世相と心の談話室

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無意識(2)=ユング(分析心理学)にみる無意識②

2005年04月24日 23時46分20秒 | 心理学的な話
ユングの説く意識と無意識

(1) 人の心の対照性
人の心の要素は、対照的なものが対となって存在している場合が多い。ユングはこのことに早くから注目しており、「意識と無意識」「外向性と内向性」「アニマとアニムス」といった対立要素が対になって心を成り立たせていることを明らかにした。重要なのは、これら一見相反する要素が、互いを邪魔したり否定したりするのではないということである。これらの組み合わせは明らかに対照的なのである。対照的というのは、「互いを補い合っている」という意味で、どちらかがプラスでどちらかがマイナスであるということではない。これがユング心理学の基本となる。
 どちらかが活発に表に出ているとき、もう片方の要素は「陰に隠れる」かたちで心の奥底に静まっている。しかし、表に出ている要素に無理が生じると、それを補おうとして、もう片方の要素が出てこようとする。その「出ようとするエネルギー」が強すぎると、心の要素の暴走が始まり、心の病になる恐れがある。
(2) フロイトの無意識とユングの無意識の違い
① フロイトもユングも、「心の病は、欲望があまりに強く抑えられ過ぎたり、歪んでしまったときに、無意識が意識に対して激しく反発した症状である」という点においては同じである。
③ フロイトは無意識を「意識が抑えつけている欲望の固まり」のように解釈している。そのため、フロイトの心理学では、無意識の意識化、すなわち、無意識内に抑えつけられている欲望の開放を目指すことが目的となる。ユングは「無意識の反発とは、心の歪みを知らせてくれる警告である」という解釈をする。ユング心理学は、意識部分が無意識部分の存在をしっかりと認め、両者それぞれの独立性を保ちながらも、それらをまとめあげること、言いかえれば人格の完成(個性化)を目的とするものである。
④ フロイトが「無意識に押し込められている欲望」を全て性欲に結びつける「性理論」を展開したのに対し、ユングは、無意識は「個人的無意識」と、個人の体験や記憶を超えた人類共通の「集合的無意識」があるこを主張した。
フロイトとユングについて、無意識に対する考え方の違いは、あらゆる面で2人の心理学の相違につながってゆく。心理療法の面では、フロイト的心理療法は、「自由連想法」によって、患者に「なぜ、意識が覚えていることを拒否したのか」といった質問を発し理由を探り、患者の話しの展開を分析・解釈し、「現在の心の病の原因」を見つけていくものである。ユング的心理療法は、「医師が患者と対等の立場で、顔を向き合わせて会話をしてゆく」という形をとり、患者が一方的に自分の話しを広げていくのでもなく、医師が一方的に解釈を伝えるというのでもない、いわば医師と患者の共同作業で治療を目指すものである。
(3) 普遍的無意識(集合的無意識ともいう)
 ユングの無意識概念の中核をなすものがこの普遍的無意識である。これは、個人の体験や記憶を超えて「全人類の歩んできた歴史・全人類の観念・全人類の知恵」が含まれている無意識のメッセージである。
   ① 普遍的無意識の考えに至ったエピソード=太陽にぶらさがったペニス
ユングがブルクヘルツリ精神病院に勤めていたとき、ある患者が「ほら、太陽の真ん中からペニスがぶら下がっているでしょう。私が頭を振ると、あのペニスも揺れるんです。それが風を起こすんですよ。」と言ったのを聞いたユングは、ある奇妙な一致に気づく。それは、この患者の言葉が、古代宗教「ミトラ教」の祈祷書に書かれている内容と一致しているという事実であった。その祈祷書には「太陽から筒がぶら下がり、その筒が西に傾くと東風が吹く」といったものだった。ここから、ユングは、患者の体験を単なる妄想と考えることはできない、個人的体験からはこの奇妙な一致は説明できないと考えるようになった。そして、そこから、世界各地の神話や伝説等を調べ上げ、この世が生まれた過程や神々どうしの関係など、色々な点で似ているところがあることをつきとめ、あらゆる民族が心の奥底に「共通している要素」、すなわち「普遍的無意識」を有しており、それが、神話の誕生に大きな影響を与えていると考えた。また、その普遍的無意識は、古代から現代人にまで受け継がれているもので、現代人にも影響を与えているとも考えたのである。
   ② ユングが考える心の3層
心の表面に現われている部分が「意識」の部分で、その意識の下に隠れるようにして、意識を支えるようにしているのが「無意識」の部分。この無意識の部分が、その人個人の体験・思い出によって積み重ねられてきた「個人的無意識」と、生まれたときから備わっている「普遍的無意識」に分かれる。普遍的無意識は、個人的無意識よりさらに奥深い層になっている。
③ ユングは、多くの心の病気治療にあたっていて、人が心の病に陥ったとき、その原因が、その人個人の体験からだけでは説明しきれない場合があることを知っていた。こんな場合は、その人の個人的無意識に普遍的無意識の要素が関わって、心の病を増幅したり、病の症状を過激にしたりしている。例えば、母親とのトラブルが原因で心の病になっている人が、普遍的無意識のなかにある「全人類共通の母親像」に刺激を受けて、病の症状をさらに複雑にさせるといったことが起こるのである。
④ 普遍的無意識は、夢にも影響を与える場合がある。夢のなかの登場人物や風景から、たいていの場合何らかのメッセージを読み取ることができるが、なかには、なぜあんなモノが夢に現われたのか、見たこともない風景が夢に現われた、といった夢を見ることがある。そうしたものもまた、普遍的無意識の産物である。

