KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

追記

2008-07-30 21:05:03 | Weblog
追記です。
前の記事で思いがけず、コメントをいただけたおかげで、少し元気になってきました。
なので、
やっぱり完全に閉じてしまうのでなく、
また違うかたちで、肩肘はらずにはじめられたらいいなと思ってます。

諸々の事情により、新しいブログをはじめても、こちらにはアドレスを紹介できませんので、もし、今、こちらのブログを見ていただいている方で、
「新しくブログはじめるなら見てあげてもいいよ!」という方は、この記事か前の記事のコメントにてご連絡いただけるとうれしいです。

いろいろ不便で申し訳ありません。

「kimisteva@DEEP~第二幕~」終了

2008-07-29 21:55:59 | Weblog
このブログを閉じようと思う。


わたしがブログを書こうと思ったきっかけは、
現在ではわたしのパートナーである「御主人様」からの促しがあったからだ。
それまでは、わたしの文章なんて誰も読まんだろう、と思っていたが、
思った以上に、わたしのブログはいろいろな人の目に触れてきた。
わたしの生きる糧になってくれた時期もあった。

しかし、
一番最初にブログをはじめたときから、はや3年。
このブログに関わってくれた多くのわたしの友人・知人たちは、卒業やら就職やらで、わたしから離れていってしまった。
きっと、彼女たちも毎日忙しく暮らしているのだろうと思う。
・・・わたしと同じように。

おそらく、一番、このブログを楽しみにしてくれていたと思われる「御主人様」は、いまでは、わたしのもっとも近くにいる存在なので、
そもそも、ブログなんていう間接的な手段でわたしの近況を知る必要もないだろうと思う。


そんなわけで、
このブログを積極的に続けていく理由を、わたしは見失ってしまった。

少なくとも、一度、幕をひきたいのだ。
大学院は卒業したし、
きっと、これからまた新しい日々が始まるのだから。

とりあえず、ここで一旦終わりにしておこうと思う。



・・・といっても、たぶん、
MSNブログで開始した「kimisteva@DEEP」第一幕を終了して、
こちらのgooブログで「kimisteva@DEEP」第二幕を開始してきたように、
きっと、いつかどこかで「kimisteva@DEEP」第三幕を開始するのだろうけど。


でも、そのときは、ちょっと新しい環境で文章を書き始めたいなぁ、と思う。
わたし自身の社会的立場も大きく変わってしまったので、
また違った環境で、自由になれる場所で、また自由に文章を書き始めてみたい。


それまで、みなさん、さようなら。

「読書離れ」の元凶

2008-07-28 10:44:09 | 研究
現在、とある学会の編集委員会より依頼されて、「読書教育の新しい試み」という小論を書いている。
これまでは、なんとなく、
「読書教育」について語ることができるのは教育実践歴ウン十年の教師や実践家か、読書教育について研究してきた歴ウン十年の教育学者・・・というイメージがあったので、
まだ20代の駆け出しの研究者であるワタクシ、
しかもその学会では、基本的には「オタク文化」「腐女子文化」の研究者として位置づけられつつあるわたくしなんかに、そんな依頼論文を書かせるのは、
まったくもって、勇気ある決断だと思う。

しかも「読書教育の新しい試み」という主題に付された副題は、
「オタク文化論的視点から」。

依頼文書を見た瞬間に、
「オタク文化論的視点から言えば、『読書教育なんてイラネーヨ!』・・・って結論になっちゃうなぁ。どうしよう・・・?」と、戸惑ってしまった。


本好きな人は、たいてい、「読書教育なんてイラネーヨ」と答える。
だって、放っておいても好きになるから。
で、わたしが知っている腐女子たち、オタクたちも、まあたいてい本は好きで、「読書教育なんてイラネーヨ」と思っている。
当たり前だ。
わたしだって、実はそう思ってるのだけど、一方の人間が、「読書教育イラネー!」と言い続け、一方の人間が、「読書教育マンセー!マンセー!」と暴走しててもしかたないから、なんとか、そのつなぎ役が果たせないかな、と考えているのである。

