■鳥居■
(16th June 2011)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/c2/688d5a507eeb754c985ca077977a2d4e.jpg)
★爾自社★ 長崎県壱岐市郷ノ浦町長峰有安触997
・延喜式内社、壹岐嶋石田郡、爾自社。
・舊社格は村社。
・祭は級長津彥、級長戸邊、息長帶姬命。
・創建年代等不詳。
・舊號は東風大明。
■參道■
(16th June 2011)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/8e/de14aa3e002ca8774035637b9aff1d87.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/bd/fa8a9153dc08e8115251d1bad302e872.jpg)
■拜殿■
(16th June 2011)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/16/27df20986773ea48a4e3d4602a920f91.jpg)
■本殿■
(16th June 2011)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/08/c4667f529f8956d095b6f898aefaaccb.jpg)
■東風石■
(16th June 2011)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/18/32ea733b45faab0af11c0d42cb5bde4a.jpg)
壹岐市指定文化財
・功皇后傳説があり、皇后が三韓出兵の折り、勝本浦に寄航するも追い風が吹かない爲、この石に順風祈願をすると、石は二つに割れ、さわやかな東風が吹き出し、出船できたという。
・江戸幕府によって鎖國政策が取られている時、李氏朝鮮とは國交があったのであるが、將軍の代替りの度に慶賀使節として來朝した朝鮮通信使は勝本浦に寄航し、平戸藩の接待を受けた。この時、海上が時化て勝本浦での逗留が續くと、藩はその都度、壹岐城代に命じ、この東風石に順風祈願を行わせた記錄が殘っている。
■末社■
(16th June 2011)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/51/0f25312f7cfec478d6c5d6ff8d409d9e.jpg)
((コメント))
2011年6月16日
地圖を調べて、旅の準備をしていた時は、迷うことになることを覺悟していたのであるが、行ってみれば道標があり、迷うことなく到着することが出來た。功皇后傳承がある社で、聖母宮の域だったという。なるほど、という感じではあるが、實際は、功皇后は實在していなかったろうし、モデルは日本の先住の民を誅殺した渡來民族の女王であろうから、この傳承はおそらく七世紀に朝鮮に何度も出兵していた大和王朝に關するものであろう。この社は海人族のものであり、そこに齋明天皇の軍が中繼地点としてやってきて、祈禱したというところが本當のところではないだろうか。
(16th June 2011)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/c2/688d5a507eeb754c985ca077977a2d4e.jpg)
★爾自社★ 長崎県壱岐市郷ノ浦町長峰有安触997
・延喜式内社、壹岐嶋石田郡、爾自社。
・舊社格は村社。
・祭は級長津彥、級長戸邊、息長帶姬命。
・創建年代等不詳。
・舊號は東風大明。
■參道■
(16th June 2011)
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■拜殿■
(16th June 2011)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/16/27df20986773ea48a4e3d4602a920f91.jpg)
■本殿■
(16th June 2011)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/08/c4667f529f8956d095b6f898aefaaccb.jpg)
■東風石■
(16th June 2011)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/18/32ea733b45faab0af11c0d42cb5bde4a.jpg)
壹岐市指定文化財
・功皇后傳説があり、皇后が三韓出兵の折り、勝本浦に寄航するも追い風が吹かない爲、この石に順風祈願をすると、石は二つに割れ、さわやかな東風が吹き出し、出船できたという。
・江戸幕府によって鎖國政策が取られている時、李氏朝鮮とは國交があったのであるが、將軍の代替りの度に慶賀使節として來朝した朝鮮通信使は勝本浦に寄航し、平戸藩の接待を受けた。この時、海上が時化て勝本浦での逗留が續くと、藩はその都度、壹岐城代に命じ、この東風石に順風祈願を行わせた記錄が殘っている。
■末社■
(16th June 2011)
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((コメント))
2011年6月16日
地圖を調べて、旅の準備をしていた時は、迷うことになることを覺悟していたのであるが、行ってみれば道標があり、迷うことなく到着することが出來た。功皇后傳承がある社で、聖母宮の域だったという。なるほど、という感じではあるが、實際は、功皇后は實在していなかったろうし、モデルは日本の先住の民を誅殺した渡來民族の女王であろうから、この傳承はおそらく七世紀に朝鮮に何度も出兵していた大和王朝に關するものであろう。この社は海人族のものであり、そこに齋明天皇の軍が中繼地点としてやってきて、祈禱したというところが本當のところではないだろうか。