ユングの夢分析

(1) フロイトの夢分析は「夢とは無意識の世界に押し込められている願望が形になったもの」というのが前提であるが、ユングの夢分析は、「夢の意義は意識の補償であり、夢は意識の誤りや未完成なところを補ってくれるものである」という考えを前提としている。(夢の補償)
(2) ユングの夢分析では、夢に展望という意義も認める。これは「予知夢」といったものにあたるが、これは、夢を見た人の個人的な未来を暗示する場合と、もっと幅広い社会の未来を暗示する場合がある。(夢の展望)しかし、展望の夢を見る場合は、極端に少なく、簡単に夢で未来のことが分かるわけではない。
(3) ユングの言に、「分析家は何をしてもよい。しかし、夢を理解しようとだけはしてはならない」という言葉がある。これは、ごく一般的な見方だけの「数学的公式」的な分析では、本当の無意識を見出すことはできないというものである。一般的な公式的見方というのは、普遍的無意識から影響を受けた部分で、ある程度は誰にも共通した意味を持つ。しかし、個人的無意識が夢に関わってくる場合も多く、夢の意味を探るのはかなり慎重でなくてはならない。ユングはかなり多くの夢分析をおこなっているが、極めて慎重な分析を実施している。
(4) ユングの夢分析におけるモノや登場人物の意義は、大きく分けて2つに分かれる。
① 客体水準・・・・・夢に現われる人やモノが、「それそのものの存在」として現われた場合を「客体水準」と言う。
② 主体水準・・・・・夢に現われる人やモノが、「無意識をたとえたモノ」だった場合、それを「主体水準」と言う。
※  例えば、男性が夢で出遭う女性が、本当にそれが「憧れている他人=客体水準」なのか、それとも自分の心にある女性的要素が喩えられた姿として現れたもの=主体水準」なのかの区別はかなり難しい。しかし、これを性格に行わないと、正しい夢判断はできない。
(5) ユングの夢分析の2つの特徴
① 連想・・・・・患者が見た夢に登場した様々なモノや出来事について、それから連想される別のモノや、その人が気づいた細かい印象などを、次々と患者に言ってもらい、夢のなかに現れたモノが「一般的にどんな意味なのか」ではなく、「その人個人にとってどんな意味なのか」を探る。
② 拡充・・・・・夢は普遍的無意識から大きな影響を受けている。従って、夢に現われた場面や登場人物には、古代の神話や伝説などと類似している場合がある。そこでユングは、「個人の夢の意義を、似ている神話などをヒントにして解いていく」という「拡充」法を編み出した。
※  ユングは、「連想」でも、「拡充」でも、1回の夢だけで分析するより、何日かにわたって見る数回の夢を順々に分析していくという方法を重視した。
(6)夢とシンボル
 夢は、イメージの一種である。イメージの記号というのは、単調な説明でその意味を理解することはできない。その人が抱えている個人的な事情や夢を見たときの状況、さらには、その夢を語る相手(たとえば医師)との感情的な関係までも、夢の意味に大きな影響を与える。しかし、夢を初めとするイメージ群のなかには、ある無意識世界を表すのに、これ以上にピッタリのものはない・その意味をほぼ正確に表しているという存在(何かの想像物や場面など)があり得る。これがユングの言う「シンボル」である。ユングの夢分析では、このシンボルを見出し、その意味を探求していくことが重要となる。それによって心的病の治療を目指すのである。言わば、フロイトが示したように、錯誤行為や夢は無意識への入り口であるが、シンボルは無意識の出口から出ている光(心的問題解決の糸口)である。
① イメージ――イメージに対して、実験心理学では「外界の模像」という考え方をするが、無意識の心理学では「内界の表現」という捉え方をする。実際は、個々のイメージはこの両者の中間にあって、内界、外界の両方からの影響を受けて存在しているものである。
② シンボル――シンボルについて、ユングは『人間と象徴』の中で、次のように述べている。
 「言葉やイメージはそれが明白で直接的な意味以上の何ものかを包含しているときに、象徴的なのである。それはよりひろい“無意識”の側面を有しており、その側面はけっして正確に定義づけたり完全に説明したりされないものである。誰もそれを定義したり説明し切ろうと望むことはできない。人間の心が象徴の探求を始めると、それは理性の把握を超えた観念に導かれる。」

