の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

雑記4 『スサノオとクシイナダヒメ』

2010年06月02日 22時06分59秒 | 雑記
 地元の傳承で、スサノオは奈良盆地の富雄に住んでいたというものがあります。さらに、八俣の大蛇は盆地が湖であったころ、天理石上から三輪山周辺にかけて住んでいたとされ、当時の産鉄民族であった可能性が高く、そうであると仮定した場合、三輪から紀州にまで広く榮えていた古代イズモ族である可能性が非常にいのでございます。武東征以前にあったものすごく榮えた王朝であるとも言われているのです。また、アマテラスを天津、スサノオを國津とするのが通常でございますが、スサノオを武東征になぞらえますると、本来、天津であるべきで、アマテラスが前王朝の姫君で、それをスサノオが娶ったのではないのだろうか、と個人的に考えており、そのほうが、意外と、話がおさまる面も多いのでございます。

 實際、三輪山の一部には出雲邑が残っております。三輪山と巻向山の間には、出雲族の居住したダンノダイラ(盆地が湖だったと考えますと、山間部の高い位置に住むことは妥当)があり、彼らの祀った磐座も殘っております。明治初期まで、彼らの大和出雲邑に殘った子孫は全員、年に一回、ダンノダイラに里帰りしたという傳承もございます。つまり、古代、大和に出雲があったのは事實なのでございます。實は、島根の出雲は、武東征により敗れた出雲族が逃げた地であるという説もございまして、そのように考えていきますと、風土記の話というのは、彼らが大和よりもっていった話であるものも多いと思わざるをえないわけなのです。實際、スサノオは出雲にゆかりが深いはずであるのに、實は出雲風土記にはあまり出てこず、謎が多いのです。スサノオの最期は出雲であったという記述が、大和の出雲であると考えますと、興味深いものが多いわけなのでございます。

 富雄には傳承で、クシイナダヒメノミコトの墓と呼ばれるところがあります。大倭宮といわれるところであり、推古女帝の時代より祭祀されているとされるところであろます。彼女の墓が奈良にあるということは、スサノオの墓も奈良のいずれかにあってもおかしくはないのではないか、ということなのでございます。スサノオを祀る愛知の津島社では、大和金剛山の方針を祀るといいまするが、實は、その線上に、大和の出雲があるますので、實は、その地を祀っていた可能性もあると思うのでございます。金剛山に關しては、古来、葛城と呼ばれている靈峰の一つではありまするが、スサノオ傳説は聞いたことがないのでございます。


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