さあて、もう4ヶ月にもなろうというのに、実は、やったレッスン10回だけ??
ま、しょうがない、気楽に楽しみながら、続けることが一番!
あくまで、「やらされてない」んだっていう意識を常に確固と持ち続けるためにも、周りがあせったり、根性論をかざしたりしてはダメ!!ま、当たり前だが(笑)
てな話で始まっているので、みなさんもお気づきでしょうが、またKING君今週もお休み・・
ちゃんと理由はあって、なんか、KING君はいつも日曜日に遠出をするんだけど、最近暑いせいか、疲れてしまうらしい、で、いつも火曜日の数学の個別指導塾の日にちを変更するんだけど、今週は水曜のはずだった英語も、まだ体調悪く、宿題も途中までやって勉強する気はあるらしいんだが、今週もお休み・・
ま、いいじゃないか♪
さて、かねてから予告していた「重ぉぉぉ~い」お話を今日はしようと思っとります・・
なんか、最近、KING君のブログ、重いこと書く専門ブログになりつつあります・・(汗)
今日は「信じる」ということ・・
なんか、もっともらしい題だが・・
えっと、私のように、日ごろ英語を教えていると、色々な質問を受けます・・
そして、自分ではわかっているつもりでも、いざ、言葉で説明しようとするときに、新たな発見をすることが多いんですよね・・
英語を教えているのに、結局、日本語に改めて向き合うチャンスに出会うんです・・
たとえば、teachという単語・・
これは「教える」と、みんな学校で習ってますよね・・
そうすると、「教える」はteachだと思うわけです・・
でね、たとえば「電話番号教えて」というときも、teach
を使っちゃうわけ・・
それは違いますよね・・
つまり、ここで、初めて日本語の「教える」と英語のteachは、全く同じなわけではないことに気づき、また、日本語の「教える」ってどういう意味だろうと、考える機会に出会うわけです・・
そこで思うに、日本語の「教える」にはおおざっぱに二通りの意味がある。
つまり、学問を「教える」teach
と、なにか知らない情報を伝えるという「教える」tell
ってなわけです・・
そんなことはたくさんあって・・
でも、そういう考えかたで、「信じる」ってどういうことだろうって考えると・・
実は「信じる」ってなんだかわかんなくてさまよっているような言葉に思える。
よく
「自分を信じろ」
とか、
「オレが信じられないのか」
とか、具体的にどういうことが、よくわかんない・・
ま、また長くなるんで、私の思う結論だけ言ってしまうと・・
「自分を信じる」とは、
「人の目には、自分は価値のないとるにたらない者のように思われることがあったとしても、かならず、才能があり、世の中に貢献する価値ある命であり、夢は必ずかなうのだ」と信じて疑わないということではないか、と思う。
最近、知人を通して非常にアブナイ人に出会いまして、当然、常識ある現代人ならば、ちゃんと警戒して用心してつきあう、つまり、「疑いながら」意思疎通をする、という対場の方で、もしそれをせずにつきあって、だまされたなら、警戒しない自分がバカだったのだ、と誰もが普通に思うような、そんな怖あぁぁぁ~い業種の方でして・・(汗)
もちろん、私は、人が生きる意味のなかで一番尊い社会への貢献は、「愛をプレゼントすること」だと考えとりますんで、もちろん、そのような方に出会ったからには、これはこれは「愛をプレゼントする」絶好のチャンスと考えたし、それが、この方に知り合った私の使命くらいに思いました・・
私は、別に普通に話していたのですが、その人は「こういう世界にいると、食うか食われるかの毎日で、誉められたりすることなんてないから、誉められると、どういう反応をしていいのか、戸惑うな」と言ったので、まずびっくりしました。なぜなら、別に誉めたつもりもなかったので・・
それならば、ということで、「え、もっと思いっきり誉めることだってできるよ」
というと、
「じゃあ、やってみて。」といって、はい、みたいなかんじで、黙って座って、私が誉めるのを待ってました。
