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6 「ゼーゼンハイム物語(1) 」 ゲーテと少女フリデリーケ

2014-10-17 22:17:03 | 「ファウスト」を読む

        「ゼ―ゼンハイム物語」

    1  二人のグレートヒェンと少女フリデリーケ・ブリオン

 伝承の「ファウスト物語」にはもともとグレートヘン悲劇はなかった。先に述べた如く、この悲劇は作家ゲーテの創作になる。若きゲーテの作になるグレートヘン悲劇については、多くの研究・解説がある。それは、この恋愛悲劇が、現に青春にある者、かって喜びと苦しみ、苦々しさなどを、恋において味わった者にとって、青春の様々な思いや感情を刺激するためだろう。

 1806年発表された第一部の「グレートヘン悲劇」は、1880年台にワイマールの女官の遺品から見出され、既にゲーテは1775年頃(25歳ごろ)に書きあげていた(「原ファウスト(Urfaust)」(「ゲーテ全集3」山下肇訳、潮出版、2003年)。この様に早期に書かれたのであれば、若き詩人ゲーテをグレートヘン悲劇の創作に駆り立てた原因、創作の原点、原体験なり、発想のモデルがどこにあったのかが興味を引く。

 悲劇の「枠」を与えたのが、1872年1月に帝国都市フランクフルトで、嬰児殺害の咎により公開斬首処刑された女中ズザンナであるとは先に記した。ズザンナが「枠」を与えたとすれば、内容の原体験とされるのが、自伝とされる「詩と真実」第二巻及び三巻に記されている「ゼ―ゼンハイム物語」のフリデリーケ・ブリオン(Friederike Brion。1752-1813年)とゲーテの恋だ。「詩と真実」は1811~14年にかけて、詩人60才代に公刊された。勿論、全てが「真実」と考える必要性は全くない。詩作の元となった「真実」と思える「事実」を表現したのが同書であろう。この「物語」は60歳以上になった(老)ゲーテの考えを述べたもの(懐古)となる。ただし、それが20歳の著作者によると「誤解する」、水々しい感性によって記された文学であるのは言うを待たない。

 ここでグレートヘン悲劇とフリデリーケとの関連について、邦訳者や解説書ではどのように記しているかを見てみる。

 相良氏は訳書「ファウスト 第一部」の解説で(岩波文庫、1958)、「フリデリーケを捨てた良心の呵責と、捨てられて少女の哀れな姿とは、当時ゲーテが関心をもっていた私生児殺しという問題と結びつき、グレートヘン悲劇として展開されて、第一部の主要な筋にまで育っていった」と書いている。

 高橋義孝氏も氏の訳書「ファウスト 第一部」(新潮文庫、1972年)の解説中で「フリデリーケとの恋愛は、幾多の新しい詩想の源泉となったが、ゲーテの胸の内なる名状しがたい促しに迫られて、恋人を見捨てる。これはゲーテの胸にいつまでも消えない悔恨の刺を残した」と記している。

 星野慎一氏は著書「ゲーテ」(1982年)で「二人の恋は悲劇に終わった。理由は如何であれ、非はゲーテにあった。面と向かって決別を告げなかった彼は、8月に郷里に帰ってから伝えた。…彼は回想している。『手紙で告げた訣別に対する彼女の返事は、私の心を寸断した…何よりも堪えられなかったのは私自身の不幸の責を自分で許し得なかった。・・・・罪は私にあった』」としている。

 小栗浩氏もまた「人間ゲーテ」(岩波新書、1978年)で 「彼がフリデリーケを熱愛し、彼女も彼女の両親も結婚を望んでいたのに、彼が何の説明を与えず『捨てた』」と書き、さらにゲーテは友人ザルツマンへの手紙に次のように書いているというく(1771年6月5日)。「僕らの幸福に欠かせない問題について、気を引き立てるような説教を自分にして聞かせます。それは多くの倫理学の教授が理解できないことであり、誰にも説明出来ないことです」(p49)。若きゲーテはフリデリーケとの恋愛時、人生の岐路に立っていた。その認識から倫理学教授の理解できない決定、愛しているフリデリーケを彼の人生から「捨て去る」、選択したとする。

