瞑想をする人口は増えている。
瞑想を教える場が増え、コーチも増えて、資格など
そのうち出来るかもしれない。
資格取得して瞑想教室を自宅に開きたいという夢見る
人はカモになる。
これが一番やってはいけない、やっても無駄なこと。
瞑想にいろいろあるというのは世の常で、なんでも
本道があれば亜流が生まれる。またブランド化され
ればニセモノもできる。
何をするのも勝手であるが、目的によって選択が
変わってくる。
瞑想は自我意識に固執した状態の、活発な脳活動を
呼吸によってコントロールし、鎮めていく一つの術
である。何のためにそれを用いるかを自覚しないで
形としての瞑想を真似る人が多い。
キャッチフレーズに惹かれて「良くなる」と思って
選ぶ人もいるだろう。
良くなる? とは限らない。
顕われる、のが正しく瞑想をした結果である。
鎮まり、顕われてくる。
これがわからないうちに瞑想をしても深く降りて
いけない。
けれども瞑想をしたがる人の理由の多くは
静まりたいからだろう。騒がしい日常から離れ
瞼を閉じて、深呼吸をして、じっとしている、
それだけで休まるからである。
それもいいことだし、それだけのことではある。
思い込みをしてしまわないことが大事だ。
静かになって、再び目を開けたときに、その落差
が大きければ大きいほど、考えるきっかけになる。
そこでちょっとだけでも落差について考えること、
良くなったと思い込まずに考えること、
それが次の瞑想を変える。
カメの指導する瞑想は静まるためではない。
止観(仏教の瞑想)をさらに進化させたものだ。
止観にも段階がある。
到達点を極めるには行ずるしかない。
仏教では行法を定め位にした。僧侶は得度したらそれを
修めねば位があがらない。そうしたところで、観は
行じる者のみが覚るところだ。
僧侶の個人差はおのずと人となりとして顕われる。
本山で修行してきたからといって坊さん皆がサトリを
開いているとは限らないのは当然のことだ。
宗派によって位の名称が異なるが、低い位のままの
貧乏寺に徳のある坊さまがいたりする。
金持ちの寺僧など、本来おかしな話だ。
仏教の組織化は、止観の行の妨げとなった。
トンチの一休さんも手鞠唄の良寛さんも、大組織の
寺を自ら出たことはよく知られたことだ。
ぬくぬくとした大寺で権力とつながり、特権に保護
された上で修行とは矛盾である。
大昔からそうであるから、本気で修行したい人、
瞑想をしたい人はどこへ行けばいいのか、難しい。
本に書かれてあることを自分でやってみた、という
人も多い。
本はたくさんある。(「天台小止観」など)
しかし、観は不立文字の学である。
書かれたことから学ぶのはむずかしい、というより
不可能に近い。(知ったかぶりの寄り道に注意ね)
瞑想を「本来の自分と出会うため」と位置づけするのは
初心者向けであって、カメの説く本来の目的はそれで
はない。
神を知るため、神を感じることのできる魂に気づく
ためである。魂は自らのうち、自らの外、そこここに
はたらいている。
だが、生まれたときからかたわらの魂に守られている
ことには気づかず、ぴったりと憑依した不成仏の先祖を
守護霊と崇めている人さえいる。いや、ほとんどがそう。
前頭葉バリバリの冴えてる~と思っている人は
それさえまったく意識できないままだ。
不都合が起きても気づかないし、自信家で自己中である。
不成仏の霊魂は不浄であり、自分の魂にとっては妨げで
ある。だからといって不浄を嫌って除霊とか言うのは
これまたいけない。
その不浄と「仲良し」の自分に気づく、まずそれが本来の
自分との出会いの段階である。
多くの人がそこ止まりになる。
そこから先へと導いているのがカメの瞑想であるが、
教義をよく学んでいないと、そこから先の「先」が何を
示しているのかわからない。あてどなく道を散歩している
ようなものとなる。瞑想は教義で理論を知った上でのこと
るなのだが…。
実際、カメの空間は気持ちがよい。
気持ちのよさに惹かれ、瞑想を続けたい気持ちは
わからなくもないが……、
そこではない、到達すべきは気持ちよさではないし
すっきり感でもない。
(実際にすっきりして気持ちよくて元気になるが
そこじゃないのだ…だから○○と続く思考力が要る)
人は生まれ、生き、そして死に、そして旅に出る。
その旅がよき旅となるか、無間の闇夜になるか。
どの段階で到達するか。
その違いは、それぞれがどう生きたかである。
多くの人が死ぬときは気楽に死にたいと思う。
それは不可能ではないが、生きているときに気楽で
死ぬときが気楽で、とはいかない。
本当の瞑想は、死について学ぶことも含まれている。
当座の快感でいいのよ、リフレッシュできればと
思っているなら、巷で流行の瞑想は、ちょっと高くつく
オマケがついてくる。ご承知おきを。
awanomiya.com 瞑想他、実践法を紹介されています。
