略して、かかか(カメ先生斯く語りき)なのだ

安房宮源宗先生から教わった事を独り占めして
腐らせたりしないように、道に迷っている人も読めるように
記します。

瞑想のいろいろ

2015-08-26 14:09:14 | 覚え書き
瞑想をする人口は増えている。
瞑想を教える場が増え、コーチも増えて、資格など
そのうち出来るかもしれない。
資格取得して瞑想教室を自宅に開きたいという夢見る
人はカモになる。
これが一番やってはいけない、やっても無駄なこと。

瞑想にいろいろあるというのは世の常で、なんでも
本道があれば亜流が生まれる。またブランド化され
ればニセモノもできる。
何をするのも勝手であるが、目的によって選択が
変わってくる。

瞑想は自我意識に固執した状態の、活発な脳活動を
呼吸によってコントロールし、鎮めていく一つの術
である。何のためにそれを用いるかを自覚しないで
形としての瞑想を真似る人が多い。
キャッチフレーズに惹かれて「良くなる」と思って
選ぶ人もいるだろう。

良くなる? とは限らない。
顕われる、のが正しく瞑想をした結果である。
鎮まり、顕われてくる。
これがわからないうちに瞑想をしても深く降りて
いけない。
けれども瞑想をしたがる人の理由の多くは
静まりたいからだろう。騒がしい日常から離れ
瞼を閉じて、深呼吸をして、じっとしている、
それだけで休まるからである。
それもいいことだし、それだけのことではある。

思い込みをしてしまわないことが大事だ。
静かになって、再び目を開けたときに、その落差
が大きければ大きいほど、考えるきっかけになる。
そこでちょっとだけでも落差について考えること、
良くなったと思い込まずに考えること、
それが次の瞑想を変える。

カメの指導する瞑想は静まるためではない。
止観(仏教の瞑想)をさらに進化させたものだ。
止観にも段階がある。
到達点を極めるには行ずるしかない。
仏教では行法を定め位にした。僧侶は得度したらそれを
修めねば位があがらない。そうしたところで、観は
行じる者のみが覚るところだ。
僧侶の個人差はおのずと人となりとして顕われる。
本山で修行してきたからといって坊さん皆がサトリを
開いているとは限らないのは当然のことだ。
宗派によって位の名称が異なるが、低い位のままの
貧乏寺に徳のある坊さまがいたりする。
金持ちの寺僧など、本来おかしな話だ。

仏教の組織化は、止観の行の妨げとなった。
トンチの一休さんも手鞠唄の良寛さんも、大組織の
寺を自ら出たことはよく知られたことだ。
ぬくぬくとした大寺で権力とつながり、特権に保護
された上で修行とは矛盾である。

大昔からそうであるから、本気で修行したい人、
瞑想をしたい人はどこへ行けばいいのか、難しい。
本に書かれてあることを自分でやってみた、という
人も多い。
本はたくさんある。(「天台小止観」など)
しかし、観は不立文字の学である。
書かれたことから学ぶのはむずかしい、というより
不可能に近い。(知ったかぶりの寄り道に注意ね)

瞑想を「本来の自分と出会うため」と位置づけするのは
初心者向けであって、カメの説く本来の目的はそれで
はない。
神を知るため、神を感じることのできる魂に気づく
ためである。魂は自らのうち、自らの外、そこここに
はたらいている。
だが、生まれたときからかたわらの魂に守られている
ことには気づかず、ぴったりと憑依した不成仏の先祖を
守護霊と崇めている人さえいる。いや、ほとんどがそう。
前頭葉バリバリの冴えてる~と思っている人は
それさえまったく意識できないままだ。
不都合が起きても気づかないし、自信家で自己中である。

不成仏の霊魂は不浄であり、自分の魂にとっては妨げで
ある。だからといって不浄を嫌って除霊とか言うのは
これまたいけない。

その不浄と「仲良し」の自分に気づく、まずそれが本来の
自分との出会いの段階である。
多くの人がそこ止まりになる。

そこから先へと導いているのがカメの瞑想であるが、
教義をよく学んでいないと、そこから先の「先」が何を
示しているのかわからない。あてどなく道を散歩している
ようなものとなる。瞑想は教義で理論を知った上でのこと
るなのだが…。

実際、カメの空間は気持ちがよい。
気持ちのよさに惹かれ、瞑想を続けたい気持ちは
わからなくもないが……、
そこではない、到達すべきは気持ちよさではないし
すっきり感でもない。
(実際にすっきりして気持ちよくて元気になるが
そこじゃないのだ…だから○○と続く思考力が要る)

