kmiyaのブログ

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長屋王横死事件

2024-09-20 22:03:27 | 読書
奈良時代前半の悲劇のヒーローとなる長屋王。その生涯はその父である高市皇子の生涯にも深く関係する。壬申の乱において吉野方、大海人皇子の皇子として産まれ、乱においては吉野方を勝利に導いた一番の立役者であった高市皇子である。天武天皇となった大海人皇子にとっては次の天皇ともなるべく高市の存在であったが、天武天皇の妃である鸕野讚良皇女はその息子である草壁皇子を次の天皇へと画策するのである。天武天皇亡きあと、まだ幼い草壁に鸕野讚良は自ら持統天皇となり高市は太政大臣として持統を支えるも、草壁が先に亡くなり、高市もやがてなくなるのである。都は平城京へと移り、天皇の座は元明、元正天皇と女帝が継ぐこととなる。そうした中で育った長屋王であるが、高市の子であるということから朝廷では重く用いられる。本作品では長屋王に臣下として仕えた大伴宿祢子虫が長屋王の生涯を語る形式で進む。若くして朝廷に用いられる長屋王は草壁と安倍皇女との娘である吉備内親王の元へと通いそこで妻と迎えるのである。都では律令制定が喫緊の課題となる。そして長屋王にもライバルが出現。藤原不比等である。不比等の素性は乙巳の乱で活躍した中臣鎌足の子となっているが、近江朝方であった中臣氏はしばらく表舞台からは忘れ去られていた。しかし不比等が県犬養美千代と結婚し朝廷での地位を確立していくと長屋王との確執が表面化していく。ここで不比等はわが娘である長娥子を長屋王の側室とする。すでに太政大臣となっている長屋王は朝廷でもその地位は確率していたのである。朝廷での新たな悩みは蝦夷たちの反乱であった。子虫は大野東人の東征へと駆り出されるのである。東北の地で見た蝦夷たち、朝廷は力でこれを抑える。子虫が都へ戻ってきたときに都では長屋王と藤原の対立が本格化してくる。しかしこのとき不比等は亡く、長屋王の実権は確かなものであった。そうした都では疫病が流行し始める。これにより不比等の子で藤原四兄弟と呼ばれた武智麻呂、房前、宇合、麻呂が次々と亡くなった。麻呂は東北征伐で子虫も面識がある仲でもあった。そして首皇子が聖武天皇となって、その妻安宿姫、後の光明皇后に子ができる。その安産祈願を行っていた長屋王に言われのない嫌疑がかけられた。安産祈願が呪詛であると訴えられるのである。これにより長屋王の屋敷が囲まれた。火の海となった長屋王の屋敷で王と妻吉備内親王が亡くなった。遺体は生駒山の麓へと埋められる。子虫がその後探り当てたところによると、長屋王を訴えたのは側室長娥子姫であったと言われる。
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紀の川

2024-09-17 22:25:58 | 読書
紀州の素封家の女主、豊乃がその孫の花を育てていた。母は早くに亡くなり、豊乃は花をひとしおに育てる。そして成人した花の嫁ぎ先を探すのである。紀の川の流れに逆らってはならない。この紀の川の教えに豊乃は九度山の素封家真谷太兵衛の息子敬策との縁談を調えた。花は敬策との間に子をもうける。長男政一郎、そして続いて女の子を産むもその子は流産。紀の川の氾濫も重なり縁起がささやかれた。時代は日露戦争に勝利し日本中が沸いていた。真谷家では敬策に弟の浩策がいた。留守がちな敬策に代わり浩策は花を気遣うことが多くなる。それに嫉妬したのか敬策は浩策の縁談を急ぎ分家を企図した。そして花のいとこにあたるウメが浩策の嫁へとやってきて浩策の分家も整った。そして花は子を身ごもった。こうして産まれたのが文緒であった。女学校を卒業した文緒は東京の学校へと入学。そこを卒業した文緒は田崎夫人の紹介で正金銀行に勤める晴海英二との縁談が調う。英二はバタビア支店への転勤となり文緒もこれについていった。そこで文緒は妊娠。長男和彦を産み、更にもう一人男の子を生む。晋となずけられたがその晋が1歳半の短さで亡くなった。英二は更にニューヨーク支店への転勤となったのを機に文乃は紀州へと戻ってくることとなる。紀の川で育った環境の中で長女華子を育て祖母豊乃から引き継がれた紀州での環境の中で華子も育っていくこととなる。
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空海 高野開山

