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反戦歌&プロテストソング特集

2021-08-19 17:09:50 | エッセイ(音楽)
コミュニティーカフェ・スマイルの「平和がいちばんコンサート」に参加し、反戦歌やプロテストソングを5曲演奏しました。
近頃ではあまり歌われなくなったけど、僕としてはたいへん思い入れの深い曲ばかりです。世界平和は、いつの世にも恒久のみんなの願い。これからも大切に歌い継いでいきたいと考えています。

それぞれの曲について、簡単な解説を加えつつ、歌に対する想いを述べてみたいと思います。
青文字で書かれたURLをクリックすると、Youtubeの演奏動画が開くようになっています。


1. イマジン (日本語版)
https://youtu.be/jQHNeOe1cQE

まずはジョン・レノンの「イマジン」。
歌詞は相方のユミさんと相談しながら、自分たちなりに翻訳しました。
天国なんてない。地獄もない。僕たちの上には大空が広がり、ずっと世界中につながっている。
宗教もなく、国境もなく、貧富の違いもなく、武器もなく、戦争もない。・・・そんな世界は絵空事かもしれないけれど、ただ想像するだけでも心が安らかになれる。
世界中のみんながそういう気持ちになれば、少なくとも戦争はなくなるのではないだろうか。

オリンピックを見ていて思ったのだけど、マスコミは自国の選手を応援することばかりを煽り、自国のメダル取得数ばかりを報道する。スポーツという枠での国同士の戦い。なんでこういうことになるのだろう。
日本人選手はよく「日の丸を背負って」という言葉を口にするが、そんなもの背負わなくても、自分自身が世界一になることを目標に頑張れば良いではないか。
観戦する側も、国籍なんかにとらわれずグローバルな気持ちで、素晴らしいプレーをした選手に拍手を贈れば良いではないか。

「イマジン」は、中学生の頃にラジオで聴いて以来、現在に至るまで、ずっと大好きな曲。今回は世界平和を心の中で祈りながら、ゆったりしたリズムで演奏しました。

2. 大統領殿
https://youtu.be/nsfHlvs8iho

元はフランスの歌で、作家・詩人・ジャズトランぺッター・シンガーソングライターとして活躍したボリス・ヴィアンの作。
原作のタイトルは「脱走兵」との意味だが、日本では高石友也が「拝啓大統領殿」と翻訳して歌い、フォーク・クルセダーズ時代の加藤和彦なども、同様の歌詞で歌っていた。
また、日本のシャンソン歌手が別の訳詞で歌っている例も見られ、なんと、あの沢田研二も歌っている。(Youtubeにアップされています。これがすごくカッコイイ。)

僕は、加藤和彦のバージョンが好きで、今回はこれを手本としながら、ちょっとシャンソン風のコード進行を加えてみた。
戦争で両親を失った青年が徴兵令状を受け取り、それを拒否して逃げ出そうとするストーリー。人を殺すくらいなら、自分が殺される方がいい。「憲兵たちよ、撃つがいい」という最後の一節に、作者の強い情念が感じられる。
「戦争反対!」と声高に叫ぶような反戦歌が多かった中、「僕は逃げる」というきわめて現実的な反戦行動に、当時中学生だった僕は何とも言えぬ衝撃を受けたものだった。

3. 腰まで泥まみれ
https://youtu.be/n4uRGce29Hw

ピート・シーガー、1966年の作。シーガーはこの歌をコンサートや反戦集会などで歌い、1967年には人気テレビ番組の収録で歌ったが、放送局幹部の判断で全面カットされてしまい話題となった。
泥沼化していくベトナム戦争を象徴した歌詞とされ、隊長が断固「進めー!」と叫ぶ姿は、変わりゆく情勢などを顧みずに戦争を継続しようとする米国政府を揶揄したもの。歌詞の中で、撤退を進言する軍曹に対して隊長が「Nervous Nelly(臆病者)」と叱責するところがあるが、これは当時のジョンソン大統領が戦争への批判に対してよく口にした言葉だと言われている。

日本では、1967年のピート・シーガー日本公演でこの曲に接した中川五郎が、すぐに訳詞を作って歌い始めた。このとき中川はまだ18歳。その後、先輩フォークシンガーである高石友也や岡林信康などによってカヴァーされ、1970年安保闘争関連の集会などでも、よく歌われるようになった。

おとぎ猫では、これまでにも何度かこの曲を演奏しています。やるたびに違った感じになるのだけど、今回はちょっとゆっくりしたテンポになりました。

4. 死んだ男の残したものは
https://youtu.be/An_LZOxbuDQ

ベトナム戦争さなかの1965年、詩人の谷川俊太郎が「ベトナムの平和を願う市民の集会」に寄せて詩を書き、クラシック音楽家の武満徹が曲をつけたもの。最初はバリトン歌手によって歌われたが、その後に高石友也が歌い、他にも小室等、石川セリ、カルメン・マキ、森山良子など、数多くのミュージシャンによってカヴァーされている。

とにかく、詞のインパクトが凄い。「墓石ひとつ残せなかった」なんて、普通では思いつかないな。さすがは詩人!と思わされるフレーズが随所に散りばめられ、全体としては戦争の悲惨さや無慈悲さを切々と物語っている。
ベトナム反戦に向けて書かれた歌だが、思い起こされるのは日本の敗戦直後の風景。「墓石」「着物」といった言葉が、それを連想させるのだろう。また「ゆがんだ地球」は核戦争後の世界を思わせる。唯一の核兵器被爆国として、わが国から世界に向けて発信されるべきメッセージソングではないだろうか。

この曲は他の出演者の方も歌われると聞いていたので、ちょっとアレンジを工夫して、オートハープを中心とする演奏にしました。
ユミさん、渾身の熱唱。その表情にも気迫がこもっています。

5. 風に吹かれて
https://youtu.be/ERhomvMrGlo

ボブ・ディランの代表曲。歌詞は中川五郎さん訳詞のもの。
中川さんは「blowin'」の現在進行形を大切にするとのことで「風に吹かれ続けている」と訳されている。題名もそのように表記するべきかと迷ったが、中川さん自身も「風に吹かれて」と表記されていることもあるので、今回はこちらの邦題を用いた。

中川五郎さんは、ライブのMCで次のように語っている。
「その答えは風の中に舞っていて、いつまでも掴むことができない」という歌かと若い頃は思っていたけれど、いや、いつまでも舞い続けているのならば、その風の中に自分自身が飛び込んで行ってもっと大きく手を伸ばしたら、しっかり掴めるじゃないか。ボブ・ディランは、きっとそういうことを言いたかったんじゃないかと、最近になって考えるようになった。

さすがは50年以上にわたってボブ・ディランを歌い続けている中川さん。なるほど、そういう解釈なのかと納得し、僕らも前向きな気持ちで、この曲に取り組んでみた。
わが国ではPPM(ピーター・ポール&マリー)がしっとり美しいハーモニーで歌っているバージョンでよく知られているが、頑張ってみてもこんなにきれいにハモれるわけはないし、今回は中川さんのライブバージョンに近いアレンジにしてみた。

最後のほうではシュプレッヒコールのようなサビの繰り返し。これは、学生運動当時のフォーク集会をイメージしたものです。
さあ、みんなで風の中に飛び込んでみようよ。そういうメッセージを込めて歌いました。

6. We Shall Overcome (大きな壁が崩れる)
https://www.youtube.com/watch?v=cAAgP58l0ok

これは「平和がいちばんコンサート」収録のものではないが、シリーズの締め括りとして掲載したいと思う。
この曲のメロディーは古くからある讃美歌で、黒人労働者たちの間でゴスペルのような感じで歌われていた。
元は「we will overcome」だったのだが、この曲を聴いたピート・シーガーが「we shall ~」に改め、歌詞も付け加えて広めたものとされる。
「we will ~」だと単なる未来形だが、「we shall overcome」では「必ず乗り越えよう」という強い意志を表すようになる。

日本では「勝利の日まで 闘い抜くぞ~」と翻訳され、労働運動や学生運動などでよく歌われていた。
以前からこの曲をやってみたいと考えていたのだが、どうも既存の日本語歌詞が気に入らない。「overcome」の対象は、「この闘い」とかいう個別のものでなく、もっと大きく、僕たちの前に漠然と立ちふさがる強敵のように思えたのだ。
「勝利」ではなく「乗り越える」というようなニュアンス。そうして訳詞を始めたのだが、なかなか上手い言葉が思いつかず、お蔵入りとなってしまった。
それから数年後、中川五郎さんの訳詞に出会った。
「大きな壁が崩れる」あ、これ、ええじゃないか!
そんなわけで、中川さんの訳詞に、最後だけ英語の原詞を付けて歌わせていただきました。

「大きな壁」は、人種や民族の違いであり、イデオロギーの違いであり、金持ちと貧乏の違いであり、宗教の違いであり、・・・いろんなものを分け隔てる無用な壁があるのなら、みんなでぶつかり崩して取り去ってしまおう。
また、僕たちの前に「大きな壁」が立ちふさがり、行く手を阻まれているのだとしたら、それを打ち崩して自由を手に入れよう。今、コロナ禍で喘ぐ僕たちには、そちらのニュアンスの方がぴったり来るのかもしれない。
世界中のみんなが同じ気持ちで向き合えば、戦争は起こらないだろうし、差別はなくなるだろうし、きっと地球温暖化や気象災害や感染症にも打ち勝っていけるだろう。
「イマジン」でジョン・レノンが語っている理想的な世界。それは「大きな壁」が崩された世界と同じものかもしれない。
そうした理想的な世界に少しずつでも近づいて行けるよう、地球市民のひとりとして、強く願ってやまない。

