■尼子興久墓所■
(30th December 2007)
★尼子興久墓所★ 島根県安来市広瀬町町帳775-1(道の駅広瀬・富田城)
・名將尼子經久の三男。
・當時、長兄政久が若くして戰死し、その嫡男久(尼子を滅亡に追い込む凡庸な當主と後になる)に叔父義勝が後見になっており、次兄國久は武勇の譽れ高き『新宮党』を率いていた。
・興久は父より三千貫の領地を與えられたのだが不服だったらしく、反亂を起こすにいたる。ちなみに興久も武勇に優れていたという。
・老臣の龜井秀綱を介して父經久へ七百貫の所領加を申し出るが斷られ、秀綱及び經久に對して謀叛、岳父である備後甲山城主山内直通をるも、天文三年(1534)、遂に自害。
((コメント))
2007年12月30日
無念の死を遂げたがために、いまだに怨念が一帶に立ち籠もっており、寒氣のするところである。
(30th December 2007)
★尼子興久墓所★ 島根県安来市広瀬町町帳775-1(道の駅広瀬・富田城)
・名將尼子經久の三男。
・當時、長兄政久が若くして戰死し、その嫡男久(尼子を滅亡に追い込む凡庸な當主と後になる)に叔父義勝が後見になっており、次兄國久は武勇の譽れ高き『新宮党』を率いていた。
・興久は父より三千貫の領地を與えられたのだが不服だったらしく、反亂を起こすにいたる。ちなみに興久も武勇に優れていたという。
・老臣の龜井秀綱を介して父經久へ七百貫の所領加を申し出るが斷られ、秀綱及び經久に對して謀叛、岳父である備後甲山城主山内直通をるも、天文三年(1534)、遂に自害。
((コメント))
2007年12月30日
無念の死を遂げたがために、いまだに怨念が一帶に立ち籠もっており、寒氣のするところである。