技法・体感・体解・体得

開祖直弟子である師匠の末席末端弟子が技法を伝承・継承すべく
研究、研鑽、修行中の個人見解ブログ

激励洗礼

2015年02月13日 | 道院修練
先生の所に在籍中の話だが
独立(設立)する御二人が
先生から激励の意味を込めた
洗礼を受けたのを見た。

この激励とも洗礼とも思っているのは
私の勝手な解釈なので他の人の感想は
どうであったのか?聞く手立ても
今や無いのだが私的には先生は洗礼をしたのだ!

と思っている。

どう言う場面であったのか?詳細は
記憶の彼方だが御一人は挟受をされ
その刹那に後方へ飛ばされていた。

しかし初期の先輩方は鍛え方が違うようで
しっかりと受身を取って起き上がったのは流石だ。
(この方は今も道院長)

もう御一人は投げた後に裏固をされ
当身、引き起こされて普通は手で
手を払うのだが何故か?この時、先生は
足刀で肩口をバ~ンと後ろに蹴り放した。

その勢いで遠くへ・・・転がったが
これまた同様に初期の先輩方は
修行の度合が違うのか修練の賜物か
受け身をしっかりとされていた。

この方は仕事の都合で(交代者もおらず)
数年後に廃院されたが昨年早々に
40代の同市在住で同市に隣接する
道院出身の方が同じ地に設立している。

私は1度外に出てからの設立だったので
こうした激励洗礼は受ける事なく済んだ?が
在籍していれば当然、激励洗礼を浴びた?受けた?

で、あろう。

今から思うと・・・
それを受けられなかったのは
誠に残念な事だ。

それにしても板の間でこれをするのは
何とも当時の様子が垣間見えて嬉しく?
今になって思えるのは何故だろう?

私は畳だから大丈夫だろう?と思いつつも
受身をちゃんとするだろうなぁ~と少なからず
頭の中を過り手心を加えているのを感じるわけで
板の間であれば当然の如く斯様な事は出来る筈もない。

だが修行者であれば斯様な場面でこそ
普段の修練の成果を無意識に自然に
出せない様では身に付いていないと思う次第だ。


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採点できるか?

2015年02月05日 | 道院修練
道院の修練終了後に門下生と話をしていて
思い出した話なのだが昇格担当だった時に
何段の実技試験だったかは忘れてしまったが
抽出科目の実技を開始した直後に

(気が付かなかったのだが・・・)

(当時、受験者が多い時は1人で実技試験を見る
 場合もあったので実技の採点に注力しており
 気が付かないのは当然と言えば当然だが・・・)

先生が

”す~っ”と側に来ていて

「止めさせよ。出来ていないのに採点が出来るか?」と。

おぉ~厳しい事を・・・

試験は出来ていれば合格。
出来ていなければ無論、不合格。

だが人を先々に措いて育てると言う意味で
何とか合格ラインに達するようにしてあげる。

と言う事が根底にあるのだが

また、先生も常にそう言っていたが、この時は
何故か?相当に出来が悪く見えたのか?
本当に悪いのか?何とも手厳しい話。。。

1組を前に出させて技を行わせてから
(何の技だったかは覚えていないが)

「どう習って来たのだ?それで倒れるか?」

「これは君達が悪いのじゃない教えた者が
 ちゃんと理解をしていないからだ。」

ふむふむ所属先の道院長先生が悪い?
ひょっとすると自分の事も含まれている?
(多分?そう言う事だろうとは思う)

「そして君達がまた下の者に同じように教える。」

他にも色々と叱責されていたが記憶に
留まっていないので書けないが
自分も反省すべき内容だっのは確かだった。

これは先生だから言える事ではあるだろうが
反省すべき点もある。

最近は

お山の大将?宜しく俺が俺がと言う
教え魔が多いが先生が言うのは仕方がないなnose4
第一、内容が違うのだから・・・

レベル低下を危惧して或は元はどうであったのか?
どう言う場面を想定して作られた技なのか?
その辺が既に当時から曖昧になって来ていたと
これは証拠とも言えそうだ。

開祖が存命中でも起きていた事象ではあるが
ここ数年は更に顕著になり俺流を加味した指導が
罷り通り過ぎ?原点が薄れてしまったと思える。

そのまま継承するのは何とも難しい事だろうかexclamation

さて、その時の受験拳士達の結果だが

全員を合格にした。

先生から叱責されて各人が反省すると共に
各道院に帰り新たに追求すべき事が
分かったであろうと思ったので。

だが、これらは指導している道院長:幹部拳士に
本当は話をして欲しい内容だったかと・・・

これは確か本部講習会での班別討議の際に
故近藤道文先生から直に聞いた話だが
七段の試験の時にひょんな事から
日本の将来について開祖と議論になり
実技試験もそこそこにその話で終わった。と・・・

試験中に斯様な時間を取るのは今や杓子定規で
事務的になった現状では難しいが説法は場所も
時間も問わないと思うのであれば(そうあるべきだが)
本来は行うべきだと思う。

人を育てる拳法なのだからgood


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