 最もフリデリーケについて記している日本語関連書は、柴田翔氏の「ゲーテの『ファウスト』を読む」(岩波セミナー、1984年)だ。氏は「フリデリーケとの関係がグレートヘン悲劇に反映している事は確かで、・・・・・(ゲーテは)フリデリーケをグレートヘン悲劇の女主人公に姿を変えたのです(p155)」。さらに1872年の帝国都市フランクフルトで起きた「嬰児殺しの女中ズザンナ」の斬首処刑を次のように紹介する。

 「まさにこのズザンナと同じ運命がフリデリーケを襲う事がありえた。そして、(ゲーテは)責任を負わなければならない立場にすんでのところでなる筈であった、という思いが、この事件(ズザンナ事件)をゲーテにとって一層切実なものにしたに違いありません。ゲーテはその思いに突き動かされて、フリデリーケの面影とズザンナの運命とをグレートヘンという一人の少女の姿の中に融かし込み、グレートヘン悲劇を作りだしたのだと思われます。(p161)。

 山下肇氏は氏訳「ファウスト」でズザンナ事件については記すが、「ゼ―ゼンハイム物語」には何も書かない。小塩節や池内紀はさらに徹底して、フリデリーケにもズザンナ事件にも、一言も触れずにゲーテと詩劇「ファウスト」について「語(翻訳す)る」(誠に読者に無責任だ)。

 ドイツ人伝記作家フリーデンタールは著書「ゲーテ。時代と人生」(講談社、日野・小松原ら訳、1990年)で「ゲーテ伝説、つまり『ファウスト』にまでおよぶ、生涯消えぬ良心の呵責を彼に負わせようとする伝説」と書いているので、「良心の呵責」論はとっていない。しかし、このように書いているのは、日本人だけが「良心の呵責」説を取った訳でなく、ドイツでもそのように考える人がいた事を示している。フリーデンタールは「伝説」に過ぎないとしているが。

 トーマス・マンは1939年、第二次大戦開始年に「ヴァイマールのロッテ」(岩波文庫、1971年)でロッテに言わせている。(彼女は)夫ケストナーのおかげで、ゲーテの「居候趣味」の愛を―度だけの接吻で「逃れることが出来た」。が、フリデリーケは「人知れず悲しみに悶えながら滅びていって、若くして葬られた塚穴の中で初めて心の安らぎを取り戻した」と。ロッテは「詩と真実」の中での叙述「(ロッテとの別れは悲しかったが)良心が咎めなかった」に多少の怒りを感じている、とマンは書く。

 小説「ヴェルテルの悩み」のロッテは、一度だけヴェルテル(ゲーテ)に「接吻」を許し、その事を婚約者に報告しているが、歴史のフリデリーケは何を彼に許し、その事を誰かに報告したのだろうか?

 ゲーテがフリデリーケに「良心の呵責」を抱いていた、その「良心の呵責」がファウスト第一部のグレートヘン悲劇を生んだのかは不明であるにしても、ゼ―ゼンハイム村もフリデリーケという女性も存在した。その「真実」は、彼の著作「詩と真実」そのままでなくても。ただ問題なのは、ゲーテと歴史のフリデリーケとの恋愛事件の「具体的」な事実だ。相良や高橋らの書くような、抽象的な若い男が女を「捨てる」、「捨てられる」の関係でない、具体的な二人の恋愛の「内容」としての事実が重要だ。

 40年後の「詩と真実」で語られる「物語」について、ゲーテは弟子エッカーマンとの「ゲーテとの対話」(岩波文庫)で、それは著書「親和力」と同じく「一行たリと嘘ではなく、また一行もそのままではない」と述べている。40年前、21歳のゲーテと18歳フリデリーケの恋愛と、彼のその時の恋愛感情は嘘でなかった、しかし起きた事実がそのまま書かれたのではない。数十年たってからの「思い出」話は、しばしば感情のみが強く残り、起きた「事実」は簡略化して自己の論理、都合の良いように書き換えられるものだ。そのような「物語」として「ゼ―ゼンハイム物語」を理解する必要があるだろう。しかし、それは何らかの「事実」を基にして作り上げられた「物語」でもある。

