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紀伊國一之宮日前神宮及び國懸神宮

2010年03月06日 15時57分07秒 | 近畿(三重、和歌山)
■紀伊國一之宮國懸神宮■
(8th December 2007)



★紀伊國一之宮日前神宮及び國懸神宮★ 和歌山県和歌山市秋月365

・延喜式内社、紀伊國名草郡、日前神社、名神大、月次相嘗新嘗。

・延喜式内社、紀伊國名草郡、國懸神社、名神大、月次相嘗新嘗。

・旧社格はともに官幣大社。

・祭神は日前神宮には、日像鏡を神体とし、日前大神を主祭神、思兼命、石凝姥命を相殿に祀り、國懸神宮には、日矛鏡を神体とし、國懸大神を主祭神、玉祖命、明立天御影命、鈿女命を相殿神とし祀る。通説では、日前宮の由緒書きにもあるのであるが、両宮とも天照大神を祀るといわれている。

・鎌倉期の『釈日本紀』は『大倭本紀』に曰くとして、昔、天孫が天降ったとき齋鏡三面と子鈴一合とを奉じたと述べ、その注に「一つの鏡は天照大神の御霊代で、これを天懸大神といい、他の一鏡は天照大神の前御霊で、これを國懸大神という。今、紀伊國名草宮に坐す神である。他の一鏡と鈴は天皇の御饌の神となり、大神に奉仕した。これが巻向の穴師の社の大神である」と記している。

・石凝姥命を治工とし、天香山から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡を鋳造したとき、その初度に鋳造された天照大神の御鏡前霊を日前國懸両神宮の神体として、後に鋳造された御鏡を伊勢の神宮の神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されていることから、この神宮に祀られる鏡が最も古いアマテラスの御鏡であることがわかる。

・平安時代、宮中の温明殿に内侍所が置かれ、天皇の御位の印としての神鏡を納める忌辛櫃があったとされるが、この忌辛櫃の中には、三面の鏡があったとされ、一面は伊勢の分身で「伊勢御神」といい、一面は「紀伊御神」、残る一面は名称不明であったと言う。天徳四年(960)九月の内裏焼失の際、「伊勢御神」だけは無事であったが他の二面は焼けたという。藤原實資は『小右記』の中で、焼けた二面は、日前神と國懸神であろう、と論じている。

・朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇し、歴史上、神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前神宮と國懸神宮しかなかった。

・総称して日前宮(名草宮)という。

・日本で唯一、一つの境内に二つの同規模の神宮を持つ神社。独立した二社である。

・社伝によれば、当初、名草郡毛見郷浜宮に祀られ、垂仁天皇十六年(紀元前14)に現在地に遷座したとする。

・伊太祁曾神社の社伝では、元々この地に伊太祁曽神社があったが、紀伊國における国譲りの結果、日前神、國懸神が土地を手に入れ、伊太祁曾神社は現在地に遷座したとする。これについては、日根輝己氏が「紀氏は大王だった」という著書の中で
非常に興味深い説を唱えられており、一読の価値はある。彼曰く、日本神話のアマツカミとクニツカミの間で行われた國譲りが実はこれではないか、という話で、舞台は出雲ではなくこの地にいたイズモ族である、と。ちなみに、彼は『同じ社地に二つもアマテラスを祀る神社を作ることは考えにくく、國懸神宮は大豪族紀氏の祖神を祀るもの』ではないかと考えている。

・熊野詣が流行った時代には、途中に参詣に人々が訪れたといわれる。

・戦國時代、代々宮司を務めていた紀國造家は戦國大名となったが、天正十五年(1587)に豊臣秀吉に攻め込まれ、社領が没収され、社殿が取り壊され、境内が荒廃。

・江戸時代に紀州藩初代藩主徳川頼宣により社殿が再興されたが社地は五分の一となり往時の姿は見られない。


■社號標■
(8th December 2007)



■鳥居■
(8th December 2007)

(28th April 2009)
 


■参道■
(28th April 2009)
 


■紀伊國一之宮日前神宮■
(8th December 2007)

 
(28th April 2009)




■紀伊國一之宮國懸神宮■
(8th December 2007)

(28th April 2009)




■攝社中言神社■
(8th December 2007)

(28th April 2009)
 

・祭神は名草姫命および名草彦命。
・名草彦命は、天道根命を初代國造にして五代目にあたり、また夫婦神として名草姫命と御一緒に中言神社として奉祀される。
・名草郡の地主の神として崇敬される。
・明治十年三月二十六日官命を以て日前國懸両神宮の摂社となる。


■攝社天道根神社■
(8th December 2007)

(28th April 2009)
 

・祭神は天道根命。
・天孫降臨の時、天道根命は二種の神鏡とともに従臣として仕え、神武天皇二年春二月、紀伊國を賜り初代國造職に任命された。
・紀氏は天道根命の末裔にあたり、歴代に渉り國造職を受け継いだ。
・明治十年三月二十一日には官命を以て日前國懸両神宮の摂社として定められた。


■末社松尾神社■
(8th December 2007)



・祭神は大山咋神と中津島姫命。
・京都洛西の総氏神である松尾大社から分社。


■末社市戎神社■
(8th December 2007)



((コメント))

2007年12月8日

 境内に入ると、ちょうど結婚式と結婚式の合間のようであった。刺田比古神社でも結婚式があり、目出度いものだ。一般に、日前神宮から参るのであろうが、攝社、末社、國懸神宮といった具合で彷徨った。

 伊勢神宮との鏡の話や、伊太祁曾神社との伝承などが残り、立ち位置の複雑な歴史を持つ神社であるが、元々、伊太祁曾神社の社地であったというだけに気は悪くはないし、建物も荘厳である。ただ、往時は八幡造りの社殿で全く異なったもので、伊勢神宮とは関係はなかったそうではあるのだが。この神社のことを考えると、國津の子孫としては複雑な気持ちとしかいえない。


2009年4月28日

 近くまで来ていたことと、刺田比古神社へ行く目的もあったので、ついでに日前宮も立ち寄ることにした。前回、攝社の中言神社の写真が撮れていなかった事も理由の一つであるが。境内は相変わらず、バックパックを背負った初老の方々が多くおられた。何かの観光ルートに入っているのだろうか。

 この地は、本来、紀伊國一の宮の一社である伊太祁曾神社の社地であったのが何故か、日前、國懸両神宮に譲り、遷宮となっているのだが、個人的には、伊太祁曾神社は國津の神社であり、それを侵略側に乗っ取られた形の社地交換であり、榎本神社が春日大社に乗っ取られたのと同じような話に思えるのだ。


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