7. ダイジェスト動画、母の手記

今年の「平和がいちばんコンサート」には15組の方々が参加され、それぞれ別々に動画を収録して、8月8日に一斉公開されました。
この日のために15組出演によるダイジェスト版の動画が作成されています。とても上手く編集されており、出演者皆様の想いがよく伝わってきます。
こちらです。
https://www.youtube.com/watch?v=3y8mrn6GYdM

おとぎ猫の全編動画はこちらです。
MC込みで約27分。もしお時間があればご覧になってください。
https://www.youtube.com/watch?v=vGT32Ghczdw

なお、MCでも紹介している僕の母の手記「戦争の思い出」は、こちらから見ることができます。
http://www.eonet.ne.jp/~hisa2/essay1.pdf

母は小学生の頃、大阪の大空襲を体験しました。慕っていた兄はビルマで戦死。少女目線で語られる戦時下の記憶はとてもリアルで、戦争を知らない僕たちにその恐ろしさを切々と伝えてくれます。
「自分の子や孫たちが、二度とあのような無残な体験をしませんように。今の平和がいつまでも続きますようにと、祈らずにはいられない。」
「あとがき」は、このように結ばれています。僕たちが当たり前だと思っている今の平和は、母にとっては特別なものなのです。

これを書いている今日は終戦記念日。戦争の犠牲となられた方々のご冥福を祈りつつ、真に平和な世界の到来を想い描いて、静かに合掌したいと思います。

  2021/8/15



還暦を迎えるにあたって

2019-01-22 22:19:06 | エッセイ


還暦――。えらい歳になってしまった。昔なら、ここまで生きたらまあ上等といったところだったのだろう。十干十二支がひと回りして、生まれた暦の位置まで戻って来たわけだ。
4月の誕生日で60歳になるのだが、マラソンに例えれば今ちょうど陸上競技場のトラックに差し掛かったあたり。あのテープを切ればゴールインかと思えば、「はい、2周目頑張ってくださいね」と手を振ってまた送り出される。2巡目のゴールはどう考えても無理なので、どこかの路上でぶっ倒れてリタイヤということになるのだろう。人生にゴールはない。あるのは自分自身が残してきたあやふやな足跡だけだ。

成人になってから早40年が過ぎた。その間にオリンピックが10回開催され、西暦は21世紀を迎えた。昭和は平成へと変わり、さらに新しい元号へ変わろうとしている。
元号が2つも違うってのは、昭和から見た明治みたいなもので、ずいぶん古めかしい感じ。しかし僕はいまだに徹底した昭和人間で、やっている音楽は昭和のものばかりだし、聴く音楽も読む本も、ほとんど昭和の時代のものだ。
平成は30年間も続いたのに、何となくするっと抜けて行ったような感じで、この時代を生きてきたという実感はあまりない。やはり僕には昭和の風景が懐かしく、特にその時代の音楽や文学作品、漫画などのサブカルチャーにたまらない魅力を感じる。

僕のやっていること自体は、高校生の頃とほとんど変わっていない。ギターやバンジョーを弾き、パソコンを使って将棋を指したり、こうして文章を書いたり、・・・使っている道具が違うだけで、やっていることは昔とまったく同じだ。
将棋はずいぶん弱くなったし、楽器の演奏もなかなか上達しない。加齢とともに学習能力は衰える一方で、上達どころか現状を維持するのが精一杯。ずっと昔に覚えた曲は歌詞やコードをしっかり思い出せるのに、最近覚えた曲は1週間も経てばすっかり忘れてしまっている。昨日の夕食に何を食べたかも覚えてないくらいなので、まあ仕方ないか。
しかし、失ったものがあれば、新たに得たものもある。今の僕は、かつて高嶺の花だったマーチンやギブソンのギターを弾き、ライブハウスなどで演奏させてもらい、気の向くまま好きな音楽を楽しんでいる。高校生の頃のバンド仲間とは今も親しくしているし、新しく知り合った音楽仲間もたくさんできた。
高校生の頃は女の子と一緒にフォークソングを歌うことに憧れていたのだが、その夢も今頃になってやっと実現した。(笑)

冒頭の画像は、フェイスブックでの新年あいさつ用に作成したもの。「猪突猛進」をもじったものだが、「ちょっとずつ」の文字には、「無理せず、気楽に、マイペースで」という思いが込められている。ちょっとずつ、休み休みでも、気持ちだけは「猛進」の勢いを忘れずにいたい。
人生2巡目の節目にあたって、新たに決意することなど何もない。願わくは、子供に還ったつもりで、あの昭和の時代、青春時代に置き忘れたことをやり直してみたい。若い頃のようには急がず、一日一日をゆっくり味わいながら、定年退職後の余生を楽しく過ごして行きたいと思っている。


海への想い

2018-07-15 22:34:03 | エッセイ


 海の見える町で暮らしたことがないのに、潮風の香りに不思議な懐かしさを覚える。遠い先祖は海を渡ってやって来たんだなぁと実感する。

  やっと見つかった!
  永遠というもの
  没陽といっしょに去ってしまった
  海のことだ

 アルチュール・ランボーの詩の一節。青春多感なりし十代の終り頃、意味が分かったような分からないようなこのフレーズに、ひどく感動したことを覚えている。海に沈む夕日が見たくて、信州からわざわざ電車に乗って日本海まで出掛けたこともあった。
 水平線へとろけるように沈んでいく夕日。この壮大な光景が何十億年ものあいだ毎日繰り返され、さらにこの先も続いていくのかと考えると、まさに「永遠」という言葉が似つかわしく思えてくる。

 太古、最初の生命体は海で生まれた。生物たちは海の中を行き来しながら進化を続け、やがて陸上へと進出した。生物進化の頂点に立つわれわれ人類においても、その血液中の塩分濃度やカルシウム、マグネシウムなどミネラル成分の含有量は、海水とほぼ同じ割合になっているらしい。母なる海は今なお僕たちの体内にその根源をとどめ、生命の躍動を司っている。
 京都、松本、大津、守山と、海のない町でばかり暮らしてきた。そういう僕でさえ海に対して懐かしい親近感を抱くのは、遺伝子に組み込まれた遠い記憶のせいなのかと感じる。

 「海」という言葉の由来は、「産み」と関係しているのではないか? ふと思って調べてみたところ、そういう説もあるが有力ではないと記述されていた。「う」は「大きい」という意味で、「み」は水を意味するというのが定説らしい。また、古くは海のことを「ワタ」と言い、ワタツミ(海神)やワタライ(度会)などの語が今も残っている。「ワタ」は古代の外来語であり、朝鮮語ではpata(海)、オセアニア語ではwata(大海)、ハワイ語ではwaka(小舟)などの類似語が東南アジアから太平洋諸国に広く分布しているという。

 古代、日本人の祖先は広い海原を彷徨った末にこの島へたどり着き、その子孫はたえず海の恩恵にあずかりながらこの国の維持・発展に努めてきた。古くから伝わる祭事や祝儀などにアワビ、イカ、昆布など海産物を用いていた習慣が残されていることも、人々が海と共に生きてきたという証しだろう。
 異国からの侵略を受けず、鎖国政策を長く続けることができたことも、海で隔てられていたおかげだ。その結果、わが国独自の文化が生まれ、島国根性が育った。潮風や磯の香りに接していると、こうした長い歴史の先端に、いま自分がつながっていることを実感させられる。

 海の見える町で暮らしたいと思うことがある。琵琶湖のすぐ近くで暮らしているが、海と湖とは根本的に違う。川の水は山や田畑や町を流れて海へと到達し、やがて蒸発して雨となって地上に降り注ぐ。海はすべての始まりであり、また終着点でもある。
 海に沈む夕日を眺めて、永遠の時の流れを実感しつつ、今という瞬間を生きる偶然に感謝したい。海への想いは尽きない。

神田川

2017-12-27 18:17:25 | エッセイ(音楽)


 「後世に残したい昭和の名曲」なんてテレビ番組ではたいてい上位にランクインする、かぐや姫の「神田川」。その歌の舞台は、おそらくこんな所だと思う。
 もっと大きな川を想像する人もいるかもしれないが、早稲田大学に近い高田馬場辺りの街中を流れている神田川はこんな感じらしい。この写真は、都内在住の友人が数年前に撮影したもの。さすがに「三畳一間の小さな下宿」はないだろうけど、今でもこういう建物が残っているとは驚きだ。

 汚い川に安下宿、同棲、銭湯通い、テレビなんてないから絵を描いたりして時間をつぶしている。たまらなく貧乏で虚しい。それでも二人で過ごしているのが幸せだった。安心感と不安感が隣り合わせに二人を包んでいる。こういう状況は悲しいまでによく理解できる。  
 僕が学生時代を過ごした信州の冬は、「洗い髪が芯まで冷えて」というくらいでは済まなかった。連れ合いを待っているわずかの時間に、濡れた髪はバシバシに凍結し、銭湯から下宿へと帰る道すがら、体中の骨の芯まで冷え付いた。
 僕が転がり込んでいた彼女の下宿は六畳一間。神田川の下宿より2倍も豪勢だ。(笑) しかし風呂はなく、トイレ、洗面所は共同。部屋にはテレビもなく、FMラジオばかり聴いていた。エアコンもストーブもなく、冬はずっとコタツに入ってた。彼女が中華鍋で(鍋といえばそれしかなかった)インスタントラーメンを作り、二人で仲良く啜った。デートといってもお金がないので、本屋で立ち読みばかり。そんな貧乏生活ではあったが、なぜか毎日が充実していた。「神田川」の歌を聴くたび、若かりし日々を思い出しては涙が出そうになってくる。