人は生まれ、生き、そして死に、そして旅に出る。
その旅がよき旅となるか、無間の闇夜になるか。
どの段階で到達するか。
その違いは、それぞれがどう生きたかである。

多くの人が死ぬときは気楽に死にたいと思う。
それは不可能ではないが、生きているときに気楽で
死ぬときが気楽で、とはいかない。
本当の瞑想は、死について学ぶことも含まれている。

当座の快感でいいのよ、リフレッシュできればと
思っているなら、巷で流行の瞑想は、ちょっと高くつく
オマケがついてくる。ご承知おきを。


 awanomiya.com 瞑想他、実践法を紹介されています。
















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現人神とキリスト教

2015-06-15 14:39:39 | 覚え書き
旧事紀の講義の感想に、たまにこういうのがある。
「天皇を神とする考え方に疑問があったが、ここで
解けた。人間なのになんで神というか、おかしいでは
ないかという自分の考えは正しかったとわかって
すっきりした」というものだが。
これは正しく理解したとは言い難いのだが、本人が
すっきりしたと言い切っているのだから、それはそれ、
あえて問われない限り、口を挟む余地はない。
これがイマドキの人に多い学び方であるが、とても
短絡的で浅いのである。

キリスト教では聖餐という儀式がある。
有名な最後の晩餐からとられたもので、キリストが
弟子たちに与えたワインとパンを「わたしだと思え」
と言ったとされるものであるが、わたしだと思うとは
どういうことか、それがカトリックとプロテスタント
では解釈が異なる。

カトリックでは言葉そのもの、ワインはキリストの血、
パンは肉である。これを血がワインに変わるわけがない
ではないか、といってしまえば先にあげた日本の現人神
天皇はニンゲンなのに神なわけないじゃないか、という
のと同じである。
かたやプロテスタントは観念としての血をワインにみたて
肉をパンにみたてていただくということだ。
どちらかというとプロテスタントのほうが現代的な考え方
に感じられるかもしれない。
こういう教義解釈だけで二分したわけではないので、
キリスト教のことはこのあたりでやめておくとして…。

古事記日本書紀を出典とした天皇論であるというが、
あからさまに神なんだからと書かれているわけではない。
世間に記紀を深く読む人が少ないので、いいかげんである。
「天つ神と天つ大御心」を受け継ぐのが天皇であると
いうことなのだが、心を受け継ぐということが重要である
ことが、ここで了解されなければならない。

国家支配という目的のために、絶対的権力としての
徴が必要であるとして、三種の神器を受け継いできた
天皇家を頂点に位置するものとし、天皇を最高位として
天皇が自ら政治を行えない場合には摂政を置くとした、
というのは、生臭い話であってこれがこのままに古伝
に書かれているわけではない。

記紀をどう解釈するかについて平田篤胤の論説を引用
した明治政府御用学者が以上のような定義をもって
天皇を現人神として奉り上げた。
そのとき犯した最も大きな過ちは何か?
これが「天つ大御心」とは何かということを忘れて
しまったことである。おそらく古事記をよく学ばず、
よもや旧事紀など10巻本しかなかったであろうから
知れるわけもないが、哲学的に浅薄であったといえる。

さらに云えば古事記のどこを読んでも日本書紀をどう
読み直そうとも、その天つ御心は書かれていない。

仁徳のなき天皇など天皇に非ず。
深き智と覚なき天皇など天皇の位に非ず。
その信は真でなくば、天皇の位に非ず、また神の位に
非ずとするのが古き伝えによる神の道のごく当然のことだ。
この古き伝えとは先代旧事本紀大成経それのみであって
奈良時代前後に編纂された国書からは削られている。
為政者にとってははなはだ都合の悪い「大御心」だから
だろうと推察する。

話を最初に戻すが、
「天皇が人間であったとわかってほっとした」方は、
天皇の役割が神職であることを理解していないのだろう。
知ってはいるだろうが理解はしていないのかもしれない。
(神職という表現は現代的であって古代は職ではない)

天皇の日々続く禁欲生活をタダビト(凡人)にできるかと
いえば否である。
神に仕える、斎元道というのは一切の穢れを祓い、
神の前に額ずき詔をいただく、私心のない姿でなければならない。
それは勝手気ままにより自由に日常を送りたい我ら凡人の
及ぶところではない、というと言い過ぎだろうか?
いや、自由という語句がないのが天皇であると断言できる。
それでも「ただの人」じゃないか、と言いたいだろうか。

人間は放っておくと、獣と同じというよりも以下で、
獣を駆逐してしまう暴力的な存在であるという自覚が
ないと、神と支配、神と盲従という図式に知らぬまに
囚われ、思い込んでしまうだろう。
人間の支配欲と暴力性が産み出した天皇像は、そこから
導きだされたものである。

