鉄腕ダッシュ 青ヶ島 2009-09-13 19:18:53 | Weblog 行ってみたい。青ヶ島。鉄腕ダッシュという番組で、この島の貴重な映像が。八丈島から60キロメートル南の美しい島。船で行くしかなく、断崖絶壁の島なので上陸も大変だという。同島観光HPによると「八丈島空港~青ヶ島へリポート 片道\11,210 1日1往復」。二重カルデラということは、阿蘇山が海に浮かんでいるようなものか?テレビで見る限りは、活火山の厳しい環境だが、しかし美しい島だ。行ってみたい。 « 秋 | トップ | 富士宮浅間神社での雅楽 »
4 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 Unknown (アフロ) 2009-09-13 20:30:41 青ヶ島 五才から半年暮らしました、親父が小学校の教師でこの絶海の孤島にながされましたので、何時のこと?内緒。。。。池の沢という所には石を落とすと何秒も音が聞えずその後カランコロンと地底から響いてくる火山の割れ目があります、勿論温泉卵など誰でも作れた、いい時代 いいえ~自然をわきまえないと飛んでもなく危険な場所でもあります、多分いまは役場もそれなりの安全意識はあるでしょうが、私が親父に連れられて青ヶ島に引越ししたとき わずか数ヶ月まえに青ヶ島からさほど遠くない明神礁が大噴火し日本の調査船が跡形もなく吹き飛んでいます。当時は黒潮丸というたった500トンの東海汽船と島とをハシケで結んでました、冬だと海があれ島からみるこの船よりでかい波が海一面に押し寄せ船は八条島へ戻って行ったものです、凄い自然ですよ。断崖絶壁いまも船着場はないのでしょうか。マムシもいますご注意を。 はじめまして (kiWI) 2009-09-14 22:54:12 アフロさん。コメントどうもありがとうございます。青ヶ島に住まわれたことがあるのですね。青ヶ島という名前は聴いてましたが、映像をみるのは初めてでした。確かに海が荒れたら恐ろしいですね。テレビ番組では、船はクレーンで上げたり下げたりしているようです。明神礁というのは子供の頃そういうことがあったということを何かの本で見た記憶があります。調べると船が噴火で吹き飛んだのは1952年らしいですが。また、ここより南の小笠原諸島とか沖縄の方の大東諸島にも感心が湧きました。今後ともよろしくお願いします。 Unknown (アフロ) 2009-09-18 00:24:57 こちらこそ。私 この青ヶ島のあとやや東京寄りの八丈島にて中学卒業まで暮らしました。当時の八丈はまだ船着き場 つまり桟橋がなくて沖合い1キロ位に泊まった本船までハシケと呼ばれる小船(といってもモータリゼーション前でしたのでアメリカのでかい乗用車まで乗せる小船)で客、生活物資、牛ヤギまで島まで運んでました。現代では信じられませんが、荒れる冬場など本船に乗り移るには、まずそのハシケのヘリに乗客自らよじ登りうねりでハシケが持ち上がった瞬間に本船の船腹に開いてる出入り口に飛び移るのです、いくら船員の補助があるとはいえ 乗り移りに失敗したら何十トンもあるハシケと本船の間で お爺ちゃんも おばあちゃんも 私見たいな眉目秀麗な男の子も例外なく のし烏賊にされてしまう......危険が一杯な必死の作業が待ってるのでした。でも人間っていざとなると腰のまがった老人でもやるものですよ。上手く乗船できても荒れる黒潮の航海はすざまじく通路側に寝た乗客たちは船のローリングで一斉にげろ(びろうな表現で失礼)を吐くための桶と一緒に通路側から一気に舷側にまで畳の上を滑るのです 次のローリングで今度は通路まで~ いい運動になりました、おかげで私はこれまでの人生で一度も船酔いの経験はありません。今や便利快適、快速の旅行があたりまえですが、自然は今もちっとも変わりはしてません、どうぞ人跡未踏の中への旅行の時は気を引き締めていらっしてください。なお 八丈には関が原で破れた宇喜田秀家が流された関係か島独特の名前が多くあります。今 ふと島の歌を思いだしました”は~沖で見たときゃ鬼島と見たがきてみりゃ八丈はな~さ~け島~”、苦労した私にはとても情け島には見えませんでしたが 変わった青春は送れ、40で恵まれたマスコミの仕事を放擲し長く外国生活にチャレンジする性格を作り上げてしまったのは 島育ちのせいかもしれません。 