ぶろぐ

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私はいきどおり、そして身を引き締めた

2005年09月13日 | その他のページ
 はじめに平和行動参加の機会を与えて頂いた連合神奈川に感謝いたします。さて私の出身地は九州宮崎県。終戦時は3歳のときでした。唯一記憶にあるのが母に手をひかれ、近くの山の防空塚へ防空ずきん(頭のとがった三角型の厚い布の内に綿を入れたボウシみたいなもの)を頭にかぶされ、避難したおぼえがあります。その私も今年で63歳になりました。長崎は中学3年の修学旅行で訪れ平和記念像の前で記念写真を撮りましたが、その時は観光気分でガイドさんの説明も聞いてなかったと思います。今まで他人事と思っていました。情けない。今回は、被災地へ行って、生の声が聞きたい、体で感じたい、そう思い参加しました。
 2日目の午前中は連合長崎の青年部の引率で爆心地、平和公園などの慰霊碑をめぐり、午後には原爆資料館へ行きました。広島へ投下された原爆の名称が「リトル・ボーイ(小さな子)」、長崎へ投下された原爆は「ファットマン(太った人)」と呼ばれ、あまりにもゲーム的な名を付けているので、憤りを感じました。また原爆の投下地点を決めるため検討委員会が開かれはじめは日本の各地に目標印が数多くあったのですが次の検討委員会では「広島」「長崎」「神奈川」の3つに絞られていたことを知りました。神奈川県も原爆の候補地だったのです。
 最後に広島、長崎への原爆投下から60年が経ちました。被爆者の高齢化が進み、悲惨な体験の語り部の方も少なくなり風化を懸念しておられました。戦争を知らない国会議員、国民が多くなります。二度と戦争を起こす事のないよう、われわれ一人ひとりが監視しなくてはなりません。

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