逆に調査の方法や分析方法を探りたくなるものであり、皮肉にも「新鮮な」データでもありました。予防原則適用派の私としても、ぜひ反証してやりたいデータ分析だという思いを持ちました(私ごとき門外漢にはできないことでしょうが!)。いずれにしても、反論を乗り越えた議論の方が、より強い論拠を築くことができるものです。福士氏のアカデミックな講演から得た意外な「フォールアウト」(注3)でした。
(注3)フォールアウト(fallout)には「放射性降下物」という意味のほかに、「副産物」という意味があります(笑)。
江戸川区議会議員 木村ながと
公式HP http://www5f.biglobe.ne.jp/~knagato-gikai/
ブログ http://blog.goo.ne.jp/knagato1/
ツイッター http://twitter.com/#!/NagatoKimura
⇒聞き漏らした部分もあり、細かい口頭説明の文言までは覚えていないのですが、上記のカギかっこの引用部分は福士氏のスライドに書かれていたことをそのまま引用しました。このカギかっこの例えの語り口は、福島の事故後、放射能に不安を抱く専門知識をもたぬ一般人の不安心理をまるで揶揄しているかのようにさえとらえ得る表現です。
福士氏は低線量放射能の影響について、さまざまな実証データと知識から、冷静にとらえ行動する準備ができているのかもしれません。しかし、私たちはそうはいきません。危険を指摘する専門家、予防原則を主張する専門家もいます。上記の例えはデリカシーに欠ける表現ではないでしょうか。
先に「正しく怖がること」という言葉が出てきました。しかし、その「正し」い怖がり方がそもそも学者間でも異なるのではないでしょうか。
●フランス政府は、福島の事故後、希望する自国民をチャーター便で帰国させた。採用された便のルートはより短い北回り。この間、乗客は宇宙線により50マイクロシーベルトの被ばく。さらに、パリの線量は東京の3倍の毎時0.3マイクロシーベルト。
●ヨードによる水汚染が心配で半減期の1週間、水を保存して飲んだ。ここでは、水の腐敗リスクが忘れられている。放射性物質汚染のない産地のホウレンソウをネットで安く買った。ここで残留農薬のことは忘れられている。
⇒フランス政府や水、野菜の事例で福士氏が言わんとすることは明らかです。全体でリスクを考えるべし、ということです。確かに、福士氏のこの指摘は正しいと思います。目の前の放射能の心配のみならず、食物の腐敗や残留農薬についても考慮しなければなりません。健康にとっては同様のリスク要因です。
しかし、です。
「リスクは全体で考える(福士政広氏の講演 その3)」の冒頭の「子どもの生活で気を付けるべきこと」でも議論しましたが、専門家ではないわれわれ一般人にとっては、目に見えず、また統計学的優位性の確立しておらず、学者間でも意見の相違がある低線量被ばくのリスクについて、不安視するなと言われても、あまり説得力はありません。
リスク全体をとらえるという指摘はとても重要ですが、子どもの身に起こるかもしれない確率的影響を心配する親の心理に寄り添うことも同じくらい重要ではないでしょうか。保健物理学の専門家にそこまで期待するのは欲をかきすぎでしょうか。ですが、科学も人間生活に貢献してこそ意味をなすものです。閾値なし直線仮説のスタンスにある方であれば、語り方の工夫ひとつで、全く違ったメッセージを発することができるのではないかと思います。
福士氏は、最後の二枚のスライドで、人の死亡原因とその死亡率の表、そして、講演冒頭に提示した「全てのものは毒である。・・・」というパラケルススの言葉を再度表示していました。あちこちにリスクはあるのだから、放射線の確率的影響ばかりを過度に心配するべきではない、と言いたかったようです。
最後に、私からのまとめとして二つのことを記したいと思います。
第一点目です。福士氏の90分の話の要旨を、学校の国語テストのように25字以内でまとめよと言われれば、それは間違いなく「放射線リスクばかりではなく、全体のリスクで考えよ」だろうと思います。安全だとか、危険だとかいう論点ではありません。
しかし、この議論の過程においては、私もところどころでコメントしてきたように、福士氏が、目下、低線量被ばくと子どものリスクを心配している一般の親たちの心理に寄り添っているかというと、やや疑問に思うところがありました。福士氏はアカデミックな実証データを示すことに懸命になるあまり、学者であることにとどまっているという印象を周囲に付与していたと思います。無論、ご本人としては、それでよしということなのかもしれません。学者でらっしゃるわけですから。
しかし、いま、放射線を専門とする学者の方々に社会が要請しているのは、政治的とまではいわずとも、多少なりとも政策的なアドバイスを提示してくれることではないか、と思うのです。安全宣言派であるか、危険宣言派であるかはともかく、放射線の専門家には、国はこのように対応すべき、自治体はこう対策をとるべき、といったアドバイスが求められているのではないでしょうか。
福士氏はご自身で「学者は社会一般へメッセージを伝えることに慣れていないことが多い」と吐露されていました。恐らく、そうなのでしょう。でも、それでは、人間社会への貢献が期待されている科学や科学者への希望が果たされないということにつながります。
最後に、もう一点、福士氏のアカデミックな講演を聞き、得た部分についても触れておきたいと思います。
多少、フランスアカデミー寄りの部分も鼻につきましたが、福士氏が低線量被ばくのリスクについて「安全」「危険」の判断には踏み込まず、さまざまな実証データや学説の客観的な提示に終始していたことは、ブログの最初でも触れました。その政策的メッセージ性のない対応は時宜を得たものとは言えないという話をしたばかりですが、逆に、私としては、客観的な賛否両論にわたるデータに触れることができたのは幸いだったという気もしています。
というのは、自分の立場に近い、都合の良い論拠やデータばかりを編集してきたような議論は、科学的かつ論理的裏付けの必要な分野では禁物だからです。そのような議論では最初から結論ありきで、反証には耐えられず、論拠も論理も貧弱なものとなってしまいます。
チェルノブイリ原発事故におけるゴメリ調査の分析は、私個人の気持ち的には受け入れがたい分析結果なのですが、こうしたデータがあるということは逆に調査の方法や分析方法を探りたくなるものであり、皮肉にも「新鮮な」データでもありました。予防原則適用派の私としても、ぜひ反証してやりたいデータ分析だという思いを持ちました(私ごとき門外漢にはできないことでしょうが!)。いずれにしても、反論を乗り越えた議論の方が、より強い論拠を築くことができるものです。福士氏のアカデミックな講演から得た意外な「フォールアウト」(注3)でした。
(注3)フォールアウト(fallout)には「放射性降下物」という意味のほかに、「副産物」という意味があります(笑)。
江戸川区議会議員 木村ながと
公式HP http://www5f.biglobe.ne.jp/~knagato-gikai/
ブログ http://blog.goo.ne.jp/knagato1/
ツイッター http://twitter.com/#!/NagatoKimura