そんなわけで、最近は、「読書教育イラネー!」と言い続ける本好きの人たちと、「読書教育マンセー!」の本好きの人たちの間にある断絶はなんなのかをずっと考えている。


そんなとき、この記事を見て、あらためて気づかされたことがある。


>文字・活字文化は、心豊かな社会の実現に欠かせない。
>05年には文字・活字文化振興法が制定され、図書館の整備事業などが進められてきた。
>民間団体の「文字・活字文化推進機構」も設立され、啓発活動に取り組んできた。この夏休みには琵琶湖で船上の子ども読書キャンプなどが開催される。
>「国民読書年」を通じ、こうした読書普及活動を官民でさらに推進していくことが望まれる。


これはもちろん、「読書教育マンセー」側の主張である。
この中にある、「文字・活字文化は心豊かな社会の実現に欠かせない」という言説。
これこそが、子どもたち、若者たちの「読書離れ」を進行させているのではないだろうか。

この言説こそ、
「読書教育イラネーヨ!」という本好きと、「読書教育マンセー!」という本好きの断絶を作りだし、それによって、本を知らない子どもたち・若者たちを、本から遠ざける原因になっているのではないだろうか。

人間は、社会的な存在であり、常に自らのアイデンティティを他者にどう提示するかを考えつづけ、巧妙な戦略を行っている。

そのアイデンティティ戦略の中で、微妙な位置にあるのが、いわゆる「良い子ちゃん」というアイデンティティである。
親や先生の言うことをよく聞き、従順で素直な「良い子ちゃん」というアイデンティティは、確かに、小学校3年生くらいまでは高い価値を持っているのだが、
価値観の基準が、親や先生から友達へうつる小学校中学年以降、「良い子ちゃん」はマイナスのイメージを付与されていく。
つまり、「スクエアでつまらない」人間というレッテルへと変化していくのである。

そして、この小学校中学年以降というのが、読書教育においてまさに重要な時期なのである。
この時期までは、低学年まではまだ読み聞かせを楽しめる。
本との関わりに大人が介在できる。
大人の側が読書を推進してくれるし、読書の楽しみを支援してくれる。
その大人との関わりによって形成されてきた読書の楽しみを、自分自身の一人の楽しみとして移行できるかどうかが、要なのである。

しかしこの重要な時期に、読書教育の推進家たちは、「読書はすばらしいことですよ」「本を読むことは良いことですよ」というメッセージを発し続ける。
(それはたぶん、「読書離れ」を進行させないための戦略として)
親も先生も、政治家たちも、こぞって、「本を読む子は、『良い子』です」と声高にうたいあげる。

このとき、親や教師を基準とした価値観から、友達を基準とした価値観へと移行した子どもたちは、友達を基準とした価値観へ移行したことを表明するために、親や教師による価値観の押しつけを徹底的に拒否することがある。
そしてそれは青年期に入って加速する。
「第二次反抗期」の思春期に入れば、「本を読む子は『良い子』です」と言えば言うほど、読書から青年たちは離れていくに違いない。
だって、アタシ、「良い子」なんかじゃないし、「良い子」になんかなりたくないもの。

こんな大人側の価値観による読書礼賛の嵐の中で、
それでも、
「アタシはアタシなりの価値観で、本を読んでるのよ。アイツらの言ってることとはまったく違う理屈で本を読んでるのよ」
・・・と言えるほど、高等な(?)理屈をもった10代前半の少年・少女(ある意味、「中2病」ですが(笑))は、なかなかいない。


たいていの子は、「スクエアでつまらない」というレッテルから離れるために、とりあえず本から離れておく。
その代わりに、仲間内で、高いアイデンティティを獲得できる「外見」と「スポーツ」に自分の経済的・時間的資源を費やしていく。
女の子たちは、こぞってファッション誌を購入しはじめ、
男の子たちは体育系の部活動にあけくれる。

