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上杉謙信墓所

2013年10月20日 20時34分03秒 | 歴史上人物の墓所
■上杉謙信墓所■
(14th June 2008)



★上杉謙信墓所★ 山形県米沢市御廟一丁目5-32 米澤藩上杉家墓所

 國史蹟

・戰國時代の越後國の戰國大名で、後世、越後の虎や越後の龍、軍と稱される。

・享祿三年(1530)一月二十一日、越後守護代長尾爲景(三條長尾家)の四男虎千代として春日山城に生まれる。母は同じく越後栖吉城主長尾房景(古志長尾家)の娘の虎御前。幼名の虎千代は寅年生まれのために名づけられたという。

・天文五年(1536)八月に爲景は隱居、虎千代の兄の景が家督を繼いだ。虎千代は城下の林泉寺に入門、住職の天室光育のえを受けたとされる。實父に疎んじられていたため、爲景から避けられる形で寺に入れられたとされている。師匠の天室光育からは養や兵學を學んだ。

・天文十二年(1543)八月十五日、元服し長尾景虎と名乘る。九月には景の命を受け、古志郡司として三條城、次いで栃尾城に入る。當時、越後では守護上杉定實が伊達稙宗の子の時宗丸(伊達實元)を婿養子に迎える件で内亂が起こっており、越後の國人衆も養子緣組に賛成派と反對派に二分されていたが、病弱な景は内紛を治めることはできず、翌天文十三年(1544)春、越後の豪族が謀反を起こした。十五歳の景虎を若輩と輕んじた近邊の豪族は栃尾城に攻めよせたが、景虎は少數の城兵を二手に分け、一隊に傘松に陣を張る敵本陣の背後を急襲させた。混亂する敵軍に對し、さらに城内から本隊を突擊させることで壊滅させることに成功。謀反を鎭圧。

・天文十四年(1545)十月、守護上杉家老臣で瀧城主の田秀忠が長尾氏に對して謀反を起こした。秀忠は守護代景の居城である春日山城にまで攻め込み、景虎の兄である長尾景康らを殺害、その後、瀧城に立て籠もった。景虎は、兄に代わり、上杉定實から討伐を命じられ、總大將として攻擊を指揮、秀忠を降伏させた。しかし、翌天文十五年(1546)ニ月、秀忠が再び兵を擧げるに及び、再び攻め寄せて猛攻を加え、二度は許さず田氏を滅ぼした。このとき、かねてから景に不滿をもっていた越後國人の一部が景虎を擁立し景に退陣を迫るようになり、景と景虎との關係は險惡なものとなった。

・天文十七年(1548)頃には景に代わり景虎を守護代に擁立しようとの動きが盛んになり、揚北衆の鳥坂城主中條藤資、北信濃豪族で景虎の叔父でもある中野城主梨政を中心に栃尾城にあって景虎を補佐する本庄實乃、景虎の母である虎御前の實家である栖吉城主長尾景信(古志長尾家)、與板城主直江實綱、三條城主山吉行盛らが景虎派を形成。これに對し、坂戸城主長尾政景(上田長尾家)、蒲原郡奧山莊の川城主川實は景についた。結局、同年十二月三十日、守護上杉定實の調停のもと、景は景虎を養子とした上で家督を讓って隱退、景虎は春日山城に入り、十九歳で家督を相續、守護代となった。

・天文十九年(1550)、定實が後繼者を遺さずに死去したため、將軍足利義輝は景虎の越後國主の地位を認めた。同年十二月、一族の坂戸城主長尾政景(上田長尾家)が景虎の家督相續に不滿を持って反亂を起こした。景虎は翌天文二十年(1551)一月、政景方の發智長芳の居城板木城を攻撃し、これに勝利。さらに同年八月、坂戸城を包圍することで、これを鎭壓。降伏した政景は景虎の姉の仙桃院の夫であったことなどから助命され、以降は景虎の重臣として重きをなす。

