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楢篠賢司の部屋

生きているうちに残しておきたいと言う気持ちから哲学的にまだ未知の分野である経済を書いていきます。

現状の経済行動を続けていくと未来はどうなるのか

2010-04-18 21:49:45 | Weblog
別のブログに書いたものですがジャンルとして経済でしたのでこちらに移します。 

まずは現状の経済行動とはの説明から。

 今のままの経済行動、あえて活動とはいわない。なぜならこれから書く文章を読んでもらえば解るかと思うが、活動という意味は人間の総体的な意志があって動いていくものであり、現在の世界的な経済行動を見ていると人間社会が総体的な意思によって動いているのではなく、一部の人間が経済を動かしているという方が正確であると考えるからだ。

 本来潤沢なはずの貨幣が全体に行渡らず、一部の人間の手に流れていってしまう。その結果労働価値を割り込んだコストダウン競争から、生き残りをかけた大企業同士の連携へと進んでいく。例えば自動車を例にとってみると、電気自動車の時代では数を製造しなくては生き残れないということで、日産自動車(ルノー)がダイムラーと提携し生産量を上げなくてはコストダウン効果が得られない。そこには価格競争が唯一の生き残り策であると。その理論が当たり前のように一人歩きをしている。待っているのは人件費の削減でしかない。つまり未来に待ち構えているのは失業者の増大ということになる。

 人間が経済に対するサル知恵(あえてこの言葉を使おう)から貴金属を貨幣にしたときには、三機能の中の保存機能があることから、利益と称するかたちで一部の人間の掌中にしまわれてしまうことになる。そこに待っているのは市中での貨幣不足から貨幣による交換が途絶えデフレへと突入していく。そこで貨幣とは何かを理解しないままに、貴金属から紙幣へ(金兌換停止)と貨幣を移し変えたのが現在の社会である。

 紙幣にすればいくらでも印刷できる、なぜ不足してしまうのかも考えずに、手を打った積もりでいい気になっているのが現在の世界経済のあり方ではないだろうか。

結果として大量の紙幣を市中に出すことになる。今までの歴史的教訓の中で貨幣価値(紙幣価値)が労働(そこで造られる商品)との釣り合いを取るために価値を減じて、インフレへと入っていくことは理解されている。そこでまたまたサル知恵を働かせることになる。あまりにも市中に大量に出てしまった紙幣を何とかしなくてはならない。印刷し過ぎてしまった紙幣を市中から引き上げなくてはならない。知恵を絞ったのが国債発行という手段だった。国債ならそのまま貨幣としては使えない、貨幣として使うには一旦市場を通して紙幣と交換しなくてはならない。交換という行為を通すことによって紙幣量を増大させずに済む。

しかしなぜ紙幣が増大してしまうのかを考えずに、その場を国債発行というかたちで処理しているのが今の世界経済の現状ではないだろうか。
そしてその結果がもたらすことは、タイトルに書いた未来の社会はどうなるのであろうかということになる。


注 金兌換停止
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&q=%E9%87%91%E5%85%8C%E6%8F%9B%E5%81%9C%E6%AD%A2&lr=&rlz=1W1SUNA_ja&aq=0m&aqi=g-m1&aql=&oq=%E5%85%8C%E6%8F%9B%E5%81%9C%E6%AD%A2&gs_rfai=




相続は財産の世襲。

2009-10-04 17:40:32 | Weblog
 阿修羅という掲示板で相続について書いたものですが、書き足りない部分がありましたので改めて書き足し掲載します。
 
 最近の傾向として選挙が近づくと世襲問題がクローズアップされる。それは国会議員の世襲が親から子へと地盤(自民党が良く使う手として地域のボスを動かし票集めをしている)を受け継ぐことへの批判があるのではないだろうか。
 
  確かに歌舞伎等の世襲にも、他の才能がある者に門戸を閉ざしてしまうことに問題があるが、そもそも本来の世襲で問題があるのは天皇制の問題が第一番ではなかろうか。これからの時代、世襲を問題とするならまずそこに手をつけるべきだと考えるが。
 
 ただここでは人的(ヒトテキ)世襲を問題とするのではなく、財産の世襲(相続)を問題として書いてみたい。
 
 一代で財を築いたという人が我々の時代までは数多く散見される。それは税制度にも問題があると考えるが、ある意味親の努力の結果築かれた財産を何の努力もしなかった子供が相続するのは、親から子への世襲よりも本来はもっとたちが悪いのではないだろうか。
 
 しかも親が死んでから権利だけを主張する、その結果兄弟同士の係争にも繋がるわけだし、最初から相続は連れ合い(夫婦間)の範囲だけにし、子供には相続させないと決めていれば子供同士の争いもなくなるわけだ。
 現行の相続税を100㌫にすれば単なるパーセントの問題であり相続の意味するところは同じであり、何の問題も生じないと考えるが。
 
 つまりある意味100㌫相続税をかけるということは、築かれた財産を夫婦の死後、国に返納するということになる。その返納された全額を全ての人の老後の財源に使用するということにすれば、人は老後の心配をすることはなくなる。

 老人の世話をしている家庭には老人手当てとして全額を支給する。また老人医療に対しては国が全額を無償にする。
 
 そして最後に付け加えることは、法を逃れようとして生前贈与というかたちを取ろうとする道を許してはいけないということにつきる。

貨幣とは何か(地域通貨)

2009-09-12 18:57:43 | Weblog
 地域通貨のことを書いてみます。ただこのような地域通貨は現行の、法定通貨を発行している政府(実際に発行しているのは日本銀行、政府は硬貨のみ)から決して許されるものではなく、ただ理論だけと言うことになります。
 
 ある一つの地域に100世帯の人が住んでいます、それぞれ何らかの労働に従事しており、全体の労働がこの地域を養うのに充分な量を持っています。例えば番号1の世帯は米を作る農家であり、番号2の世帯は魚類を捕獲し販売している漁業者でありというように、100世帯は各自この地域が必要としている労働に従事しています。

