とびもの学会ではアオシマさんの新製品、宇宙探査機「はやぶさ」のモックアップが展示されました。アオシマらしいユニークかつタイムリーな商品で発売が期待される訳ですが、最近同社の創業者の青島次郎氏の軌跡を綴ったアオシマ発行の冊子を手に入れました。
ですがこれは・・・・・これは模型メーカーのお話というよりは「飛行家、青島次郎」の物語ですね。明治30年生まれの模型飛行機作りが大好きだった少年次郎は18歳の夏に上京し、漬物屋に職を見つけるのですが、そこで女中をしていたのが、あの伊藤音次郎の妻の妹という偶然。
伊藤音次郎氏については多くの説明は必要ないと思いますが、日本民間航空機開発の立役者と言っていい大人物。(詳しくは平木國夫氏の著作「空気の階段を登れ」などを読んでみてください)
これを縁に建具屋の奉公経験のあった次郎は飛行機修理整備工として伊藤飛行機研究所に入ります。大正8年には飛行練習を始め、山県豊太郎氏の指導を受けながら飛行経験を積み、大正11年には正式に3等飛行士の免許を取得します。
右が伊藤音次郎氏、中央が山県豊太郎氏
写真の機体は地上滑走練習に使われた陸軍三型滑走練習機
インディアン練習機(と表記してあるがソッピース11/2ストラッター、
インディアンというのは換装されたエンジン、インディアン80馬力の事かと「空気の階段を上れ」参照)
そして故郷静岡に帰った次郎は「青島飛行機研究所」を設立します。
これらの機体を使い30歳過ぎまで地元の著名な飛行士として次郎は競技会や宣伝飛行に大活躍したのでした。
以後はタクシー会社を開業し生活を安定させると、再び飛行機の夢を今度は模型飛行機に託して販売を始めました。
これが、模型メーカーとしてのアオシマの始まりとなります。
ニューポール第一静岡号(おそらく陸軍払い下げのニューポール81E2複座練習機)とアブロ504K (静岡アブロ号)
アブロとニューポールも昭和初期まで次郎主催のイベントや地元の航空祭などで稼働状態のまま使われ続け、少年達の空への憧れをかき立てたのでした。
昭和期の航空機、科学雑誌を見ると飛行可能な模型飛行機と実機を忠実に再現したソリッドモデルの作り方について実に熱心にページが割かれているのがわかるのですが、学校教育に模型飛行機製作というのが取り入れられている事もあって青島の事業も大忙しになりました。しかし昭和19年後半になると資材不足、そして何より戦局の悪化で模型飛行機どころではなくなり業務は休止状態に追い込まれてしまいました。
そして終戦後GHQは飛行機模型の販売にまで制限を加えますが、次郎は進駐軍のジープなどの木製模型で販路を確保。そして次郎にとって待望の航空機模型製作再開の許可がおりた昭和24年、静岡模型倶楽部の会長に就いた次郎は思いもかけぬ脳溢血で倒れ53歳の若さでこの世を去ってしまったのでした。次郎が航空機模型の楽しさを子供に伝えるため、単なる商売以上の情熱で学校教材に力を入れた事は下のこのページの写しからもわかりますが、これがいまでも他の模型メーカーとは少し異なるアプローチをするアオシマの「文化教材社」のルーツだったとも言えます。
読んでみて、太く短い人生だったのですが、模型と飛行機に生きたホントに素晴らしい人生だとおもいました。ニューポールやアブロのデカール等いろいろ作ってみたくなりました。