心的エネルギーとシンボル

(1) 心的エネルギー
 フロイトが、心的エネルギーは結局のところ、性的エネルギーに還元されるとしたのに対し、ユングは、心的エネルギーを性的エネルギーも含めた一般的な概念とした。それは、ちょうど物理学におけるエネルギーの変遷と同じであるとユングは考えた。物理学においては、エネルギーという概念はあくまで量的なものとして用いられており、それは位置エネルギー、運動エネルギー、熱エネルギーなどと変化していくが、どれが根源的であるかとは考えない。ユングは心的エネルギーもこれと同じであると考えた。
(2) 心的エネルギーの変遷
 心的エネルギーは心の中を絶えず流動している。自我は心の内部にある心的エネルギーを適当に消費し、それは睡眠中や休息中に補給される。心的エネルギーが無意識から意識へ向かうときを進行、逆に意識より無意識へ向かうときを退行と呼ぶ。エネルギーの進行と退行は、一日のいうちで適当に繰り返されている。
(マザー・コンプレックスをもつある会社員の例)
 ある35歳の男性会社員。最近課長に昇進し、まわりも羨む出世をしたのに、会社へ出勤するのが嫌で、仕方なく行っているような状態。また疲れやすいことも訴えている。何回かカウンセリングを行ってみると、次のようなことが解った。この人は母親との関係が強く、常に母親に支えられて、一流大学合格、一流企業就職も果たし、上司からも目をかけられていた。母親の言うがままに行動して賞賛されてきた態度を、大学の教師や会社の上司に転移して成功してきたが、課長になって、自分の意見や自分の決定によって事を処してゆくことが増えたため、それでは乗り切ってゆけないことに気づき、はたと困り果てたのである。
―――この人の疲れやすさ、仕事に対する興味の減退などは、彼の心的エネルギーが減退しているように見える。しかし、心的エネルギーにもエネルギー保存の法則がある。(ただし、物理学のエネルギー保存法則は、閉じられた世界を前提としているため、一応、心も閉じられた世界であるという前提において保存法則が成り立つと思われる。)一見失われたかに見えるエネルギーは、無意識領域のどこかに貯蓄されていると考えられる。このとき、自我の使用し得るエネルギーが低下しているのである。困難に出会って、彼の心的エネルギーは退行を始め、無意識内の彼のマザー・コンプレックスに滞留し、外界へと流れなくなったのである。コンプレックスは心的エネルギーを引き寄せ、自我の方にそれが流れるのを妨げる。心理療法とは、取りもなおさず、コンプレックスによって流れを止められている心的エネルギーを、自我の方に戻すように努力することを言う。
(3) 創造性
    フロイトは退行ということを病的なものとし、そこに、男性と母親との近親相姦的な関係をイメージした。つまり、心的エネルギーが退行して流れ出さぬ状況を、男性が母親との一体感に埋没して、自立し得ない様相とパラレルに捉えたのである。
    ユングは、創造的な心的過程には退行が必要であると考えた。全て創造的なものには、相反するものの統合が何らかの形で認められる。両立し難いと思われていたものが、ひとつに統合されることによって創造がなされる。これを心理的にみてみると、心の中に定立するものがあり、反定立するものも存在する場合、どちらか片方を抑圧してしまえば簡単な解決になりそうだが、それは創造的ではない。自我が両方に関与してゆこうと努力すると、どちらにも傾けなくなり、一種の停止状態になり、ここで、自我をはたかせていた心的エネルギーは退行を起こし、無意識内へと帰ってゆくことになる。