の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

六孫王社

2010年11月28日 13時58分25秒 | 近畿(滋賀、京都)
■參道■
(16th January 2008)



★六孫王社★ 京都府京都市南区壬生川通八条角

・祭は源經基。

・社名は、清和天皇の六の宮であった貞純親王の子供で、天皇の孫であったことから、六孫王と呼ばれた經基王にちなむが、この呼び名は非常に不自然であり、また、經基王が生まれたとき父貞純親王が死んでいたにも関わらず、同父母からさらに弟經生王の存在が「尊卑分脈」に記され、その出自は謎である。孫に当たる河内守源信の殘した願文では、その出自は清和天皇の第一皇子陽成天皇の子元平親王の皇子に当たるとされる。

・社地は、源經基の邸宅「八條亭」の跡地という。

・多田社、壺井八幡宮と共に「源氏三社」の一つと言われている。

・應和元年(961)、經基は臨終に際し、「死後は龍となって邸内の池に住み、子孫の繁榮を祈るから、この地に葬るように」と遺言したといい嫡子の満仲は現社地に經基の墓所を建立し、その前に社殿を造営した。現在も、石積みの廟が殘っているという。しかし、經基と満仲の年齢的な問題、經基は少なくとも勇敢と呼ぶには程遠い人物であったことなどもあり、この由緒には大きな疑問が付きまとう。

・鎌倉時代、源實朝の妻の本覚尼がこの地に遍照心院(大通寺)を建立し、當社はその鎭守社とされた。

・中世、戰乱などにより社殿を失い、經基の墓所だけが殘されたが、元禄十三年(1700)、清和源氏末裔を自稱する川家の江戸幕府により社殿の再興が進められ、翌年には、正一位の階と權現号を授けられた。


■鳥居、參道■
(16th January 2008)



■唐門■
(16th January 2008)



■拜殿■
(16th January 2008)



((コメント))

2008年1月16日

 東寺北總門から少し西に行ったところに六孫王社が鎭座。二度目の訪問。拜まないので參拜とは書かない。暗くなってきており人はおらず、寂しい雰囲氣。境内は唐門から奥に入れず、拜殿まではいけないので、本殿もあるらしいが目にすることが出來ない。まあ、社というよりは、東照宮などのように、源氏の祖を祀っているというものなので、社という名の廟だという認識で見ている。


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