 この頃作られたゲーテの詩として、シューベルト作曲のリート「野薔薇」がある。最後の節は次のようだ。

        けれども乱暴な少年は折った

        荒れ野の小薔薇を

        小薔薇は抗って少年を刺した

        だが少年はお楽しみの余り

        やがては痛みも忘れ果てた

  1768年、病の癒えた21歳のゲーテは父親の希望に従い、当時フランス領であったアルザス地方にあるシュトラスバーグ大学の法学部に入学する。弁護士になるために。父親(カスパー・ゲーテ。1717~1786)の希望は、息子に法学博士の称号を得させることにあった。若きゲーテは近郊の村ゼ―ゼンハイムで、ルター派牧師の娘,18才の少女フリデリーケ・エリザベート・ブリオンに会う(1770年10月)。二人は直ちに相思相愛になり、翌71年の5月には結婚を前提として交際する(と彼女の親族は考えた?)。7月にゲーテは一方的に関係を絶ちフリデリーケを「捨て」、8月初旬には故郷フランクフルト市の両親の下に戻り弁護士を開業する。フリデリーケを「捨てた」理由は、ゲーテの自伝とされる「詩と真実」に通称「ゼーゼンハイム物語」として記述されて以来、種々書かれ探索されたが、未だ「真実」は不明な部分が多い(誰もが納得している「真実」はない)。

  「詩と真実(三部)」は1813年に出版されている。ゲーテの執筆時(60才を越えている)の思いを記しているが、出会いの叙述は「田園芝居」の趣があるが、若々しい幸福感と不安感は読者を引き込む。叙述に優れた抒情文学となっていよう。当時21才のゲーテは、友人に勧められゲーゲンハイムへ「変装」して出かけ、フリデリーケに会った、としている。「変装」の理由として、ゲーテは歴史や神話を引き合いにだす。いずれも身分「高い者」が、お忍びで身分「低い」女に会うという筋立てだ。

 彼の著書「色彩論」(岩波文庫)で「誤謬」について、ゲーテは次のように記している。

 「人間は誤謬に打ち負かされる物である。……誤謬は愛情でも意見であってもよい。愛情にはそのような経験をしなかった者はあるまいから、この事は明白だ。ある人にその人に値する以上の愛、あるいは尊敬を捧げてみたまえ。諸君は直ちに自己および他人を偽ることになる。短所も長所と見做すようになる」。    (「色彩論」、岩波文庫。)

 この「愛情」が何、「その人」が誰を指しているかは不明だが、天才ゲーテの一生を通じた彼の考えだろう。「自分に正直」が、彼の心の最深にあったとすれば、フリデリーケへの愛情にも当てはまるだろう。彼がゼ―ゼンハイム村に変装して出かけたとする「詩と真実」の記述は、その意味で興味深い。「身分の低い女」と「身分の高い男」の「愛情」を描くものとして。

  ちなみに「身分の低い女」と「身分の高い男」の恋の設定は、彼の妻になった造花工場の女工クリスチャーネ・ヴェルピウス(ゲーテ夫人)と、市民から貴族に叙された詩人ゲーテとの関係に最も典型的に現れる。誇り高い彼は、こうした男女のあり方にしか「安らぎ」を感じなかった、という。

 トーマス・マンは著書「ヴァイマールのロッテ」で老夫人ロッテに言わせている。ゲーテは「僕は馬鹿だよ、あの娘(ロッテ)をそれほど優れた娘のように考えているんだからね。・・・・つまり、あの娘が僕にもっと近い存在になった瞬間に、あの娘と付き合うのを御免被るだろう」と友人に書いている、と。接吻以上を許す「近い存在」を、彼はロッテに求めてはいなかった。無責任に他人の恋人に近付いて愛を囁き彼女を苦しめた、と「ヴエルテル」の若きゲーテを「居候趣味」とロッテはなじる。(「ワイマールのロッテ」岩波文庫、上、p164)。