 さて、「神田川」の話に戻る。この歌に地名が登場するのは、2番の「窓の下には神田川」というフレーズ、この一回だけなのだが、そこで詞のイメージが一気に膨らんでいく。窓から遠くを眺めるのでなく、おそらく窓の直下に川が見えるのだろう。だとすれば、この写真のように川岸ぎりぎりにアパートが建てられているはずだ。部屋から見下ろす川の流れは風流と言うには程遠く、窓を開けるとドブの臭いが漂ってくる。川面にはコーラの空き缶や軟式野球のボールや花火の燃えカスや、そういった文明生活の残骸が数々と浮遊し、ときには段ボールに乗せられた子猫が流されて来たりもする。そうした川の風景を横目で見ながら、若い男女は慎ましくも愛情に満ちた三畳一間の空間に閉じこもる。
 これが隅田川だと「春のうらら」だし、多摩川だったら巨人軍の練習用グラウンドを想像してしまう。「神田川」というたった一つの固有名詞が、この物語の背景を切なげに語っている。

 「神田川」の作詞者である喜多条忠は、「詞ができたよ」と言って南こうせつに電話を掛け、ノートに書いた歌詞を読み上げた。まだメールもFAXもなかった時代だ。こうせつはそれを聞いてメモを取っている間に、直ちにメロディーを思い浮かべたと言う。切ない歌詞と語りかけるようなメロディー、そして哀しみを誘うバイオリンの音色。すばらしい名曲だと思う。
 この曲は、南こうせつの優しく明るい声で歌われるから、ちょうど良い感じなのだ。暗く沈んだ声だと、ほんとに陰鬱な歌になってしまう。僕はギターでよくこの曲を弾いてみるが、自分で歌おうという気にはならない。あまりに好き過ぎて歌えない歌。

 今の僕は浴室もトイレも洗面所もある家に住み、風呂に行くと言えば車で日帰り温泉。箱の中でカタカタ鳴るような石鹸なんて使わない。シトラスやハーブの香りのボディーソープだ。部屋にはテレビもエアコンもあり、床暖房も入っている。妻は中華鍋のほか、さまざまな調理器具を使い分けて凝った料理を作る。二人の子供は社会人となり、僕はあと数年働けば退職金をもらって家のローンを完済。決して裕福ではないが、人並みに安定した生活には違いない。でも、その安定感が、何だかしっくりこないのだ。
 「若かったあの頃 何も怖くなかった」・・・失うものがないから怖いものもなかった。洗い髪を凍らせながら、互いの体の温みだけを頼りに寄り添って歩いた信州の夜。下宿へとたどりつき、コタツに入って熱い紅茶を入れ、一つのカップから交代で飲んだときのあの幸福感は、もう二度と味わうことができないのか。
 そんな学生時代を回想しながら、「神田川」のコードをアルペジオで弾き、心の中でそっと静かに口ずさんでみる。下宿の壁に付いていたシミの形までもが、はっきりと思い出されてくるような気がする。

(写真撮影:鎌田宏 氏)

「おとぎ猫」ライブ映像集 (2)

2017-10-20 22:05:54 | ライブレポート


 自分ではビデオを録ったりしないのだが、お店やお友達に録ってもらった動画が少したまったので、第2集を掲載します。
 曲名をクリックするとyoutubeの画面が開きます。

♪♪ 私を待つ人がいる (2017. 9. 3 スマイル「にちようライブ」)

 最近、ナターシャセブンの曲を演奏する機会が増えてきた。原曲はカーター・ファミリーの「There's Someone Waiting For Me」。
 オートハープのソロをドキドキしながら見守り、それが無事終わったあと僕は満面の笑顔。自分で見ても、けっこうおもろいです。(笑)




♪♪ 今宵恋に泣く (2017. 5.14 スマイル「アメリカンフォークを楽しもう!」)

 これもカーター・ファミリーの曲でナターシャセブンのレパートリー。原題は「I’m Thinking Tonight Of My Blue Eyes」。
 普通はもっと歯切れよく、アップテンポでやるものだが、ユミさんはゆっくり、まったりと歌う。彼女の声は、こういったスローバラードによく合っていると思う。
 ベースの野口さんは僕よりもひと回り年上の大ベテラン。大学のブルーグラスサークルで、城田さんや坂庭さん(ナターシャセブン)の先輩だったらしい。お若く見えますね!




♪♪ 異邦人 (2017. 7. 2 スマイル「にちようライブ」)

 この曲は最初「白い朝」という題名で、ピアノ伴奏だけでしっとりと歌われていた。それにあのエスニック風の凄いアレンジが加えられ、作詞作曲者の久保田早紀も「これが自分の曲か」と驚いたという。
 1番はオートハープの弾き語り。原曲「白い朝」は聴いたことないのだが、ひょっとするとこんな感じなのかも。
 エレ・ガットのギターを買ったのが嬉しくて、さっそく使ってみた。メロディアスな感じでやりたかったのだが、ガットギターの弾き方が分かってなくて、結局はスチール弦で弾いてるのと変わらない。(^^;




♪♪ この想い (2017. 9.18 スマイル「谷口伸司追悼ライブ」)

 谷口さんとは親しくしていただき、一緒に演奏したことも何度かあった。CAPOという男女ユニットを組んでおられ、ハーモニーがとても素敵。同じ男女ユニットとして、憧れの先輩だった。まだ2年くらいの付き合いだった。あまりにも残念。
 泣かずにやろうと思っていたのに、やるせない気持ちになってしまい、ギターの音が何だか重苦しい。隣を見ると、ユミさんは目を真っ赤にして歌っていた。こんなに悲しい気持ちでギターを弾いたのは初めての経験だった。
 原曲はトム・パクストンの「The Last Thing On My Mind」。




♪♪ 「いちご白書」をもう一度 (2017. 7.30 スマイル「フォークな仲間たち」)

 とても親しくしていた塩ちゃん。彼もこの夏、帰らぬ人となってしまった。彼とはあちらこちらのライブ会場で、一緒にギターを弾いて遊んだ仲。僕よりも一つ年上だった。ほんとに、早すぎる。
 今年の7月、次のライブでギターを弾かせてほしいと、塩ちゃんが言ってきた。もちろん僕らは大歓迎。でも、彼の方からそんな申し出をしてくるのは不自然なようにも思った。
 「これで最後にしようと思うんや。もうギターは弾かない」と彼が言う。
 「なんで? そんな寂しいこと言うなよ。病気をしっかり治してまた一緒にやろうよ」と、僕。
 「左手に力が入らなくて、ちゃんと押さえられないんだ」と彼は言った。「コードはうまく押さえられないけど、リードギターなら何とかなる」と。
 大丈夫だろうかと心配だったが、ライブ当日、彼は元気な姿を見せてくれた。
 「無理はしないでよ。軽く、それらしく弾いてくれたらいい」と僕は言ったが、「いや、大丈夫。思い切り力を振り絞って頑張って弾くよ」と彼は笑顔で答えた。
 この動画はそのときの映像。動きにくい指で精一杯弾いてくれた彼の渾身の演奏を、どうか聴いてほしい。




♪♪ さよならが言えない (2017. 1 サンライズ音楽広場)

 サンライズ・カフェでのセッション。このとき僕はバンジョーを持って行ってなかったのか、ギターを弾いている。
 リードボーカルはミヤコさん。女性二人によるハーモニーが、なかなか良い感じ。マンドリン杉野さん。塩ちゃんもいるんだけど、ギターのヘッドだけしか写ってなくて残念。


♪♪ 豊郷音楽祭 (2017.10. 9 豊郷小学校旧講堂)

 アニメ「けいおん」の聖地としても有名な旧豊郷小学校、ここでのライブ参加は3回目となる。
 今回の演奏曲は、
 1 アニメ “アルプスの少女ハイジ” より「おしえて」
 2 今宵恋に泣く
 3 生活の柄
 4 リターン・トゥ・パラダイス
 この動画には上記4曲が収録されている。
 2曲目からはフォークグラスさんとのセッション。おとぎ猫+フォークグラスで「キャットグラス」と称している。よく音が響く講堂で楽器7本の編成。音量バランスの調整が難しそうだ。




*おまけ*
♪♪ 22歳の別れ (2017. 4. 9 森のくまさん「コテコテフォークライブ」)

 最近は「おとぎ猫」の活動ばかりで、HITOMAZzのほうは除名処分寸前。(笑)
 この日、久しぶりに3人で演奏をした。当日、安物(1万5千円)の12弦ギターを渡され、高音弦中心にナシュビルチューニング風に弾けだと。そんな難しいことが出来るかい! コード間違えずに弾くのが精一杯でした。



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 「おとぎ猫」の活動を始めてから2年が経過した。この間、さまざまなジャンルの音楽に取り組み、いろんな会場に出させてもらい、そしてたくさんの方々とのセッションを楽しませていただいた。「下手でもいいから楽しくやろう」が僕たちのモットー。ユミさんのオートハープは急速に上達したが、僕のギターは旧態依然。でも、二人で演奏を重ねるたびに互いの息が合ってきて、ユニットとしての一体感は育ってきたように思う。

 この夏には親しい友人を二人も失い、とても悲しい思いをした。一緒に演奏したことを想い出し、こうして動画を見たりすると、今も涙がこぼれそうになってくる。僕たちはこれから、彼らの分までも、たっぷり音楽に親しんで行きたいと思う。
 まずは自分たちが楽しみ、多くの仲間たちとのつながりを大切にし、そして聴いてくださる方々にその楽しさを伝えることができたらと、日々願っているところである。




 

太陽の塔

2017-10-07 00:54:46 | エッセイ


 大阪万博にそれほど深い思い入れがあるわけでもないのに、太陽の塔を見るとタイムスリップしたような気分になる。当時はすごく大きな建造物だと思っていた。先日間近に見たとき、意外と小さくてびっくり。僕自身が大きくなったということだろうか。