天皇が人間ですっきりしたという方は、抑圧の感覚
から解放されたか、ひがみから気が晴れたか、どちらか
なのだろう。それもまた小さな私心である。
天つ心は、人に降ろせば「五徳」であるのだから、
自分が徳からいかに遠く隔たっているか、それを思えば
言えたことではない、ということだ。

天つ大御心をひきつぐ天皇という位は、人に心を教え、
けもの道ではなく人の道を歩くように手本を示す立場
であった。
よって権力を私物化して暴挙を行う御代は滅びても
当然であった。
また、山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされて以降、天皇家に
聖徳太子のような聖人が誕生していないこともまた日本の
古道が廃れる方へひた走ってきた理由ではないだろうか。

かように、悪は強し。
これもまた古伝に記された通りのことである。

ただ聖徳太子の遺言ともいえる聖典は残っている。
記された「天御心」を学ぶことはできる。
それは知れば知るほどに、凡人である私を平安に
誘ってくれるし、併せてついてくる透徹していく
感覚によって、悪と悲惨もまたより深く感知する
こととなる。
「お花畑の平穏」など説いている生半可な書物では
ないので、ここに学ぶ者は強い精神を養うこととなる。





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八紘一宇とは何か

2015-03-27 12:52:28 | 覚え書き
先代旧事本紀 第十七巻 神武天皇より

「 夫れ大人として制義を立つるに必ず時に随ふ。
苟くも民に利有らば何ぞ聖の道に妨はむ。
且つ當に山林を披き払い宮室 瑞門 経営べし。
而て恭みて宝位に臨み以て元元を鎮め
上は則ち乾霊の要 國を授けませる徳に答へ、
下は則ち皇孫の眞正を養いしの心を弘め、
王道の徳有るに任て 然六合を兼ね以て都を開き
八紘を掩いて宇と為す亦可む乎。」

1.「八紘を掩いて宇と為す」とは天・人・地を
一つにつなぐことを意味する。
すなわち、神の心をむねとする皇孫が地にひもろぎを
建てることである。

眞正を養いしの心とは、天にかたよらず地にかたよらず
人としてその内に居ることの徳をいう。
その徳によってつながる國をつくるがよかろうという
意味である。
眞正は、今の世にいう善悪における正しさという意味
ではなく、人の世以前のありかたをいい、
「神と我と一つとして私欲なく隔たるところなしとし、
君子に私する物なく、上は神物、下は民物として
己にこれを蓄え無しとする」ことによって神喜び人朗
らかな地となる、そのような状態をさし、それを王道と
いう。

 これは初代天皇、諱を神倭磐余彦尊、諡を神武天皇が、
大和の地、畝傍山の東南橿原の地を選び肇國とし、都を
造ることを宣う詔にある詞である。
 ここには、我が国の伝統の謂れが説かれていて、天皇
とは何を為すべきか、そして臣は何を為すべきかが約束
されている。國の決め事が簡潔に、そして明確に述べら
れている。

 神の道の肝心要が、この始まりにおいて語られている
ことに注目すべきであるが、同時に、五鎮三才の意味を
知らずして読めば字句のままに訳して誤解することが
想像できる。(記紀には経教本紀に該当する記述は無い
ので無理からぬことである)
逆に、経教本紀を修得後に神武天皇紀を読めば、神の
はたらきを受けた人の世の始まりに、順々に何を為した
かがわかり、それは現実世界において神がどうはたらくか
を理解する一助になる。
つまり人は何をなすべきかを知ることができる、という
ことである。

(私は先日ブログに記載した際に眞正を単にかたよらずと
いう理解に留まっていたので、改めて源宗先生にお尋ね
したことを加筆しています)


2.昭和の御代、大東亜戦争時に陸海皇軍が戦意昂揚の
ために用いた標語「八紘一宇」は神武天皇の詔の心と
まったく逆の意味において使われた。このことはすでに
多くの人が承知していることだが、戦後、GHQによって
使用禁止と指定されたがための否定ではなく、原文を
知って理解したほうがいいかと思う。

自国の伝統を本当に否定しなければならないのならば
しかたがない。しかし、日本書紀にある詔から抜いた
一章句を表に使い、中身を変えてしまうのは咎であり
邪である。
政府の行ったことは「私無く國を治め人を楽しませ」
と宣された詔の心とは真逆であったことを知るならば、
自国の誇りを改めて認識することができるのではなかろうか。
古代において日本は、平和を志す国として始まったと
いうことの誇りは、未来へつなげていくべき宝である
と思う。