残っているのは、「オタク系」というレッテルを貼られつつ、それでも、「それが何か?」と返すことのできる人々である。
彼ら/彼女らは、実際、本を読み続けるし、密やかな楽しみとして読書の楽しみを享受しつづける。

そんな彼ら/彼女らにとってみれば、「本を読む子は『良い子』です」というメッセージを発し続けるような読書教育なんて、「イラネー」ものに違いない。
だって、そのメッセージは、自分たちの楽しみを支援するどころか、
周囲からの差別的なまなざしを作りだし、自分たちを傷つけてきた元凶に過ぎないのだから。

おそらく、わたしが今後、「読書教育」の分野で言っていけることは、
こんなことなのだろうと思う。
わたしは本を読むことが好きだし、もっと本は読まれて良いとおもうけど、
「読書教育」というありかたが、良いのかどうかは、ハッキリ言ってわからない。

願わくは、朝読書の時間に「ケータイ小説」の文庫版を読む少女たちのように、「読書教育」の嵐の中で自分たちなりの楽しみを生き残らせるための戦略を子どもたち・若者たち自身が開発してくれたらいいのに、と思う。

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■「国民読書年 本の魅力を伝えていこう」(読売新聞)

世界で4億部のベストセラーとなっている「ハリー・ポッター」シリーズを締めくくる完結編・第7巻が、今日から全国一斉に発売される。

 日本国内では1999年に第1巻が刊行されて以来、2300万部が出ている。近年は、発売日の朝5時から一部の書店で臨時販売され、ファンの行列が出来る。

 インターネットの時代ではあるが、活字文化の魅力が失われてしまったわけではない。

 2010年を「国民読書年」とすることが、先の通常国会で決まった。超党派の有志議員らが提案した国会決議が、衆参両院で、それぞれ全会一致で採択された。

 文字・活字文化は、心豊かな社会の実現に欠かせない。

 05年には文字・活字文化振興法が制定され、図書館の整備事業などが進められてきた。

 民間団体の「文字・活字文化推進機構」も設立され、啓発活動に取り組んできた。この夏休みには琵琶湖で船上の子ども読書キャンプなどが開催される。

 「国民読書年」を通じ、こうした読書普及活動を官民でさらに推進していくことが望まれる。

 「朝の10分間読書」などの全校一斉の読書活動は、94%の公立小学校で実施されているが、中学、高校と進むにつれ低調だ。

 「ハリー・ポッター」の人気と裏腹に、出版の現状は厳しい。

 出版科学研究所が発表した昨年の出版推定販売金額は2兆853億円で、1996年の2兆6563億円をピークに下降線をたどっている。

 特に雑誌の売り上げが落ちている。95年に創刊された朝日新聞社の月刊オピニオン雑誌「論座」は発行部数が低迷し、今年9月発売の10月号で休刊になる。

 しかし一方で、最近は意外な出版物が人気を集めている。

 東京外国語大学長、亀山郁夫さんの新訳によるドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」全5巻は、80万部のベストセラーだ。

 原作は難解だが、新訳は分かりやすい日本語に置き換えられた。「第一級のミステリー小説のような読後感を残した」との感想も聞かれる。

 20世紀後半の名作を中心に斬新な作品を選んだ、作家の池澤夏樹さんの個人編集による新しい「世界文学全集」も売れている。

 重厚な大作であっても、あるきっかけによって意外と広く読まれる可能性がある。古典や全集も含め、様々な読書の楽しみを若い世代に伝えていきたい。

いまのガッコー

2008-07-23 08:34:29 | わたし自身のこと
演劇部の合宿が中止になった。

OBもOGも現役も、すべての人たちに大切にされている幸せな演劇部合宿。
その合宿がなくなったことの背景は、もちろんいろいろあるけれど、
その中のひとつに、
学校の生徒指導部側の「言いがかり」があったことは明らかだった。

そのことを、
いつも利用させていただいている合宿施設の利用手続きをしていただいている先生にメールすると、こんな返信が返ってきた。


「「何かあったら困る」これが今の学校の姿です。
教育の自由が奪われ、教師のやる気がそがれ、生徒の体験の機会が奪われているのが今の学校です。
後半年でそんな場所からおさらばできるのは楽しみとなってきました。」


