昔、熊野本宮大社の社地は熊野川と音無川に囲まれた中州である大齋原と現在は呼ばれているところにありました。この中洲には橋などは架けておられず、上皇や貴族をはじめ武士、庶民にいたるまで參詣者はすべてこの清流を歩いて社地に入らねばならず、「ぬれわらしの入堂」と言われたそうです。こういう川中島というべき地形の聖地性を思うとき、ある考えが生じます。
瑞垣とはほんらい聖地を廻る水の垣、すなわち、水垣であったということです。
その本質は、水に触れ、水を潜らなければ絶対に聖地、聖域には參入できないということです。つまり、これが聖地に入るに際しての、自然な形での「禊」ということになるのです。
熊野本宮大社だけではなく、大和國一之宮である三輪山の大神(おおみわ)神社がありますが、この三輪の語源は「水輪」「水曲」とされ、三輪川と巻向川に囲まれた地は「水垣」にふさわしいものであったといわれています。
有名な下賀茂社(賀茂御祖社)なども、そのような自然の水垣を持っていたとされます。この自然の水垣が、御手洗川、池、蹲、内裏の御溝水と姿を変え、また、古墳の周濠になったと思われます。
禊の時、川や海などの水で穢れを落とすというのは、こういった自然の水垣から生じたものであると思われます。
瑞垣とはほんらい聖地を廻る水の垣、すなわち、水垣であったということです。
その本質は、水に触れ、水を潜らなければ絶対に聖地、聖域には參入できないということです。つまり、これが聖地に入るに際しての、自然な形での「禊」ということになるのです。
熊野本宮大社だけではなく、大和國一之宮である三輪山の大神(おおみわ)神社がありますが、この三輪の語源は「水輪」「水曲」とされ、三輪川と巻向川に囲まれた地は「水垣」にふさわしいものであったといわれています。
有名な下賀茂社(賀茂御祖社)なども、そのような自然の水垣を持っていたとされます。この自然の水垣が、御手洗川、池、蹲、内裏の御溝水と姿を変え、また、古墳の周濠になったと思われます。
禊の時、川や海などの水で穢れを落とすというのは、こういった自然の水垣から生じたものであると思われます。