 恋物語の破綻は、既に前年の12月には予期され詩としても記されている。翌年の初夏に彼女が姉と共にシュトラスバーグの親戚の家に来た時、昂揚した彼の心には明らかな下降がみられ、彼の「逃走」はより決定的になる。ゲーテは理由を(読者に)明らかにせぬまま「詩と真実」で、いきなり別れのシーンを記す。

 ゲーテとフリデリーケとの具体的関係について、「詩と真実」公刊以来、さまざまに「滑稽にも」論じられてきたそうだ(フリーデンタール前掲書)。明らかなのは、2人はフリデリーケの両親のいる場所で、互いに愛し合う状態になり、2人の結婚をフリデリーケの両親も期待していたのだが、彼は彼女を「棄て」、ブリオン家の願いを「裏切った」。この時、ゲーテ家の両親と妹がどのように反応したのかは一切記されていない。それを明示的に示す資料もない。

 当時、ドイツでは結婚は両親の賛成がなければ不可能であったという。ゲーテ家側(両親)の反対があれば、ゲーテの希望だけでは、フリデリーケとの婚約も結婚も不可能だったろう。一人息子に「甘い」両親が、いつまでも彼の希望に反対できたかは疑問だが、一人息子への父親の期待からすれば、彼カスパー・ゲーテは当然反対したろう。父親の反対は、彼の愛への障害などではなく、彼が心の奥で望んでいた事態でもあったろう。兄を愛していた妹コルネーリアも反対しただろう。その為か、ゲーテはフランクフルト市の両親の家には、フリードリーケとの関係は連絡していないようだ(記録がない)。そもそもゲーテ自身が最初から結婚を望んでいなかった、と考えられる。「恋は望んでも結婚は別」。ゲーテは現代人なのだ!。

 約5年後の銀行家の娘リリー・シェーネマン(16歳)との「婚約」では、彼は強く結婚を希望したし、それを取り持つ知人もいた。しかし両親(特に父親)も妹も反対していたし、シェーネマン家では、リリーの兄弟は財政上の理由から、妹の結婚に強く反対していた。リリーはゲーテと新大陸アメリカでの新生活を望んだとさえ言われるが、リリーを「愛して」いたゲーテは、最終的に家族らの希望、自らの心の「真実」に従って婚約を破談した、とされている。銀行業を営むブルジョワ市民シェーネマン家と、最上流市民で行政と法律の専門家という知識人家系を持つゲーテ家は、最終的には「家風(なんと懐かしい言葉!)が合わない、両家は「不釣合い」とされて破談となった。ゲーテ家は帝国都市フランクフルト市の富裕で上流の市民(都市貴族)だ。都市貴族といっても、所謂「貴族」――封建領主、あるいは家系としての貴族ではない。ゲーテがローマ皇帝から称号vonを与えられたのは1782年のワイマール宰相時代だ。伝記作者フリーデンタールは「“貴族の馬鹿者ども”と嘲笑していた『(若き)ヴェルタ―』の詩人から、常に変わらぬ秩序の賛美者への変貌」としている。

 「家風」から考えればゲーテ家と、ルター派地方教区牧師のブリオン家との「家風」、「不釣合い」はシェーネマン家よりも大であったろうから、例えゲーテが親の反対を押し切ってフリデリーケと「婚約」しても、その後の「破約」は容易に予想できる。ブリオン家は一介の田舎牧師に過ぎない。父親が牧師をしている限り可能な生計も、父親の死後(1787年死去)では困難となる。その後「独り身」のフリデリーケは「リボン造り」で糊口を凌いでいた。ブリオン家は余裕のある財産などを有してはいない。彼女はインテリの父親をもつ娘にすぎなかった、と言って良いだろう。  

 当時ゲーテは弁護士になる前の法学部の学生だった。実質無報酬の名誉職に過ぎぬ市顧問官であった父親(カスパー・ゲーテ)にとって、自らが達成できなかった希望を可能とする星が、息子ヨハンであった。息子の異常なほどの才能を考えて、当時仏領シュトラスブルグの大学に、高額な学費(7000グルテンと言われる)を与えて「留学」させたのは、息子の「出世」への父親の願望の表れだ。ちなみに付け加えれば、当時のフランクフルト市の最高の給与所得者である市長は、年間所得1800グルテンであった。一般市民は200グルテン、女中の給与は年100グルテン以下という。ゲーテがワイマール公国宰相の時、年俸1200グルテンを得ていた。それでも、しばしば母親に送金を頼んだという。詩人シラーは年800グルテンでゲーテからワイマール公国に招聘された。