瞑想を教える場が増え、コーチも増えて、資格など
そのうち出来るかもしれない。
資格取得して瞑想教室を自宅に開きたいという夢見る
人はカモになる。
これが一番やってはいけない、やっても無駄なこと。
瞑想にいろいろあるというのは世の常で、なんでも
本道があれば亜流が生まれる。またブランド化され
ればニセモノもできる。
何をするのも勝手であるが、目的によって選択が
変わってくる。
瞑想は自我意識に固執した状態の、活発な脳活動を
呼吸によってコントロールし、鎮めていく一つの術
である。何のためにそれを用いるかを自覚しないで
形としての瞑想を真似る人が多い。
キャッチフレーズに惹かれて「良くなる」と思って
選ぶ人もいるだろう。
良くなる? とは限らない。
顕われる、のが正しく瞑想をした結果である。
鎮まり、顕われてくる。
これがわからないうちに瞑想をしても深く降りて
いけない。
けれども瞑想をしたがる人の理由の多くは
静まりたいからだろう。騒がしい日常から離れ
瞼を閉じて、深呼吸をして、じっとしている、
それだけで休まるからである。
それもいいことだし、それだけのことではある。
思い込みをしてしまわないことが大事だ。
静かになって、再び目を開けたときに、その落差
が大きければ大きいほど、考えるきっかけになる。
そこでちょっとだけでも落差について考えること、
良くなったと思い込まずに考えること、
それが次の瞑想を変える。
カメの指導する瞑想は静まるためではない。
止観(仏教の瞑想)をさらに進化させたものだ。
止観にも段階がある。
到達点を極めるには行ずるしかない。
仏教では行法を定め位にした。僧侶は得度したらそれを
修めねば位があがらない。そうしたところで、観は
行じる者のみが覚るところだ。
僧侶の個人差はおのずと人となりとして顕われる。
本山で修行してきたからといって坊さん皆がサトリを
開いているとは限らないのは当然のことだ。
宗派によって位の名称が異なるが、低い位のままの
貧乏寺に徳のある坊さまがいたりする。
金持ちの寺僧など、本来おかしな話だ。
仏教の組織化は、止観の行の妨げとなった。
トンチの一休さんも手鞠唄の良寛さんも、大組織の
寺を自ら出たことはよく知られたことだ。
ぬくぬくとした大寺で権力とつながり、特権に保護
された上で修行とは矛盾である。
大昔からそうであるから、本気で修行したい人、
瞑想をしたい人はどこへ行けばいいのか、難しい。
本に書かれてあることを自分でやってみた、という
人も多い。
本はたくさんある。(「天台小止観」など)
しかし、観は不立文字の学である。
書かれたことから学ぶのはむずかしい、というより
不可能に近い。(知ったかぶりの寄り道に注意ね)
瞑想を「本来の自分と出会うため」と位置づけするのは
初心者向けであって、カメの説く本来の目的はそれで
はない。
神を知るため、神を感じることのできる魂に気づく
ためである。魂は自らのうち、自らの外、そこここに
はたらいている。
だが、生まれたときからかたわらの魂に守られている
ことには気づかず、ぴったりと憑依した不成仏の先祖を
守護霊と崇めている人さえいる。いや、ほとんどがそう。
前頭葉バリバリの冴えてる~と思っている人は
それさえまったく意識できないままだ。
不都合が起きても気づかないし、自信家で自己中である。
不成仏の霊魂は不浄であり、自分の魂にとっては妨げで
ある。だからといって不浄を嫌って除霊とか言うのは
これまたいけない。
その不浄と「仲良し」の自分に気づく、まずそれが本来の
自分との出会いの段階である。
多くの人がそこ止まりになる。
そこから先へと導いているのがカメの瞑想であるが、
教義をよく学んでいないと、そこから先の「先」が何を
示しているのかわからない。あてどなく道を散歩している
ようなものとなる。瞑想は教義で理論を知った上でのこと
るなのだが…。
実際、カメの空間は気持ちがよい。
気持ちのよさに惹かれ、瞑想を続けたい気持ちは
わからなくもないが……、
そこではない、到達すべきは気持ちよさではないし
すっきり感でもない。
(実際にすっきりして気持ちよくて元気になるが
そこじゃないのだ…だから○○と続く思考力が要る)
人は生まれ、生き、そして死に、そして旅に出る。
その旅がよき旅となるか、無間の闇夜になるか。
どの段階で到達するか。
その違いは、それぞれがどう生きたかである。
多くの人が死ぬときは気楽に死にたいと思う。
それは不可能ではないが、生きているときに気楽で
死ぬときが気楽で、とはいかない。
本当の瞑想は、死について学ぶことも含まれている。
当座の快感でいいのよ、リフレッシュできればと
思っているなら、巷で流行の瞑想は、ちょっと高くつく
オマケがついてくる。ご承知おきを。
awanomiya.com 瞑想他、実践法を紹介されています。