の坐すと地と魂の鎭まる地

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村上彦四郎義光公墓所

2010年10月11日 03時33分49秒 | 歴史上人物の墓所
■村上彦四郎義光公墓所■ 
(10th October 2007)
 

★村上彦四郎義光公墓所★ 奈良県吉野郡吉野町吉野山

・村上義光公は、元弘三年(1333)閏二月一日、吉野城(現金峯山寺藏王堂)にて後醍醐天皇の皇子護良親王を逃がすために親王の鎧を着、鎌倉幕府軍の前に仁王立ちし、腹を切り絶命した勇士である。


((コメント))

2007年10月10日

 金峯山寺の階段を上ったところに村上義光の忠死の地の碑が建っているが、彼の墓が吉野宮から少し離れたところにある。何故、その地が選ばれたのか、までは知らないが・・・

 村上彦四郎義光(よしてる)は、信濃源氏村上氏の中でも最も歴史的に大きな働きをした武将であることは間違いない。子孫の村上水軍も優秀であったし、弟の子孫である村上義清は、戰國時代に結局は武田信玄に追われ、上杉謙信をっている。

 彦四郎義光は、鎌倉幕府打倒に燃える後醍醐天皇の皇子であった護良親王を守るために死んだ勇將で知られる。元弘の変の後、南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に従い、道中、敵方に奪われた錦の御旗を取り返すという活躍をしている。そして、もっとも彼の名を知らしめているのは、その最期の姿である。

 吉野城が、幕府軍二階堂貞藤の大軍に攻められ陥落する際、護良親王を逃がすために、親王の身代わりとなり、敵の大軍の前で立ち腹を切り、絶命しているのである。「天照太御子孫、武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん爲に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」の臺詞は有名である。

 この地でともに死のうとした嫡子義隆は義光に親王の行く末を見届けるように命じられ、また、滿身創痍、一人で五百騎ばかりを相手に半刻持ちこたえ、最期に自害しているのは有名な話である。

 南朝に尽くした楠木正成、正季兄弟や村上親子、新田一族、ただただ、彼らの生き様に感動するのみである。最近の、性根も座らず、命の重みも知らぬおろかな若者どもにも彼らの生き様を學んでもらいたいものだ。


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2 Comments

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Unknown (M子)
2009-12-01 19:03:46
彼らの勇姿には涙を禁じえません。

昔 工藤茂光が どんな想いをして
腹を切ったのか 思うと 重なる想いがあります。

武士には武士の想いが・・・ 立派で御座いますね。
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Unknown (丹敷戸畔の御子)
2009-12-01 23:20:44
特に死に様というと、この村上父子、金ヶ崎の尊良親王と新田兄弟がすさまじいですからの・・・
しかも、その激烈な忠義の死の後に残された子孫たちがまったく恵まれた境遇を得ることができなかったのも悲しいところ。
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