 この塔は言わずと知れた岡本太郎氏の代表作。当時の人々からは「牛乳瓶のお化け」などと批判を浴びた。太郎氏は、「文明の進歩に反比例して、人の心がどんどん貧しくなっていく現代に対するアンチテーゼとしてこの塔を作ったのだ」と訳の分からない説明をした。「国の金を使って好き勝手なものを造った」という批判に対しては、「個性的なものの方がむしろ普遍性がある」と反論した。この塔の形状は、当時岡本太郎氏が飼っていたカラスをモデルとしてデザインされたそうだが、そもそも、家でカラスを飼っているというところがすごい。(笑)
 主催者は塔の内部に歴史上の偉人の写真を並べるつもりだったが、太郎氏は「世界を支えているのは偉人でなく、無名の人たちである」として、無名の人々の写真や民具を並べるよう提言。強引にそれを実現させた。塔の目の部分をヘルメット姿の男が占拠し、万博中止を訴えた「アイジャック事件」の際には狂喜して、居合わせたマスコミに対し「イカスねぇ。ダンスでも踊ったらよかろうに」と語ったらしい。

 当時の万博主催者は、歌謡界の大御所・三波春夫氏に「こんにちわ~ 世界の~ 国から~♪」と歌わせる一方、博覧会のシンボルであるメイン・オブジェの制作をこんな変な前衛芸術家に依頼するという離れ業をやってのけたわけだ。こういう混沌とした状況は、1970年代の幕開けを告げる、当時わが国の世相を象徴しているようにも感じられる。
 この年にヒットした歌謡曲は、皆川おさむ「黒ネコのタンゴ」、藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」、由紀さおり「手紙」、辺見マリ「経験」、ソルティー・シュガー「走れコウタロー」など。洋楽ではビートルズの「レット・イット・ビー」やサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」など。
 「戦争を知らない子供たち」は、万博会場内で開かれたフォーク・コンサートの場で初めて披露され、翌年にはジローズによるシングルレコードが発売されてヒットした。

 太陽の塔の内部には、先に述べた無名な人々の写真のほか、アメーバや原生動物から、三葉虫、アンモナイト、恐竜、そして人類に至るまで、様々な生物の模型が展示されていた。これらの模型は、当時ウルトラマンなどで名を馳せた円谷プロが製作を担当したらしい。
 薄暗い照明の中、地鳴りのような音や恐竜の鳴き声などが響き、そこを通ると何とも神妙な気持ちになった。僕は高校生時代に生物の進化に興味を持ち、大学では古生物学を専攻したが、そうしたことには、小学生のころ「太陽の塔」で体感した生命の神秘への記憶が深く関係しているように思う。

 現在では公園の一隅に取り残された太陽の塔。良く管理された芝生の中で、年老いた退役軍人みたいにぽつんとその余生を存えている。数々の前衛的なオブジェを見慣れてきた僕らの眼には、その姿はもはや奇異なものとは映らず、むしろ昭和の懐かしさを感じさせるスタンダードな風景と化してしまった。
 僕にとって、太陽の塔は今も1970年代の象徴。わくわく、ドキドキ過ごした思春期の激動の時代。あの塔の中には、「あしたのジョー」や、ドリフターズや、麻丘めぐみや、ビートルズや、「小さな恋のメロディ」や、「赤頭巾ちゃん気をつけて」や、そういった数々の歴史的文化遺産がいっぱい詰まっているように感じられる。
 僕は相変わらずそうした時代の音楽や文学作品に親しみ続けている。懐古主義というよりも、過去のある時点で同じ場所をぐるぐると回り続け、そこから先に進めないって感じだ。十年ひと昔。それを何度も繰り返し、いま僕は21世紀の社会にいる。戦争を知らない子供たちはすっかり大人になり、もうそろそろ高齢者の仲間入り。僕らはその少し後ろから、ずっと先輩たちの姿を眺め、彼らが創り出す新しい形の音楽や文学に憧れ続けてきた。
 懐かしいあの時代。僕は今も当時の少年のような気持ちで、古いフォークソングなどを歌い続けている。太陽の塔は、そうした「昔の少年」のあがきを、ずっと見守り続けてくれているように思うのだ。


ハロウィンの季節

2017-09-29 23:22:07 | エッセイ


 今年もまたお化けカボチャの季節が近づいてきた。
 10月と言えばハロウィン。いつの間に、わが国にこんな習慣が定着してしまったのだろう。ご先祖様の墓参りもせずにハロウィンのパーティーにうつつを抜かす若者には「喝!」と言いたいところだが、いやちょっと待てよ、何も若者だけではない。

 2年ほど前の話だが、僕の母が入居しているケア・ハウスでもハロウィンパーティーが開かれることになった。80を過ぎたおばあちゃんたちが魔女に扮するのだから、そりゃすごい光景だろう。興味はあるが、これを見学するにはかなりの勇気が必要だ。(^_^;)
 ところが、このおばあちゃんたち、ハロウィンが何たるか全然理解していないのだ。クリスマスはイエス・キリストの誕生日で、仏教のお花まつりみたいなものだろうと理解しやすいのだが、ハロウィンに関しては、なぜ魔女やお化けが出てくるのか、なぜカボチャなのか、まったく意味が分かっていない。

 「ところで、ハロインって、いったい何なんや?」ある日、母が僕に訊いた。
 「うーん、それは、西洋のお盆みたいなもんやなぁ」と、僕はとっさに答えた。もちろん、いい加減な思い付きだ。
 「キリスト教のお盆か?」と母。
 「いや、ハロウィンはキリスト教とは違うんやけどな、・・・もっとずっと昔からある、まあ、お盆かお彼岸みたいな行事や」
 「お盆やから、お化けが出てくるんか?」
 「まあ、そういうことやな」
 「ふーん」と半信半疑だったが、母はその日のうちにこの話をみんなに説いてまわったらしく、瞬く間に「ハロウィン=お盆説」というものが施設中に流布してしまった。
 数日後に施設を訪れたとき、僕はスタッフの女性に褒められた。
 「さすがに上手に説明しやはりますわ。私らもハロウィンパーティを企画したものの、それ何?と訊かれたらうまく説明できずに困ってたんです。西洋のお盆みたいなものやと言うたら、皆さん理解してくれはります。」
 こうなれば「ハロウィン=お盆説」は、もはやこの施設の公式見解だ。お年寄りたちは、ハロウィンの意味が理解できたことで、パーティーへの参加意欲が俄然高まり、衣装づくりなどの準備は着々と進んでいるという。

 なるほど、異文化の流入というものはこういうふうにして起こるのかと、僕はそのとき実感した。カボチャをくり抜いて仏壇に供える人や、お岩さんみたいな仮装をする人がいたって不思議ではない。考えてみれば、隠れキリシタンのマリア観音だって同じようなものだ。仏教がわが国へ伝来した当時、仏様は外国から来た神様ということで、八百万(やおよろず)の神のひとつという扱いだった。異国文化を自国文化と融合させ、異宗教をも寛大に受け入れる。こうした柔軟な思考は、日本人が世界に誇るべき美徳なのではないか。
 80を過ぎたおばあちゃんでさえ、夫の位牌に般若心経を唱えつつ、クリスマスやハロウィンのパーティーを楽しんでいる。僕自身はこうした外来の宗教的行事が好きではないのだが、「若者に喝!」なんて考えるのは了見が狭いのかな。うーむ。・・・

趣味の世界

2017-08-25 02:06:01 | エッセイ


 趣味でギターを弾くほか、将棋を指したり小説を書いたりしているが、その道のプロって人はほんとにすごいと感心してしまう。棋士なんて所詮は勝負師なんだから、対局日以外は昼間から酒を喰らったり、まあ好きなことをして暮らしてるんだろうなどと思ったら大きな間違い。彼らは日夜こつこつと研究を重ね、自己の技量向上に努めているのだ。もともと人並みはずれた頭脳を持つ人々が将棋一筋に精進するんだから、アマチュアとの差はますます開くばかり。努力を怠った棋士は落伍者として、厳しい勝負の世界から排除されてしまう。
 あるプロ野球選手が「ワシらは毎日練習するのが仕事。試合に出るのは集金活動みたいなものだ」と言ったそうだが、まあプロの世界というのはそういうものなのだろう。みんな日頃から一生懸命に地道な努力をしているのだ。

 小説家などの文筆業でも、たぶん同じようなものなのだと思う。毎日いろんな本を読み、各種の情報を収集し、そして夜を徹して書きまくる。村上春樹さんの場合だと、毎朝早く起きてまずジョギング、昼間のうちにきちんと仕事を済まして夜は早く寝るそうだ。就労時間や作業ノルマなど他人からは拘束されない中において、日々の気分や調子に左右されやすい文筆という仕事をルーティンワークにしてしまうのは、実に大変なことだと思う。

 僕は素人なんだから、「気が向いたら続きを書きますわい」くらいの呑気なスタンスだ。「人に読ませるために書く」のではなく、「たまたま上手く書けたら人に見せる」といった程度のもの。どこかに投稿するつもりもない。ただ、書くという作業が楽しいから書く。結果よりも過程を楽しむことがアマチュアならではの特権だと思っている。
 将棋についても、勝敗よりも楽しく指せたかどうかが重要だ。若い頃は勝つことにこだわった時期もあったが、今はそうした負けん気も薄れてしまった。着実に勝てそうな手が見えても、あえてスリリングな局面に入り込んだりする始末。