 ただし現在は法定通貨という「円」を使っていますが、今の日本の現状と同じように不況色が強く失業者もあふれる状態です。

 ここである数人のリーダー的な人が集まりこの状態を何とかしなくてはと考え、自分たちも地域通貨を導入してみようとなりました。本来は地域通貨をその地域に導入することは財務省に届けなくてはなりませんが。彼らはそのことを理解していなかったため、地域の中でプレス工業に従事している番号58の人に数種類の通貨を発注いたしました。

 それは現行の法定通貨に照らし合わせてみると、1円があり5円、10円、50円、100円、500円、1000円、そして硬貨として5000円までは必要だろうと考えそれ等を作り出したわけです。そしてこのプレスやさんには工賃として地域通貨を渡したわけです。

 それほど通貨に対しての理解はなかったのですが、最初からその通貨は貯蓄という溜め込みはできないようにしていました。

 彼らリーダーたちはプレス屋から受け取った彼らの硬貨をその地域の人に渡すべく、1割の上乗分をつけて現行の円との交換をいたしました。最初は地域の人たちは1割余分にもらえたうえ地域内でなら自由に使えるということで現行通貨から地域通貨に大量に交換しました。

 ここでは交換に使われた現行通貨の「円」はリーダーたちの元へ大量に集められましたが、そのことは後で書くとしまして、今は交換された地域通貨に絞って書いていきます。

 まず番号1の世帯が地域内にある番号6の人が作って販売している総菜屋に向かい今夜食べる夜食のおかずを買っていきました。番号6の人も仕事が終わったときに飲むビール等酒類を番号15の人から購入しました。このようにこの地域の人が日常必要としている商品は、地域の人たちが作ったもので充分間に合うため、この地域通貨は1から6に渡り、6から15に渡りとその価値を減ずることなく人々の間に流通していきました。

 地域通貨で買い物が不自由なくできるということから人々は今まで我慢していた買い物へと走りました、それと同時に今まで売れなかった商品が売れ出したわけですから、生産を増やさざるを得ませんでした。家長の生産だけでは間に合わず、それまで失業のため家でごろごろしていた息子にも別のところで生産販売をさせ、自分の労働で生活を成り立たせるための金を稼がせ、ニート生活から開放させました。

 今までその地域で失業していた人たちも、ある人は便利屋となり仕事が忙しくなった人たちの手足となり、1回5百円なりの配達料金を貰い商品を届ける仕事を立ち上げました。1回5百円でも1日に10人、15人から頼まれていくと充分生活が成り立ちました。

 一度法定通貨の「円」から交換された地域通貨は決して減ずることなくその地域の間を人々の労働によって作られた商品の交換に絶えることなく永久に回り続けるわけです。ここでは波及効果は無限大ということになります。生活が楽になったことから今まで別住居で生活をしていた年老いた老人を、息子なり娘が引き取り面倒を見ることができるようになりました。また老人はそれなりに家での役割を見つけ店番として働いたり庭掃除をしたり孫の面倒をみたりと毎日が忙しくなりました。

 そこで一番困ったのは銀行でした。地域通貨では預金ができないため誰も銀行を利用する必要がなくなったため、毎日が開店休業状態となりそれまで働いていた行員が、その地域で自分にできる仕事を探し出し、ある人は赤提灯の居酒屋となり、また地域通貨では大型家電を生産している人がいないため、壊れて修理が必要となった人のため家電品の修理業を起業したわけです。

 さらに困ったのは銀行家でした。行員もいなくなり銀行家だけが一人取り残されてしまったのでした。やむなく銀行は閉鎖となりました。ですが地域の人たちは困ることなく毎日が生産に追われていました。

 最後に書くことはリーダーたちが手にした法定通貨の「円」はそのまま持っていたのでは地域通貨を発行したための莫大な利益(通貨発行益(シニョリッジ))になってしまうのでその地域では生産できない物を地域外から購入してきて地域通貨で売るわけです。

 やがてこの地域では経済活動が活発になり、それまでシャッター街だった 商店もショーウインドーに商品が並び活況を呈するようになりました。そこには大手スーパーは地域から除外するというリーダーたちの最初からの計画通り、全てが小さな個人商店になってしまったのです。なぜなら自分の労働によって作られた物が売れなくては他人の労働で作られた物も買うことができないと人々が感づいたためです。その結果失業者はゼロになりました。
 
 メデタシ、メデタシでおわります。

社民党は民主党との連立を組んだとしても閣内に入ることなく閣外に留まるべきだ

2009-09-05 09:17:02 | Weblog
 現在の時点で連立構想で大きく取り出さされているのが社民党が持っている参議院の議席5人が焦点となっている。民主党も過半数を得るためには社民党との連立が必要だが、下手をすると社民党は民主党との連立の中で埋没してしまう可能性も取りざたされている。

 そこで両党にとって大きなメリットとして私が考えるのは、連立は組んだとしても社民党が閣内に入り閣僚を出すことではなく、閣外協力にとどまるべきだということになる。

 現在海外的に一番問題になっているのが日米同盟の今後ということになる。アメリカは鳩山氏の米国軽視を問題にし、盛んに高官がメディアに登場している。鳩山氏も過去に書いた論文を消すのに躍起になっている。

 そこで社民党が閣内に入ることなく閣外協力の段階に留まるなら、日米関係での問題点は社民党の協力が得られなかったせいにすることができる。このことでは鳩山氏の力不足といわれることはあったとしても、国内事情であることからアメリカもどうすることもできないのではないか。