 いつの代も官(つかさ)において不正がなされてきた。

平成の御代は、ありがたいことに天皇陛下は平和憲法を
尊ぶことを会見において積極的にご発言された。それは
新聞報道やNHKの報道で省略されたにしても、SNSなどに
よって人々が伝え、周知のこととなっている。
憲法を変えたいと騒いでいるのは官である。

官は天皇陛下に任に就く際は詔勅をいただくのであるが、
お言葉には逆らっている。これを悪びれもなく行いながら
片方で「八紘一宇」と叫んでいるのである。
奈良時代の天武朝以来、ずっと日本はこれと似たり寄った
りで、王道の徳は影を潜めてきた。

 それでも神徳のおかげかと思いたくなるような、奇跡的
ともいえるような、国の恢復をみてきたこともあったが、
それは国民ひとりひとりのなかに密やかに伝わりつながり
続けてきた「神の心をむねとする」徳のおかげである。

名は無くとも、人は神をむねとすることによって神と一つ
となりそのはたらきを表すことができる。
人一人のそのはたらきによって、その周囲が助けられ、
その恩恵を受けたものの信頼は徳となり、そうやって少し
ずつ美い行いへとつながっていく。
そういうことが連綿と先祖の時代からこの国では行われて
きた、外国からみれば不思議な国なのである。

しかし戦後70年が経ち、その灯火がいよいよ心細く
かよわいものになってきたように感じる。
 与党議員の八紘一宇発言を機にこの言葉をめぐって
少しだけ説明させていただいたが未熟な言葉で申し訳ない。
ただ、日本の古来あった〈神の道〉は、美しくやさしく、
おくゆかしい。そして楽しい。
神社神道からは伺い知ることはできなくなった世界が
そこに広がっていて、生きる意味を教えてくれる。
そのことを先代旧事本紀大成経において伝え残された叡智
とおもいやりに心から感謝する。
ひとりでも多くの人が知るところとなればと願っている
のであります。

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神性、魂への近道

2014-08-14 22:35:36 | 覚え書き
人に生まれたわけですから 2012.9.3をひさびさに読み返してみて
おもしろかった。同じテーマでも時が隔てると切り口や視点が
また違っていて自分で書いたものとはいえ、ふんふん、そうか
と読み進み、おもしろかった。
ちょうどこれから書きたかったことと少しだけ重なる。


「ですから目的は欲であっても結構ですと言っているわけです。
神が何なのか知らない、実感していない、ならば人間なのだから
まず欲から入っていきます。そして、その欲を満たし手に入れる
ためにどう努力をしているかという答えを、まず出していただき
たいのです。努力する方法が間違っているならば、何故どうして
どう間違ったかについてお答えします。正しい方法を智ることが
魂のあるべきようを智ることにつながっていくからです。
どう行うのかというところに神性さのあるべきようの教えがあり
それを積み重ねていく中で、魂とは何かとつきつめていく頭脳の
はたらきが肉体としてあります。魂と肉体とは決して切り離して
学んでいくものではありません。続く…」

(薫りたつ人・其の弐より)

これは22年ほど前のカメ先生の講義の抜粋だ。
パラッと開いたこの頁で、ああ、そうそうこれが答えだなと頷く
ケースがあった。

「先生ならボクの願いを叶えてくれると思ったから、先生と
いうか神様ですけど、だからここに来たんですけど、色々と
勉強したり努力しなきゃというなら来た意味がないんです、
自分ががんばらなきゃならないなら神様いらないじゃない
ですか」こう言った人に対して
「正直だなあ」と言った人がいる。

先生の返答はさておくとして、正直だなあと言った人に
それは正直とは言わない、本音というものだよと私は言おうと
したが、正直だなあという感想はいわずもがなのその人の本音
でもある。代弁してくれたと同調したようなものである。
正直と本音の区別を説いたところで意味はないのだった。

カメ先生は欲深い彼らに迎合しているかのようにみえて、実は
そうでもない。入門したての、頭ガチガチだったうさこには
なんだか測り難いロジックであるなあと胸騒ぎがしてしょうが
ないのだったけれど、辛抱して最後まで聴いていた。
辛抱して聴いているうちに集中していき、するとその裏にある
(裏でもないけど)意味が固いオツムにもわかったものだ。

欲が悪いわけではない。問題があるとすれば方法、プロセス
にある。方法の修正をしていくと、理を知ることになり、
理を修めようとすれば、自我へのかたよりを平らにしなければ
ならなくなる。見えないもの、見ようとしなかったものも
自明のものとなる。
じゅんじゅんと、行いながら身体で覚るように促しておられた。
それ以外に本人が自覚していく道はないからだった。