こんにちわ (KIWI) 2009-09-23 21:09:33 アフロさん。コメントありがとうございます。連休で不在してました。ハシケから船に飛び移るはなし。想像するだけですごいです。私はかなり鈍いので、つぶされてしまうでしょう。日常生活でもあちこちぶつけているので。アフロさんは、いろいろ厳しいことを経験なさっているのですね。本当に人跡未踏の地へ行かれたことが文面の力から感じられます。私は海外生活というのは全く分からないのですが、アフロさんは、きっと、とてもワイルドな国際的な人のような気がします。私は広大な海や荒涼とした大地は地図を見ているだけで何か怖くなってしまうのです。その一方、興味もあるのですが。 規約違反等の連絡 コメントを投稿 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
池の沢という所には石を落とすと何秒も音が聞えずその後カランコロンと地底から響いてくる火山の割れ目があります、勿論温泉卵など誰でも作れた、いい時代 いいえ~自然をわきまえないと飛んでもなく危険な場所でもあります、多分いまは役場もそれなりの安全意識はあるでしょうが、
私が親父に連れられて青ヶ島に引越ししたとき わずか数ヶ月まえに青ヶ島からさほど遠くない明神礁が大噴火し日本の調査船が跡形もなく吹き飛んでいます。
当時は黒潮丸というたった500トンの東海汽船と島とをハシケで結んでました、冬だと海があれ島からみるこの船よりでかい波が海一面に押し寄せ船は八条島へ戻って行ったものです、凄い自然ですよ。
断崖絶壁いまも船着場はないのでしょうか。
マムシもいますご注意を。
青ヶ島に住まわれたことがあるのですね。青ヶ島という名前は聴いてましたが、映像をみるのは初めてでした。確かに海が荒れたら恐ろしいですね。テレビ番組では、船はクレーンで上げたり下げたりしているようです。明神礁というのは子供の頃そういうことがあったということを何かの本で見た記憶があります。調べると船が噴火で吹き飛んだのは1952年らしいですが。また、ここより南の小笠原諸島とか沖縄の方の大東諸島にも感心が湧きました。今後ともよろしくお願いします。
私 この青ヶ島のあとやや東京寄りの八丈島にて中学卒業まで暮らしました。
当時の八丈はまだ船着き場 つまり桟橋がなくて沖合い1キロ位に泊まった本船までハシケと呼ばれる小船(といってもモータリゼーション前でしたのでアメリカのでかい乗用車まで乗せる小船)で客、生活物資、牛ヤギまで島まで運んでました。
現代では信じられませんが、荒れる冬場など本船に乗り移るには、まずそのハシケのヘリに乗客自らよじ登りうねりでハシケが持ち上がった瞬間に本船の船腹に開いてる出入り口に飛び移るのです、いくら船員の補助があるとはいえ 乗り移りに失敗したら何十トンもあるハシケと本船の間で お爺ちゃんも おばあちゃんも 私見たいな眉目秀麗な男の子も例外なく のし烏賊にされてしまう......危険が一杯な必死の作業が待ってるのでした。
でも人間っていざとなると腰のまがった老人でもやるものですよ。
上手く乗船できても荒れる黒潮の航海はすざまじく通路側に寝た乗客たちは船のローリングで一斉にげろ(びろうな表現で失礼)を吐くための桶と一緒に通路側から一気に舷側にまで畳の上を滑るのです 次のローリングで今度は通路まで~ いい運動になりました、おかげで私はこれまでの人生で一度も船酔いの経験はありません。
今や便利快適、快速の旅行があたりまえですが、自然は今もちっとも変わりはしてません、どうぞ人跡未踏の中への旅行の時は気を引き締めていらっしてください。
なお 八丈には関が原で破れた宇喜田秀家が流された関係か島独特の名前が多くあります。
今 ふと島の歌を思いだしました
”は~沖で見たときゃ鬼島と見たがきてみりゃ八丈はな~さ~け島~”、
苦労した私にはとても情け島には見えませんでしたが 変わった青春は送れ、40で恵まれたマスコミの仕事を放擲し長く外国生活にチャレンジする性格を作り上げてしまったのは 島育ちのせいかもしれません。