で、思いっきり思いつくかぎりに誉めてあげたら、ただニタニタしてうれしそうでした。
これは、私は少しは愛をプレゼントできたのかな、ってとっても充実感を得ることができたんです・・
ただ、私は、そんなことを言いながらも、その人を疑うことはしっかり忘れていませんでした。
その人の職業は、人から金をぼったくることであり、まあ、法的に詐欺罪じゃないのかなって思うようなことなんですが・・
私と多少の交流を始めたのも、おそらく、英会話スクールを経営してるので、金があるんじゃないかって思ったんだろうってのは、まあ、疑うもなにも、本当だと思いますけど・・(汗)
もちろん、本人はそんなそぶりは微塵も見せませんけどね、そりゃあ・・
愛だの何だの言っても、結局、腹の底でマジで疑ってるので、ちょっとした言動にそれが表れてしまいます・・(汗)
それで、ひょんなことから、「私からお金はとれないから、それでもよいなら」みたいな、ま、そんなストレートには言いませんでしたけど、そんなことをついつい言ってしまった時
「そんなこと、一言も言ってないでしょ」と言われ、確かに、自分の本心が口をついて出てきてしまったことに気づきました・・
私は言いました。
「疑ってしまってごめんなさい。疑うのは、自分を守ろうという行為だと思う。信じてしまうと、自分に不利益をこうむりそうなので、自己防衛のために疑うのだと思う。人を本当に信じるというのは、信じてしまったら、自分が損をするかもしれないが、それでも、あえて、自分が損してもいいから、その人を信じてみようという、ことであって、自分を犠牲にする程の覚悟があってこそ、本当の愛(隣人愛)だと思う。疑ってごめんなさい。」
その人はやっぱり私をだまそうとしてたと思いますけど(事実として)そこで、一瞬言葉につまって、沈黙の時間が流れました。
なんの犠牲も払わずに、ただ誉めてあげるのは、以外と簡単です♪
何も損しませんから♪
でも、自分が多大な損をしそうな境遇においても、あえて、「だまされて損をする」という危険を冒しても信じてあげる、というのが愛であり、それをしてあげてこそ、人は「愛を知る」のでしょう・・
いつも万引きの常習犯の子供がいて、その子に盗まれないようにいつも人が用心しているような状況の中で、そして、また明らかに万引きしたような状況の中で、おまけに、みんなが「どうせまたあいつがやったんだろう」みたいな空気になっているときにも「そんなことをするような子じゃないって信じてるよ。万が一やってりしまったんだとしても、きっとそれなりのやんごとなき事情があってのことだろう」って本気で思っている人にであったら、その人との出会いは、どれだけその子の人生を変えるだろうか・・
勉強もしない、仕事もしない、一日中寝て食べてゲームして・・
学歴もなければ、職歴もなく、年ばかりとっていく・・
誰だって不安になります・・
「このまま一生自分で生きていけなかったらどうしよう」
「このままだと仕事も一生できない」
「近所の人や親戚はどう思うだろう」
普通はそう思ってしまうのもまあ、当然かもしれません・・
けど、
「必ず、大物になる!」
「今はただ、お休み中なだけ」
と、根拠なく、深層心理の奥底から全く疑わずに、本気で信じてあげるとき、
意外と人って、
「あなたのこと信じてるわよ!」とか力入って勇気づけたりしないで、
意外とのんびりかまえて、ゆっくり生活するもんじゃないのかなって・・
だって、この人、今にしっかり働きだすんだから・・
「仕事始めたらなかなか休めないから、今のうち休んでた方がいいよ」
くらいのコメントがでちゃうものなんじゃないかなって・・
自分が世間からどう思われてもかまわない、一生この人の分まで働かされてもかまわない、とにかく信じて疑わず、希望を「本気」でもつとき、人ってガソリンとしての「愛」をガソリンタンクにためていくのかな、などと思った・・
ま、しょうがない、気楽に楽しみながら、続けることが一番!