・天文二十一年(1552)一月、關東管領上杉憲政が相模國の北條氏康に領國の上野國を攻められ、居城平井城を棄て、景虎をり、越後國へ逃亡してきた。景虎は憲政を迎え、御に住まわせるが、このために氏康と敵對關係となった。八月、景虎は平子孫三郎、本庄繫長らを關東に派兵し、上野沼田城を攻める北條軍を擊退し、さらに平井城、平井金山城の奪還に成功。北條幻庵長綱は上野國から撤退、武藏松山城へ逃れた。

・天文二十一年(1552)、武田信(後の武田信玄)の信濃侵攻によって、領國を追われた信濃守護小笠原長時が景虎に救いを求めてきた。翌天文二十二年(1553)四月、信濃國埴科郡葛尾城主村上義が信との抗爭に敗れ、葛尾城を脱出、景虎に援軍を要請。義は景虎に援軍を與えられ、村上領を武田軍から奪還するため出陣、同月に武田軍を八幡の戰いで破り、武田軍を村上領から驅逐、葛尾城を奪還。しかし、一端、兵を引いた信軍は七月に再び信自ら大軍を率いて村上領へ侵攻。義は再び越後國へ逃亡。ここに及び、景虎は信討伐を決意し、ついに八月、自ら軍を率いて信濃國に出陣。三十日、布施の戰いで信軍の先鋒を壓倒、擊破する。九月一日には八幡でも武田軍を破り、さらに武田領内へ深く侵攻し荒砥城、柳城、虚空藏山城など、武田方の城を攻め落とした。これに對し信は本陣を鹽田城に置き、決戰を避けたため、上洛の予定があった景虎は深追いをせず、九月に越後へ引き上げた。これを第一次川中島合戰と呼ぶ。

・天文二十二年(1553)九月、初めての上洛を果たし、後奈良天皇および室町幕府第十三代將軍足利義輝に拜謁。

・天文二十三年(1554)、家臣の北條廣が武田と通じ謀反。翌天文二十四年(1555)、景虎自らが出陣して廣の居城北條城を包圍し、鎭壓。廣は歸參を許された。この、晴信は善光寺別当栗田鶴壽を味方につけ旭山城を支配下に置いた。これに對抗するため景虎は同年四月に再び信濃國へ出兵、信と川中島の犀川を挾んで對峙。このときは小競り合いに終始して決着はつかず。對陣五ヶ月に及び、最終的に信が景虎に、駿河國の今川義元の仲介のもとで和睦を願い出る。これを第二次川中島合戰という。

・弘治三年(1557)ニ月、信は盟約を反故にして長尾方の葛山城を攻畧、さらに信越國境付近まで進軍、景虎方の信濃豪族梨政の居城飯山城を攻擊。景虎は政から救援要請を受けるも、信越國境が積雪で閉ざされていたため出兵が遲れた。雪解けの四月、信の盟約違反に激怒した景虎は再び川中島に出陣し、第三次川中島合戰となる。井郡山田城、島城を攻め落とし、長沼城と善光寺を奪還。山城に着陣し、さらに破却されていた旭山城を再興して本營とした。景虎の强さを知る信は、深志城から先へは進まず決戰を避けた。七月、武田軍の別働隊が長尾方の安雲郡小谷城を攻畧。一方の長尾軍は背後を脅かされたため、飯山城まで兵を引き、井郡野澤城、尼巌城を攻擊。その後、八月、兩軍は髻山城近くの水内郡上野原で交戰するも、決定的な戰いではなく、その後、景虎は軍を引き上げた。

・永祿ニ年(1559)五月、再度上洛して正親町天皇や將軍足利義輝に拜謁。このとき、義輝から管領竝の待遇を與えられたという。

・永祿三年(1560)三月、越中の椎名康胤が保長職に攻められ、景虎に支援を要請。景虎は初めて越中へ出陣、すぐに長職の居城富山城を落城させ、さらに長職が逃げのびた山城も攻め落し逃亡させた。

