健太郎の物見遊山

不動産業界に25年。現在、全国行脚中なので、全国の面白い話題や不動産関係の話、健太郎の個人的なブログを提供していきます。

博多を知っと考(渡辺通り編)

2007-01-15 00:59:26 | Weblog
 福岡市の天神から南に向けて九州電力本社までの大通りを「渡辺通り」という。渡辺通りの由来はこの道を造るときに情熱を傾けた「渡辺与八郎」の功績に由来する。しかし、本人は亡くなるまで自分の名前を付けることを拒み続けたという。

 渡辺家は与八郎の祖父(与助)が、博多の洲崎町上(須崎町)にあった漆器・履物屋の「紙屋」で奉公したことに始まる。それから「呉服商」を始め「紙与」呉服店を西町上(現在の店屋町)に開いた。屋号は主家から一字もらったものだ。

 天保元年(1830年)、に長男(与三郎)が生まれた。与三郎は律義で堅実な父とは対照的で、小倉や下関の「小判買い」でもうけた。嘉永4年(1851年)の決算では、二千八百両の利益を出し莫大な財を築いた。

 その家督を23歳の若さで引き継いだのが与八郎だ。父から受け継いだ呉服商を発展させた与八郎は、綿布、絹布、染め物まで扱い、京都、滋賀、愛知から商品を仕入れ、商圏は九州全域はもちろん、中国、朝鮮におよんだ。

 また、醤油(しょうゆ)屋や足袋など様々な業種へ進出、次々に独立させ、親族や従業員に経営を任せた。銀行や鉄道会社へ投資するなど、急速に経営を拡大させた。そんな折、明治43年春、福岡県の主催で九州沖縄8県連合共進会が開催されることになった。

 各地から商品を持ち寄り、商談とともに、開催地の産業を宣伝するイベントで、当時は貴重なビジネスチャンスだった。この機会に市の基盤整備を、と考えた与八郎は有志を集め「博軌電車」(はっきでんしゃ)を設立した。

 天神から、渡辺通、住吉を通って博多駅、そして築港から天神に戻る循環線「博多電車」を走らせる計画で、土地買収には膨大な資金を要した。与八郎は「電車が通れば家は倒れてもよい」と広言し、用地買収の陣頭に立った。

 しかし、明治44年11月、博多電気軌道の開通を見届けるように「流行病」のため、45歳で亡くなった。彼は生涯、名声や名誉に一切関心を示さなかった。電車が走った天神から柳橋に続く通りを「渡辺通」と名付ける話が出た時、どうしても首を縦に振らず、実現したのは死後間もなくしてからだ。

 博軌電車は、渡辺与八郎の死後、すぐに経営不振に至り、九州水力電気(株)に合併される。1934年(昭和9年)には福博電車に統合され、そして1942年(昭和17年)に、現在の西日本鉄道株式会社に統合された。
http://www.nishitetsu.co.jp/museum/fukuoka/junkan/

 どうです、すごいですね。博多を作った人には神屋宗湛(かみやそうたん)、嶋井宗室(しまいそうしつ)ら何人かいますが、与八郎も代表すべき人物ではないでしょうか。何で今の時代に、こんな人たちでてこないのでしょう。

(プチ情報:ナベプロは親戚筋だそうです)

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