の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

熊野那智大社

2011年03月21日 23時05分34秒 | 近畿(三重、和歌山)
■鳥居■
(6th October 2007)
 


★熊野那智大社★ 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1

 世界遺産

・舊社格は官幣中社。

・第一殿(瀧宮)に大己貴命(本地千手觀音)、第二殿(證誠殿)に家津美御子大(國常立尊、本地阿彌陀如來)、第三殿(中御前)に御子速玉大(伊奘諾尊、本地藥師如來)、第四殿(西御前)に熊野夫須美大(伊奘冉尊、本地千手觀音)、第五殿(若宮)に天照大(本地十一面觀音)を祀る。

・第一殿は地主とされ、第二から四殿までが熊野三所權現と稱されて主祭の地位にある。第六殿は構成、祭、本地共に熊野速玉大社の中四社、下四社とほぼ同様である。

・隣接する西國第一番禮所青岸渡寺は明治維新前までは那智權現の如意輪觀音堂であり、佛分離で廃堂となったが、明治七年(1874)、天臺宗の寺として獨立した。

・『熊野權現金剛藏王寶殿造功日記』によれば「孝昭天皇のとき裸形上人が十二所權現を祀った」とし、『熊野略記』では「仁天皇御宇に始めて那智山御宮を建てた」とあり、『熊野年代記』には「仁天皇五年(317)に熊野權現が那智山大瀧に出現した」とあるが、傳説の域を出ない。

・創祀は、那智御瀧(那智の大瀧、一の瀧)の自然崇拜と考えるのが妥當と思われる。

・那智の一の瀧を遡り、木の葉流しの瀧と呼ばれる二の瀧には速玉之男尊が祀られ、花山法皇千日行御籠所跡がある。さらに遡り、馬頭の滝と呼ばれる三の瀧には熊野櫛御氣野命が祀られている。これら三つの瀧を合わせて「三重の瀧」という。

・那智御瀧(一の瀧)そのものを「飛瀧權現」と称し、地主大己貴命の御體とする。

・熊野那智大社は那智御瀧の眞南に当たり、『那智山宮曼荼羅』においては、大鳥居と三重塔を挟み六つの社殿が現在とほぼ同じ配置で描かれているが、一つ相違点がある。現在、第一殿から第五殿まで整然と横一列に竝んでいるのであるが、曼荼羅では、第一殿のみが後退した位置にあるのである。つまり、第一殿は、本來、大瀧の遙拜所であり、ゆえに「瀧宮」を稱し飛瀧權現と同樣に大己貴命を祀り、他の四殿と配置上別扱いをされているのである。

・本殿の配置が新宮、本宮とは左右逆である。

・大社の社殿が現在のような形で建てられた時代は不明であるが、修験道興隆により熊野三山が一體のものと意識された以後のことと考えられる。

・太古、那智のは大瀧そのもので、無社殿の飛瀧權現こそが熊野那智大社の根源と思われ、例大祭である扇祭りがそれを如實に物語ると考えられている。

・熊野三山のうち、唯一『延喜式』名帳にその名が記されていない。熊野牟須美が那智の主とされるが、『新抄格勅符抄』天平護二年(766)熊野速玉男(新宮の主)とともに熊野牟須美にそれぞれ封戸が四戸あてられている、という記述があるが、二柱とも新宮の熊野早玉社のことと考えられ、そもそも、西御前(那智)も新宮に所属していたとするような記録もある。

・基本的に、那智山の人的組織は本宮や新宮と同様に檢校、別當の支配下にあり、その成立は平安末期頃といわれるが、史料がなくその詳細は不明とされる。『紀伊續風土記』では、「那智山は禰宜主なく皆社僧なり、社僧に清僧あり妻帶あり、云云」とある。元元、禰宜主なく皆社僧であったのか、後になったのかは不明。元元、禰宜主がない状態であったらば、それが、『延喜式』名帳に記されていない理由かもしれない。

・天正九年(1581)、大名堀内氏善が那智山への支配を強化した事に反発した御師塩崎廊之坊が武力決起、逆に氏善が廊之坊を攻撃した。一方で那智山内の實方院は堀内氏に付き那智一山は二分され、廊之坊側が敗れると同年に一族東學坊などの跡職は實方院に與えられることになった。


■朱鳥居■
(13th March 2009)
 


■手水舎■
(6th October 2007)
 


■境内社多富氣王子社■
(6th October 2007)

(13th March 2009)
 


■參道石段■
(6th October 2007)

(13th March 2009) 



■拜殿■
(6th October 2007)
 
(13th March 2009)



■本殿■
(6th October 2007)
 
(13th March 2009)
 
 

 國重要文化財


■末社御縣彦社■
(6th October 2007)

(13th March 2009)


 國重要文化財


■末社八社殿、末社御縣彦社■
(13th March 2009)


 國重要文化財
  

■平重盛手植え樟■ 
(13th March 2009)



■青岸渡寺(舊那智權現如意輪觀音堂)■
(6th October 2007)
 


■三重塔と那智御瀧■
(6th October 2007)


 
((コメント))

2007年10月6日

 あまり好きな形状の社ではない。荘嚴さが傳わらない。

2009年3月13日

 雨天であり、足場も惡かったが、せっかく那智の瀧まで來、大社もまた世界遺産であることから訪問。特に、前回の訪問と変わりはない。ただ写眞は滿足といえるかもしれない。


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4 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
教えてください。 (のん)
2009-09-07 12:31:09
文中に
>第一殿(滝宮)に大己貴命(本地千手観音)、・・・・

とありますがこの「本地」とはどういう意味ですか?

廃仏毀釈以前に話はあんまり知らないので、
教えてくださいね。
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のんさん、おひさです (丹敷戸畔の御子)
2009-09-09 14:31:51
 まあ、簡単にわかりやすく言うと、神さんと仏さんを一体化させてしまったやつです。

 大己貴の本地が千手観音、千手観音に相当するとでも言えばいいのかな。わかる?
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何度もすみません (のん)
2009-09-10 15:51:53
大己貴は千手観音そのものと考えたらええんですか?

元々は仏様と神様は一体化されていて、神道と仏教の世界では呼び方が違ったって
そんな感じですかねえ。
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Unknown (丹敷戸畔の御子)
2009-09-10 20:56:33
のんさん、

そんな感じでいいと思いますよ!
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