 今までの自民党政権下による米国追従型路線から、対等な日米関係を築いていく一歩とすることができる。

 社民党は大いに日米関係で社民党の存在をアピールすることができるし、来年の参議院選挙で党勢を伸ばせるのではないかと考えるが。

 二大政党制の中で社民党の活躍を大いに期待している者の一人である。

 

失業を考える 2

2009-08-30 19:04:37 | Weblog
 昨日「失業を考える」という題名で書き込みを入れたが、後で読み返してみるとあまりにも簡単に書いたという悔いが残った。
 
 そこでもう少し考察をして書き足していこうと思う。

 時代的には旧石器時代、原始共産主義社会とでもいうのか、その社会では失業者という存在はなかったということができる。その社会では労働に従事できる者は差別なく狩りに参加できたであろうし、漁労にも参加することができた。
 
 当然、女性たちの仕事であれば植物採集においても、労働を提供できる者は当たり前のごとく参加することができた。そこには障害者及び老人子供以外は働くことが当たり前の社会が存在していた。

 しかし現在の社会は健常者が働くことが当たり前でなくなった社会がそこにある。その人々を称して失業者という名称で呼ばれている。いつからそのような名称が発生し、職を失った人達が社会に溢れるようになったかの検証をしていきたいのと、これも別の書き込みに書いている「人間と宗教」と同じように研究&思索ということになってしまう。

 そして最終的には現在の社会が続いていくとき、失業者は減少していくのか、または増大していくのかという問題に帰着していく。
 
 そこで考えられるのは景気拡大から一時的に失業者が減少したとしても、企業のあり方として経営者が考えることは、失業予備軍としての派遣労働者であり、契約社員という労働者の増大ということになる。

 これからつかの間の経済の好転があったとしても、貨幣が有り余っている社会の中ではバブルの発生、バブルの崩壊、そして景気低迷、失業者の増大という社会が頻繁に待ち構えているはずの社会構造がそこにはある。

 それを変えるには社会構造自体を変えなくてはならない。ただしローマは一日にして成らずである。

 先を読み、未来社会はどうあるべきかの理論を創っていくことの意味がそこにはある。

 残念ながら現在の政党、自公はもっともだとしても、民主党、社民党、共産党にしてもそれはない。あたかも日本共産党がそれをもっているかのように振舞っているが、彼らは貨幣を論じることができるのか、徹頭徹尾労働を論じることができるのか、私には疑問に感じるのである。

 これを書いている時間帯は、後数時間もすれば衆議院選挙開票による党政が判断できる時間に差し掛かっている。おそらく共産党は議員数を減少するであろうと私は予想している。共産党がじっくりと先を読み、未来社会はこうあるべきだという理論を出し、人々に受け入れられれば二大政党制の中で伸びていけると考えているが、それには共産党という名称を変えることも一つの方法だと考える。現状では二大政党制の中で社民党が伸びていくことが未来社会に通じる最善の道だと私なりの考えである。

失業を考える

2009-08-29 16:05:42 | Weblog
  このブログは土日の開店となる。ウイークデーにおいては書き溜めておけばよいのだから、それはそれで良いと思う。

 昨日(09年8月28日)の朝日新聞夕刊一面に、失業率 最悪5.7%と書かれた記事が目に入った。完全失業者は前年同月より103万人増え350万人に達したという。

 ここで考えることは失業者という言葉を簡単に使っているが。この「失業者」という言葉がいつから考え出され、使われるようになったのかということである。

 当然、最初頭に浮かぶのは貨幣経済になった時代では当たり前のように使われていたと考えられる。それ以前の人間社会ではどうであったか。奴隷制の時代では失業者という言葉が使われていたのか。

 奴隷が労働をすることができなくなったとき、奴隷の雇い主である主人が解き離す。では彼は失業者なのだろうか。もし彼を失業者というならば、定年退職後年金生活で暮らしている人たちも失業者と呼ばなくてはならないし、失業者の数に入れなくてはならない。

 そこから失業者と呼ばれる人たちは、働きたくても働くことができない人たちという事になる。

 では簡単に考えてみよう、年金者といえども日々の暮らしを送らなくてはならない。だが私も入れて彼らは毎日の生活に必要な物を手にすることができる。それは農家が作った野菜、米であり、漁業者が獲てきた魚介類であり、畜産農家が育てた牛、豚、鶏肉である。それらは全て、その職業に従事する人たちの労働によって作られたものであり、その人たちの労働なくしては一日たりとも生きることはできない。

 また交通機関を利用するにしても、全てその職業等に従事している人たちの労働があって年金者(現在の労働から解放されている人たち)といえども生活は成り立っている。

 ではその年金者を支えているものは誰なのか、つまり年金者に野菜、米、魚介類、肉等を提供し、日々の生活を支えている人達。当然そこには貨幣の存在があることは事実であるが、だがそのとき使われる貨幣は物を生産してはいない。

 作って提供しているのは日々の野菜その他諸々の物を生産している人たちの労働でしかない。つまり現在労働に従事している人たちの上前を撥ね生きていることになる。

 私は何をここで書こうとしているのか?

 それは現在の労働に従事している人たちの上前を撥ねることなく障害者、年金者の生活を支えることができるということを書きたいのだ。
 
 その方法とは現在失業している人たちの労働力を使えば良いということになる。現在働いている人たちの上前を撥ねることなく、全ての働ける人々に職を与えることが社会全体にとって潤うことになる。

 それを阻害しているのは何か?偏った貨幣所持が犯人であることは間違いない事実である。

 次回はまた。

 

人間と宗教 2

2009-05-30 08:33:33 | Weblog
 最近ブログなるものを私なりに理解してきた。それはできるだけ毎日書くと言うことだろう。ほんの少しでも書いていけば最終的には長大な文章になっていくだろう。
 