最初から神性(魂)を神性として意識している人は数少ない。
肉体ありきで、脳みそありき、それが自分の全てであり、社会的
地位やなんやかやの肩書きがそれに加わって自分自身と思って
いる人は、目先の見えるモノにしか興味がいかない。
即、結果が欲しくて神頼みしたり、霊能力に憧れたりする。
問題は本当の自分を知らないこと、その上自分のことしか考えない
ので周囲がほとんど見えていないということである。
これを言葉で諭していくのは難しい。反発し益々自意識過剰に
なるだけだ。

人が生きて行く上での根本の課題を超えるには実感していくしか
ない。自らが行い、その事実から目をそらさないことだ。
事実を見据えるためには、自分の感情に流されてはならない。
回り道のようであって、実際には神性の覚醒にもっとも近道
なのだ。

神様の力で願いを叶えてくれるという思いは、今も昔も
普遍的に根深く根強くあるようで、神は人の道具でもないし、
カメはパシリでもないという話をいくらしても、思い込みの
激しい人は聞く耳を持たない。
ガンジガラメの思い込みはどこから持ってきたのだろうか?
といつも思ってしまうが、無知と視野の狭さ、おまけに傲慢と
いう強敵も加えた愚連隊に囚われているようなものだ。

今年のお盆はおだやかに過ぎようとしている。
神の元へかえられたご先祖をお呼びたてするのもなんなんだが、
気になってしかたがないことがあって、目を瞑って訪ねてみた。

うれしさ極まり、おだやかで、あたたかな返礼をいただいた。
はるばる、遠く、まるでファーストスターのような、いや
それよりももっと遥かかなたからだろうけれども、つながれば
俗世の塵芥をが一瞬に祓われて、清々しいことであった。

夢ではありませぬ、正午前の明るい陽射しのもと…










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臆病者

2014-08-09 00:08:50 | 覚え書き

人はみかけによらない。
ほぼバレたことはないが、わたくしは臆病な性格です。
しかし臆病者ではないのです。
バレないのは、臆病な自分と臆病でない私があって、
臆病でない方が表だっているからなのでした。
しかし、あなたは臆病なのだよ、ズバリと指摘した人が
一人だけいます。
それはカメ先生であります。そうです、我が師です。
先生は弟子をとりませんから世間でいう師ではなく、
おしえびとと訓む意味での師です。

自分の性格はわかっているようで、その実、核心をつく
ほどにはわかっていないのが普通です。
自分が臆病だと気づいてはいました。
しかし世間の反応は自分の思いとはまるで反対で、
行動的かつ好戦的な、いうなればタクマシイ人のような
思われ方をしてきたのです。

自分の意見を言い、解決するべく行動するのをためらわない
というのは、生きる手段、方法ですから性格とは違います。
気持ちは関係なく、しなければならないから行うのです。
おおむね行動と性格を一緒にして相手を判断するというのが
一般的な人の見かたです。
そのせいで、わたしの臆病はバレませんでした。

己を知ることは、多くの学びの第一歩です。
そしてその一歩は次に続く二歩、三歩、さらに高みへ
いくよりも、もっとも難しいことです。

まず自分が何者であるかは置いておき、
どうあるべきか、人としていかに歩むべきか、つまり
五常五行を先に修得していくこと。
この方法をカメ先生は示されました。
わたしは後がないと思って入門したのですから素直に
そのまま行ってきましたね。
そして、自分がどういう人間かなど意識せず、五常を
のみ胸の中心に置いて生きるようになっていました。
そんなある日、「臆病なんだよ」と言われたわけです。

カメ先生は見ぬいて、知っておられました。
そのことは私の気持ちを軽くしてくれました。
そして、同時に、脱臆病だ~というやる気も出ました。

臆病君のわたしは新しいわたしに守られてきたのだと
気づきました。
先生は最初の頃、こうも言われていたことを思い出しました。
人の性格は変えようがない、しかし魂のハタラキは
誰もみな同じです、主役を魂にすればいいのです、と。

臆病君は魂に守られて、子どもの頃のままの気持ちを
捨てることなく生きられたのだと思いました。
守られてきた臆病君がどこからやってきたのか、いつ
からそうしてきたのか、自分で気づくことができたので
脱臆病は少しだけ成功したかもしれません。
臆病君を嫌いではないのです、私自身ですから。
でもそのままだと小さな子どものようで、生きていく
ことは難しいのでした。

己を知るのが先か、魂を知るのが先か。
どちらを選ぶか、後者をおススメですね。






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