・永祿三年(1560)五月、北條氏康討伐のため、關東へ向けて出陣、三國峠を越え、上野國に入り、小川城、名胡桃城、明城、沼田城、岩下城、白井城、那波城、厩橋城などの北條方の城を攻畧。厩橋城を關東における拠點とし、この城で越年。この、關東將に對して北條討伐の號令を下し、參陣を求めた。年が明けると軍を率いて上野國から武藏國へ進擊。深谷城、忍城、羽生城などを支配下に治めつつ、さらに氏康の居城である小田原城を目指し相模國にまで侵攻し、二月には鎌倉を落とす。氏康は、押し寄せる大軍の總大將が武畧に優れる景虎であるため、野戰は不利と判斷し、小田原城や玉繩城、武藏の瀧山城、河越城などへ退却、籠城策をとった。永祿四年(1561)三月、景虎は關東管領上杉憲政を擁し、宇都宮廣綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、小田氏治、那須資胤、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら舊上杉家家臣團を中心とする十万餘の大軍で、小田原城をはじめとする城を包圍、攻擊を開始。小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、籠城する氏康を窮地に追い込んだ。さらに、小田原へ向かう途上に、關東公方の在所で當時は關東の中心と目されていた古河御所を制壓し、北條氏に擁された足利義氏を放逐の上、足利藤氏を替りに古河御所内に迎え入れた。小田原城を包圍はしたものの、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす氣配を見せ、景虎の背後を牽制。景虎が關東で氏康と戰っているに、川中島に海津城を完成させてこれを前線基地とし、信濃善光寺平における勢力圏を擴大。こうした情勢の中、長期に亘る出兵を維持できない佐竹義昭らが撤兵を要求、無斷で陣を引き払うなどしたため、景虎は北條氏の居城小田原城にまで攻め入りながら、これを落城させるには至らず。一ヶ月にも及ぶ包圍の後、鎌倉に兵を引き、越後へ歸還。その途上、武藏國の中原を押さえる要衝松山城を攻擊し、北條方の城主上田朝直の抗戰を受けるも、これを落城させた。松山城には城將として上杉憲勝を殘し、厩橋城には城代に義弟の長尾謙忠をおいて歸國。

・永祿四年(1561)閏三月十六日、上杉憲政の要請もあり、鶴岡八幡宮において山内上杉家の家督と關東管領職を相續、名を上杉政虎と改めた。

・『甲陽軍鑑』によれば、政虎が關東から歸國後の永祿四年(1561)八月、一萬八千の兵を率いて川中島へ出陣、第四次川中島合戰となる。荷駄隊と兵五千を善光寺に殘し、一萬三千の兵を率いて武田領内へ深く侵攻、妻女山に布陣した。このとき武田軍と大決戰に及び、武田信繫、山本勘助、角虎定、初鹿野源五、三枝守直ら多くの敵將を討ち取り、總大將の信玄をも負傷させ、武田軍に大打擊を與えたという。

・古河御所付近から一時撤退したことにより、成田長泰や佐野昌綱を筆頭に、武藏國の同族上杉憲盛が北條方に降ってしまったため、政虎は寢返った昌綱を再び服從させるため下野唐澤山城を攻擊、關東一の山城と謳われる難攻不落のこの城を攻畧するのに手を燒いた。これ以降、政虎は唐澤山城の支配權を得るため、昌綱と幾度となく攻防戰を繰り廣げることになる。十二月、將軍義輝の一字を賜り、諱を輝虎と改めた。輝虎は越後へ歸國せず、上野厩橋城で越年。この後は、關東方面、越中、信濃のなかで決定的な戰果をおさめることできず、振り囘されることになる。

・永祿七年(1564)四月、武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を擊破。そのに信玄に信濃國水内郡の野尻城を攻畧されたが奪還、八月には輝虎と信玄は川中島で再び對峙し、第五次川中島合戰となる。しかし、信玄が本陣を鹽崎城に置いて輝虎との決戦を避けたため、六十日に及ぶ對峙の末に越後に軍を引き、決着は着かなかった。これ以後、兩者は川中島で合見えることはなかった。結局、村上氏、梨氏らの舊領を囘復することはできなかった。

