の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

雑記13 『赤城社』

2011年04月09日 16時59分12秒 | 雑記

・群馬縣内に多く赤城社の分社が存在するが、赤城山を通る南中線の東半分は大己貴命、西半分は豐城入彦命を祭とする傾向がある。これは明治初年まで赤城社には東宮と西宮が存在し、職、社家も二派あったためと推測されている。

・『道集』によると、まず赤城山頂の大沼、小沼を格化し、次いで大沼を千手觀音、小沼を虚空藏菩薩として古代からの二所明とし、これに赤城山の中央火口丘である地蔵岳を地藏菩薩として加え、あわせて三所明としたという。

・勢多郡粕川村月田字近戸、同村深津字近戸に近戸社が鎭座するが、近戸は赤城社の近戸(里宮)であり、両社とも赤城社と同じ祭を祀り、虚空藏菩薩を本地佛とする。この近戸社が赤城社の西宮につながり、東宮は年を經て加わったと見られる地藏菩薩に關わる。

・赤城社の本源については、赤城山頂の富士見村大洞の舊社の赤城社とする説、三夜沢の舊縣社の赤城社とする説、前橋市二之宮町鎭座の舊社の二宮赤城社とする説があり、確定されていない。

・『上野國交替實録帳』などの記録より、かなり大きな社域を有し、七年に一度の修築制度があり、寺院を見習った大建築の社であったことが推定される。

・前橋市二之宮町鎭座の舊社二宮赤城社は現在も豐かな社叢を持ち、付近には肥沃な農地が広がり、かつて、ここが本社とされていたこともあるという。

・赤城信仰に關わる事のひとつに幸があるが、三月および十二月の初辰の日、粕川村月田の近戸社を經由して三夜沢と二之宮の間を輿が往復をするのであるが、民俗學的見地より、山のが里に下り、田のとなり、収穫が終わった後、山に帰ることを意味すると考えられている。

・三夜沢の赤城社(現本社)の背後にある荒山の尾根に「櫃石」という巨石があり、磐座の形態を取る古代祭祀遺跡で天津籬とは異なる社成立以前の自然崇拜遺跡という。ところで、この櫃石は、三夜沢の赤城社からは北方よりやや西より1.2キロの位置にあり、二宮赤城社からは眞北に位置している。古代の社の位置關係などは、非常に意味があり、かつ、非常に正確であったことを考えると、二宮赤城社の位置づけは非常に重要で、本源である可能性は非常にいと思われる。

・赤城と日光の山のの傳説に次のようなものがある。
「昔、二荒山と赤城山のが中禅寺湖を下野國のものが、上野國のものだと言い合い、ついに戰いとなってしまった。はじめは赤城の側が優勢であったが、二荒のは鹿島のの助言によって小野猿麻呂という弓の名人の加勢を得、反撃に転じた。二荒のは蛇の姿になり、赤城のは百足に姿を変えて戰ったが、赤城のは猿麻呂に左眼を射抜かれて、ほうほうのていで逃げ帰った。この戰場が今の日光中禪寺湖畔の戰場ヶ原であり、赤城のが負った手傷を癒した湯が老温泉であるという。」
 この傳説にちなみ、日光二荒山社では、年に一度、赤城山に向かって矢をいる事を續けている。


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