ああ。
しょっちゅう「心臓病だ」「心臓病だ」と言って、ニトログリセリンを手放さなかったM先生も、元気にご退職を迎えることができたのかぁ・・・としみじみするとともに、
これから、教育に関わっていかなければならない者として、絶望的なことを言われて、正直、とまどってしまった。
もちろん、そんなこと、前からわかってたはずだけど。


教育ってなんなんだろう。
学校ってなんなんだろう。

自分の身を守るために、生徒の教育の機会を奪うのが、学校なのだろうか。
だとしたら、生徒たちは、どこで学びの機会を得ればいいのだろうか。

なんだか、わたしには、よくわからない。

やっぱりダメそう

2008-07-18 00:36:08 | わたし自身のこと
やっぱり、ダメそう。

休まないと、自分を壊してしまいそうなので、
しばらく、いろいろなことと距離を置くことにしました。

自分が言い出したことなのに申し訳ないとか、
義理が立たないとか、
自分がやらなければいけないことなのに・・・とか、
いろいろ、引っかかることはあるけれど、
もうそれだけで動けない地点に来てしまったことは、確か。


ひたすら謝り続けても、
人に嫌われても、
今は、とにかく、ひとりで休む時間をとらないと、死んでしまいそう。

七夕百景

2008-07-16 09:26:51 | Weblog
七夕のときに、街や学校の中で作り出される「たんざく飾り」って、
ものすごい、ワークショップ型のアートだと思う。

そもそも、それぞれの人の「願いごと」を、
ひとつの笹の木につるしていって、「願いごと」の木を作って天に届ける・・・という発想がステキ。
誰もに、「やってみようかな」と思わせるほど気軽で、
楽しく参加できて、
できたものを見る人も、楽しく、「ああ。この街にはこんな人たちがいるのか」と思わせる。
そんなふうに、人と人とをつないでいく、ワークショップ型アート。


特に、最近は明らかに見られることを意識しているような「たんざく」作品が、頻繁に見られる。
おそらく、作る側がそれを楽しむ心得を知っていて、
見る側も、それを楽しむことができる。

だから、七夕って好きだ。


「ちきゅうがおれのものになったら」
・・・いったいなんなのか。
続きは来年に・・・という「引き」の技法を使ったものなのか。
はたまた、見るものを「気になるぅ~」という気分にさせることが目的なのか。
よくわかりません。

落ち込まない・落ち込まない・落ち込まない

2008-07-09 19:29:26 | わたし自身のこと
最近は、めっぽう心が弱くて困っている。

誰かから言われたさりげない一言とか、
なんとなく言われなかったこととか、
そういうことの意味について深く深く考え過ぎてしまって、
考えすぎてしまう結果、勝手に傷つき、落ち込んでしまう。

こんなときに、いつも思うことだけれど、
あまり頑張らないで、そういう場所から距離を取ったほうが良いのかなぁ。
やりたいことはあるし、やるべきことはあると思うのだけど、
どうにも、そんな小さな傷に耐えられなくなってしまう。
そんなとき、
わたしは、どうしたら良いんだろう。

小学校教員認定試験勉強中

2008-07-04 12:18:15 | わたし自身のこと
まったくブログをアップしておりませんが、
そんなに忙しそうに、何をしているかというと、

小学校教員認定試験対策の勉強をしております。

結局、受験科目は、
国語・算数・家庭科・図工・音楽・体育

の6科目にいたしました。
基本教科が「国語」と「算数」だけで、あとは実技という・・・
小学校時代のわたしが聞いたら、「正気か!!」と言いそうな科目ですが、「理科」「社会科」「生活科」はわたしには難しすぎるのだからしかたない・・・

音楽は、「ピアノやってるから平気だろー」となめてかかっていたら、
自分がまったく楽典を理解していないことに気づき、愕然としました。

今から頑張ります。

誰かに止めてもらわないとどうしようもない状況

2008-06-12 18:28:12 | ニュースと政治
通り魔犯行予告「通報を期待」
http://mainichi.jp/select/today/news/20080612k0000m040171000c.html