 たとえ僕にもっともっと能力が備わっていたとしても、プロ棋士や作家にはなりたくない。それは将棋を指したり文章を書いたりすることが好きだから。僕は若い頃から、自分の好きなことを仕事にしてはいけないと思ってきた。仕事にすれば、楽しいはずの生業がきっとつまらなくなってしまう。
 勝つことだけを目標に将棋ばかり指すのは嫌だし、締め切りに追われてあくせく文章を書いているようではつまらない。僕は趣味として、それらに取り組む過程を楽しみたいのであって、何らかの成果や報酬を求めているわけではない。
 そういうことで僕は、安定した所得が得られ、自由になる時間が多く確保できそうな職業を選んだ。仕事は生きるための糧。楽しくなくたって構わない。そのかわり、余暇を十分に楽しもうという魂胆だ。そうしているうちに数十年が過ぎ、そろそろ仕事のほうは終着点が見えてきた。
 定年後は毎日が趣味の時間。そう考えるとウキウキするが、寄る年波に押され、数々の障害も見え始めてきた。ギターを弾けば指が吊るし、将棋の思考力は著しく低下、文筆についても、若い頃のようにすらすらと文章が出てこない。これから先は老化との闘いだ。まあ、あまり無理はしないで、自分のできる範囲でぼちぼち楽しんでいきたいと思っている。

 最近の余暇は音楽活動に偏重しているが、こちらも例に漏れず「下手でも楽しければよい」という路線。聴く人にも楽しんで欲しいとは思うが、認められたいとは思わない。もっと上手くなりたいという向上心すらあまり持ち合わせていない。同じ曲を何度も演奏すれば少しずつでも上手くなるんだろうけど、すぐに飽きてしまって、別の曲にチャレンジ。バンドの相方も同じようなスタンスだから、二人でのんびりやっている。
 ギターの基礎練習やボイストレーニングなど、二人ともまったくやる気がなく、ただ歌いたい歌を歌う。原曲のキーやアレンジなんてまったく無視して、自分たちのやりたいようにやる。選曲のジャンルもまちまちで、どういう方向に進もうとしているのかも定まらない。「アルプスの少女ハイジ」をやったかと思うと「朝日楼」をやる。「イムジン河」をやったかと思うと「東京ブギウギ」をやる。ナターシャ特集ライブに参加した翌週、中島みゆき特集に参加。ジャンルが広いと言えば聞こえが良いが、節操がないと言うほうが適切かも。

 さて、もうすぐ9月。時間は流しそうめんのように素早く過ぎ去り、新たな季節の風景を紡ぎ出していく。そうした時の流れに置き去りにされないよう、僕は細い目を精一杯見開き、肌に触れる空気の感触をじっくり吟味しようと身構える。自分にはあとどのくらい時間が残されているのか、あと何巡の季節を見送っていけるのだろうか。最近そういうことをよく考えるようになった。この先も行き着くところまで、余暇の時間を楽しく過ごして行きたい。
 秋の夜長には、しばらくお留守となっている文筆のほうにも力を入れたいと考えている。自由気ままな趣味の世界はどんどん広がって行く。やりたいことはたくさんあるけど、どこまで出来るかは自分次第。文章を書き始めるとタバコやコーヒーの摂取量がやたらと増えるので注意が必要だ。

我が家のネコ

2017-07-26 20:40:50 | エッセイ


 ホントのこと言うと、僕は猫なんてそれほど好きではないのだ。でも、家族の一員としていっしょに暮らす、こいつとだけは仲良くしたいものだと思っている。
 それだのに、彼のほうは僕のことが嫌いなようで、いつも敵意剥き出し。僕がフレンドリーに話し掛けても、こんな不機嫌な目で僕を睨みつける。

 どうやら彼は、我こそが一家の主だと思い込んでいるらしく、家の中で偉そうに振る舞う僕のことが気に入らないのだ。昼間はいつもどこかへ行ってるくせに、帰って来て好き勝手するなよ。わしゃ、ずっとこの家を守ってやってるんだ。そんなふうに彼は考えているに違いない。
 猫のくせに規則正しい生活を好み、朝はいつも決まった時刻に起きる。家族全員を起こしてまわり、その後はあちらこちらの窓から外を覗いて、侵入者がいないかパトロール。



 家族が食事をしているときは、一段高い場所に上がり、狛犬のような姿勢でじっと家族を見守る。夜遅くになると、「そろそろ寝ろや」と、家族一人一人にうるさく声を掛ける。まったく、お節介な奴だ。
 名前は「サスケ」という。御年15歳。人間でいえば70歳は過ぎているのだろう。まあ猫でよかったけど、家にこんな爺さんがいたら、ほんとにうるさくて仕方がないだろうな。
 現在東京で暮らしている息子の空き部屋をねぐらとしている。暑くてもエアコンの入っている部屋をあえて避け、彼は自分の部屋で寝る。昼寝のときも、めちゃ暑い自分の部屋へわざわざ上がっていく。なかなか気骨のある奴だ。



 彼は僕の妻のことが大好きで、すぐそばに寄りたがる。二人きりのときはすごく甘えるらしいのだが、そこへ僕が帰って来ると、何事もなかったかのようにすました顔で部屋を出ていく。甘えている姿を僕に見られるのが恥ずかしいらしい。
 そのくせ、僕が妻と話していると、間に割り込んで邪魔をしにくる。僕のことを恋敵とでも思っているのか。
 妻がいないとき、僕が食事を与えてもなかなか食べようとしない。「おまえに食わせてもらうほど、わしゃ落ちぶれてないわい!」とでも言いたそうな感じだ。それでもいずれは空腹に勝てず、食事の入った皿をチラチラと見るようになる。僕が気を利かせて別の部屋へ行くと、その隙にこっそりと食べる。

 そんな彼も、時おり僕に話し掛けて来ることがある。僕の目の前に座り、僕の顔を見て「ニャオニャオ」と何やら話を始める。「おい、たまには男同士で語り合おうや」と言ってるように聞こえる。
 彼の話はやたら長い。おそらくは、「家の前を通った野良猫を追っ払ってやった」という自慢話をしていたり、「お前は休みの日になると黒いケースをいっぱい抱えてどこへ行ってるんだ」と尋ねたり、「タバコが煙い」と文句を言ったり、「早寝早起きで規則的な生活を送れよ」と説教したりしているのだろう。



 ルックスは若い頃とあまり変わらず、なかなかの男前だ。毛並みも、まだツヤツヤしている。僕と見つめ合うと、いつまでも目をそらさない。いや、見つめ合ってるのでなく、彼は睨み合ってるつもりなのだろう。妻に対しては子供っぽい目でニャーンと甘えるくせに。

 こうしている間にも、下のリビングからニャアニャアという声が聞こえて来る。妻と娘に、早く寝るよう促しているのだろう。皆が寝た後、彼は本日最後のパトロールをしてから自分の部屋で寝る。真面目で責任感が強い猫のようだ。うるさい爺さんだけど、憎めない奴。
 彼と僕との間の家庭内権力抗争は、明日もまた続くのだろう。互いに好きにはなれないが、一目置く存在ではある。いずれ彼がもっと老いぼれたら、一緒にツナの缶詰でも食べながら、静かにゆっくり語り合いたいと思う。
  

夜ふかしの日々

2017-07-01 01:07:04 | エッセイ


 自慢するような話ではないが、僕はめちゃくちゃ寝つきが良い。ベッドに入ると、たいてい2~3分で夢の中。生まれてこのかた、眠れなくて困ったことなんて一度もない。しかも眠りが深く、ちょっとやそっとのことでは目を覚まさない。最近は歳のせいか朝起きが良くなったが、夜中に目を覚ましたりすることはない。寝相が悪く、ときどきベッドから落ちるが、落ちたまま床の上で眠っていることさえもある。
 思えば小学生の頃は、毎晩8時に寝ていた。早寝早起き、いや早寝遅起きの良い子で、睡眠時間が異様に長い。中学生の頃から夜ふかしをするようになったが、そもそも睡眠要求量が多いので、その分、素早く、また深く眠りに入るという体質に変わっていったのではないかと思っている。

 幼い頃、夜ふかしをするとマメダがやって来て子供を連れ去ってしまうのだと教えられていた。マメダがどんな物なのか分からなかったが、とにかく怖いので、夜8時には必ず寝ることにしていた。大阪の親戚の家(母の実家)へ行くと夜ふかしが許された。親もうるさく言わないから、ここにはマメダが出ないのだと勝手に思い込み、安心して夜の時間を楽しむことができた。夜の9時台は僕にとって未知の世界で、何だか胸がわくわくするし、そこに淡い眠気が加わって、うまく言い表せないが何か神妙な世界へ誘い込まれるような気がした。少しあとになって、これは京都からマメダの霊気が漂ってくる感触ではないだろうかと考えるようになり、また少し怖くなった。そのように怖さと好奇心とがクロスしたところに、夜ふかしの魅力がある。

 この歳になってもやはり夜ふかしは楽しいもので、深夜23時を過ぎた頃になると次第に気分が高揚し、ついつい遅くまで時間をつぶしてしまう。何もせずにぽかんと物思いに耽るのもよいが、適当に物を考えながらパソコンのキーボードを叩いているのも楽しいものだ。趣味で小説やエッセイを書いているが、ものすごく調子の良いときは、自動筆記のような状態でどんどん文章が生み出され、ふーっと一息ついたときに現実の世界へと戻る。なかなか先が進まないこともあるが、そんなときにはパソコン相手に将棋を指したり、youtubeで動画を見たりする。原稿の締め切りも何もないから、ほんとに気楽なものだ。

