■長宗我部信親墓所■
(12th November 2008)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/fd/3455493cf0d8a54590ec4aacdcf3eb1c.jpg)
★長宗我部信親墓所★ 大分県大分市大字上戸次
長宗我部信親は、四國を統一した元親の嫡男に当たる。母親は、明智光秀の重臣齋藤利光の義理の妹である。四國統一後、豐臣秀吉に交戰し、破れ、土佐一國の大名に戻り、秀吉の島津討伐に從ったのだが、このとき大將を務めた無能の仙石秀久の無謀な進撃案に反對するも立場的に從わざるをえず、結局、負け戰で大將が瞬く間に敗れ、崩れることになったときに、信親は土佐勢の中備え千名を率いて、勇敢に島津の主力部隊と戰ったのである。しばらくは撃退していたが、周りの味方を破った島津兵たちに周りを囲まれついには、有力家臣たちが全滅していく中、壮絶な討ち死にをしたのである。このときに相手方の島津重臣新納忠元は、その素晴らしかった若武者に感じ入り、遺体をそのまま丁重に返還したという。ちなみに、この後、元親は期待していた嫡男の死に狂い、別人のごとくなり、跡繼ぎ問題においては、次男、三男を差し置き、四男盛親に繼がせ、信親の血を殘すためにその娘と結婚させたという。元親は跡繼ぎ問題に反對した甥の吉良親實や従兄弟の比江山親興を殺している。結局、信親の死は非常に大きく禍根も殘し、一族衰退、そして滅亡の遠因にもなっている。
ちなみに、信親の「信」の字は織田信長により与えられたもので、實際、信長が信親の噂を聞いたとき、自らの養子に迎えたいと述べたという逸話もある。
((コメント))
2008年11月12日
長宗我部信親墓所に立ち寄った。小さな墓地の一角にあり、他に鎧塚というものもあった。豐臣秀吉の薩摩島津討伐に際し、一軍の大將をした仙石秀久の不出來のために、島津隊の主戰力隊に囲まれ、激戰の上、若くして一生を終えた勇將の冥を祈った次第。
(12th November 2008)
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★長宗我部信親墓所★ 大分県大分市大字上戸次
長宗我部信親は、四國を統一した元親の嫡男に当たる。母親は、明智光秀の重臣齋藤利光の義理の妹である。四國統一後、豐臣秀吉に交戰し、破れ、土佐一國の大名に戻り、秀吉の島津討伐に從ったのだが、このとき大將を務めた無能の仙石秀久の無謀な進撃案に反對するも立場的に從わざるをえず、結局、負け戰で大將が瞬く間に敗れ、崩れることになったときに、信親は土佐勢の中備え千名を率いて、勇敢に島津の主力部隊と戰ったのである。しばらくは撃退していたが、周りの味方を破った島津兵たちに周りを囲まれついには、有力家臣たちが全滅していく中、壮絶な討ち死にをしたのである。このときに相手方の島津重臣新納忠元は、その素晴らしかった若武者に感じ入り、遺体をそのまま丁重に返還したという。ちなみに、この後、元親は期待していた嫡男の死に狂い、別人のごとくなり、跡繼ぎ問題においては、次男、三男を差し置き、四男盛親に繼がせ、信親の血を殘すためにその娘と結婚させたという。元親は跡繼ぎ問題に反對した甥の吉良親實や従兄弟の比江山親興を殺している。結局、信親の死は非常に大きく禍根も殘し、一族衰退、そして滅亡の遠因にもなっている。
ちなみに、信親の「信」の字は織田信長により与えられたもので、實際、信長が信親の噂を聞いたとき、自らの養子に迎えたいと述べたという逸話もある。
((コメント))
2008年11月12日
長宗我部信親墓所に立ち寄った。小さな墓地の一角にあり、他に鎧塚というものもあった。豐臣秀吉の薩摩島津討伐に際し、一軍の大將をした仙石秀久の不出來のために、島津隊の主戰力隊に囲まれ、激戰の上、若くして一生を終えた勇將の冥を祈った次第。