実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

古九谷窯の誕生と廃止の時期は?

2013年05月21日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す(^_^)v

 

加賀市観光ボランティア大学第3回講座で、講師の中矢進一先生から教えて

いただいた九谷焼」のことについてレポートさせていただいています。

古九谷のはじまりと廃止に関して、もっともまとまった記述があるのが、

1736(享保21)年に加賀の儒学者・大沢君山が著わした

『重修加越能大路水径』という地誌です。

この本の敷地川の項には、

「此の山中を九谷と云ふ、明暦年實性後藤氏に

命じて土器焼かしめし所なり、其他に焼物あるようで、

南京焼に同じ、中頃制禁あるようで、今は絶へたり」

とあります。

明暦年とは1655~57年、實性公は大聖寺藩初代藩主・前田利治、

後藤氏は後藤才次郎を指します。また土器=陶器、南京焼=磁器のこと、

中頃とは明暦年中と享保21年の中頃すなわち1695~96(元禄8~9)年と

考えられているそうです。

また大聖寺藩に関する貴重な史料『茇憩(ばっけい)紀聞』には

九谷の宮に花瓶一対あり。田村権左右衛門明暦元年六月廿六日と藍にてあり。

是は焼物手初に此の花瓶を焼き、奉納したると云伝う。」とあります。

ですから、古九谷が焼かれていた期間というのは、1655~1696年までのきわめて

短い間だったです。

そして古九谷が忽然と姿を消した理由としては

・中心人物の死 ・財政上の問題 ・伊万里焼の大量流入 ・藩政の混乱

・工人確保上の問題 ・幕府嫌疑の回避 などが考えられますが、

どれも確証がないそうです。詳しくは昨年、先輩が書かれた下の記事をご覧下さい!

「古九谷窯が突如廃止されたのはなぜか?」

(2012年8月17日付け)

(↑クリックしてください!)

わたしは中矢先生が、「こんな話もあります」といわれてご紹介された

古九谷工人キリシタン説」にとても興味を感じました。古九谷の謎については

後日あらためてご紹介する予定ですので、よろしくお願いします!!

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