あくまで、「やらされてない」んだっていう意識を常に確固と持ち続けるためにも、周りがあせったり、根性論をかざしたりしてはダメ!!ま、当たり前だが(笑)
てな話で始まっているので、みなさんもお気づきでしょうが、またKING君今週もお休み・・
ちゃんと理由はあって、なんか、KING君はいつも日曜日に遠出をするんだけど、最近暑いせいか、疲れてしまうらしい、で、いつも火曜日の数学の個別指導塾の日にちを変更するんだけど、今週は水曜のはずだった英語も、まだ体調悪く、宿題も途中までやって勉強する気はあるらしいんだが、今週もお休み・・
ま、いいじゃないか♪
さて、かねてから予告していた「重ぉぉぉ~い」お話を今日はしようと思っとります・・
なんか、最近、KING君のブログ、重いこと書く専門ブログになりつつあります・・(汗)
今日は「信じる」ということ・・
なんか、もっともらしい題だが・・
えっと、私のように、日ごろ英語を教えていると、色々な質問を受けます・・
そして、自分ではわかっているつもりでも、いざ、言葉で説明しようとするときに、新たな発見をすることが多いんですよね・・
英語を教えているのに、結局、日本語に改めて向き合うチャンスに出会うんです・・
たとえば、teachという単語・・
これは「教える」と、みんな学校で習ってますよね・・
そうすると、「教える」はteachだと思うわけです・・
でね、たとえば「電話番号教えて」というときも、teach
を使っちゃうわけ・・
それは違いますよね・・
つまり、ここで、初めて日本語の「教える」と英語のteachは、全く同じなわけではないことに気づき、また、日本語の「教える」ってどういう意味だろうと、考える機会に出会うわけです・・
そこで思うに、日本語の「教える」にはおおざっぱに二通りの意味がある。
つまり、学問を「教える」teach
と、なにか知らない情報を伝えるという「教える」tell
ってなわけです・・
そんなことはたくさんあって・・
でも、そういう考えかたで、「信じる」ってどういうことだろうって考えると・・
実は「信じる」ってなんだかわかんなくてさまよっているような言葉に思える。
よく
「自分を信じろ」
とか、
「オレが信じられないのか」
とか、具体的にどういうことが、よくわかんない・・
ま、また長くなるんで、私の思う結論だけ言ってしまうと・・
「自分を信じる」とは、
「人の目には、自分は価値のないとるにたらない者のように思われることがあったとしても、かならず、才能があり、世の中に貢献する価値ある命であり、夢は必ずかなうのだ」と信じて疑わないということではないか、と思う。
最近、知人を通して非常にアブナイ人に出会いまして、当然、常識ある現代人ならば、ちゃんと警戒して用心してつきあう、つまり、「疑いながら」意思疎通をする、という対場の方で、もしそれをせずにつきあって、だまされたなら、警戒しない自分がバカだったのだ、と誰もが普通に思うような、そんな怖あぁぁぁ~い業種の方でして・・(汗)
もちろん、私は、人が生きる意味のなかで一番尊い社会への貢献は、「愛をプレゼントすること」だと考えとりますんで、もちろん、そのような方に出会ったからには、これはこれは「愛をプレゼントする」絶好のチャンスと考えたし、それが、この方に知り合った私の使命くらいに思いました・・
私は、別に普通に話していたのですが、その人は「こういう世界にいると、食うか食われるかの毎日で、誉められたりすることなんてないから、誉められると、どういう反応をしていいのか、戸惑うな」と言ったので、まずびっくりしました。なぜなら、別に誉めたつもりもなかったので・・
それならば、ということで、「え、もっと思いっきり誉めることだってできるよ」
というと、
「じゃあ、やってみて。」といって、はい、みたいなかんじで、黙って座って、私が誉めるのを待ってました。