2024-09-11 23:04:41 | 読書
弘仁8(817)年、空海は弟子の実慧、泰範とともに紀の川支流である東ノ川から入山を行う。目指すのは高野の山であった。しかしなれない山道に道を失う。彼らを助けたのが大贄人家信である。高野の麓天野に暮らす家信には娘百合がいた。彼らは高野の大槙を守りながら暮らしていた。そこへ都からやってきた空海を迎え高野の山を切り開く事業へと参加する。工匠の三良、作衛を従えて高野に大門を築くのである。空海はここに大塔を建て、高野山道場を設ける構想を練るのである。そうした空海に反対する勢力も出てくる。いやがらせをしてこれを邪魔しようとするものとの衝突もありながら、空海は家信の協力でこれを成し遂げるのである。高野山はやがて真言密教の聖地となる。そうした空海は都から見放すことはない。空海は都へと呼び戻される。高野山は弟子である智泉へと託される。しかし高野という土地に激務から智泉は倒れると百合がその看病にあたる。空海は都にて高野山開山のための勧進を行う。「いま工夫数多にして粮食給ぎ難し。仰ぎ願わくばその光業によって自他を救済せん」そていただ喜捨を求めた。やがて都では最澄が亡くなり、天野でも家信が亡くなる。空海は生まれ故郷の讃岐から縁者である真然、真如と母である玉依を天野へと迎える。都の地で空海は勧進を行いながら藤原冬嗣と面識を得る。しかしその冬嗣が亡くなるとその子三守とともにその藤原邸の一画に修行道場を建てる。これが綜芸種智院となる。更に帝から空海へ東寺が与えらえた。都での激務の合間にも高野山はその修験道場としての役目を広げていく。空海は実慧とともに命終後(みょうじゅうご)の秘密曼荼羅を作り上げる。これが書物となり「十住心論」ができあがる。空海の晩年、高野では縁者である真然が伽藍建築へ、真済が詩文の道へ、そして真雅が空海をついで大伽藍へとその役目を継承した。こうして空海は高野にて入定する。
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槍ヶ岳開山

2024-09-04 21:51:30 | 読書
能登八尾の米問屋玉生屋の手代であった岩松は富山岡田屋で一向一揆に遭遇する。一揆は七尾へと及んできた。八尾での一揆に岩松は誤って妻おはまを殺めるのであった。岩松は八尾を後にする。徳助と飛騨へと逃れそこで弥三郎と合流。飛騨で住職椿宗の元へと身を寄せた。椿宗の薦めで摂津宝泉寺の見仏上人へとやってくる。山城国伏見の一念寺で蝎誉和尚から得度を受け岩松は播隆、徳助は徳念と名付けられる。更田屋のつるの娘てるがおはまそっくりに播隆はこれを見初める。そこへ弥三郎が訪ねてくる。伊吹山の岩窟に高僧がいるとの噂が流れた。播隆は山岳修行へと没頭していく。そして美濃笠ヶ岳に過去元禄年間に円空上人、100年ほど前に南裔上人が上ったという記録があるが、その笠ヶ岳開闢が地元の願いであることを知る。播隆は笠ヶ岳の麓高原川沿いへとやってきた。信濃安曇小倉村で飛騨新道開拓を行っていた岩岡伴次郎、中岡又重郎が播隆を助けることとなった。そして笠ヶ岳登頂を成し遂げた。頂上で播隆は如来を見たそれは雲海にうかぶおはまを思いさせるのである。播隆は美濃で話題となった。その播隆に中岡又重郎らはまだ誰も上っていない槍ヶ岳の開山を託すのである。飛騨新道から槍の肩までの登山道を開拓した播隆はこの道を開拓するための勧進を行う。それは山頂へと仏像を置くことと登山道に必要な鎖を集めることであった。それを聞いた犬山城の成瀬正寿(まさなが)が鎖を用意することを買ってでた。成瀬は犬山藩独立を試みてこれに賛同したのであった。成瀬が用意した550貫の鎖が松本平へと持ち上げられた。しかしこれに難癖をつけたのが松本藩である。他郷から持ち込まれたことに難癖をつけたのである。犬山藩と松本藩が対立したまま鎖を引き上げることが延期となる。その中播隆は病を起こし、それを見舞ったのがシーボルトの弟子であった高野長英であった。長英から播隆は山で起こる光彩現象をドイツ語でブロッケンということを知る。天保の世に飢饉が起こり鎖の持ち上げはさらに延期となった。犬山藩と松本藩のにらみ合いは両者の主が亡くなることで対立は収まり漸く鎖が槍ヶ岳へと運び上げられ登山道でできあがった。それは善の鎖と名付けられる。播隆の晩年、病に伏せた播隆の元に弥三郎がやってくる。八尾でのおはまを殺めたときの様子に、おはまは岩松を助けようとして亡くなったという話を聞くのである。
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天下を買った女