 ただ、文章を書こうとするときにどうしても必要なものがコーヒーとタバコ。一種の薬物依存である。長い時間書けば書くほど薬物の摂取量が増える。若い頃は今よりも十倍くらいニコチン含有量の多いタバコを吸っていたし、カフェソフトなんていう眠気覚ましの薬も愛用していた。それに比べると今はずいぶんマシなのだが、歳を取り、体のあちらこちらにガタが出始めてきた。さすがにもうマメダは怖くないが、心臓発作や脳梗塞は怖い。もうちょっと体を労わってやるかなぁ。・・・そんなことを考えながら、今日も夜ふかし。

 限界ギリギリまで好きな時間を過ごし、その後ストンと眠りの底に落ちる。夢の中で僕は、時空を超えた様々な世界をさまよい、いろんなことを考え、時には怖い目に遭ったり、寂しい思いをしたり、幸福感に耽ったりする。眠りの世界を十分楽しむために、僕は夜ふかしをしているのではないかと思うことがある。ビールを美味しく飲むために、わざわざ喉を乾かせるのと同じように。活動するために体を休めるのでなく、眠るために体や頭を疲れさせる。本末転倒のような理屈だ。

 現実と夢とがクロスオーバーする夜ふかしの時間。かつてこのゾーンにはラジオの深夜放送がいつも流れていた。その頃に聞いたフォークソングなどは、脳細胞の敏感な所に深く刻み込まれていて、今もしっかり思い出すことができる。夢の世界から呼び起こしてくる懐かしい歌詞やメロディーを、いま現実の世界で再構築し、ギターを弾いて再現してみる。これはもう「懐かしい」といった感情をはるか通り越し、大げさに言えば脳内タイムトラベルとでも呼ぶべき貴重な体験なのだ。
 こうして夜ふかしの日々は続く。ニコチンとカフェインとマメダの霊気に助けられ、不健康ながらも充実した毎日。こうしている間にも少しずつ寿命が削られていくのかもしれないが、夢と現実で人生2倍楽しんでいるのだから、まあ良しとしよう。



あしたのジョー

2017-05-27 23:35:47 | エッセイ


 大好きな漫画「あしたのジョー」について書こうと思う。まず最初にクイズから。

【問題】主人公矢吹ジョーとライバル力石徹との初対面シーンが掲載された冊子を見て、原作者は「困ったことになった」と頭を悩ませたという。結局はそのことが原因で、後に予定されていたストーリーを変更せざるを得なくなったのだが、その困った問題とは何か?

【ヒント】力石が〇〇過ぎた。

 お解りだろうか?
 この作品の原作者は高森朝雄。梶原一騎の別名である。当時、少年マガジンには梶原一騎原作による「巨人の星」がすでに連載中であり、同じ雑誌に同一作者の作品が複数掲載されることをためらっらたことから別名を用いたと言われている。
 作画は、ちばてつや。この人はなかなか骨のある漫画家で、作画を引き受ける条件として、「時と場合に応じて、こちらの方で原作に手を加えさせてくれ」と注文をつけた。梶原は原作の改変を嫌うことで有名だったが、担当編集者が恐る恐る梶原にちばの意向を伝えたところ、「手塚治虫とちばてつやは別格だ、いいでしょう」と承諾したという。しかし、いざ連載が始まってみると、予想以上に原作者と作画者との意見の相違が多く、幾多の議論や口論を繰り返すハメとなった。
 ある日、新宿のバーで打ち合わせをしていたとき、梶原は力石を殺したい、ちばは生かしておきたいということで口論になった。やがて口論は白熱し、梶原が「力石は、絶対殺す!」と大声で発言。それを聞きつけたバーの店員が、びっくりして警察に通報したという逸話がある。

 さて、先のクイズの答えは「力石が大き過ぎた」ということ。渡された原稿の一文を自分なりに解釈したちばは、力石の身長をジョーより頭一つ分くらい高く描いてしまった。後に二人はプロボクサーとして闘わねばならないのに、これだけ体格に差があれば、同じ階級で闘うのはおかしい。やむなく梶原は、人間の限界を超える過度の減量を力石に強いることになり、それが原因でやがて力石は死んでしまう。
 力石の死が掲載された後、寺山修司の呼びかけで葬儀が執り行われ、多数の著名人や読者ファンが参列したというのは有名な話だ。

 1970年に発生した日航よど号ハイジャック事件では、ハイジャック犯がこの作品を愛読しており、「われわれは明日のジョーである」との声明を残した。先に述べた力石葬儀の件なども含めて、「あしたのジョー」は単に「連載マンガ」にとどまらない、様々な社会現象を引き起こしてきた。
 いわゆるスポ根マンガでは、主人公=真面目な努力家で家庭は貧乏、ライバル=天才肌で裕福な家庭、という構図がよく用いられる。梶原一騎原作による「巨人の星」なども、まあこのパターンに当てはまるのだが、「あしたのジョー」に関しては主人公のジョーも力石も少年院出身の不良少年であり、その様相はかなり異質だ。「努力すれば報われますよ」といった良い子の論理を押し付けるのでなく、仲間やライバルとの友情を美化するのでもなく、その人間関係はむしろドロドロしたものだ。
 丹下団平は、最初のうちは自分の果たせなかった夢をジョーに託するような感じでトレーナー役に徹するが、ジョーが売れっ子となってからは、それを利用して金儲けに走ろうとする俗物の側面があらわになってくる。ジョーやその仲間であるドヤ街の子供たちは戦争孤児だろうし、ジョーの対戦相手には朝鮮戦争にまつわるトラブルで父親を殺してしまった韓国人ボクサーが登場する。
 もちろんジョーも力石も努力家には違いないが、それは生死を賭けたような凄まじいものであり、そこには「美しいスポーツマンシップ」だの「互いを高め合う好敵手」だのといった教育観はまったく見えてこない。すでにスポーツの枠を超えた壮絶な人間ドラマと考えた方が良さそうだ。

 「ほんの瞬間にせよ、まぶしいほどまっ赤に燃えあがるんだ。そしてあとにはまっ白な灰だけが残る。燃えかすなんか残りやしない。まっ白な灰だけだ。」
 このセリフにジョーの人生観が集約されている。

 ホセ・メンドーサとの死闘の末に判定で敗れ、「真っ白に燃え尽きた」ラストシーン。ここでジョーは死んでいるのか、いや、疲れて休んでいるだけなのか、人によって見解が分かれ、読者やマンガ評論家の間で真剣な議論が繰り広げられてきた。
 実はこのラストシーンについても、原作者と作画者との間で意見の相違があったらしい。原作ではホセ・メンドーサとの試合終了後、丹下段平が「お前は試合では負けたが、ケンカには勝ったんだ」と労いの言葉をかけ、パンチドランカーとなってしまったジョーはその後静かな余生を過ごすというストーリーが用意されていた。ところが、ちばてつやは「ジョーの余生」というのが気に入らず、この「真っ白な灰」の絵で終わりにしてしまった。
 さて、ジョーは死んでいるのか否か、作画者のちばてつやも明らかにしていない。医学的な見解からすると、「もし死んでいればこの体制を維持できるはずがないから、この時点では間違いなく生きている」ということになるらしい。

 僕が「あしたのジョー」から学んだものは、特に何もない。とりわけてボクシングが好きになったわけではないし、真っ赤に燃え上がって真っ白な灰になってしまうような生き方はしようなんて微塵も思わない。それだのに、このラストシーンを見るだけでいつも涙がこぼれそうになってくるのは何故だろう。
 6月に開催される「アニメソング特集ライブ」に備えて、アニメ「あしたのジョー」の主題歌をちょっと練習してみた。寂しげな感じでやりたいのだが、ギターを弾く手に次第に力が入り、最後はガンガンの演奏。本番で弦を切らないか心配だ。(^^;
 


京美人

2017-05-27 01:40:57 | エッセイ


 写真は、バンド仲間ユミちゃんの若き日のお姿。本人の了承を得て掲載した。左は葵祭に参列した時のものらしい。右は日本髪のモデルをしたときのもので、カツラでなく本物の髪を結っているらしい。いかにも「京女」って感じでいいね。

 僕が京都の女性に対して描くイメージは、おっとりしていて、我慢強く芯が強い、控えめなようで自分の考えをしっかり持っている。理論よりも感性を重んじ、楽観的な性格。美意識が高くファッションセンスも良いが、流行り物を嫌う傾向がある。
 外見的には、小柄で丸顔で、目も丸いが、ぱっちり大きいという感じではない。全体に彫りが浅く、どちらかと言えば地味な顔立ち。綺麗というよりは可愛いといった感じ。表情を大きく崩さず、口元に薄っすらと妖しい微笑みを浮かべる。
 僕の祖母もそうした特徴を備えた、典型的な京女だった。母は大阪生まれで、まったく違った感じ。ひょっとすると、京女に関する僕のイメージは、祖母の面影に由来しているのかもしれない。でも、先に書いたようないくつかの特徴は、世間一般で考えられている京女像と大きく違わないと思うのだ。

 もちろん個人差はあるけど、全国各地の土地柄とそこに暮らす人々の特徴には、かなり深い関連性がある。そうしたわけで、土地それぞれに〇〇美人が存在するわけだ。例えば、東北美人のイメージは、すらりと背が高く、色白で目鼻立ちがはっきりしている。これはおそらく、ユーラシア大陸北方系の遺伝子が関係しているのだと思う。
 人の顏というものは、遺伝的な形質だけでなく、話し方や表情の作り方など、成長過程における顔面筋肉の使い方などによっても変わってくる。京女の柔和な顔立ちは、おっとり優雅な古都の環境にマッチする形で作り出されていくのだろう。
 大人になって化粧をするようになると、その仕方に個性の違いが反映されるので、性格と外見とのリンクがますます強いものとなってくる。僕は化粧で作られた顔が好きだ。化粧自体がひとつのアートだと思うし、その中に人それぞれの個性やセンスを見て取ることができる。素顔を知った上で、メイクアップされた造形美を鑑賞する。あるいは、化粧で塗られたよそ行きの顔を見ながら、その人の自然な素顔を想像する。

