唯物論者

唯物論の再構築

忍者武芸帳

2011-01-11 20:36:17 | 映画・漫画

 忍者武芸帳は言わずと知れた、60年安保当時に書かれた忍者漫画の最高傑作である。この漫画の内容と規模は、当時の大手出版社による漫画世界では、執筆および出版が不可能なものであった。それにもかかわらずこの異才作家白土三平の傑作劇画が世に出られたのは、貸本劇画というアンダーグラウンド出版界の存在と、長井勝一というこれまた異才の出版者の存在のおかげである。
 この漫画は左翼学生の唯物史観の教材に使われたという一種の都市伝説を残した。しかし忍者武芸帳にはカムイ伝のような資本主義的生産過程の発達の描写は無く、むしろ唯物弁証法の教材に使われたとした方が納得させられる。その意味でこの漫画に圧巻されるのは、主人公の忍者影丸の駆使する分身の術が、一人ではなく八人の影丸で実現されているという下りである。しかもその八人の影丸が全滅してもまだ影丸が登場するラストの展開である。凄いのはそれだけではない。この漫画は副題のとおりに影丸の物語である。そして確かに最初から最後まで影丸が活躍する話である。それにもかかわらず読者には、影丸が一体何者であり、何を目指していたのかが分からないで物語は終わる。この物語の中に、本当に影丸という人物がいたのかすら怪しいのである。およそこのような漫画が、単行本がせいぜい2~3巻が当たり前の子供向け漫画しかなかった時代に17巻本で登場したこと自体が奇跡といって良い。
 一方で影丸伝という副題が暗示するのは、この漫画が聖書を分解・再構成した物語だということである。長井勝一がこの副題を拒否したのも、聖書っぽいためと後日談で書いている。この暗示をそのままなぞらえると、影丸のモデルはイエスになる。また影一族とはイエスの弟子たちであり、ユダやサロメにあたるのが蛍火になる。忍者影丸も、イエスのように食材を魔法のように取り出したり、奇術を駆使する怪人として描かれている。

 イエスを影丸のモデルと言うと罰あたりになりそうだが、イエスその人は実在したとみられている。一方、処女懐妊や幼児虐殺などの逸話は、イエスに限らず古代の英雄伝説でポピュラーなものと言われている。他方、イエスは一人ではなく複数のモデル人物の集合体という説もある。そもそも時代や地域を選ばずに、聖者と称する人間はどこにでも現れる。イエスの出生からエルサレムデビューに到るまでの数々の逸話にしても、釈迦を神格化した伝説と同様に、当時の流言と事実を繋ぎ合せる形で、イエスの生前から後世にかけて作られた都市伝説と見ることができる。
 しかしそのようにイエス伝説を捉える場合でも、なぜその他もろもろの自称聖者ではなく、イエスが聖者として選ばれたのかという謎が残る。そしてその謎は、イエスの教えが他の自称聖者を寄せ付けない威力をもった教えだったという結論を示す。
 キリスト教の威力の一つ目は、唯一神だけを許容する一神教だということである。そして二つ目は、貧者救済の大乗経だということである。古代ローマの宗教であったミトラ教は、神々の顔ぶれにさえ統一性をもたない多神教であった。それは、古代ローマが征服地を吸収してできあがった多民族国家だったことに対応している。しかし複数の神の許容は、それ自身が複数の真理の許容を意味する。複数の真理は互いに排他的であり、都合の良い真理を選択する民族同士に対立をもたらす。つまり複数の真理の許容は、すでに巨大化したローマの多民族国家の管理にとって、不都合なのである。したがって長期的に見ると古代ローマは、自らにとって都合の悪い神々を排除する義務をもつ。最終的な目標は、ローマを肯定する唯一神への収束である。
 一方で真理の一本化は、民族間で乱立する真理だけではなく、民族内部の対立した真理の収束を要請する。つまり貧者と富者の間で互いに措定し、対立する複数の真理の収束である。この場合に譲歩すべきなのは、富者の側である。貧者は圧倒的多数を誇っており、少数の富者だけを肯定するような神の選択は不可能である。当時の神は、具体的な事実ではなく、単なる空想的事実であり、作り出された意識にすぎない。富者側の譲歩は、頭の中の出来事にすぎず、富者にとって痛くも痒くもない事柄である。実際には富者の神と貧者の神は別物なのだが、その対立は意識されることもなく、ローマの一神教体制が成立する。潜伏した民族間と貧富間の二重の対立は、後にイスラム教として、またはプロテスタントとして表面化してゆくことになる。
 ローマ世界と違い仏教世界は、衆生救済など似た動きを示したにせよ、根本的に別の展開を辿る。仏教世界は、むしろ直接に意識世界から独立した物質世界を承認する。つまり仏教世界では、物質世界を現世として、意識世界を来世として説明し、現世認識の対立を最初から拒否している。これは多民族国家の歴史の違いに由来したものなのだが、現世認識の一元化は来世認識の多元化を許容し、結果的に日本では来世の話で殺し合うのを、馬鹿げた行為として了解するような意識形成をもたらした。おかげで日本を含む仏教世界の殺し合いは、現世の話で発生し、低次元かつ理解しやすいものとなっている。この理解しやすさは、対立の止揚にも効果的であり、極楽浄土の現世到来を可能にするものでもある。とはいえ欧米やイスラム世界の宗教的内部対立を克服するために仏教を導入するのは、悪くは無いが、10世紀以上の時代遅れな目標であるのは言うまでもない。

 話が大幅にそれたので、影丸の話に戻す。
 影丸は簡単に言えば、神である。それは「奇跡の丘」で共産主義者パゾリーニが人間的復権をさせようとしたイエス像、または「テオレマ」で登場させたテレンス・スタンプ扮する謎の青年ともかぶっている。カムイ伝の中で、雨乞いを願う農民たちに糞尿の中を引きずりまわされる地蔵菩薩を見ながら、正助たちが地蔵の正体を人間なのだろうとつぶやくシーンがある。神の正体もやはり人間なのであろうと、白土三平は訴えている。忍者武芸帳は、歴史の闇に地の塩として消えていった人たちへのオマージュであり、人間とは何かを今でも私たちに問いかける名作である。
(2011/01/11)

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2011-01-21 17:42:41
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