 何回か阿修羅と言う掲示板でダイナモさんという方と宗教的な議論をし、ブログに貼り付けてきたが、それほど深い意味ではなかった。ただ人間と宗教と言う途方も無い題名で書こうとすればそれなりの準備期間と資料集めが必要である。もう片方のブログでは未来社会はどうあるべきかを書いていることから、両方をうまく書こうとすれば時間的に厳しい局面になる。
 
 以前ブログに載せた人間と宗教と言う題名での、ポイントとなるものを再度抜粋して載せる。そして最終的には宗教は人間にとってどういう意味を持つのかで纏めていきたい。
 
 これを書けるのは私以外ないと自負している。なぜなら宗教の最上位の段階で宗教を理解し、なをかつその立場が宗教(神)を信じるという有神論ではなく、無神論の立場から人間にとって宗教は必要か否かという問題に行き着く。もしそこで否と言う回答ではなく無神論の立場から宗教を肯定したとしたら、当然のこと神を否定した立場での肯定であることから、宗教が人間にどのようにかかわっていけば良いのかということになる。以下は再度掲載文

 私の書こうとしていることは宗教を否定することではなく、また宗教家でもない私が宗教を肯定することでもない文章になるだろう。楢篠賢治の部屋ではそのことをこれから書き綴っていきたい。

 ただ最後まで人間と宗教で貫かれるのは、他の動物には無い人間だけの能力というか、はたまた感性というか『時間の観念』を持ったがゆえに、未来を想像上で予知し不安心理になるということだと言える。そしてそれは幼児期には無く、いつのころからかその観念を身につけていく。

人間と宗教 無神論の立場から

2009-05-23 17:46:55 | Weblog
 前回からの続きを書いていきます。

ダイナモさん貴方は公明党が政教分離に反しているとは思いませんかhttp://www.asyura2.com/09/idletalk36/msg/282.html投稿者 縄文ビト 日時 2009 年 4 月 29 日 14:39:03: egUyw5BLxswRI
(回答先: 私も政教分離を言っているのですが。 投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 4 月 29 日 10:06:07)

 この議論一本に絞りませんか。なぜならこの問題では政治と宗教が公明党と創価学会において分離できていないからです。私は公明党が宗教団体を母体として政治に関与していることに反対論を唱えている者です。公明党は政治に関与したことによって(自民党と連立を組んだことによって)勢力を大きく伸ばしたのではないでしょうか。
 もし次回総選挙で政権党から離れるようなことになれば勢力拡大を止めることができると考えています。もしダイナモさんが学会の人でなければこの私の考えに賛成できるはずです。なぜならフリーの立場で宗教を勉強していると最初に断っているからです。 


  露骨に政教分離に反しています。http://www.asyura2.com/09/idletalk36/msg/283.html投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 4 月 29 日 15:35:53: mY9T/8MdR98ug
(回答先: ダイナモさん貴方は公明党が政教分離に反しているとは思いませんか 投稿者 縄文ビト 日時 2009 年 4 月 29 日 14:39:03)

 公明党が創価学会を母体としていることは公然の秘密です。誰もが知っているタブーです。今回の北野武さんのラジオでの発言が大問題とされたのも公明党-創価学会-芸能部タレント(公明党の広告塔)のつながりを揶揄したからだと思います。
 欧州においては創価学会はカルトと認定されているそうです。私もそう思います。公明党という政党を持つ創価学会の存在は憲法の政教分離の原則に反しており、その存在を決して許してはなりません。  

  
    やっと意見の一致を見ましたねhttp://www.asyura2.com/09/idletalk36/msg/284.html投稿者 縄文ビト 日時 2009 年 4 月 29 日 16:51:40: egUyw5BLxswRI
(回答先: 露骨に政教分離に反しています。 投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 4 月 29 日 15:35:53)

 ダイナモさん色々と議論をして解った事は同じ考えを持っていたということです。ただ私は入院先で北野誠さんの記者会見でしか降板した意味を知りませんでした。
 学会イコール公明党が強くなったのも自民党と組んで政権与党になったからにしかすぎません。
 
 現在の段階では総選挙において民主党を勝たせることが、公明党の力をそぐことになります。それ以外政教分離の原則を確立することはできないのではないでしょうか。つまりこのことも学会は充分に知っていることで、それなりに必死になってくると考えます。
 これからは健康体を取り戻したことから時々顔を出します、よろしく。


   Re: やっと意見の一致を見ましたねhttp://www.asyura2.com/09/idletalk36/msg/285.html投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 4 月 29 日 17:57:23: mY9T/8MdR98ug
(回答先: やっと意見の一致を見ましたね 投稿者 縄文ビト 日時 2009 年 4 月 29 日 16:51:40)

 前の投稿で、北野武は北野誠の間違いでした。訂正します。
公明党の存在は憲法の政教分離に違反することは明白ですが、マスメディアは創価学会からの攻撃を恐れて問題にしようとはしません。
ではでは。  

   私が宗教を研究している意図はそこにありますhttp://www.asyura2.com/09/idletalk36/msg/293.html投稿者 縄文ビト 日時 2009 年 4 月 30 日 06:58:21: egUyw5BLxswRI
(回答先: Re: やっと意見の一致を見ましたね 投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 4 月 29 日 17:57:23)
 
 ダイナモさん今日は退院日なので簡単に書きます。私は宗教を単に概観で攻撃しても無理があると思います。北野誠さんは外観的な面で攻撃したことによって誹謗中傷のそしりとして叩かれたのだと考えます。私が時間の観念云々はまだ誰もそのことを言っていないということではその研究の先頭を走っていると自負しています。
 自然界という世界の中で、いまだ進化は止まっていません。その何よりの証拠は豚インフルエンザがそのいい例だと言えます。鶏から発生し、人間に近い豚にウイルスが変化(進化)していく。やがて彼らは人間に移り、その段階から人間同士の間で感染を起こすウイルスへと進化したのだと言えます。このように見ていくと彼らの最終目的は人間を攻撃するために段階を経てきたのかと考えてしまいます。
 
