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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−103(足利尊氏叛乱−4)

34.5. 新田義貞の西下

 

足利尊氏討伐の命を受けた新田義貞は5万騎余りの軍勢を率いて西国に下った。

 

新田義貞と赤松円心の白旗城を攻める

 

義貞は播磨国加古川で、後続の軍勢と合流し、その数は6万騎を超えた。

義貞が赤松円心を攻めようと準備していた時、赤松から使者が来てこう告げた。

円心不肖の身を以て、元弘の初大敵に当り、逆徒を責却候し事、恐は第一の忠節とこそ存候しに、恩賞の地、降参不儀の者よりも猶賎く候し間、一旦の恨に依て多日の大功を捨候き。

乍去兵部卿親王の御恩、生々世々難忘存候へば、全く御敵に属し候事、本意とは不存候。

所詮当国の守護職をだに、綸旨に御辞状を副て下し給り候はゞ、如元御方に参て、忠節を可致にて候。

 

「不肖円心が元弘の初め大敵に向かい、逆徒たちを討ち退けたのは第一の忠節と思っていた。

しかし、恩賞の領地は、降参した不義の者たちよりも少なかった。

この一時の恨みによって長年の大きな功績を捨てました。

しかし兵部卿親王(護良親王)のご恩は生ある限り忘れがたいものであり、朝敵となったのは本意ではない。

もし当国の守護職の綸旨を貰えたら、元のようにお味方となって忠節に励むつもりである」

 

義貞は、これを聞いて

此事ならば子細あらじ。

といって、京へ使者を送って、赤松円心を守護職補任の綸旨を受けた。

その使者が京都との往復に十日あまりが過ぎた。

この間に、円心は城を守る準備を固めていたのである。

 

義貞が、その守護職補任の綸旨を円心に渡そうとすると、

当国の守護・国司をば、将軍より給て候間、手の裏を返す様なる綸旨をば、何かは仕候べき。

「そんなものは要らない、当国の守護・国司はもうすでに足利尊氏から任命されている。

掌を返すような、綸旨は何の役にも立たない」

と嘲笑った。

これを聞いた新田義貞は、当然のごとく激怒する。

王事毋脆事、縦恨を以て朝敵の身になる共、戴天欺天命哉。

其儀ならば爰にて数月を送る共、彼が城を責落さでは通るまじ。

「天皇がされることは、たとえ恨みを持って朝敵の身となっても、ないがしろには出来ない。

ならば、ここで数ヶ月を過ごしても、あの者の城を攻め落とさずには通るまい」

 

と言って、六万余騎の軍勢で白旗城を幾重にも取り囲んで、昼夜50日余り攻め続けた。

 

しかし、この白旗城は峻険な山に建っており、人は簡単に上ることができず、また籠城に備えて城内には水も兵糧もたくさんあった。

その上、播磨、美作に名の通った射手たちが八百余人も籠もっていたので、攻めても攻めてもただ寄せ手が負傷し討たれるばかりで、城中の被害は皆無であった。

 

義貞はこの白旗城攻めに1ヶ月以上費やしていた。

この、膠着した状態を見かねて、脇坂義助(義貞の弟)は

「先年の金剛山千早城の例もあり、このような小城一つに取りかかって、無駄に日数を送っていたら、味方の軍勢の兵糧が乏しくなり、敵を活気づけるだけである。

その上、尊氏はすでに九州を平定して上洛すると言われているので、尊氏が近づく前に備前、備中を平らげて安芸、周防、長門の軍勢を味方に付けないと、大変な大事になるだろう」

と進言した。

義貞は、もっともだ、と思い、二万騎を白旗城を攻撃から離脱させ船坂山(​​兵庫県赤穂郡上郡町)へ向けた。


義貞が白旗城で時間をかけている間、足利尊氏は九州ほぼ全域を味方につけ、上洛の途上であった。

 

34.6. 尊氏東上

九州博多に落ち延びた尊氏は宗像大社、少弐氏を味方につけ、九州で再起を企てる。

建武3年/延元元年(1336年)3月2日、尊氏は、多々良浜(福岡市東区多の津)の戦いで勝利し九州のほぼ全域の武士たちが足利方となった。

<多々良浜古戦場>


九州のほぼ全域を支配した尊氏であったが、すぐさま上洛しなかった。

この春の敗北に懲りて安易に京に攻め上がる気持ちにならなかったのである。

この辺りに、尊氏の人間らしさが出ている。

そういうところに赤松からの寸刻を急ぐような上洛督促の使いが来た。

京都から来た敵軍が、備中、備前、播磨、美作に満ちあふれているが、我軍は持ちこたえている。

しかし、尊氏の出発が遅れて、赤松が防御している白旗城が攻め落とされたならば、その他の城も次々と落城してしまう。

もし、これら四ヶ国(備中、備前、播磨、美作)の重要地点が皆敵の城になれば、いくら尊氏の軍が何百万騎の軍勢となっても、上洛は出来なくなる。

と尊氏に言い、尊氏は「もっともである」と同意した。

 

建武3年/延元元年(1336年)尊氏は4月26日に太宰府を出発する。

九州に落ち延びて、僅か2ヶ月足らずであった。

「太平記」によると

5月1日安芸の厳島へ船を寄せ三日間参籠した。

その満願の日、三宝院僧正賢俊が京から下って来て持明院殿から下された院宣を尊氏に渡した。

尊氏はこれを拝見し、

「双方の考えが合致して、内心の願いがやっと叶った。今後の合戦においては、勝てないということは決してない」と喜んだ。

 

尊氏は厳島の奉幣を終えて五日に厳島を出発した。

この時に伊予、讃岐、安芸、周防、長門の軍勢が合流している。

数日後には、備後、備中、出雲、石見、伯耆の軍勢が六千余騎で馳せ参じた。

石見からは、益田兼広や福光兼継らが馳せ参じた。

一方、尊氏の命を受け、兵を集めに行った上杉頼顕が率いてきたのは那賀郡の平田三郎の750騎だけであった。

上杉頼顕は、邑智郡は募兵に応じず、那賀郡は平田の軍だけしか集まらなかったといった。

これを聞いて、尊氏は上野頼兼を石見守護に命じて大将とし、田村盛泰を副将にして、味方募集と石見の宮方党の討伐に向かわせた。

この、石見合戦については後で述べることにする。

尊氏は鞆の浦から足利直義を大将にして二十万余騎で陸路を上らせた。

一方尊氏は海路を、兵船七百五十余艘を漕ぎ並べて海上を上る。

 

福山合戦

東上する足利軍は中国福山(岡山県倉敷市近く)で官軍と衝突した(福山合戦)。

官軍は備中福山城に立て籠もり応戦する。

足利直義率いる足利軍は20万騎、籠城している官軍は僅か1500騎であった。

備中福山城は落城するが、足利勢は2万ともいう死傷者を出したといわれている。

直義率いる足利軍は更に東上する。

<福山城跡地>

 

<続く>

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