日米首脳会談で大きな成果を上げ、内閣支持率は多くのマスコミで70%を超えた。慎重な報道機関の中には党内の反対派の説得ができるのかが疑問との見方もあるが、アメリカの大統領を動かすところまでやっておきながら国内でもたもたしては63%にも達したTPP参加賛成派を敵に回しかねないから、既に勝負はついた話である。1週間後には決着しているのだろう。これからは、如何にタフネゴシエータを選抜して交渉に臨むかが見所だろう。
ちなみに、ここでの早期決断の意味は実は非常に大きい。自民党政権にとって最初の判断タイミングであるから、それを一発で見事にものにしたということは、参加のタイミングが遅れて日本の国益を主張するチャンスをみすみす棒に振った責任の全てを優柔不断な民主党に負わせることができる。これで、(個人的な感覚として)参院選に向けた最も大きなハードルを越えたから、参院選でねじれが解消することはほぼ手中に収めたも同然だろう。
そこで今日は、少し話題を変えて選挙制度について少しコメントしてみたい。
ここ最近の大きな問題として、衆議院と参議院のねじれ現象による国政の停滞が注目されて久しい。ねじれ現象というものが、ある意味では与党の暴走を止めるブレーキとしてはたらき得るが、結果的には反対のための反対が横行し、アクセルを踏むべき時にも一方でブレーキをベタ踏みして動きを封じていた。もともとは、貴族院のように異なるバックグラウンドを持った人達によって構成されていたり、戦後であっても学者や有識者を中心に議員を揃えたことで良識の府とまで言われ、それぞれの役割分担的な意味があった。しかし、現在はあまりその様な役割分担の意義が失われ、衆院選で落選したから次の選挙の参院選に出馬するとか、参議院議員を辞職して衆院選に出馬したりと、その垣根は既に無くなっている。
だから、選挙制度改革を考える場合、現状を前提とする継ぎ接ぎ的な対応とは別に、そもそも論に照らし合わせた時にどの様な議論が出来るかということも合わせて考えるべきと考える。あまり細かい話はできないが、結論的な提案を最後にしてみたい。
まず参議院では、任期は6年でありながら3年おきに選挙が行われる。更に衆院選も加えると、期待値的には2年程度の周期で何処かで国政選挙が行われることになる。選挙が近いと、選挙目当ての政策が前面に出されたりするから、あまり人気のない政策を腰を落ち着けて議論するためには非常に都合が悪い。もともと、参議院は解散の恐怖を意識しなくてよいように、任期を6年と長く設定すると共に解散がないというルールとなっている。しかし、第1次安倍政権以降の政権が短命に終わったのは参議院の議員数の構成の影響を強く受けたことからも、議員個人の当落とは別に、政権の浮沈を決める選挙として参議院選が機能してしまっている以上、人気のない政策を腰を落ち着けて議論するのに役立っているようには見えない。だから、この任期、解散の有無というところも見直しの対象となるべきである。
次に、政策的な視点からも見ていこう。少し話題がそれるが、現在、イタリア選挙の真っ最中である。イタリアを散々な状態に陥れたA級戦犯のベルルスコーニ元首相などが、小沢一郎も真っ青というこれ以上ないポピュリズム選挙を仕掛け、これが意外に国民に受けているという。殆ど自殺行為なのに、それが分かっていても止められないほど、ポピュリズム選挙というのは根が深いのである。また、これまた話は変わるが、先日、報道ステーションを見て絶句してしまったシーンがある。自民党の衛藤征士郎議員が、地元九州の高速道路新設予算を要求し、その要求額以上の配算があったと誇らしげにテレビで語っていた。地元の関係者との間でも、「とにかく、多め、多めで予算を要求しましょう!」と本音を平気で語っていた。本当に必要なところに、必要最小限の割り当てを行いながら、一番効率の良いところを追求しましょうというのが国家の方針であるにもかかわらず、とにかく自分の選挙区の有権者だけ得をすれば良いというエゴ丸出しの発言である。常識的に言えば、この様な映像が流れれば次の選挙で致命的なはずだが、それを堂々とテレビにさらけ出すというのだから、余程、善悪の区別がつかなくなっているのに違いない。先の衆議院選挙でも多くの自民党議員が農業票欲しさにTPP絶対反対を掲げて当選した。これは安倍総裁の「聖域なき関税撤廃を前提とする限りは参加に反対」「国益を最優先に判断する」「基本的には自由貿易を推進する」とは似ていて非なるものである。この様に、選挙となると党の方針よりも自分の都合という個利個略を前面に出す議院が横行しかねない。