 では人間はこの先、どのように進化していくのかと言うことになります。その前に進化の原動力になっているのは何かということです。この問題はブログに書いていきます。

 楢篠=ここでダイナモさんとの阿修羅上での議論は終わりました。なぜ私がこの議論のやり取りを転載したのかといいますと、これから書いていく文章の前書き部分だと言うことです。私の全ての発信は無神論という立ち場からであり、政治においては政教分離。政治と宗教を切り離すことが人間社会にとって重要な要素だと考えているからです。政教分離への第一歩として今回の総選挙に於いては自民党・公明党を野党の立場に追い込むことです。今まで公明党は自民党と組んで政権党になり勢力を伸ばしてきたと言えます。そして宗教とは外部からの攻撃には強く、内部での問題を抱えたとき徐々に内部から崩壊していくものと考えます。私が公明党及び創価学会に政教一致ではないかと攻撃するつもりはありません。野党になったとき、つまり勢力を失ったとき政教分離ができているのだと、万人が納得できる説明を要求するだけです。 

宗教と人間 私は無心論者です

2009-05-22 11:32:30 | Weblog
 今回の書き込みも阿修羅と言う掲示板でのペンネーム、ダイナモさんという方と宗教的議論したものを前回の続きとして書き込んでいきます。 


今回の金融危機ヘッジファンド等一部の人間の欲望。業であるのに彼らはせめられてはいないhttp://www.asyura2.com/09/idletalk36/msg/276.html投稿者 縄文ビト 日時 2009 年 4 月 28 日 11:15:58: egUyw5BLxswRI
(回答先: 話が噛み合いませんがレスしてみました。 投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 4 月 27 日 20:42:53)

 ダイナモさん返信ありがとうございました。
なぜ私がこのように宗教に反応するのかということは、選挙が近くなると○○学会の人が集票のため動き出すことに良い感情を持っていないからです。そしてその人たちは嘘をつくことは、入信させるための嘘は「嘘も方便」というかたちで許されていると判断しているように見受けられます。だから宗教に関心があるが所属はしていないといっても信じられないのです。

>宗教関係の議論は具体的根拠がなく、証明のしようがない議論になりがちで、 私が書いたことは出来上がった宗教ではなく、人間と他の動物との違いで比較したとき、人間だけが持つことのできる宗教心、それが何故なのかということです。そして辿りついたのが人間は時間の観念をもっている唯一の生命体だということです。そのことを徐々に書いていきますがその原因は『生物の進化』からきているのではないかということです。

>縄文ビトさんは、「人間が宗教に救いを求めるのは、人間は時間の観念を持っている所以である」と主張されていますが、確かにそれは宗教に傾斜する要因の一つと考えられないことでもありませんが、すべてではないと思います。
 
>>人間は最初から時間の観念を持って生まれて(赤ん坊)きたのではなく、成長過程で時間の観念を身につけてきたと考えています。例えば幼児期に最愛の母親を亡くした子供が、母の死を理解できる年齢は幾つぐらいからなのかということです。つまり死を理解する年齢はどの位なのかということです。小さいうちは死を理解することができないのではないでしょうか。ある程度成長した段階から死を理解することができるのではないでしょうか。『死』を理解するということは時間の観念を持っているということだと言えます。このことは他の動物には無いことだと言えます。

>仏教の特色に、この世は苦に満ちている、という基本的な考え方があります。楽しみや喜びもありますが、それらが因となって苦という果をもたらすことになります。生老病死は誰もが避けられない代表的な苦であります。ではなぜ苦が生ずるかと言えば、自己に執着するからにほかなりません。自己という概念は自意識が芽生える十代前半に生じます。
 
>>ここに宗教が人間の政治的・経済的不平等を覆い隠す道具にされてきたと考えています。ダイナモさんが派遣切りで仕事を失い、家族も失い、住む家も失った人たちを前にしてこの言葉を言えますか。多分彼らの怒りに触れるのではないでしょうか。

>自己に執着するとは、さまざまな欲望を意味します。ゴータマ・ブッダは苦しみをもたらす心的要素(煩悩)を貪瞋癡(とんじんち)にまとめました。欲望を貪(求める欲望)、瞋(避ける欲望)、これらを生み出す根本的な生存欲である癡(無明、渇愛ともいう)とで代表させたのです。これを図示すれば次のようになります。根本的な生存欲の滅  ↓欲望の滅  ↓善悪の業の滅  ↓輪廻(苦)の滅(=解脱)

>このメカニズムを発見したことにゴータマ・ブッダの独創性があります。  ↓  
>>それほどたいした発見ではないかと思いますが。人間は歴史上においてもっと数多くの 発明発見をしてきたのではないでしょうか。 私は拙著(人は人を使って利潤を得ても良いという…)本の中で解脱とは「無」になることであるということを引用していますが人間の死後、魂となって存在しなければ死後は無になることにしか過ぎないと思いますが。  人間全体に対し欲望・善悪の業を説くよりも、本来は一部の人間が不平等を作り出している欲望をセイブするよう正したほうがいいのではないかと思います。なぜか宗教はその逆をやっているように私には思えますが、いかがですか。 
 

 宗教は個人の救済を目指すものであって社会的不正をなくすものではないと思います。
http://www.asyura2.com/09/idletalk36/msg/278.html投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 4 月 28 日 21:30:42: mY9T/8MdR98ug
(回答先: 今回の金融危機ヘッジファンド等一部の人間の欲望。業であるのに彼らはせめられてはいない 投稿者 縄文ビト 日時 2009 年 4 月 28 日 11:15:58)

> 私が書いたことは出来上がった宗教ではなく、人間と他の動物との違いで比較したとき、> 人間だけが持つことのできる宗教心、それが何故なのかということです。そして辿りついたのが> 人間は時間の観念をもっている唯一の生命体だということです。> そのことを徐々に書いていきますがその原因は『生物の進化』からきているのではないか> ということです。