・永祿八年(1565)以降、關東方面の戰果も芳しくないこともあり、將の離反が續き、最終的には東上野のみの支配に終わる。

・永祿十一年(1568)三月、越中國の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中國を制壓するために一向一揆と戰うも決着はつかず、七月には武田軍が信濃最北部の飯山城に攻め寄せ、支城を陷落させるなどして越後國を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを擊退。さらに輝虎から離反した康胤を討つべく越中國へ入り、松倉城をはじめ、守山城を攻擊。ところが時を同じくして、五月に信玄と通じた上杉家重臣で揚北衆の本庄繫長が謀反、越後國への歸國を餘儀なくされる。反亂を鎭めるため輝虎はまず、繫長と手を組む出尾浦城主大寶寺義を降伏させ、繫長を孤立させた。その上で十一月、繫長の居城本圧城に猛攻を加え、謀反を鎭壓。永祿十二年(1569)、蘆名盛氏、伊達輝宗の仲介を受け、本庄繫長から嫡男本庄顯長を人質として差し出させることで、繫長の歸參を許した。また繫長と手を結んでいた大寶寺義増の降伏により、出庄内地方を手にした。

・永祿十一年(1568)十二月、北條氏康は甲相駿三國同盟を破り、駿河國へ侵攻していた信玄と斷交、長年敵對してきた輝虎との和睦を探る。これに對し、輝虎は當初、この和睦に積極的でなかったが度重なる關東出兵で國内の不滿がまっており、また上杉方の關宿城が北條氏照の攻擊に晒されており、ついには氏康と同盟。

・永祿十二年(1569)八月、椎名康胤を討つため大軍を率いて越中松倉城を百日に渡り攻圍。支城の金山城を攻め落としたものの、信玄の上野侵攻のため途中で歸國し、上野の沼田城に入城。元龜元年(1570)一月、下野において再び佐野昌綱が背いたため唐沢山城を攻擊したが、攻め落とすことは出來ず。

・元龜元年(1570)四月、氏康の七男である北條三を養子として迎えた輝虎は、三のことを大いに氣に入って景虎という自身の初名を與えるとともに、一族衆として厚遇したという。また、十二月には法號「不識庵謙信」を稱した。

・元龜ニ年(1571)ニ月、ニ萬八千の兵を率いて再び越中國へ出陣し、椎名康胤が立て籠もる富山城をはじめ、松倉城、新庄城、守山城などを攻擊し、落城させるも、椎名康胤は落ち延び、越中一向一揆と組み、謙信への抵抗を續けた。

・元龜ニ年(1571)十月、長年關東の覇權を爭った北條氏康が世を去る。元龜三年(1572)一月、氏康の蹟を繼いだ氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦。謙信は再び北條氏と敵對することになる。また上洛の途につく信玄は、謙信に背後を突かれないため調略により越中一向一揆を煽動。これにより謙信は主戦場を關東から越中へ移すことになる。

・元龜三年(1572)一月、利根川を挾んで厩橋城の對岸に位置する武田方の付城石倉城を攻畧、相前後して押し寄せてきた武田、北條兩軍と利根川を挾み對峙。五月、信玄に通じて加賀一向一揆と合流した越中一向一揆が日宮城、白鳥城、富山城など上杉方の諸城を攻畧するなど、一向一揆の攻勢は頂点に達する。八月、謙信は越中へ出陣、一向一揆の大軍と激戰。謙信は新庄城に本陣を置き、一揆軍の立て籠もる富山城を攻めたが、抵抗が激しく一度は兵を引く。その後、尻垂坂の戰いで一向一揆に壓勝し、苦戰の末に富山城、瀧山城を陥落させ、年末にこれを制壓した。十一月には織田信長からの同盟の申し出を受け、同盟を締結。

