S2000奮闘記

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2011年 S2000ぶらり旅「新潟/ 本与板城 編」

2011年06月18日 | 周遊紀行 / 甲信越地方
2011年 6月18日(土)
直江兼続と関係のあるお城を見に行って来ました

最初に着いたのは本与板城(もとよいたじょう)。

新潟県長岡市与板町本与板(旧与板町)にあった山城。築城時期は不明。建武元年(1334年)に新田氏一族の籠沢入道が築城したと伝えられている。 その後、越後国守護上杉氏の重臣飯沼氏が居城とした。 しかし、永正4年(1507年)、越後守護代長尾為景と守護上杉房能が戦った「永正の乱」で、 飯沼氏は為景に攻められ滅んだため、長尾氏の家臣直江実網(景綱)が城主となった。実綱は永禄年間に謙信より「景」 の字を与えられ大和守景綱と名乗りを変えた。 実綱の死後は総社長尾氏から養子に迎えた信綱が直江氏を嗣いだ。その後、御館の乱を経て、樋口与六が直江氏を嗣いで直江兼続と名乗り、慶長三(1598)年、景勝の会津移封に伴い兼続は米沢三十万石を与えられ移封となった。その直江氏は後に与板城に居城を移している。天正年間に本与板城から南方の与板城を築城したといわれるので、与板城が築城されたのは直江実綱、信綱から兼続の時代あたりとされている(本与板城から与板城への移転の時期は諸説あって定かではない)。本与板城は支城として機能したとも言われるが、上杉氏と共に直江氏が会津に転封されたため、廃城になったと推定されている( 本与板城がいつ頃まで存続していたかは不明)。

天正年間に与板城が築城された背景を見ると、天正元年に結成された織田軍団の対関東方面の滝沢一益が武田家を滅ぼした後の北進に備えての事だと思う(史実では武田家滅亡後に本能寺の変)。天正六(1578)年三月、上杉謙信、急死。天正七(1579)年三月、御館の乱、終息。その後に築城されたのでは?と個人的には思っているが、真相は??


駐車場・・・指が写ってる


山城なので、ほぼ登山(笑)


紫陽花を眺めながら


でも出そうな山道を歩いて行くと
 

本丸跡(頂上)に到着。
  

渡って来た信濃川に架かる与板橋も見えた


登城ルート
桜並木があったらしい!? 春になると桜も咲いて綺麗なのかな


2011年 ぶらり旅「新潟/ 総括 編」

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