 今から2万数千年前に絶滅したネアンデルタール人は仲間を葬り、遺体のそばに花が添えられていたことが知られています。ホモ・サピエンスにも同じ行動の形跡のあることが分かっています。このことは当時の人類が原初的な宗教心を持っていた証拠とされています。進化の途上で人類はいつからか宗教的な心性を獲得してきたのだと思います。その意味で縄文ビトさんのおっしゃるとおりだと思います。自分は無宗教だという人でも死者を悼むことは宗教的心性の現れです。

> 人間は最初から時間の観念を持って生まれて(赤ん坊)きたのではなく、成長過程で時間の観念を> 身につけてきたと考えています。例えば幼児期に最愛の母親を亡くした子供が、母の死を理解できる> 年齢は幾つぐらいからなのかということです。つまり死を理解する年齢はどの位なのかということです。> 小さいうちは死を理解することができないのではないでしょうか。ある程度成長した段階から死を> 理解することができるのではないでしょうか。『死』を理解するということは時間の観念を持って> いるということだと言えます。このことは他の動物には無いことだと言えます。

おおむね同意します。
>> 仏教の特色に、この世は苦に満ちている、という基本的な考え方があります。>> 楽しみや喜びもありますが、それらが因となって苦という果をもたらすことになります。>> 生老病死は誰もが避けられない代表的な苦であります。ではなぜ苦が生ずるかと言えば、自己に執着>> するからにほかなりません。自己という概念は自意識が芽生える十代前半に生じます。>>  ここに宗教が人間の政治的・経済的不平等を覆い隠す道具にされてきたと考えています。> ダイナモさんが派遣切りで仕事を失い、家族も失い、住む家も失った人たちを前にしてこの言葉を> 言えますか。多分彼らの怒りに触れるのではないでしょうか。
ゴータマ・ブッダは「対機説法」を行ないました。これは相手の立場に応じて教えを説く、という意味です。これは縄文ビトさんが挙げられた場合でも当てはまります。

 宗教は個人の救済(この意味は各宗教によって異なります)を目指すものであって、社会的不公正や不正義をなくすことを目的とはしていないということです。両者は性質の異なる事柄であり、どちらか一方だけを選ぶというものではありません。

> 私は拙著(人は人を使って利潤を得ても良いという…)本の中で解脱とは「無」になること> であるということを引用していますが人間の死後、魂となって存在しなければ死後は> 無になることにしか過ぎないと思いますが。

 死後にどうなるかは形而上学的な問題であり、これに関しては議論の対象とすべきではないと思います。

> 人間全体に対し欲望・善悪の業を説くよりも、本来は一部の人間が不平等を作り出している欲望を> セイブするよう正したほうがいいのではないかと思います。なぜか宗教はその逆をやっているように> 私には思えますが、いかがですか。

 縄文ビトさんの問題提起は政治が対処すべき問題だと考えます。この問題に宗教が登場することは非常に危険なことだと思います。


 私が主張したいのは政教分離という原則ですhttp://www.asyura2.com/09/idletalk36/msg/279.html投稿者 縄文ビト 日時 2009 年 4 月 29 日 09:27:38: egUyw5BLxswRI
(回答先: 宗教は個人の救済を目指すものであって社会的不正をなくすものではないと思います。 投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 4 月 28 日 21:30:42)

 ダイナモさん貴方もどのような宗教団体にも属していないといっておりましたので○○学会に対しては政教分離が守られていないということは充分にご存知かと思います。宗教団体を政治母体にしていることは政教一致とみなされてもいたし方ないのではないでしょうか。
 
 そこで私からの提案ですがこのような団体を政治的に強くしてはいけないと言うことから、今回行われる総選挙では自公政権を勝たせるよりも民主党政権にぜひ勝って貰いたいということでは意見が一致するのではないかと思います。
 
 また名古屋市長選では投票率が前回を24.04パーセント上回る得票を民主党候補が得ていますので総選挙を戦っても、うまくやれば自公を野党に追い込めるのではないでしょうか。
 
 追い風は世襲制の禁止だと言えます。自民党の地盤・看板・カバンをなくせば自民党は野党に下るのではないでしょうか。そのとき公明党も力を失うことでしょう。ぜひとも総選挙では民主党に勝たせようではありませんか。

>死後にどうなるかは形而上学的な問題であり、これに関しては議論の対象とすべきではないと思います。
 
 宗教的な問題では今までに色々と議論してきましたので、また多分形而上学的な分野でやってきたと思いますのでアドレスを下につけておきます。
• ぼけ仙人さんの文章から麻原以上のものを感じました 縄文ビト 2006/10/25      13:52:36 (12)o
 縄文ビトさんこんばんは。 ぼけ仙人 2006/10/26 00:32:51 (11) ぼけ仙人さん反論いたします 縄文ビト 2006/10/26 14:06:20 (10) Re: ぼけ仙人さん反論いたします ぼけ仙人 2006/10/29 21:14:05 (6) ぼけ仙人さん、観念論と唯物論の違いを書きます 縄文ビト 2006/11/06        11:10:33 (4) 観念論と唯物論の違いを書きます。追加分Ⅱ 縄文ビト 2006/11/18 14:15:56 (0) 観念論と唯物論の違いを書きます。追加分 縄文ビト 2006/11/06 13:56:02 (2) Re: 観念論と唯物論の違いを書きます。追加分 如往 2006/11/07 09:58:54 (1) 如往さんお久しぶりです 縄文ビト 2006/11/07 14:24:52 (0) Re: 唯物論と無神論を混同されているようですね Kotetu 2006/10/29         22:31:53 (0) 千差万別の観念や思想をつなぐかけはしが、唯物思考。一つの方法論として捉     えるのが正解か 乃依 2006/10/26 23:54:37 (1) そうでしょうか 日 2006/10/27 00:35:25 (0) 突然ですが・・・唯物論を「タダ、モノ」と理解すてる人が多いんだすな。      竹中半兵衛 2006/10/26 17:16:42 (0)