で、思いっきり思いつくかぎりに誉めてあげたら、ただニタニタしてうれしそうでした。
これは、私は少しは愛をプレゼントできたのかな、ってとっても充実感を得ることができたんです・・
ただ、私は、そんなことを言いながらも、その人を疑うことはしっかり忘れていませんでした。
その人の職業は、人から金をぼったくることであり、まあ、法的に詐欺罪じゃないのかなって思うようなことなんですが・・
私と多少の交流を始めたのも、おそらく、英会話スクールを経営してるので、金があるんじゃないかって思ったんだろうってのは、まあ、疑うもなにも、本当だと思いますけど・・(汗)
もちろん、本人はそんなそぶりは微塵も見せませんけどね、そりゃあ・・
愛だの何だの言っても、結局、腹の底でマジで疑ってるので、ちょっとした言動にそれが表れてしまいます・・(汗)
それで、ひょんなことから、「私からお金はとれないから、それでもよいなら」みたいな、ま、そんなストレートには言いませんでしたけど、そんなことをついつい言ってしまった時
「そんなこと、一言も言ってないでしょ」と言われ、確かに、自分の本心が口をついて出てきてしまったことに気づきました・・
私は言いました。
「疑ってしまってごめんなさい。疑うのは、自分を守ろうという行為だと思う。信じてしまうと、自分に不利益をこうむりそうなので、自己防衛のために疑うのだと思う。人を本当に信じるというのは、信じてしまったら、自分が損をするかもしれないが、それでも、あえて、自分が損してもいいから、その人を信じてみようという、ことであって、自分を犠牲にする程の覚悟があってこそ、本当の愛(隣人愛)だと思う。疑ってごめんなさい。」
その人はやっぱり私をだまそうとしてたと思いますけど(事実として)そこで、一瞬言葉につまって、沈黙の時間が流れました。
なんの犠牲も払わずに、ただ誉めてあげるのは、以外と簡単です♪
何も損しませんから♪
でも、自分が多大な損をしそうな境遇においても、あえて、「だまされて損をする」という危険を冒しても信じてあげる、というのが愛であり、それをしてあげてこそ、人は「愛を知る」のでしょう・・
いつも万引きの常習犯の子供がいて、その子に盗まれないようにいつも人が用心しているような状況の中で、そして、また明らかに万引きしたような状況の中で、おまけに、みんなが「どうせまたあいつがやったんだろう」みたいな空気になっているときにも「そんなことをするような子じゃないって信じてるよ。万が一やってりしまったんだとしても、きっとそれなりのやんごとなき事情があってのことだろう」って本気で思っている人にであったら、その人との出会いは、どれだけその子の人生を変えるだろうか・・
勉強もしない、仕事もしない、一日中寝て食べてゲームして・・
学歴もなければ、職歴もなく、年ばかりとっていく・・
誰だって不安になります・・
「このまま一生自分で生きていけなかったらどうしよう」
「このままだと仕事も一生できない」
「近所の人や親戚はどう思うだろう」
普通はそう思ってしまうのもまあ、当然かもしれません・・
けど、
「必ず、大物になる!」
「今はただ、お休み中なだけ」
と、根拠なく、深層心理の奥底から全く疑わずに、本気で信じてあげるとき、
意外と人って、
「あなたのこと信じてるわよ!」とか力入って勇気づけたりしないで、
意外とのんびりかまえて、ゆっくり生活するもんじゃないのかなって・・
だって、この人、今にしっかり働きだすんだから・・
「仕事始めたらなかなか休めないから、今のうち休んでた方がいいよ」
くらいのコメントがでちゃうものなんじゃないかなって・・
自分が世間からどう思われてもかまわない、一生この人の分まで働かされてもかまわない、とにかく信じて疑わず、希望を「本気」でもつとき、人ってガソリンとしての「愛」をガソリンタンクにためていくのかな、などと思った・・