 真っ白に塗られた舞妓さんや芸妓さんの化粧は、人それぞれが持つ個性をあえて隠すことによって匿名の美を創り出し、「非日常の女」を演出しているように見受けられる。
 僕の祖父は芸妓さんが大好きだったようで、さんざん祇園で遊び、揚句は芸妓さん(僕の祖母)と結婚して、その後もしょっちゅう祇園に通っていたらしい。結局はそれで店をつぶしてしまったのだが、もしも店が続いていて、僕が何代目かの旦那になっていたとしたら、やはり同じような道を歩んでいたのだろうか。
 いやいや、じっちゃんの頃とは時代が違うわなぁ。そんな夢のような生活が許されるわけもない。しかし、今なおこんなことを書いて楽しんでいるというのは、僕も同じような嗜好を持っているということか。
 僕の親父は対照的に、石仏みたいな堅物人間だった。やはり僕はじっちゃんに似ているのかもしれない。隔世遺伝、恐るべし。

「おとぎ猫」ライブ映像集 (1)

2017-05-06 02:52:45 | ライブレポート


 ちょっと整理を付ける意味で、これまでにアップされたライブ映像のリストを作ってみた。改めて聴いてみると恥ずかしい限りだが、まあ続けてやっていれば少しは上手くなるだろう。(笑)
 曲名をクリックするとyoutubeの画面が開きます。

〇 花の首飾り (2016. 5.11 スマイル)
 ザ・タイガースのヒットナンバー。二人とも大好きな曲で、珍しくすぐに選曲が決まった。オートハープの音色を活かそうと、静かな感じでやってみた。
 ユミさんはオートハープを始めて約1か月。コードバーを探しながら歌うのが大変そうだ。僕もけっこう頑張ってハーモニーパートを歌っている。先日またやろうとしたら、もう歌えなかった。最近、物忘れがひどくて困る。

〇 テネシーワルツ (2016.12.25 スマイル)
 テンポはゆっくりだけど、コード進行もギターの弾き方もカントリー調。ユミさんはお父さんが持っていたSP盤(78回転)を聴いて、この歌を覚えたらしい。
 オールドさんのピアノサポート、良い味を出してもらってます。

〇 ランブリン・ボーイ (2016. 6.25 スマイル)
 アメリカのフォークシンガー、トム・パクストンの名曲。訳詞は中山容。日本では高石ともや、岡林信康、泉谷しげる、坂庭省悟などが歌っていた。
 キーはFなのだが、ギターは最初5カポのCフォームで弾き、途中で1カポのEフォームに変えるという変則的な弾き方をしている。最後終わるべきところで、ユミさんが間違えてまたリフレインに入ってしまい、笑いながら歌っている。


〇 桃色吐息 (2016. 7.23 スマイル)
 「色っぽく歌ってね」とお願いしたんだけど、「私にそんなこと言うても無理や」と、おっさんみたいな低いキーで演奏することになった。本家の高橋真梨子も低いほうだけど、それよりもさらに低い。

〇 サラダの国から来た娘 (2016.10.23 スマイル)
 イルカ作詞作曲。ちょうど歌詞にぴったりの季節だということで、あまり乗り気でない相方を説得してこの曲を選んだ。高校生の頃、こういう曲を女の子と一緒に歌いたいものだと憧れていた。40年来の夢が叶った瞬間。(笑)
 このオートハープの演奏スタイル、なんか面白い。通称「アイロンがけ奏法」。


〇 東京ブギウギ (2016. 2. 7 スマイル)
 ユミさんが風邪をひいていたため、普段よりもキーを落として演奏。声は出てないが、それでもノリノリで歌ってる。最前列のお客さんもノリノリ。(笑)
 こういう曲をアコギ1本でやろうとは無理な話だが、西村さんのカホンで盛り上げていただきました。やっぱりドラマーはカホンも上手いなぁ。
 ユミさんの冬場の衣装はたいてい自作のニットなのだが、それにしてもこのデザインはすごい。普段にはちょっと着れないね。(^^;


〇 さらば恋人 (2016. 9.17 スマイル)
 HITOMAZzのZENさんを加えて、三人編成の「おとぎ猫」。この曲は彼と二人でやることもあるのだが、女性コーラスが入ると、いかにも歌謡曲って感じ。
 北山修さん作のこの歌詞、大好きです。

〇 涙のリクエスト (2016. 9.17 スマイル)
 上に同じく三人編成の「おとぎ猫」。ZENさんボーカルなのだが、主役の座を奪われまいと、ユミさん頑張ってる。トニー谷もびっくりのソロバン技に注目!
 途中から手拍子が小さくなるが、これは客席の皆さんがハンカチを取り出して振り始めたため。(笑)
 本家本元ZENさんの「そ・れ・で・は」、オマケ付き。


〇 初恋 (2017. 1. 8 スマイル)
 原曲はアイリッシュの名曲として知られる「Down By Sally Gardens」。
 ZENさんにギターサポートで入ってもらった。そのギターテクがなかなか凄くて、終了後にいただいた感想もギターの話ばかり。完全に持って行かれてしまった。(^^;
 三人で合わせたのはこれが初めてで、しきりに顔を見合いながら間合いを取っている。

〇 今宵恋に泣く ~ ダイヤの指輪 (2017. 1 サンライズカフェ)
 サンライズカフェの木曜日は、アメリカンフォークの日。ここではカーターファミリーの曲をよくやっている。サンライズへは仕事帰りに行くことが多いので、僕はたいていスーツ姿。
 「今宵恋に泣く」は、原題「I’m Thinking Tonight of My Blue Eyes」。スローテンポで、原曲とは全然違った感じ。「ダイヤの指輪」は「Gold Watch and Chain」。どちらも大好きな曲だ。


〇 さよならが言えない ~ 柳の木の下 (2017. 4 サンライズカフェ)
 セッションも終盤。何だかとても疲れた感じでギターを弾いている。つまらなさそうな顔だけど、これでも本人はとても楽しくやっているのです。
 「さよならが言えない」では、ユミさんはこのくらいのテンポで歌うことを好むのだが、あまりにゆっくりで、他の演奏者はやりにくそうな感じ。「柳の木の下」では僕も少し元気を回復し、ハモもそれなりに歌っている。

〇 森かげの花 (2017. 4 サンライズカフェ)
 普段ギターはCフォームのクロスピッキングで弾いているのだが、ボーカルのキーに合わせてGフォームで演奏。このほうがカーターファミリーっぽい感じかな。

〇 愛の賛歌 (2017. 2.14 サンライズカフェ)
 この日はバレンタインデーでラブソング限定とされていた。僕らのレパートリーにラブソングは少なく、困った末に開き直って、思いっきり濃い曲に挑戦した。ユミさんは大好きな曲らしいが、二人で演奏するのは初の試み。コード進行はこれでいいのだろうか。
 とても人様にお見せできるような演奏ではないが、何だか面白いので掲載した。

〇 みんなでセッション (2017. 2 サンライズカフェ)
 オートハープのご夫婦デュオどらわこさんを囲んで、この日の出演者全員によるセッション。普段こうしたジャンルの曲に馴染みのない方々も、ピアノ、ギター、ハーモニカ、カホンなどで参加されている。
 いや~、音楽って、ほんとに楽しいですね!



ゴールデンウィーク事情

2017-04-22 23:51:42 | エッセイ
 もうすぐゴールデンウィーク。
 僕の家は琵琶湖畔のリゾート地付近にあるため、連休ともなればひどく車が渋滞する。住宅街の路地から琵琶湖大橋へ続く幹線道路へ出たとたんにもう長蛇の列。これではどこへも出掛ける気にならない。
 そこで僕の考え出したのが「自宅バカンス」。まるで別荘にでも居るような気分で、自宅およびその周辺をのんびり楽しもうというわけだ。昼間からゆっくり(全国各地温泉の香りの入浴剤なんかを使って)風呂に入ってみたり、屋上の折りたたみベッドに寝っ転がってカクテル(ほんとは缶チューハイ)を飲んだり、アメリカ西海岸にでも来たような気分で琵琶湖岸を散歩したりする。のんびりムードに飽きてきたら、ちょいとラスベガスにでも遠出するような気分でパチンコ店へ出掛けたりもする。(笑)
 ここ10年くらいは、毎年そういうGWを過ごしてきた。「今年もまた、どこへも行かなかったなぁ」などと悔やむよりも、「自宅バカンスをたっぷり楽しんだ」とプラス志向で考える方がいい。何事も気の持ちようだと思う。

 ところが、今年のGWはちょっと様相が違う。ライブの予定が3本入っていて、そのための練習も予定されている。4/30は昭和歌謡、5/4はアメリカンフォーク、5/7は日本のフォークと、それぞれ演奏ジャンルが異なる。脆弱な僕には中2日や3日での登板はかなりきつそうだ。
 でも、まあ僕らはまったくの素人だし、趣味で演奏しているだけなんだから、のんびり気楽にやればいいだろうと高をくくっている。こんな僕らに演奏の機会を与えていただけるのは、ほんとに有難いことだ。こうしたチャンスを有意義に活かし、今年は一風違ったゴールデンウィークをたっぷり楽しみたいと思う。

