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妄想寝台特急

夢と現の境界は意外にあいまい。深い森へのいざない。

装う

2010年01月22日 | Weblog
女装をしている人を見かけた。


ちょうど電車の座席の対面に
「彼女」は座っていて、自分の最寄りの
手前の駅まで乗っていた。


白っぽいブラウスにショールのようなものを羽織り、
フリルがついた黒いスカートにタイツを履いて
ロングブーツにピンクのバッグ。
肩までおろした髪に
手にはマニキュアが施されていた。


思えばこういう装いが許容されるのも、
人口が多く匿名性が高い
都市部特有の現象なのかもしれない。


山の中で女装をしている人を
見かけたことは無いし、
田舎だと人の絶対数が限られてしまい
人物が特定できてしまうリスクが高いだろう。


自分の周囲に話を聞いてみると
皆、意外によくそういう光景に
出くわしているようだ。


実はもっと多くの人と日常すれ違っていて
単に自分が気づいていなかったのかもしれない。
そう思うと女装人口というのは
いったいどれくらいのものなのか。


女装をする人は
趣として女性の装いをすることを専らとして
基本は男性がベースにある。
この点においていわゆる「女性を志す人」とは
一線を画しているようだ。


しかし、今回なぜ女装であることに
気がついたかというと、
その顔である。


着けまつげをして
ファンデーションでひげを上手に隠し
きれいに口紅を引いているのに
なぜか出来上がっているのは
微妙におじさんの顔なのだ。


女装も世間に認知されてきているようだし、
今ではネットを通じて愛好の士が
情報交換をしているだろうから
もう少し化粧の技術向上がなされていても
おかしくない。


化粧が下手だった、と
思えば済む話かもしれないが、
ふと、待てよ。


むしろ、それは
わざとなのかもしれない。


あまりに完璧に女装が施されてしまうと
却って気づく人は少なくなる。
街のありふれた風景の一部に同化してしまう。


一方で本来の素性は知られたくない。


自己の存在は気づいてもらいたい。
だけど、個としての自分は知られて欲しくない。


何か裏腹なものを抱えた、
微妙なバランスの上に
成り立っているものがあると思うと、
なかなか隅に置けない心理のような気がする。



抗う

2010年01月13日 | Weblog
最近ニガテなもの、抗菌。


それは電車の駅構内にあった。


エスカレーターの手すりのベルトに
「手すりにおつかまりください」と白文字で書かれ
一緒に黄色い円で小さく「抗菌」と。


まぁ意図としてはわかる。


エスカレーターで
滑ったり転んだりする事故が多いので、
ベルトに掴まらせるための一計を案じたのが
その表示。


言わんとするところは
恐らく「汚くないです。だから掴んでください」
みたいなものだろう。


しかし、どうかね。


その言葉が示すところの「抗菌」は
あくまでも「菌」に「抗う」だけ。
「殺菌」でも「滅菌」でもなんでもない。


鉄がさびにくい、だからステンレスです、
と言っているようなもので
その本質である素材は変わりが無い。
何かをごまかしているように思えるのは
考えすぎだろうか。


そういえばしばらく前だが
『サルでもできる弁護士業』という本が出ていたのを
思い出した。


内容は読んでいないのでよくわからないが、
そのタイトルを見て、へぇ、と感心した。


サルに何かさせるのはかなり難しい所業だ。
例えば猿まわし。


そもそも芸事をすることとは無縁の、
本能で生きているサルを
人間の鑑賞に堪えうるものにするのだから
猿まわし師がかける努力は並大抵のものではないだろう。


複雑で深い知識と判断を要する
法曹の世界おいても、
サルに弁護士業をさせるというのは
かなり高度な技術といえよう。


弁護士となるために
どれほど多くの人がそれを難関として
挑んでいることか。
それをサルにさせようというのであるから
よっぽどの秘術が書かれているに違いない。


しかし、ふと考えてみると
それは本当だろうか。
必ずしも「サルでも取れる弁護士資格」とまでは
書いていない。
あくまでも「弁護士業」としかない。


総体的に組織として「業」が成り立てばよいので
サルは「弁護士のアシスタント」であってもいい。
そうすればかなり難易度は下がるのではないか。
例えば手紙の開封とか。