・天正元年(1573)三月、信玄の畫策により再起した越中一向一揆が再度富山城を奪った。越中国から越後国への歸路についていた謙信はすかさず兵を返し、未だ抵抗を續ける椎名康胤の守る富山城を再度攻め落とす。越中から軍を引き上げる度に蜂起する一向一揆に業を煮やした謙信は、ついに越中を自国領にする方針を決めた。

・天正元年(1573)八月、謙信が越中朝日山城を攻擊していた時、北條氏政が上野に侵攻。上洛を目指す謙信は、後顧の憂いを無くすため天正二年(1574)、關東に出陣、上野金山城主の由良成繫を攻擊。三月には膳山城、女淵城、深澤城、山上城、御覽田城を攻畧。しかし成繫の居城である要害堅固な金山城を陷落させれず。さらに武藏における上杉方最後の拠點である生城を救援するため四月、氏政と再び利根川を挾んで對峙するも、水していた利根川を渡ることは出來ず、五月に越後國へ歸國。生城は閏十一月に自落。その後、關東に何度か侵攻するもついには關東の上杉派は一掃された。

・天正三年(1573)一月十一日、養子の喜平次顯景の名を景勝と改めさせ、彈正少弼の官途を讓った。

・天正四年(1576)には毛利氏のもとに身を寄せていた足利義昭が反信長勢力を迎合し、義昭の仲介で甲斐武田、相模北條との甲相越一和が試みられた。また、このころ、織田信長との戰いで苦境に立たされていた本願寺顯如と和睦し、惱まされた一向一揆との問題も解消するにいたった。最終的に甲相越一和は成立しなかったが、信長包圍網が築き上げられた。

・天正四年(1576)九月、名目上管領畠山氏が守護をつとめる越中國に侵攻、一向一揆支配下の富山城、栂尾城、山城、守山城、湯山城を攻め落とし、次いで越中守護代椎名康胤の蓮沼城を陷落させ、康胤を自害させ、ついに騒亂の越中を平定。さらに十一月、軍勢を越後から京へ進める際、兵站線を確保する上で非常に重要である能登國平定に向かった。このとき、七尾城主畠山春王丸が幼少のため、實權は重臣の長續連、綱連父子が握っており、城内では信長に付こうとする長父子と謙信にろうとする遊佐續光が、主導権爭いをしていた。謙信は熊木城、穴水城、甲山城、正院川尻城、富來城などの城を次次に攻畧し、七尾城を圍んだ。しかし、城は石動山系の北端である松尾山山上に築かれた難攻不落の巨城であり、力攻めは困難極まり、付城として石動山城を築くものの攻めあぐね越年。天正五年(1577)、關東での北條氏政の進軍もあり春日山に一時撤退となる。そのに敵軍により、上杉軍が奪っていた能登の城は落とされた。關東將から救援要請を受けていた謙信のもとに、能登での戰況惡化に加え、足利義昭や毛利輝元から早期の上洛を促す密書が届き、これに至り謙信は反轉を決意、閏七月、再び能登に侵攻、諸城を攻め落とし、七尾城を再び包圍。このとき城内で疫病が流行、傀儡國主畠山春王丸までもが病沒し、厭戰氣分が蔓延。しかし、守將長續連は、織田信長の援軍に望みをつないで降伏しようとはしなかった。謙信は力攻めは困難とみて調畧を試みる。そして九月十五日、遊佐續光らが謙信と通じて反亂を起こし、長続連らは殺され、七尾城は落城。この二日後には加賀國との國境近い能登末森城を攻畧、能登國は全て謙信の支配下に入った。謙信には名門畠山家の復興が思慮にあり、有力國人を廢したあと、畠山義春を能登の國主として擁立する計画であったといわれている。また、この戰いの後、畠山義の息子を養子にすると書かれた謙信書狀が出されており、この子は春王丸自身や實際には畠山義續の子であるともされる。また春王丸に弟がいた可能性もあり、その弟という說もあるが定說にはなってはいない。