2大政党制を目指して導入された小選挙区制度だが、盆踊りや冠婚葬祭に奔走するという変な習慣が根付いている日本にはあまり適していないのではないかということを、ここ最近の選挙で我々は勉強してきたところである。将来、多分、それは30年や50年という先だろうが、いつか選挙における民主主義が成熟したところで小選挙区制に戻る可能性はあるが、当面は小選挙制は単純に振り子を大きく振らせるリスクを大きくするだけで、堅実な主張をする議員を拾い上げるのには適していない様に思える。
細かい議論は他の人に任せるとして、まず衆議院選挙に関しては、私は故三宅久之氏の提唱する「全国共通、3人区×100選挙区制」というものに共感する。この制度の意図することは、2大政党であれば1議席を与党、2議席目を野党第1党、残りの3議席目を中小政党と与野党第1党が奪い合い、その3議席目をどの様な配分で分け合うかで政権が決まるというものである。さらに私の提案は、故三宅久之氏の提案に追加して、参議院は全て100%比例代表制にし、且つ、非拘束名簿式比例代表制の様な個人名での投票を廃止するのである。あくまでも個人に対する投票ではないから、当選した後で離党して他の政党に合流することはできない。極端な話、通常国会や臨時国会のたびに、政党側が議員の入れ替えを行っても良い。そこまでいかなくても、党員資格停止中は同時に議員資格も停止され、その間は別の代理の議員が国会に出席するようにしても良い。この様にすることで、少なくとも参議院では、政党が前面に打ち出す政策を全面的に支持する議員を優先的に議員とさせることができる。また、この様にすることで、参議院は既に現在の様な議員とは異なる概念で捉えるべきかも知れない。
衆議院は、振り子の振れ方の影響を受けやすく、支持率に反する議席数になる可能性が高いが、提案のように政党名で投票する100%比例代表制を採用すれば、参議院は正確な支持率を反映した議席数になる。我々は、一度、悲惨な経験を経ているのだから変なポピュリズムに対する免疫ができている。責任ある与党が責任を果たす限り、参議院選挙での無茶なポピュリズム政策は排除しやすい。さらに、衆議院選挙でも3人区制を採用すれば、主要政党であれば同一選挙区から複数の候補者を擁立することになる。この同一政党の候補者が異なる自分に都合の良いことを言っていれば、結果として有権者はその矛盾に気が付くことになる。党内でもそれは議論になり、無茶なことを言うことに対するブレーキとして働くことが期待できる。だから3人区制になれば、現在の様に「小選挙区で公認を得てしまえば何でもアリ」というようにはいかなくなる。
後は、如何にして選挙の周期を長く設定するかである。安定政権を築くためには、あまりにも選挙の周期が短いと問題である。しかし、あまりにも間隔があきすぎると、一旦下された民意の賞味期限が切れても、その現在を反映していない民意で現在の政権の足を引っ張ることになりかねない。この辺は少し議論が必要であるが、一つの例としては、現在よりも衆議院の優越性を高めるという選択がありうる。これは、任期4年の衆議院が最重要であり、参議院選挙は衆議院選挙で勝つための単なるツールに成り下がるというものである。ないしは、先ほどの様に参議院議員の存在は、議員個人というより党勢を表すものと考えるなら、いっそのこと任期を1年ないし2年(1年ごとの半分ずつの改選としても良い)としてしまうのも良い。選挙の間隔は短くなるが、選挙に勝利した効力が短くなりさえすれば、無茶なポピュリズムを提示して議席を獲得しても、その賞味期限が短ければ簡単にその見直しを行うことが可能になる。逆説的ではあるが、衆議院は正統派の4年任期を維持するが、任期の短い参議院は殆ど公の「世論調査」的な意味合いを持つようになるから、下手な小細工をして1、2年限りの議席を稼ぐより、参議院選で真面目な政策を提示することで国民の支持を取り付け、次に来る衆議院選での議席獲得を目指すモチベーションが湧くようになる。議員個人の選挙活動を前提とすれば、1、2年の任期はあり得ない選択肢であるが、個人の政治家が選挙活動をするのではなく、政党が中心となる選挙活動であるから、ぎりぎりのところでの許容範囲であろう。全くの逆転の発想である。また、少々強引であるが、衆議院と参議院は常に同時に改選するという考え方でも良い。つまり、参議院にも解散(衆議院との連動)を導入するのである。
最後の幾つかの選択肢は、色々、その他の制度との整合性などで考えようがあると思うが、ここまでドラスティックな変更を行うのであれば、その制度改革のついでに議員数の定数削減もやり易い。多分、ここまで大きな変更には5年以上の長い議論が必要だと思うが、参議院選挙が終わった後で構わないから、ゼロから選挙制度を組み立てるつもりの議論を開始して欲しい。
