牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

4月1日(月) 「栄えに満ちた喜び」 D・M・ロイドジョンズ著  地引網出版

2013-04-01 07:59:58 | 日記

 今日から4月が始まった。埼玉の教会の牧師を辞任し北海道に移って来てから丸半年が経過した。早いものである。 土曜日に吹雪いたので驚いたが、北海道もようやく春らしくなってきた。

 昨日はイースター(イエス・キリストの復活)を教会でお祝いしたが、この後のキリスト教の祝祭はペンテコステ(聖霊降臨祭)である。これはイエス・キリストの十字架&復活に次いで非常に大切である。キリスト教において大切な祭りは、クリスマス(イエス・キリストの誕生)、イースター(十字架を含む)、ペンテコステである。すべてのクリスチャンがイースターの後は、ペンテコステに備えるべきである。しかし、残念ながら日本のキリスト教界では聖霊の働きが軽んじられている傾向にある。ロイドジョンズ師の素晴らしいところは福音派でありながら、聖霊の働きを大いに強調していることである。聖書(みことば)と聖霊のバランスがとれている卓越した説教者である。

 本書は、著者の「聖霊論」「聖霊の教理」が説教という形で語られている。副題は「聖霊のバプテスマとは何か」。著者は新生(救い)と聖霊のバプテスマを明確に区別している。聖霊の働きがなければ新生できないが、聖霊のバプテスマを受けなくても新生できるということを最初に立証しようとしている。

 本からの引用。「リバイバルとは何か。リバイバルとは、教会が使徒の働きの時代に戻ること、すなわちペンテコステの繰り返しである、と定義するのが最適だろう。それは、聖霊が再び教会の上に注がれることであり、この教理の極めて重要で本質的な部分である。」

 「使徒書簡のすべての教えは、使徒の働きで起きた歴史を前提とし、それを土台としている。言い換えれば、新約聖書の書簡を理解する唯一の方法があるのだ。それはこうである。神は聖霊を注ぐことで教会を始められた。だから、新約聖書の教会は、聖霊のバプテスマを受けた教会である。新約聖書のすべての教えは、そのことを前提としている。しばしば、今日の教会の多くはその様ではない。教会は、その長い歴史の間、その様でないことの方が多かった。今日もその様ではない。しかし、これが教会のあるべき姿なのだ。」

 今日の日本の教会の多くは、著者が指摘しているように、使徒書簡を使徒の働きを土台にして解釈できていない。使徒書簡を使徒の働きと切り離して解釈し説教してしまっているのである。その結果、キリスト教と教会にとって非常に大切である「聖霊の働き」を消してしまっている。これでは真に聖書的な説教とは言えないであろう。聖霊論を強調することによって聖書を軽んじるということでは決してない。聖書と福音(みことば)を純粋に解釈することによって、自然と聖霊の働きがクローズアップされてくるのである。著者はイエスの働きについて言及している。

 「神はイエスに聖霊を送られた時、ヨルダン川で彼に証印を押されたのだ。イエスはそこで聖霊を無限に受けられたのである。何のために。ここに核心がある。主はそこで公の宣教を始められた。彼は一人の人間として生活をし、大工として働いておられた。しかし、三十歳になられた今、宣教を始められた。私たちは次のように教えられている。彼は永遠の御子であったにもかかわらず人となり、この世で人としての生活をして来られたので、無限に豊かな聖霊を受ける必要があったのだと。そこで神はイエスに聖霊を与えられた。聖霊が彼に下ったのだ。だからこそ、主は「御霊に満たされ」、「御霊の力を帯び(ルカ4:14)」て宣教に出かけられたと書かれているのだ。イエスは言われた。「福音を伝えるようにと、私に油を注がれたのだから。」 言い換えるなら、イエスは、聖霊の注ぎなしに救いの福音の証人、説教者、証言者として働くことはできなかったのである。これこそが聖霊のバプテスマの目的であることを、あなたが納得するようにと私は願っている。」

 主イエスでさえ、聖霊が必要であったのに、私たちに必要でないということがあり得ようか。あり得ないのである。もちろん私にも絶対的に必要である。イースターが終わり、ペンテコステに備える今、聖霊のバプテスマ(浸し、満たし)を求めていきたい。