>> 人間全体に対し欲望・善悪の業を説くよりも、本来は一部の人間が不平等を作り出している欲望を セイブするよう正したほうがいいのではないかと思います。なぜか宗教はその逆をやっているように>> 私には思えますが、いかがですか。 

>縄文ビトさんの問題提起は政治が対処すべき問題だと考えます。この問題に宗教が登場することは非常に危険なことだと思います

>この問題に宗教が登場することは非常に危険なことだと思います。
 
 むしろこのように書かれることは、思想信条の自由に反することであり、また言論の自由、表現の自由に反することであり黙視するわけには行きません。正確な解答をお願いいたします。 


 私も政教分離を言っているのですが。http://www.asyura2.com/09/idletalk36/msg/280.html投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 4 月 29 日 10:06:07: mY9T/8MdR98ug
(回答先: 私が主張したいのは政教分離という原則です 投稿者 縄文ビト 日時 2009 年 4 月 29 日 09:27:38)

>> 人間全体に対し欲望・善悪の業を説くよりも、本来は一部の人間が不平等を作り出している欲望を> セイブするよう正したほうがいいのではないかと思います。なぜか宗教はその逆をやっているように>> 私には思えますが、いかがですか。>  
 >> 縄文ビトさんの問題提起は政治が対処すべき問題だと考えます。この問題に宗教が登場することは> 非常に危険なことだと思います>>> この問題に宗教が登場することは非常に危険なことだと思います。>>  むしろこのように書かれることは、思想信条の自由に反することであり、また言論の自由、> 表現の自由に反することであり黙視するわけには行きません。> 正確な解答をお願いいたします。

 何か話が噛み合っていないようです。私も政教分離を言っているのですが。政教分離が> 思想信条の自由に反することであり、また言論の自由、表現の自由に反することとどうつながるのか? そこが分かりません。
縄文ビトさんは、> 本来は一部の人間が不平等を作り出している欲望をセイブするよう正したほうがいい
として、その実現のために宗教がなにがしかの影響力を発揮するべきだ、と主張されているように理解しました。私はその実現のためには政治が関与すべきであり、宗教は関与すべきでないと考えます。それが政教分離ということです。
 
楢篠 これらは阿修羅と言う掲示板を通して私とダイナモさんとの宗教的やり取りを書いたものです。以前にも宗教的論争を多くの人としておりますが、最終的に行き着くところはいたずらに宗教を否定するのではなく、政治と宗教が絡むことへの危険性を書いていきたいと考えているからです。そのためには人間が進化の最終的段階までたどり着いた生物として考えたとき、生物として持っている進化の原動力になったものが人間においてはこれ以上進化のしようが無いため宗教を作り出た。

 この問題はあくまでも私の推論になりますが、興味を持った方は反論をお願いいたします。
まだダイナモさんと縄文ビトとのやり取りが残っていますので、それ等をかたつけてから最終的な人間と宗教を書いていきます。

書く意欲が少し湧いてきた今日この頃です

2009-05-12 08:45:48 | Weblog
 手術後、今週の金曜日で一ヶ月になります。「楢篠賢司の人間とは」では手術後の二日で書き込みが終わっていますが、新規投稿ができない仕組みになっているため、やむ終えずこちらに近況を書きます。

 手術前に比べて手術後のほうが神経を使います。それは大腸の半分を取ってしまったため、便秘からくる腸閉塞を恐れるようになり、そのために神経が休まることが無いのです。このような状態で文章を書くということは、集中力の欠如からパソコンに向かって考えることが億劫になっていました。

 今週の金曜日(5月15日)再診で病院にいく日になっていますが、健康状態がすこぶる良くなってきたのを自分なりに感じています。

 楢篠賢司の部屋では人間と宗教を書くことでしたので、こちらの窓が開いているうちに書き込んでいきたいと思います。ただ進化という面では現在まで生物の進化がどこまで解明されているのかということから資料集めをしていかなくてはならないので時間が少しかかります。

 最近阿修羅という掲示板でダイナモさんという方とやり取りをしていましたのでそれをこちらに移していき、最後を進化が人間にどのように作用しているのかという文章で纏めていきたいと考えています。

 ダイナモさんの書き込みに対し縄文ビトが反論と言うかたちで展開していったものです。

    ゴータマ・ブッダは何を「悟った」のか?http://www.asyura2.com/09/idletalk36/msg/259.html投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 4 月 25 日 00:58:58: mY9T/8MdR98ug

 この書き込みに対し私が反論として展開していったものです。ある意味勘違いがありました。

    ダイナモ さんに一つ質問させてもらいますhttp://www.asyura2.com/09/idletalk36/msg/273.html投稿者 縄文ビト 日時 2009 年 4 月 27 日 17:18:23: egUyw5BLxswRI

 なぜ人間は他の動物には無い観念の世界におぼれてしまうのか教えてください。また私は「楢篠賢司の部屋」でこのような文章を書いております。
人間と宗教2009-02-14 09:57:03 | Weblog あなたの宗教を信じている意味を教えてください。前のタイトルにこのように書いたが、誰からも何のコメントもいただけなかった。『人間とは何か』を追求していけば必ずと言っていいほど人間は宗教の問題を素通りしていくことはできないだろう。
 
 あまた数多くある生物、動物と絞るべきかと思うが、どういう訳か人間だけが宗教と言う現実から離れた架空の世界へ逃避してしまう。なぜ現実から受ける悩み、ストレスを現実の世界で戦わないのか、他の動物、野生の動物であれば日々その戦いを繰り返しているではないか。 