このニュースを見てていたら、
ヴィゴツキー派の心理学者・ルリアが行った「ランプ押し実験」を思い出しました。

「ランプ押し実験」は3歳から6歳の子どもを対象とした実験で、子どもたちは「赤ランプがついたらボタンを押してね。青ランプでは押さないでね。」と指示されます。

この課題、実をいうと、3~4歳の子どもたちは、できないんです。
かわいいね。
・・・と、それはともかく、そんなわけでうまくいかないので、ルリアさんは、その前段階として、赤ランプがついたら「押せ」と言い、青ランプには何も言わないという練習を入れてみました。
この練習をした3~4歳の子どもたちが、再びランプ押し実験をしたところ、今度は成功することができました。

これが5~6歳の子どもになると、他人から言われた「押せ」という言葉に正しく反応するだけでなく、他人から何も言われなくなっても、次第に正しくランプを押すことができるようになりました。

ここからルリアさんは、このように考えました。

○3~4歳の子どもは、他者が言語で命令するとそれに併せて行動できるが、自分で言語で命令するようにやると、うまくできない。
○これに対して、5~6歳になると内言が発達し、自分の中の言葉(内言)で自分の行動を調整できるようになる。

以上、ルリアの「言語調整機能」の説明(半分ですが)です。


ルリアの「言語調整機能」の説明を見ると、「ねーねー。お片づけしなさいって言ってー」と言ってくる小さい子を思いだして、なんともいとおしい気持ちになります。
3~4歳の子どもは、自分の言葉で自分の行動を調整することができないので、「お片づけしなさいって言ってー」と他者に言って、他者(保育園の先生やお母さん)に、「お片づけしなさい」って言ってもらわないと、お片付けできないのです。
けして、おもちゃの片づけをしたくないわけではないのです。
うーん。なんて、かわいいんだっ!


転じて、秋葉原の殺傷事件ですが、
わたしは、「どうしてここまで誰も止めなかったの?」と思うような悪質ないじめ事件や今回の秋葉原殺傷事件のような事件を見るたびに、
ルリアの「言語調整機能」のことを思い出すのです。

ルリアが言うように、5~6歳にもなれば、みんな自分の言葉で自分の行動を調整することができるようになるわけですけど、でも、それは、「ボタンを押す/押さない」というレベルの、感情的になんの影響もないような課題だからなのではないかなぁ。

たとえば、怒りを止められなくなることなんて、誰にもでありますよね。
もう怒りの原因となることは、すでに消え去っているのに、なんとなくずっと怒ってしまっている・・・とか。
うつになった原因となる問題はもう解決しているのに、なんとなくずっと鬱々とした気分が続いてしまう・・・とか。

たとえばそういうとき、ある行動を起こそうと思い立ってしまって、
それが止められなくなるときもあると思うんですよね。
それは自分の言語調整機能だけでは、どうにもならなくて、ともかく誰かになんとかしてもらわないとどうしようもないときって。


どうも、秋葉原の「通り魔」はそういう自分をよく知っていたように思えます。
だって、こんなに、「誰か止めてー」ってメッセージをインターネット上に必死に書きまくる犯人なんて見たことありません。

インターネット上のカキコミの主が判明する事件って、ほんとうに希なんですよね。

でも、この犯人は捕まるなり、「カキコミしたのは私です」と自白してる。
自分のカキコミを見てほしかったんだろうなぁ。
それで、自分の暴走する力を押さえ込めるくらい強い力を持つ「誰か」に押さえてもらわないとどうしようもない状態だったんだろうなぁ。


だからと言って彼に同情するでも、なんでもなく、いつものとおり、「どうして、そうなるまで誰も止めなかったんだろうなぁ」と思うのでありました。
でも、犯人が憤慨した(?)とか言われている掲示板上の女性(「友達」さん)とのやりとりを見る限り、本人はもう悪く解釈するばかりで、とにかくとてつもない強大な力で押さえ込むしか方法はなかったんだろうけど。