しかし、であれば何故ゆえにそこまでして
サルに弁護士業に参加させるのだろうか。


人間ではなくサルである特別な理由。


やはりよっぽどの秘術が書かれていると思うのは
考えすぎだろうか。



カラート・アル・ホスン

2009年12月29日 | Weblog
ホムスの街のバスターミナルは
雑然としていた。


今日の目的地、
「クラック・デ・シュヴァリエ」と
フランス語っぽいその読みを
伝えてもどうやら通じない。


四苦八苦していると
男の子が「ホスン・キャッスル!」と言いながら
こっちだと手を引っ張った。


ミニバスに押し込まれ、
手柄に何か物売りをするのかと思ったら
握手をしてそのままさっさと立ち去った。
疑った自分が少し恥ずかしかった。


満員になると間もなく出発し、
街はずれからスピードを上げた。
その時初めてバスの中に
一種の緊張感があるのに気がついた。


それをもたらす主は自分だった。
皆、直視はしないが
意識が向いているのがわかる。


東のほうの国から来たらしい、
明らかに違う顔立ちをした者に
興味津津なのだ。


緊張を破ったのは
となりに座った男性からだった。


中国人?


いえ…日本人です。


どこに住んでいる?


東京です。


どこに行こうとしている?


ホスンの城です。


一人か?家族は?兄弟は?
なぜシリアに来たのか?
いつまでいるのか?


一通りの「尋問」が
都度アラビア語で周りに訳され、
バスに乗る全員に自分の素性が知れ渡る。
その度ごとに緊張が少しずつ解けていく。


ホスンの城は自分の家の近くだから
案内してあげるよ。


男性の名前はアルさんといった。


ホスン城はその昔、
十字軍がエルサレム攻略のために
構築した要塞だ。その後、イスラムに征服され
そして遺跡となった、立派な砦である。


城の屋上からは
荒涼とした濃いベージュ色の丘が広がり
遠く地中海まで見渡せそうなくらいだった。


反対側に回ると
すぐ下に小さな集落が見下ろせた。


ほら、あれはキリスト教の教会、あっちはモスク。
アルさんが指さす。
十字の尖塔が集落に2つ3つ見えたのと同時に
モスクのドームようなものも垣間みれた。


その光景に強い衝撃を受けた。


小さく身を寄せ合っているような建物の間に
キリスト教の教会とモスクが混在し、
まるでモザイクのようになっている。


イスラムとキリスト教、その争いの歴史は
教科書にもしっかり書かれている。
この遺跡自体も十字軍といういわば宗教戦争の産物。


自分の知っていたことはほんの一つの断片。
何か勝手な思い違いをしていたような気がした。


アルさんはさも当然のように自分の家へ招き、
さも当たり前のように泊まっていけという。
食事の時間になると、
彼の両親や姉、妹を紹介され、
その後は親戚やら、かわるがわる来訪者があり、
最後は歌と踊りでもてなしてくださった。


アルさんは三男で、上の兄たちは
どこかのアラブの国に
出稼ぎに行っているらしい。
彼だけ髪が金色に近く、
眼は少し青みがかっていた。


地図を広げながら
シリアの各地のことを説明してくれた。
そしてエルサレムの場所に指をあて
「君はこの土地のことをどう思う」と尋ねてきた。


ええと…。


言葉に詰まった。
自分はそのことを意見する立場には全くなかった。


翌朝、仕事があるからと、
アルさんは余計な感傷もなく
さっと出かけて行った。


妹さんやご両親にあいさつをして
ホムス行のミニバスを待つ。


それにしても明るく乾いたいい天気だ。
なだらかに波打った大きな丘をゆっくりと越え、
バスは東へ東へと進んでいった。



何がジェーンに起こったか

2009年12月19日 | Weblog
怖い映画を観た。


『何がジェーンに起こったか』という
もう40年以上前に作られた
サスペンス映画で、しかもモノクロ。


怖かった。本当に怖かった。


何がって?