 「前途有為」の青年(息子)が田舎牧師の娘と結婚するのに、ゲーテの父親が喜んで賛成する訳はない。父親が反対するのは、正邪を別とすれば、「今日から見ても」当然のこと、合理的と判断されるだろう。しかし、最終的にフリ-ドリーケを「棄てた」のは、ゲーテの心の底の「願望(恋はしたいが結婚はしたくない)」の為であったろう。彼女を捨てたのは、「倫理学の教授」は肯定しない「恋愛以上の拘束からの脱出」願望からだろうが、予想される両親の反対を、彼女からの「脱出」の口実(自分への)に用いたとしても不思議はない。先のゲーテの言葉を使えば、後の老ゲーテはより露骨に、その女性が「愛に値する」か、どうかを問題とする(変装してゼーゲンハイムに出かけた、とのゲーテの記述からの推定。またマンの引用する「僕は馬鹿だよ、あの娘(ロッテ)をそれほど優れた娘のように考えているんだからね」から。若年からもそう考えていたようだ。)

 ゲーテに去られた後のフリードリケが、どんな状態にあったのかは明白には明らかではない。ゲーテと同時期にシュトラスブルグにいた疾風怒涛派の詩人の1人、「ゲーテの猿」と悪口されたヤーコプ・レンツ(Jakob Lenz, 1751年 - 1792年)が、フリデリケの話を聞いてゼーゲンハイムに赴き、彼女に恋し求婚したが、拒否されたという。その時に作られた詩「田舎の恋」は、次のようだった。

         いつまでも どうしても/

         あの人が忘れられぬ

         訪れたあの人が/

         幼いこの心を奪った、

         あの人は消えけれど/

         言葉は忘れられぬ/

         嗚呼、浄福のひと時よ

         夢を抱くけど/

         現への術はなし

 「あの人」とはゲーテを指しているのだろう。彼女に記したゲーテの思い出の強烈さが、レンツの詩として残ったとされている(小栗前掲書)。レンツは作家として自立した生活ができる状態ではない。北ドイツのルター派の牧師の息子だった彼は、ゼーゼンハイムで説教壇に立ったともいう(50年後、ビューヒナ―の小説「レンツ」(岩波文庫)では、スイスへ「分裂症(統合失調症)」の治療に行き、そこでレンツは説教壇に立ったとされている)。ゲーテを忘れることの出来ないフリデリーケは、レンツの求愛も、その後のあったかもしれない結婚のチャンスも無視して一生を独身で過ごし、彼女とのゼーゼンハイム物語が出版された1813年、牧師をしていた義弟の下に身を寄せ死亡し、ライン川沿いにフランクルの北にあるバーデン市の墓地に一人さびしく葬られた。

 トーマス・マンはロッテに、彼女もリリー・シェーネマンも結核であった、と言わせている。また、ゲーテの不肖の息子アウグストは、父はバーデン近くのカールス・ル-へ市までは行ったが、フリードリーケの墓には行かなかったと、言う。

 レンツの詩にある「あの人」への思いだけが、彼女を縛っていたのだろうか?彼ゲーテと彼女の間に何があったのか?フリーデンタールに「滑稽」と指弾されようが考えざるを得ない。何故なら、グレートヒェン悲劇を「読む」において、ゲーテのゼーゼンハイム経験はフランクフルトのズザンナ事件と共に、なおざりには出来ないからだ。グレートヒェン悲劇の「枠」をズザンナは与え、その「内実」をフリデリーケが与えた、という意味で。ゲーテは、直接、彼女との間に何があったかを語らない。いわゆる「ゲーテの沈黙」だ。であれば、「詩と真実」と当時の社会の状態から、それを推察するしかない。