わたしみたいな人間は、こういうとき、本当に無力です。

甘美なる時間

2008-06-11 09:41:22 | お仕事
わたしが看護学校で非常勤を始めて、もう、3年目になる。

これはどういうことかというと、
看護学校の現在、1年生から3年生までが顔見知り・・・ということであり、
また、
来年度には、ついに念願の「知り合いの看護師さん40人計画」が実現する、ということでもある。

早くも来年が待ち遠しい。


さて、そんなわけで今年度からは、
各学年40人(定員)1クラスの1年生から3年生まで全員と顔見知りになり、看護学校に行けば、あらゆる学年の学生たちと出会うことになった。

そんな状態の日々で数ヶ月過ごしながら、ずっと、気になっているのが、
そのあらゆる学年の学生たちが、わたしに、

「先生、うちらのときが一番良かったでしょ?」
「先生、アタシたちんときが一番楽しかったでしょ?」
「先生、うちらと一番気が合ってたもんね」

・・・などと、言ってくることである。

ともかくどこの学年の学生も、「一番」を強調してくる。
なんでだろう?
そもそも「一番」ってなんだ?
・・・などと深く考えつつ、

「そうね。一番、パンチがきつかったかな。」
「うーん、そうだな。なんか一番、エロエロなトークで盛り上がった気がする」
「あー、なんかそうね。一番、個性きつかった。」

とか、わたしのわかる範囲で「○○で一番」を決めて答えるようにしている。
・・・すると、なんだかよくわからないが、うれしそうに、キャッキャッと喜ぶので、なんとも、うれしくなる。


しかし、この「一番」を求めてくるというのは、いったいなんなんだろう?
もしかしたら、
それは要するに、授業の中で私たちが、かけがえのない「甘美な」時間を過ごし、親密な関係性を形成していた・・・ということなのかもしれない。

ここで、「甘美な」という言葉は、恩師K先生の言葉を借用している。

長年の喫煙生活を離れ?、ついに禁煙に成功したK先生は、
ある懇談会の場で、こうスピーチした。

「禁煙した途端、N先生から「ついにやりましたね」と褒められたりして、良いことばかりなのですが、ただひとつ残念なことがありました。
それは、C研究室の院生のAくん・Bくんと一緒に、2階の隅の喫煙所で過ごしていた時間を失ってしまったことです。
2階の隅の喫煙所で、煙草を吸いながら、「俺たち、ダメ人間」なんて言っていた時間は、なかなか甘美な時間だったのですが。」


わたしは、この「甘美な」という表現が好きだ。
なんともK先生らしい、美しい日本語だと思う。


「甘美な」時間は、恋人同士が睦言を交わし合うその愛らしい時間のみを指すわけではないだろう。
「わたし」が「あなた」をかけがえない存在と思い、
そして「あなた」が「わたし」をかけがえないと思い、
「わたしたち」で過ごす時間をかけがえのない大切な時間だと思えるなら。
そして、その「かけがえなさ」を二人が暗黙のうちに(お互いにそれを確認しなくとも)信じることができるのなら。
それは、紛れもなく「甘美な」時間と呼べるのだと思う。

その「甘美な」という言葉を借用させていただくなら、
授業の間、私たちの間に流れていた時間は、まさに「甘美な」時間だったのだろうと思う。


だからこそ、新しい学年が入学し、わたしの授業が始まると、
以前、担当していた学生たちは、少し不安を覚えるのかもしれない。
暗黙のうちに共有されていた「かけがえなさ」への信用を失いかけてしまうのかもしれない。

「わたしたちが、一番でしょ?」
という問いは、まさに、その失いかけた信用を取り戻したいというメッセージなのではないか、とわたしは解釈した。

だから、わたしは「あなたたちは、かけがえのない存在だ」と言い続ける。
わたしには「一番」がどういうことかわからないけど、あなたたちがわたしにとってかけがえのない存在であることは確かで、それはまったく揺るぎないことなのだ、と言い続ける。