の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

應天皇惠我藻伏崗陵

2010年07月21日 21時48分07秒 | 天皇陵、皇族墓所
■放生橋■
(16th February 2010)



★應天皇惠我藻伏崗陵★ 大阪府羽曳野市誉田六丁目

・人皇第十五代。

・謚は譽田別命、大鞆和氣命。

・功皇后の胎内に長くいたことから、胎中天皇ともいう。

・實在性が濃厚な最古の大王とも言われるが、仁天皇の条と記載の重複、混乱が見られることなどから、應仁同一説などがある。

・應天皇の和風諡号である「ホムダ」は飾りの多い八代以前の天皇と著しく違っている事から實在とみなす説、三王朝交代説における征服王朝の創始者とする説、邪馬臺國東遷説にまつわり皇室の先祖として祀られている(宇佐八幡)とする説、河内王朝の始祖とみなす説、日本國外の史料との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の讃に比定する説、「廣開土王碑」に見える倭國の朝鮮進出を指揮したという説もある。

・父は先帝仲哀天皇で、母は功皇后こと息長足姫尊とされるも異説も多く、理由は異常に出産が遅れたことにある。父として「是に皇后、大と密事あり」(住吉大社の『代記』)とある住吉大や、あるいはまた武内宿禰とする考えもある。このような出生の秘性は、本来、應天皇が前王朝との血統上のつながりを持たず、新王朝の開祖であるとされたことを物語っているとするものもある。

・武東征と應東遷に関して、出発点に南九州と北九州の違いがあるが、その物語は非常に酷似している事から、同一人物という説もある。


■陵■
(16th February 2010)
 


((コメント))

2010年2月16日

 譽田八幡宮から見た應天皇陵。二度目の訪問である。大きすぎて、近くではよくわからないというのが正直な気持ち。


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