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ちなみに、ここでの早期決断の意味は実は非常に大きい。自民党政権にとって最初の判断タイミングであるから、それを一発で見事にものにしたということは、参加のタイミングが遅れて日本の国益を主張するチャンスをみすみす棒に振った責任の全てを優柔不断な民主党に負わせることができる。これで、(個人的な感覚として)参院選に向けた最も大きなハードルを越えたから、参院選でねじれが解消することはほぼ手中に収めたも同然だろう。
そこで今日は、少し話題を変えて選挙制度について少しコメントしてみたい。
ここ最近の大きな問題として、衆議院と参議院のねじれ現象による国政の停滞が注目されて久しい。ねじれ現象というものが、ある意味では与党の暴走を止めるブレーキとしてはたらき得るが、結果的には反対のための反対が横行し、アクセルを踏むべき時にも一方でブレーキをベタ踏みして動きを封じていた。もともとは、貴族院のように異なるバックグラウンドを持った人達によって構成されていたり、戦後であっても学者や有識者を中心に議員を揃えたことで良識の府とまで言われ、それぞれの役割分担的な意味があった。しかし、現在はあまりその様な役割分担の意義が失われ、衆院選で落選したから次の選挙の参院選に出馬するとか、参議院議員を辞職して衆院選に出馬したりと、その垣根は既に無くなっている。
だから、選挙制度改革を考える場合、現状を前提とする継ぎ接ぎ的な対応とは別に、そもそも論に照らし合わせた時にどの様な議論が出来るかということも合わせて考えるべきと考える。あまり細かい話はできないが、結論的な提案を最後にしてみたい。
まず参議院では、任期は6年でありながら3年おきに選挙が行われる。更に衆院選も加えると、期待値的には2年程度の周期で何処かで国政選挙が行われることになる。選挙が近いと、選挙目当ての政策が前面に出されたりするから、あまり人気のない政策を腰を落ち着けて議論するためには非常に都合が悪い。もともと、参議院は解散の恐怖を意識しなくてよいように、任期を6年と長く設定すると共に解散がないというルールとなっている。しかし、第1次安倍政権以降の政権が短命に終わったのは参議院の議員数の構成の影響を強く受けたことからも、議員個人の当落とは別に、政権の浮沈を決める選挙として参議院選が機能してしまっている以上、人気のない政策を腰を落ち着けて議論するのに役立っているようには見えない。だから、この任期、解散の有無というところも見直しの対象となるべきである。
次に、政策的な視点からも見ていこう。少し話題がそれるが、現在、イタリア選挙の真っ最中である。イタリアを散々な状態に陥れたA級戦犯のベルルスコーニ元首相などが、小沢一郎も真っ青というこれ以上ないポピュリズム選挙を仕掛け、これが意外に国民に受けているという。殆ど自殺行為なのに、それが分かっていても止められないほど、ポピュリズム選挙というのは根が深いのである。また、これまた話は変わるが、先日、報道ステーションを見て絶句してしまったシーンがある。自民党の衛藤征士郎議員が、地元九州の高速道路新設予算を要求し、その要求額以上の配算があったと誇らしげにテレビで語っていた。地元の関係者との間でも、「とにかく、多め、多めで予算を要求しましょう!」と本音を平気で語っていた。本当に必要なところに、必要最小限の割り当てを行いながら、一番効率の良いところを追求しましょうというのが国家の方針であるにもかかわらず、とにかく自分の選挙区の有権者だけ得をすれば良いというエゴ丸出しの発言である。常識的に言えば、この様な映像が流れれば次の選挙で致命的なはずだが、それを堂々とテレビにさらけ出すというのだから、余程、善悪の区別がつかなくなっているのに違いない。先の衆議院選挙でも多くの自民党議員が農業票欲しさにTPP絶対反対を掲げて当選した。これは安倍総裁の「聖域なき関税撤廃を前提とする限りは参加に反対」「国益を最優先に判断する」「基本的には自由貿易を推進する」とは似ていて非なるものである。この様に、選挙となると党の方針よりも自分の都合という個利個略を前面に出す議院が横行しかねない。
2大政党制を目指して導入された小選挙区制度だが、盆踊りや冠婚葬祭に奔走するという変な習慣が根付いている日本にはあまり適していないのではないかということを、ここ最近の選挙で我々は勉強してきたところである。将来、多分、それは30年や50年という先だろうが、いつか選挙における民主主義が成熟したところで小選挙区制に戻る可能性はあるが、当面は小選挙制は単純に振り子を大きく振らせるリスクを大きくするだけで、堅実な主張をする議員を拾い上げるのには適していない様に思える。