・天正五年(1577)、長續連の援軍要請を受けていた信長は、七尾城を救援する軍勢の派遣を決定、謙信との戰いに踏み切り、柴田勝家を總大將とし、羽柴秀吉、瀧川一、丹長秀、前田利家、佐佐成政ら三萬餘の大軍を送るが、途中で秀吉が勝家と意見が合わずに自軍を引き上げた。九月十八日、七尾城陷落を知らない勝家率いる織田軍は手取川を渡河、水島に陣を張った。織田軍が手取川を越えて加賀北部へ侵入したことを知るや、謙信はこれを迎擊するため大軍を率いて一氣に南下。加賀國へ入って河北郡、石川郡をたちまち制壓し、松任城にまで進出。九月二十三日、ようやく織田軍は七尾城の陷落を知り、さらに謙信率いる上杉軍が目と鼻の先の松任城に着陣しているとの急報が入り、形勢不利を悟った勝家は撤退を開始。それに對して謙信率いる上杉軍は二十三日夜、手取川の渡河に手取る織田軍を追擊して擊破。

・天正五年(1577)十二月十八日、謙信は春日山城に歸還、十二月二十三日には次なる遠征に向けての大動員令を發した。天正六年(1578)三月十五日に遠征を開始する予定であったが、その六日前の三月九日、遠征の準備中に春日山城で倒れ、三月十三日の未の刻に急死]。享年四十九。倒れてからの昏睡狀態などにより、死因は脳溢血との見方が强い。

・養子とした景勝、景虎のどちらを後繼にするかをはっきりと發表していなかったため、その死後に御の亂が勃發、血で血を洗う内亂により、上杉家の勢力は大きく衰えることとなった。

・武毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を使った。自らを毘沙門天の化身と思い込んでいたという。

・和歌に通じ達筆でもあり、近衞稙家から和歌の奧義を傳授されている。

・源氏物語を始めとする恋愛物を好んで讀んでおり、上洛した際に開催した歌會でも見事な雅歌(恋歌)を詠み、參加者全員を驚かせたと言う。

・内政面においては衣料の原料となる苧を栽培し、日本海ルートで全國に廣め、財源とするなど、領内の物產流通の密な統制管理を行い莫大な利を上げていた。謙信が死去した時、春日山城にはニ萬七一四〇兩の蓄えがあったという。

・天正四年(1576)に甲斐の僧、賀が長寺の空陀に送った書狀によれば、宿敵たる武田信玄も常常、謙信をして「日本無双之名大將」と評していたという。また、信玄は死に臨んで蹟繼ぎの勝に「謙信は義理がたい武將なので、人にられれば決して見捨てる事はない。自分の死後は謙信をれ」と遺言したと『甲陽軍鑑』にある。

・北條氏康は謙信について「信玄と信長は表裏常なく、むに足りぬ人物だ。謙信だけは請け合ったら骨になっても義理を通す人物だ。それ故、肌着を分けて若い大將の守り袋にさせたい」と發言している。


■米澤藩上杉家墓所入口■
(14th June 2008)



■上杉謙信墓所■
(14th June 2008)



((コメント))
2008年6月14日

 當初、米澤城蹟に行くつもりであったが、その途中に米澤藩上杉家廟所(國史蹟)があったので立ち寄った。墓なのに、入場料を取る根性が好きではない。京都の坂本龍馬の墓といい、許せぬことだ。死者で金を儲けないでほしい限りだ。

 謙信の墓所は別格で他の藩主とは異なり、鳥居までついてある。謙信は「越後の龍」と恐れられた。上杉氏の下で越後の守護代を務めた長尾氏出身である。名前の変遷は、長尾景虎→上杉政虎→輝虎→不識庵謙信。周邊の武田信玄、北條氏康、織田信長、佐野昌綱らと戰いを廣げ、特に武田信玄との川中島での五囘の合戰は有名。實際は武田信玄とは五分であったとはいわれるが、武田家の領土が少しずつ北に上がってきているので、實質的には、敗北に近いであろう。戰鬪そのものは優位であったことを考えると、そういう意味では天才であるが、統治という面では信玄には及ばなかったのであろう。


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