K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

Securitization

2008-10-24 20:49:22 | 論理/思想/理論
今回のトピックは学問的で、Kの専門テーマに関わることを扱うので、
多分今までで一番難しいと思います。
なので読み飛ばしてもらってもかまいません。
もし読んでくれるのであれば、その時はちょっとだけ覚悟してください。(笑)

さて、最近Kは面白い理論について勉強している。それは「securitization(セキュラタイゼーション)」という概念だ。少しだけ英語の成り立ちについて解説すると、通常英語の語尾に-izeがつく場合、「~化する」という意味になる。例えば、globalize(グローバル化する)、Americanize(アメリカ化する)、legalize(合法化する)という具合にだ。この「~化する」という意味をもつ-izeが名詞化すると-izationとなる。知っての通り、globalization(グローバリゼーション=グローバル化)は日本でも定着している言葉だろう。その点を考慮に入れると、securitizationは「security化=セキュリティ化」という意味になる。

ではsecuritizationとは何だろうか。通常、securitizationという場合のsecurityは有価証券を意味するので、securitizationは証券化のことを意味する。ただし、ここで扱うsecuritizationは証券化のことではない。ここでのsecurityはもう一つの意味、すなわち「安全保障」を表し、それに-izationをつけた形を考える。したがって、今回のトピックであるsecuritizationを強引に日本語に訳せば、「安全保障化」ということになる。この言葉は日本語として定着していないので、ここでは原語通り、securitizationと英語で表記することにする。

まずsecuritizationの概念について考える前に、「security(セキュリティ)≒安全保障」は、今まで一体どのような概念として捉えられてきたかを整理しておきたい。これは一筋縄では表現できず、定義についてのコンセンサスもない。しかし、伝統的に考えられてきたsecurityは三つの側面をもつといっていい。第一に、securityの対象は国家(state)であるということだ。人々の安全を確保するためには、国家が安全でなければならず、逆に国家が安全であるならばその国の人々の安全は確保されると考えられてきた。第二に、securityは軍事的な問題である。国家の安全を脅かすのは軍事的脅威であり、また軍事的脅威に立ち向かえるのは軍事力であるということだ。第三に、securityは自然科学的手法を用いて、実証的・客観的に検証されるべきだと考えられてきた。言いかえれば、軍事力を中心にsecurityのレベルを図る指標を客観的に作り、securityを確保するために国家がいかに行動するのかということを実証的に検証することが伝統的なsecurity研究の問題関心だった。

しかし近年、伝統的なsecurity研究に対して、批判的な潮流が現れてきた。その中の一つが、securitizationの概念を提唱したコペンハーゲン学派と呼ばれる学者たちである。彼らが唱えたことの中で、以下の三点が特に重要である。第一に、彼らはsecurityの概念が軍事的側面に限定されないと考えた。同時にsecurityの概念が過度に拡散することも懸念したため、securityを5つの「セクター(sector=部門)」に限定して捉えようとした。それは軍事セクターに加えて、政治・経済・社会・環境セクターである。これと関連して第二に、securityの対象が国家だけに限定されないと考えた。伝統的security研究では、研究対象を軍事セクターに限定したため、国家だけをsecurityの対象とすることが可能だった。しかし、コペンハーゲン学派は他の4つの非軍事セクターを加えたことで、securityによって守られる対象は個人・集団などに加えて、経済や環境などに関わる特定の問題自体をも考慮せざるを得なくなった。そして第三に、今回のメインテーマであるSecuritizationの概念である。

コペンハーゲン学派は、Securityを所与の対象として捉えず、それは社会的に構築されるものだと考えた。すなわち、Securityという客観的実在は存在せず、何らかの影響によって、私たちが「この問題は脅威であり、Securityが確保されなければならない」と考えるから、そこにSecurityの問題が発生し、構築されていくのだ。では何がSecurityを作るのだろうか。それはSecurityを唱道する行為者と観衆の関係によって構築される。

少し混乱してきていると思うので、例をあげながら話そう。ある国で移民が増え、それに伴って犯罪が増えたとする。けれども、コペンハーゲン学派によれば、移民が本当に「客観的な脅威」かどうかを分析することに意味はない。重要なのは、人々が移民を危険と考えたこと自体にある。Securityは脅威を唱道する行為者(ここではある有力な政治家やジャーナリストと仮定しよう)が、移民を危険だと観衆(ここでは国民とする)に訴えることによって、作り上げられていく。つまり、Securityの問題は行為者と観衆の関係によって社会的に生まれる。このプロセスのことをコペンハーゲン学派の学者たちは、securitization(=security化)と読んだ。

securitizationの理論は、従来客観的に実在することが当然と考えられてきたSecurityの概念自体に疑問を呈し、それを社会構築的に分析することに成功したという点で、非常に面白い理論だ。グローバリゼーションの中で、Securityの概念が軍事セクターに限定されなくなりつつあるのは確かな現象であるが、そのSecurityの拡散化に対してSecurityをいかに捉え、分析するのかということについてコペンハーゲン学派は非常にスマートな見解を示した。

だが同時に限界もいくつか指摘されてきた。Securitizationは社会的に構築されるプロセスである。だから5のセクターを射程に入れることができる。しかし、軍事的側面も社会的側面も環境的側面も、Securitizationのプロセスと効果は空間・時間を問わず同一のものと捉える。ここでは詳しく説明できないが、それは過度の単純化と批判されることがある。もう一つは、Securitizationは説明的な理論である。やわらかく言えば、「どうなっているの?」に答える理論であり、「どうすべき?」に答える理論ではない。そのため、伝統的なsecurity研究が成し遂げてきたソリューション(=解決策)を提供するという点においては非常に貧弱であるとともに、現実肯定的な理論であるともいえる。最後に、Kが最も問題と考えているのは、securitizationが一体、誰がどの問題においてどのような条件を前提として起こるのかという問題について答えていないという点だ。もしsecuritizationが何らかの特定の条件のもとで起こるのだとしたら、それはsecuritization自体と違って客観的に分析可能なのだろうか。いいかえれば、securitizationはどこまで社会構築的な概念で、客観的・実証的分析との限界をどこに設定しているのかという点が曖昧である。

まあ、正直Kも勉強が足りないこともあるので、これから探究しなきゃと思う。


さて難しかったですか?最後まで読んでくれた人、ありがとう

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