人がこのような状態になったとき、外見的にはぼんやりしたり、幼稚な行動をしたりするように見えるが、無意識内では新たな仕事が始まっている。それは、自我のそれまでの働きと、無意識の働きが統合され、定立と反定立を超えた、統合的なシンボルを顕現することである。それは創造的な内容をもち、それに伴なわれて心的エネルギーは進行を開始し、自我は新たなエネルギーを得て活動することになる。多くの芸術家が、作品を生み出す前に、外見的には非建設的と見える行動(退行現象)を見せるのはこのためである。
    無意識内に存在する創造性に注目し、退行現象が常に病的なものとは限らず、創造的な側面をもつことを指摘したのはユングの功績である。
(4) シンボルの形成
 創造過程に伴って、新しいエネルギーが自我にもたらされるが、その運び手となるのがシンボルである。夢から送られて来るメッセージからシンボルを読み解くことは、人の生き方の創造性を生み出すうえで必要なことである。
    シンボルの形成を集団の中で見てみると、集団の中で創造的な能力のある個人が、なんらかのシンボルを見出すと、集団の成員はそのシンボルによって新たなエネルギーを湧き立たせることになる。戦争中の日の丸のように、シンボルによって無闇に動かされないためには、その意味を意識的に把握する必要がある。ところが、シンボルの意味が言語化され、自我によって把握されると、それは活力を失い、もはやシンボルではなくなってしまう。現代人としての反省は、19世紀の合理精神が息の根を止めたシンボルやイメージを、いかにして再生せしめ、現代人の心の均衡を回復するかという点にかかっている。

心の内向性と外向性・4つの心理機能

※ ここからしばらく、ユングが提唱する「内向性と外向性」そして「タイプ論」について見ていくが、この考えに至った経緯はユニークである。ユングと同じく、フロイトの後継者と期待されていた心理学者にアドラーがいる。しかし、アドラーは、フロイトを批判して彼の学派から離脱する。フロイトとアドラーは、精神分析において学説が異なっていた。ユングは、アドラーがフロイトと袂を分かつとき、どちらの味方をするのかを迫られ、まわりは当然フロイトの味方をするだろうと思っていた。しかし、どちらの味方もしなかったのである。フロイトとアドラーの違いというのは、次のような症例で分かる。あるヒステリー症状を示す女性がいた。彼女は、夜中に不安発作にみまわれ、金切り声をあげて飛び起きたかと思うと、夫にしがみついて「私を捨てないで!」と叫ぶということを毎晩繰り返していた。この症例に対して、フロイトはエデイプス・コンプレックス(エレクトラ・コンプレックス)を根源的なものとして解釈した。しかし、アドラーは、劣等感コンプレックスが根源的なものであるとして、その解釈をしようとしたのである。彼は、フロイトの性欲説に対して、人間の最も根源的な欲望は「権力への欲求」であることを主張し、フロイトのエデイプス・コンプレックスに対して、劣等感コンプレックスを提唱する。ユングはどちらの主張も一理あると思ったが、どちらが正しいか判断できないことに困り果てた。そんなとき、彼が考えついた発想は、同一現象に対して、2つの異なる見方が存在するのはなぜかという疑問だった。結局、この問題は、フロイトとアドラーの根本的な態度の相違に帰着すると考え、フロイトの考えは外向的な観点から、アドラーの考えは内向的な立場によってなされていると判断した。ここから内向性と外向性という性格類型の考えが生じてきたのである。