2024-08-29 22:44:37 | 読書
日野家は代々将軍家へ輿入れをする家系であった。日野富子が8代将軍義政へと嫁いできた。そこへは6代義教の妻で義政の母である日野重子であった。都は足利将軍により治められていたが、それを支える豪族たちはそれぞれ問題を抱える。その中でも畠山家は当主持国が亡くなったことから内紛ば勃発する。畠山義就と弟持富の対立が表面化した。そうした中富子には何者かが毒を盛られ危うく命を狙われるところであった。このことが富子に政治を目覚めることとなる。近習に叢雲、東雲、夕霧、陽炎という女房たちを抱えた。富子は義政の子を宿すも死産、その後も女の子が生まれ男子をもうけるまでにならない。富子は母である重子からお金の重要性を気づかせる。義政は政治には興味を示さず、東山に別荘をもうける計画。世の中は飢饉に苦しむ中での義政のぜいたくは反発を受ける。富子は僧普海から明における貨幣に紙幣を使っているとの話を聞いた。銅銭が相場に影響するも紙幣により銅相場に影響されす流通に役立つということを知らされる。富子が銭を流通させ、それを伊勢新九郎金庫番となり蓄えを増やすこととなる。そして義政は隠居を宣言し、将軍の座を弟で僧籍にはいっていた義尋を還俗させ義視をあてようとした。畠山家の内紛は大和から火があがり山城へとひろがり斯波家の義敏と義廉との対立。そして将軍家の重臣である山名宗全、細川勝元の二大勢力の勢力争いへと発展する。富子はようやく男子を産んだ。これが将軍家の対立となり、都全体を巻き込んだ。東軍を宗全、西軍を勝元が都の七口を取り合い合戦となり10年におよぶ応仁の乱の始まりである。一時は西軍が七口のうち六口を抑えるまでになるが、朝廷、将軍家は東軍宗全に西軍討伐宣旨を出す。都中が火の海となる富子は都から比叡を目指し、途中山科で悪党骨皮道賢と知り合う。道賢も新九郎と同等富子の側近となった。義政は東山に没頭すると富子との距離が広がり、富子は御所で政治をとることとなる。そして後土御門帝と結ばれる。戦のきっかけとなった畠山家の内紛は行き詰まり富子に借財を借りるまでになる。富子は金貸しを行いながらその利息で更にお金がたまることとなる。戦のあおりに商売は行きづまる。これを救済するために徳政令をしいたのも富子のアイディアであった。戦は時間がたつにつれ東西当主であった宗全、勝元が亡くなるとその目的を失う。畠山家は富子の仲裁で内紛が終わる。そして応仁の乱も大内政弘が周防へと戻り戦の主人公がいなくなった。富子の仲裁でようやく乱は終わる。義政は将軍攘夷に息子義尚としたことで弟義視は出奔。しかし義政、義尚も政治を行うまでにならなかった。そして義尚は酒から体を壊して21の若さで亡くなる。将軍の座を富子は義視の子義材を指名した。これで義視と一緒に義材が都に戻り将軍となった。しかしこれも長くは続かなかった。義材も政治よりも軍事として兵を出すも時代は戦を望まない。そして義材を将軍から下ろし、関東管領堀越公方であった義政の弟政知の子である清晃を還俗させ義澄とした。年老いた富子には莫大な財力が残った。天下と金を買った悪女と言われた富子であるが、その生涯は蓄財の生涯でもあった。
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