 ここで「破約」したリリー・シェーネマンとの比較を行う。

 リリーとの間では、彼の両親と妹の「反対」が大きな意味を持っていた。彼女はその後、資産家の都市貴族(男爵。後にフランクフルトの市長となった)と結婚した。つまり、婚約し破談しても、その事実「破約」だけでは、恋愛の相手を社会的(心理的にはどうか?は無視する)に傷付けることはない。破談を周囲が当然とし、過去の「悲しい事実」と破約「された」当人が諦めれば、その後の女性の人生に、「社会的」に影を落とすことは無い。リリーは新しい人生を始める事ができた。であるなら、ゲーテから捨てられたフリデリーケも、リリーのように、別の男と結婚して家庭を持つのは十分に可能だった。可能であれば「捨てられた」娘の人生の傷も、治癒可能であったはずだ。しかし彼女は「新しい」人生を送らなかった。

 ゲーテが1871年の夏にフリデリーケを「捨てた」からと言って、社会・慣習的にいえば、彼女の人生はグレートヒェンやズザンナの悲劇のように、終わってしまうものではない。フリデリーケを単に「捨てた」としても、ゲーテが「良心の呵責」に悩む必然性はない。リリーとの「破約」では「良心の呵責」に彼は悩まなかったからだ。ただし「ゼ―ゼンハイム物語」と同じように、詩人は恋人リリーから「逃げ出し」てはいる。同じ事が二人の「若きゲーテの恋人」に言えるだろう。「捨てた」事実から、「婚約」という社会的契約をしなかった「事実」から、ゲーテが「良心の呵責」に苦しむ必要・必然性はないからだ。しかし、彼は「苦しんだ」としている。一体何があったのか?

 「詩と真実」の中には、若い2人は夜も他の人の監督なしで外出し、夜の小屋の中で蚊の大群に襲われ「退却」した、との記述がある。老ゲーテはフリデリーケの父親について、「罪を犯した夫婦を楽園から追い払うには、煌めく剣をかざした天使などは必要なく、チグリスとユウフラテスの蚊だけで十分だと想像するのを許してくれ、と(私は)言った。彼はそれを聞いてまた笑った。この善良な人は冗談を解するか、少なくとも笑い流す事の出来る人であったからである」と記している。

 アダムとイヴは蛇に誘われて「禁断の実」を食べ「原罪」を犯した。為に天使から剣でエデンの園から追放された。ライン川の蚊に追放された18世紀末のアダムとイヴは、他の人の監督なしで外出し、夜の小屋の中で何をしていたのか?おそらく「禁断の実」を二人は食べていたのだろう。彼らは「原罪」を犯していたので、ラインの蚊の大群に小屋から追い出されたのだ。ゲーテの話を「笑った」父親は、あまりに善良過ぎはしなかったか。「笑い流す」べきではなかったろう。逆に考えれば、ゲーテの話を笑って聞いたフリデリーケの父親は、二人の恋の進展を「望んで」いたのかもしれない。だとすれば、余りに娘の父親として、彼は楽観的過ぎた。(ソレ著「性愛の歴史」参照)

 フリデリーケの母親は、金持ちの才気溢れる大学生を、父親とは別の厳しい眼で見ていたようだ。1770年のクリスマス頃、友人ザルツマンへのゲーテの手紙には「僕達の見慣れている人々の顔を、もっと甘いものに変えてくれればよい」とある。この顔の持ち主とは彼女の母親だ。フリーデンタールは「彼女もいろいろ思いめぐらしているようである。あの若い学生はこのところずっとフリデリーケと『付き合って』いる。この先どうなるのやら、という訳である」(フリーデンタール前掲書)と記している。母親として彼女の憂慮は尤もだ。

 フリデリーケを「捨てた」約5年後、リリー・シェーネマンとの婚約を、結婚生活の「前途を考え」破談したゲーテには次の詩がある

         あの人の魔法の環の中では

         あの人の望むようにしか生きられない

         ああ、なんと大きな変りようだろう

         愛よ、愛よ、願わくば我を解き放て

 ゲーテの恋は、常に愛に「縛られる」ことと、愛から「解き放たれる」ことへの願望、その矛盾・背反の中に存在した。フリデリーケとの恋愛も例外ではありえない。彼の「五月の歌」では次のように歌われる

