の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

坂合彦皇子墓

2011年03月05日 22時38分33秒 | 天皇陵、皇族墓所
■墳墓■
(25th January 2010)

 

★坂合彦皇子墓★ 奈良県吉野郡大淀町大字今木

・允恭天皇皇子。雄略天皇の同母兄。

・眉輪王が仇の安康天皇を殺害したとき、大泊皇子(のちの雄略)が、兄の八釣白彦皇子を疑いを押し付けて殺害し、さらにもう一人の兄である坂合彦皇子を責めたので、危険を感じた皇子は隙を見て逃げ出し、眉輪王とともに葛城円大臣の元に逃げたのだが、大泊はすでに平群臣、大伴連、物部連を味方に引き込んでいたために降伏するも皆、燒き殺されたという。さらに、大泊は自らが大王の地位につくために、市辺押磐皇子、御馬皇子をも騙して、即位するにいたる。

・『古事記』では坂合彦皇子は、葛城円をる前に殺害されたことになっている。


■墳墓■
(25th January 2010)



((コメント))

2010年1月25日

 ずっとここに墓があるのがあったのは知っていたのだが車を停めにくいところであったので行けずにいた。が、甲社より250メートルほどであるのがわかったので、ついでに走って立ち寄ってきた。何故この地に祀られているのかわからない。蘇我入鹿に關係のある甲社、葛城円大臣とともに死んだ坂合彦皇子、ともに、當時の政權担當者にすれば、敵であり、祀るわけには行かぬ人人であるのだ。ところで、實は蘇我稻目という人の出自はわからないとされている。その上の系図に出てくる人名は不自然なものが竝んでいるからである。蘇我は實は本貫が河内の石川という話もあるのだが、葛城氏が出身という考えもあり、興味深くも謎である。この皇子は、實在したのだろうか。別の名前を出すわけにはいかなかった人ではないのであろうか、と思ったりもする。蘇我入鹿のように思えてならない。


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