 そして人間に飼育されている動物は死ぬまで最高の餌を与えられ、最高の環境で(ケイジ飼いの鶏を除く)ストレスも無く優雅な生活を送っている。彼ら動物(豚でも牛でも)は朝目覚めたときから、目の前に新鮮な食事が用意され、食べたいだけ食べることができる。喉が渇けば野生では味わえないような厳選された飲料水があてがわれ、日々の健康にも細心の注意が払われる。
 
 ただ彼らに明日のことが考えられたなら、人間のように絶望のあまり食欲が落ちてしまうだろうか。いや絶望のあまり狭い小屋を付き捲り自殺を選んでしまうだろうか。だが彼らには明日と言う時間が解らない、いや時間の観念が無いと言うことなのだろうか。
 
 そこで人間が宗教に救いを求めるのは、人間は時間の観念を持っている所以であるということになる。つまり他の動物には絶対ありえない『明日と言う観念』を持っているということになる。 

    人間と宗教 Ⅱ(以前書き込みをした文章)
 私の書こうとしていることは宗教を否定することではなく、また宗教家でもない私が宗教を肯定することでもない文章になるだろう。楢篠賢治の部屋ではそのことをこれから書き綴っていきたい。
 
 ただ最後まで人間と宗教で貫かれるのは、他の動物には無い人間だけの能力というか、はたまた感性というか『時間の観念』を持ったがゆえに、未来を想像上で予知し不安心理になるということだと言える。そしてそれは幼児期には無く、いつのころからかその観念を身につけていく。
 
 そしてあえて最終的なものを書くとすれば身についた時間の観念の最高峰とよぶべきか別としても、宗教上の悟りにあたるものと言うべきか、哲学を学問としてではなく『永遠の時間の流れ』を察知する能力。自己自身の置かれている状況を時間の流れの中で別の自分として上から見ている自分に気がつく。「私はどこから来て、どこへ去ろうとしているのか」と言うたゆまない懐疑、そのときあらゆる本を読みだし自分を認識する哲学が始まっていく。自分を知ることイコール「人間とは何か」を知ることでもある。

 現在のところまだ経済が終わってないのでこちらに進めませんが、終わり次第人間と宗教続編を書いていきます。
 
 モデムの調子が悪くネットに接続できませんでしたが、退院まじかにして「30日退院)現在繋がりました)  私は宗教関係と経済にはいくらか自信がありますので議論しましょう。そして最終的な目標は人間開放です。

   
     話が噛み合いませんがレスしてみました。http://www.asyura2.com/09/idletalk36/msg/274.html投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 4 月 27 日 20:42:53: mY9T/8MdR98ug
(回答先: ダイナモ さんに一つ質問させてもらいます 投稿者 縄文ビト 日時 2009 年 4 月 27 日 17:18:23)

 縄文ビトさん、初めまして。
私のブッダや仏教に関する理解は素人に毛が生えたようなもので縄文ビトさんと話が噛み合うか不安がありますが。宗教関係の議論は具体的根拠がなく、証明のしようがない議論になりがちで、議論として成り立つか疑問があります。とはいえ、ご指名を受けましたので貧しい知識しか持ち合わせていませんが、レスさせていただきます。

 縄文ビトさんは、「人間が宗教に救いを求めるのは、人間は時間の観念を持っている所以である」と主張されていますが、確かにそれは宗教に傾斜する要因の一つと考えられないことでもありませんが、すべてではないと思います。
仏教の特色に、この世は苦に満ちている、という基本的な考え方があります。楽しみや喜びもありますが、それらが因となって苦という果をもたらすことになります。生老病死は誰もが避けられない代表的な苦であります。ではなぜ苦が生ずるかと言えば、自己に執着するからにほかなりません。自己という概念は自意識が芽生える十代前半に生じます。

 自己に執着するとは、さまざまな欲望を意味します。ゴータマ・ブッダは苦しみをもたらす心的要素(煩悩)を貪瞋癡(とんじんち)にまとめました。欲望を貪(求める欲望)、瞋(避ける欲望)、これらを生み出す根本的な生存欲である癡(無明、渇愛ともいう)とで代表させたのです。これを図示すれば次のようになります。

根本的な生存欲(渇愛、癡、無明)  

↓欲望(貪と瞋)  

↓善悪の業  

↓輪廻(苦)

 このメカニズムを発見したことにゴータマ・ブッダの独創性があります。それまでは欲望が苦の原因だとされていたのですが、さらにその奥に本人も自覚することが難しい根本的な生存欲があることを明らかにしたのです。では根本的な生存欲を滅ぼすにはどうしたらよいか。それは根本的に無知だった状態から最終的に脱出することです。これを可能とするものが無自覚、無知の対局にある智慧であるとゴータマ・ブッダは見てとったのです。こうして解脱のメカニズムが図示できます。

根本的な生存欲の滅  

↓欲望の滅  

↓善悪の業の滅  

↓輪廻(苦)の滅(=解脱)

 根本的な生存欲求の滅を達成するには完全な智慧を獲得する必要があります。そのためには思考する瞑想を実践しなければなりません。思考停止の瞑想ではなく、自らの実存の輪廻的な生存のあり方にまつわるすべての経験的な事実を徹底的に観察し、考察し尽くす瞑想です。ゴータマ・ブッダはこの瞑想をやり遂げ、完全な智慧を獲得したことで根本的な生存欲の滅を達成し、最終的に解脱したのです。

 以上がゴータマ・ブッダがなし得たことの概要です。全面展開してしまいました。とは言っても、ここで述べたことを私が信じているかと言えばそうではありません。あくまでも知的好奇心から調べたことで、私自身は無宗教です。

 ここで縄文ビトさんの質問への回答ですが、そのようにできている、としか答えられません。

 次回に続く(楢篠)