        永遠に幸あれ

        君の愛とともに

 ファウストはグレートヒェンに言う

        永遠!――それが終わったら絶望だ

        いや終わりはせぬ、けっして終わりはせぬ。

  だが、ファウストは身籠ったグレートヒェンを見捨てて、ブロッケン山にメフィストと共に行ってしまい、彼女の処刑の前日まで帰らなかった。

 劇ハムレットの中で、オフィーリアの父親ポローニアスは言っている。

        血が燃えれば、やたらと口は誓うもの。

        ばっと燃える炎は、光るだけで熱がない。

        火の粉を散らし、光も熱も消えてゆく。

        それを火と思い込んではならん。

 ポローニアスのセリフを馬鹿にしてはいけない。古今の真理をシェ-クスピアは言っている。これを若き詩人、Urfaustの作者ゲーテは知っていたろう。

 当時、ゲーテが留学したシュトラスブルグはフランス領であった。その近郊ゼ―ゼンハイムもフランス領であった。ともに現在もフランス領であり、住民の大多数はドイツ系でアレマン語を用いる。現在は欧州評議会欧州人権裁判所、またEU欧州議会の本会議場を擁し、ベルギーブリュッセルと共にEUの象徴的な都市の一つとなっている。かの地の「性道徳」がドイツ本土(帝国都市フランクフルト)と異なっていても不思議ではない。ゲーテとフリデリーケは「フランス的自由」の中で、「詩と真実」で叙述される如き、恋のひと時を過ごしたのだろう。それはファウストとグレートヒェンが「真」に愛し合ったのと同じ事だ。柴田翔氏は次のように書く。

 「フリデリーケがグレートヘンのモデルであるというのは、結局その点に係わってくる・・・・フリデリーケは自分のエロスの喜びを通して、若いゲーテに惜しみなくエロスの喜びを与えた点でグレートヘンの原型――モデルでなく――になった。もとよりそれは確証のあることでなく・・・・・フリデリーケを巡る叙述の全体を覆う至福の感覚が、それを暗示してます。官能的事実描写は慎重に、具体的なことは用心深く避けられていますが・・・慎重な言い回しのあちこちに注意深く隠されています」    (「ゲーテ『ファウストを読む』」P186)。

 具体的に、何処に「エロス」は隠されているのか?氏は具体的に書くべきだ。これまた、教授の「慎重な言い回し」だが、氏はゲーテとフリドリーケが性関係にあった事を認める。そして、性関係にあったがために、ズザンナ事件を知った時、「ズザンナと同じ運命がフリドリーケを襲う事があり得た。そして自分(ゲーテ)は、そのことに対して責任を負わなければならない立場にすんでのところでなる筈であった、という思いが、この事件をゲーテにとってより切実なものにした(「僕は責任を負う必要がなかった。ああ、よかった!」とゲーテは考えていた、というのか?馬鹿な!―--筆者)。

 ゲーテとフリドリーケは性関係を有していた。これは、先の「詩と真実」の記述から、当然結論付けられる。では、そこから自動的にフリデドリーケはズザンナと結びつくだろうか?ファウストとゲーテは「エロスの喜び」を恋人から「惜しみなく受けながら」、ファウストはグレートヘンを、ゲーテもフリデリーケを「捨てた」として。 

 「嬰児殺し」で処刑された女中ズザンナは「捨てられた」のではない。彼女には「エロス=性愛」の等式は存在しなかった。彼女は名前も知らない男から、愛も無いまま性的に暴行され妊娠した。「愛」あるいは「エロス」の有無を考えれば、女中ズザンナと乙女フリデリーケを直接結びつけるのは困難だ。グレートヘンを捨てた為に生じるファウストの「良心の責め」がゲーテに生じるとしたら、「エロス=性愛」ではなく、別の「事実」が必要だ。即ちフリデリーケに欠けていて、二人の処刑死したグレートヒェンに共通している事実が必要だ。それは何か?

 

 

 



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