細かい議論は他の人に任せるとして、まず衆議院選挙に関しては、私は故三宅久之氏の提唱する「全国共通、3人区×100選挙区制」というものに共感する。この制度の意図することは、2大政党であれば1議席を与党、2議席目を野党第1党、残りの3議席目を中小政党と与野党第1党が奪い合い、その3議席目をどの様な配分で分け合うかで政権が決まるというものである。さらに私の提案は、故三宅久之氏の提案に追加して、参議院は全て100%比例代表制にし、且つ、非拘束名簿式比例代表制の様な個人名での投票を廃止するのである。あくまでも個人に対する投票ではないから、当選した後で離党して他の政党に合流することはできない。極端な話、通常国会や臨時国会のたびに、政党側が議員の入れ替えを行っても良い。そこまでいかなくても、党員資格停止中は同時に議員資格も停止され、その間は別の代理の議員が国会に出席するようにしても良い。この様にすることで、少なくとも参議院では、政党が前面に打ち出す政策を全面的に支持する議員を優先的に議員とさせることができる。また、この様にすることで、参議院は既に現在の様な議員とは異なる概念で捉えるべきかも知れない。
衆議院は、振り子の振れ方の影響を受けやすく、支持率に反する議席数になる可能性が高いが、提案のように政党名で投票する100%比例代表制を採用すれば、参議院は正確な支持率を反映した議席数になる。我々は、一度、悲惨な経験を経ているのだから変なポピュリズムに対する免疫ができている。責任ある与党が責任を果たす限り、参議院選挙での無茶なポピュリズム政策は排除しやすい。さらに、衆議院選挙でも3人区制を採用すれば、主要政党であれば同一選挙区から複数の候補者を擁立することになる。この同一政党の候補者が異なる自分に都合の良いことを言っていれば、結果として有権者はその矛盾に気が付くことになる。党内でもそれは議論になり、無茶なことを言うことに対するブレーキとして働くことが期待できる。だから3人区制になれば、現在の様に「小選挙区で公認を得てしまえば何でもアリ」というようにはいかなくなる。
後は、如何にして選挙の周期を長く設定するかである。安定政権を築くためには、あまりにも選挙の周期が短いと問題である。しかし、あまりにも間隔があきすぎると、一旦下された民意の賞味期限が切れても、その現在を反映していない民意で現在の政権の足を引っ張ることになりかねない。この辺は少し議論が必要であるが、一つの例としては、現在よりも衆議院の優越性を高めるという選択がありうる。これは、任期4年の衆議院が最重要であり、参議院選挙は衆議院選挙で勝つための単なるツールに成り下がるというものである。ないしは、先ほどの様に参議院議員の存在は、議員個人というより党勢を表すものと考えるなら、いっそのこと任期を1年ないし2年(1年ごとの半分ずつの改選としても良い)としてしまうのも良い。選挙の間隔は短くなるが、選挙に勝利した効力が短くなりさえすれば、無茶なポピュリズムを提示して議席を獲得しても、その賞味期限が短ければ簡単にその見直しを行うことが可能になる。逆説的ではあるが、衆議院は正統派の4年任期を維持するが、任期の短い参議院は殆ど公の「世論調査」的な意味合いを持つようになるから、下手な小細工をして1、2年限りの議席を稼ぐより、参議院選で真面目な政策を提示することで国民の支持を取り付け、次に来る衆議院選での議席獲得を目指すモチベーションが湧くようになる。議員個人の選挙活動を前提とすれば、1、2年の任期はあり得ない選択肢であるが、個人の政治家が選挙活動をするのではなく、政党が中心となる選挙活動であるから、ぎりぎりのところでの許容範囲であろう。全くの逆転の発想である。また、少々強引であるが、衆議院と参議院は常に同時に改選するという考え方でも良い。つまり、参議院にも解散(衆議院との連動)を導入するのである。
最後の幾つかの選択肢は、色々、その他の制度との整合性などで考えようがあると思うが、ここまでドラスティックな変更を行うのであれば、その制度改革のついでに議員数の定数削減もやり易い。多分、ここまで大きな変更には5年以上の長い議論が必要だと思うが、参議院選挙が終わった後で構わないから、ゼロから選挙制度を組み立てるつもりの議論を開始して欲しい。
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