 さて、この「ゴールデンウィーク」なる用語、どのようにして使われだしたのかと気になって、ちょっと調べてみた。
 この言葉が使われるようになったのは1951年(昭和26年)、意外と古い。もともとは映画業界の用語で、正月映画やお盆映画に匹敵する興行成績を得ようとして作られた宣伝用語だったらしい。翌年にはマスコミなどで頻繁に使用されるようになり、国民全般に定着していった。
 ところが、NHKでは当初から、現在においても、この用語を使用せず「春の大型連休」という表現に代えているそうだ。
 「ゴールデンウィーク」を使用しない理由は次のとおり。
①元々は映画業界の宣伝用語であり、放送法第83条(広告放送禁止規定)に抵触する恐れがある。
②休暇が取れない人から「何がゴールデンだ」という抗議が来る。
③外来語やカタカナ語を避けたい。
④1週間よりも長くなることが多く、「ウィーク」はおかしい。
 うん、なるほど。いかにもNHKらしくて良いね。(^^)v

 元々4/29の昭和天皇誕生日と5/5の子供の日とが近接しているのだが、その間に5/3の憲法記念日が加わって大型連休の形が出来た。当時の政府は、5月3日を憲法記念日の祝日とすることを意識したうえで、その半年前の11月3日に新憲法を公布したのだとも言われている。まあ何でもいいが、連休はやはり嬉しい。
 天皇退位について検討されているが、現在の皇太子が即位された後にはその誕生日が祝日となり、現天皇の誕生日は「平成の日」とかに変わるのだろうか。名目は何であれ、祝日が増えるのは嬉しい。いっそのこと、神武以来歴代天皇の誕生日をすべて祝日にしてくれたらいいのに、と思ったりもする。ついでに皇后の誕生日も・・・。こらこら、いつ働くねん!(笑)

 遠出があまり好きでない僕は、この歳になってまだ一度も海外旅行をしたことがない。パスポートすら申請したことがない。ごった返している空港の様子をTVのニュースで見て、ご苦労さんですなぁと薄ら笑う。働き過ぎの日本人にはもっと休暇が必要なんだろうけど、その休暇を使って余計疲れに行ってるようでは本末転倒。自宅か近場のスポットでゆっくり休めばいいのに、と思ってしまう。
 今年のGWは珍しく外出の機会が出来たけど、まあ滋賀県内と大阪、いわゆる近場だ。のんびり、ゆっくりと音楽に親しみ、その他の日は自宅バカンスをたっぷり楽しみたいと考えている。
 あ、それから、忘れてはならないのが5月5日の結婚記念日。今年は33回忌目となる。さて、どうしようかな。本日(4/22)三重県までアナゴを食べに連れて行ったので、もうこれでいいかな?





森くま コテコテフォークコンサート 2017.4.9

2017-04-15 23:23:38 | ライブレポート


 野洲市のライブカフェ「森のくまさん」では、4月9日は「フォー・クの日」ということで、コテコテフォークコンサートなるものが開催される。僕は二度目の参加だが、今年はホストという役割で、企画段階から参画させてもらった。
 コテコテフォークとは、なかなか素敵なネーミングだ。いわゆるフォークソングの中でもニューミュージックやポップスの香りのするようなものを排除し、「これぞ日本フォークの原点!」と認められる名曲の数々をみんなで楽しもうというもの。拓郎、陽水、かぐや姫あたりはギリギリセーフだが、できればもっと古い曲をというコンセプトだ。
 こんなマニアックな企画でお客さんが入るものかと心配したが、意外とたくさんの方が来て下さった。その大半は推定60歳代後半の方々。
 正直なところ、僕やバンド仲間は前述「コテコテフォーク」の世代ではない。これらの曲が流行ったころは小学生くらいで、後になってから懐メロのような感覚で古いフォークソングに親しむようになったわけだ。リアルタイムでこれらの曲を聴いて来られた先輩方を前にしての演奏。こりゃ気合を入れてやらねば!

 さて、僕はユミさんとのデュオ「おとぎ猫」で参加。「HITOMAZz」のほうは二人でやってもらおうと思っていたが、結局は僕も参加することになった。これに最後のシングアウトを加えて合計13曲を演奏。脆弱な僕にしてはよくやった。

★おとぎ猫演奏曲 ------------------
・生活の柄(高田渡)
・遠い世界に(五つの赤い風船)
・帰ってきたヨッパライ(フォーク・クルセダーズ)
・時には母のない子のように(カルメン・マキ)
・花嫁(はしだのりひことクライマックス)



 他の出演者のように上手くは出来ないので、せめてルックスから入ろうと、1970年代フォーク風ファッションで登場。二人ともタンスの奥から探し出してきたボロボロのジーンズスタイルだ。ユミさんはなぜか猫耳。僕は秘蔵のキャップを被っていったが、森くまのマスターから「農協の帽子か?」と言われてしまった。JAとちゃうで! GIBSONやで!(笑)
 「遠い世界に」では、オートハープのイントロ・ソロに挑戦。1番は僕が歌って2番はユミさんが歌うのだが、それぞれ歌いやすいキーに転調するというワガママなアレンジにした。実は本家の五つの赤い風船も、2000年に出された再結成CDでは、このようなパターンで演奏されている。
 「帰ってきたヨッパライ」はフォーク史上に残る大ヒット曲なのだが、僕らのようなアマチュアバンドでこの曲をやっているのは聴いたことがない。原曲のあの声はもちろん再現できないが、他のセリフや効果音などはなるべく入れようと頑張った。そのため、ギターとオートハープの他、スライド・ホイッスル、カズー、木魚、仏壇の鐘など、いろんな楽器を駆使。音は出ないが、数珠まで準備した。


 原曲では読経のフェイドアウトに「エリーゼのために」のピアノ演奏が重なってくる。練習時にギターでやってみたが上手く行かず、そこで思い付いたのがオルゴール。これならパカッと蓋を開けるだけで済む。ところが、あてにしていたオルゴールが「乙女の祈り」であったことに気づいて断念。結局はお経のあと「アメイジング・グレイス」をワンフレーズ歌って「アーメン」で終わり。宗教ごちゃまぜの無茶な演奏だったが、たくさんの笑いをいただくことができ、満足満足。
 「時には母のない子のように」ではマー君にハーモニカを吹いてもらい、「花嫁」ではさらにZENさんを加えて多重コーラス付きの演奏。最後はHITOMAZz+αみたいな状態になってしまった。


★HITOMAZz演奏曲 ---------------
・戦争は知らない(フォーク・クルセダーズ)
・風(はしだのりひことシューベルツ)
・イムジン河(フォーククルセダーズ)
・悲しくてやりきれない(フォーク・クルセダーズ)
・22歳の別れ(かぐや姫)
・落陽(吉田拓郎)



 メールで曲目と演奏キーだけ打ち合わせ、当日の開演前に初めて合わせて本番に臨む。まあいつものパターンだが、この日は「悲しくてやりきれない」を1カポのEフォームで弾けだとか、「22歳の別れ」を12弦ギターで高音弦中心に弾けだとか難しい注文を付けられて、僕はけっこう大変だった。「戦争は知らない」と「風」ではバンジョーを弾いている。このオープンバックのバンジョー、あまり鳴り過ぎず、フォークソングにはちょうどいい感じ。
 前半4曲はこの日初めて演奏したのだが、ぶっつけ本番にしてはわりと上手くいったように思う。お客さんも一緒に歌って下さって、嬉しかった。フォークルのナンバーは、今後もHITOMAZzの定番レパートリーになりそう。おとぎ猫の「帰ってきたヨッパライ」もか?(笑)
 HITOMAZzがトリだったので、この後もステージに居残って、シングアウトの演奏。森くまマスターの選曲「いちご白書をもう一度」と「戦争を知らない子供たち」で大いに盛り上がって終演となった。


この日出演された他の2バンドについて、少し紹介しておこう。

◆◆ 原ファミリーバンド ◆◆

 お二人はご夫婦だが、なんと高校生の頃からフォークソングサークルでのお付き合いをされていたらしい。この道40年を超える大ベテラン。ハーモニーが素晴らしく、またビンテージ・ギブソンの生音がとても心地よい。この日はいつもに増して力のこもった演奏を聴かせていただきました。特に「血まみれの鳩」は圧巻。
演奏曲:「風に吹かれて」「500マイル」「まぼろしの翼とともに」「テネシーワルツ」「血まみれの鳩」「カントリーロード」

◆◆ 青人草 ◆◆

 お二人の年齢を合計すると130何歳だとかMCで話されていた。まさにコテコテフォークにドンピシャの世代。しかし、その若々しいボーカルとギター演奏にはびっくり。あと10年後、僕らはこういうふうに演奏できるだろうか。合計160歳になるまでは二人でやりたいと話され、会場から大きな拍手が沸き起こった。
演奏曲:「プカプカ」「思えば遠くへ来たもんだ」「今はもう誰も」「手と手手と手」「うろこ雲の絵」

 まさにステージと会場とが一体となった、とても素敵なコンサートだった。やっぱり古いフォークはいいもんだ。リアルタイムリスナーの方々には、それぞれの歌にまつわる時代背景だとか、個人的な思い出だとか、そういったものを回想しながら聴いていただけたのではないかと思う。
 後日、仕事帰りに森くまへコーヒーを飲みに行ったとき、コンサートを見に来ていたという若い女性から声を掛けられた。「ほとんど初めての曲だったけど、いっぺんに古いフォークが好きになりました」と話されていた。ここに掲載した写真はその人が撮って下さったもの。ほんとに嬉しいです。♪♪

(付記)コンサート終了後、山科の焼き鳥屋にてHITOMAZz・おとぎ猫合同の反省会を開催。3時間以上にも及ぶ大反省会で「神様の声はもっとこういうふうにやらなアカン」とか、厳しい指導を受けた。(笑)
 声はまあまあいいが、演技力が足りないらしい。次回までには練習しときます。