(1) 内向性と外向性・・・・・「内向的な人」とか「外向的な人」というのは、ユングが初めて分類したもので、「意識的態度」を大きく2つに分けたものと言える。
① 内向性――1)何か出来事に出会ったとき、拒否するように身構える。
         2)外の世界よりも、自分の世界に関心が向かう。
         3)外の世界に、自分を合わせようとは考えない。
  ② 外向性――1)何か出来事に出会ったとき、自信をもってすぐに反応する。
         2)自分の世界よりも、外の世界に関心が向かう。
         3)どんな環境・状況にも、積極的に参加。 
(2) 自分のなかに共存する「外向性」と「内向性」
外向性と内向性もまた、人の心を成り立たせている対照的要素であって、人は誰しも、外向性と内向性の両面を持っている。普段は、どちらか一方が「意識」として表に出ていて、それが習慣化しているが、表に出ている態度が激しくなり過ぎたり、頑固になり過ぎたりすると、「無意識」の態度が、その無理な状態を補おうとして表面に出てくる。(例えば、普段外向的な人が、祭りのときはハイテンションだったのに、フッとふさぎ込むなど)内向的な人は心奥の外向性を、外向的な人は心奥の内向性を理解する必要がある。
(3) 4つの心理機能
① ユングによると、人の心には、「思考」、「感情」、「感覚」、「直感」という4つの心理機能が存在する。
② 「思考」と「感情」が対照関係の対となり、「感覚」と「直感」がもうひとつの対照関係の対である。したがって、人の心は2つの対から成り立っている。
③ は誰しもが、この4つの機能を備えているが、そのうち、どれか1つがとても強く働いていて、その特徴が表に出ている。普段の性格や行動(すなわち意識)を、1つの機能が大きく左右する。そして、同時に、その影響している機能と対照になっている機能が、「無意識」のなかに大きなエネルギーとなって潜んでいる。このとき、残りの対になっている対照機能は、「補助機能」として働く。例えば、「思考機能」がその人の性格や行動を導くとすると、「感覚機能」と「直感機能」がそれを助け、一方で、「感情機能」がその人の無意識世界に働きかけていることになる。
    ④ 意識に現われる機能を「主機能」と言い、無意識のなかに潜む機能を「劣等機能」(劣っているという意味ではない)と言う。
  1)「思考機能」と「感情機能」=合理機能
●「思考機能」―-○ 対象物の意味を考える機能
         ○ それがどんな種類に属していて、どんな価値を持っているか思考。
         ○ ルールや公式などを導き出す。
  ●「感情機能」――○ 対象物の好感度をつかみとる機能
         ○ 理屈ではなく快感をどれだけ得られるかに絞って対象をとらえる。
  2)「感覚機能」と「直感機能」=非合理機能
  ●「感覚機能」――○ 対象物の実際の姿形をつかみとる機能。
         ○ 客観的に現実判断をする力。
  ●「直観力」――○対象物の特徴から、独特のメッセージに気づく機能。
         ○ 対象物の持つ可能性を見出す力。
(4)「合理機能」と「非合理機能」
  ユングは、「思考機能」と「感情機能」を「合理機能」、「感覚機能」と「直感機能」を「非合理機能」と呼んで、この対どうしがやはり対立する要素だと言っている。「合理機能」とは、「論理性」や「理性的」といったものを意味し、その能力は、「経験」によって培われる。それに対し、「非合理機能」は、経験にはあまり左右されず、目前の対象物や出来事そのものに直接反応する機能である。

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