主演のジェーン役だった
べディ・デイヴィスという女優が。


主な登場人物は
ジェーンと姉のブランチのほぼ二人だけ。
ほとんど彼女らの家の中で
話が進む。


筋書きはさておき、
ベティの演じるジェーンは
まぁそれはもう狂う、狂う。
常軌を逸した狂いっぷり。


あのジェーンの大きなギョロっとした目と、
モノクロでさえもよくわかる肌の白さが
とんでもない対比になって
要所要所のシーンで見せる彼女の形相が
しっかりと焼きついて離れない。


あれが夢に出てきたら悪夢だ。
いや、絶対に出てきて欲しくない。


あの演技は本当に「演技」なのだろうか。


姉役のブランチを演じた
ジョーン・クロフォードという女優とともに、
当時既に50を過ぎ、
二人は女優として再起をかけた
作品であったらしい。


しかしそんな事情を入れなくても
何か真実に鬼気迫るものがあった。


実は本当に彼女は実生活でも
そんな感じなのではないか。
そう言われてもまったく納得がいく。


その昔、死んだ祖母が
テレビを見ながら
いつも嫌味な役を演じる杉村春子に向かって
「この人、キライよ」とつぶやいていたのを
思い出した。


あぁ、それと一緒なんだな。
妙に合点がいった。


俳優のスキャンダルやゴシップが
いつも世間を賑わすのは
「テレビや映画の枠の外ではきっと違う人格だ」という
暗黙の前提があるからだろう。


言い方を変えれば
「演じる姿はかりそめであり、本当の姿は別にある」という
人々の勝手な思い込み。
その姿を知りたい、もしくは
知ったときの意外性が人の興味を引く。


一方で、観る人に
そういう疑いの余地を与えてしまっているのは
その役者のせいでもあるともいえる。


きっと祖母は杉村春子が悪女であると
信じたまま世を去ったのだろう。


観る人にそう思い込ませるくらい
その役柄を演じ切れたのであれば
女優としての冥利に尽きる。


ベティ・デイヴィスも
そういう女優だったのかもしれない。


しかし、それにしても
怖い映画だった。


しばらくしたら、きっとまた観ると思う。
間違いない。



孤独を知る

2009年09月17日 | Weblog
朝の通勤電車で泣いている男の人を見た。


普通にサラリーマン風の
30代くらいの人で
ドアにもたれて
嗚咽もせず、静かに涙を流していた。


ほとんどの人が気づかないくらいだっただろう。


車内に涙を誘う光景は
特に見当たらない。


通勤途上というなかで、
なおかつ男の人が朝っぱらから涙を流しているのは
明らかに違和感があった。


きっとこの方は「何か」を
思い出していたに違いない。


ところで思い出すといえば、
学生のころ、友人に
何気なく問いかけてみたことがあった。


大人になるってどういうことなんだろうね。


孤独を知る、ってことじゃない?


いともあっさりと、
思いもかけない答えだったので
そのときは「へぇ、上手いことを言うね」
と、わかったようなふりをしていた。


しかし、大人になって孤独を知るということ自体が
本当にどのようなことを意味しているのか。
うまく自分の中で消化しないまま
なんとなくやり過ごして来てしまった。


思えば人は子供から大人になるにつれ
いろんな「顔」を持つようになる。


周囲の誰もが知る子供としての顔から始まり、
小学校に入れば、生徒としての顔、
習い事、部活、大学、サークル、
そして社会に出れば
同僚・上司・部下、恋人、夫・妻、親・・。


さまざまな場面に接するごとに
その関わりがある人たちに
見合った「顔」をつくっていく。


まるで岩が削れて
ごつごつした多面体になるように。


人はそうやっていわば
環境や組織に適合していく
社会性というようなものを
獲得していくのだろう。


ただ、もしかしたら
そうしていくうちに、
誰も知らない、誰にも見せていない
その人自身だけが知りえる顔も
できてくるのかもしれない。


だとしたら、
あの車中で泣いていたあの彼は
その「誰にも見せていない顔」を
見せていたのだろうか。


大人になるってどういうことなんだろう。


「誰も知らない自分の顔」があることを
自分自身が知ってしまったこと。
それが何か物哀しい孤独のように
思えてならなかった。