小島と広島と私たち

島爺の倉橋島での農作業と,
広島を中心とした孫たちとのくらし

戦後65年-6

2010-08-17 01:27:48 | メモ
 紙の翼に乗って
《天風録・中国:8月15日》

▲三原市の元美術教諭岡田黎子さん(80)は米国に負い目がある。かつてその地を目がけて放たれた「風船爆弾」造りに携わったからだ。各地で動員学徒が和紙を張り合わせた直径10メートルの気球。旧日本軍が焼夷弾をつり下げ,ジェット気流に乗せた。
▲うち1発が6人の命を奪ったことを岡田さんは後に知る。「加害者として謝罪したい」。その一念で20年前,竹原市沖の大久野島での動員体験を画文集に編んだ。「戦争に正義なんてありはしません」と前書きにある。英訳を付け米国にも贈った。
▲風船爆弾が落ちた米オレゴン州から最近,1通の手紙が舞い込んだ。差出人の映画監督は,犠牲になった少年や身重の女性らの遺族を訪ね歩いていた。「誰もがあなたの本を手元に置き,大切にしています」との一文が岡田さんの心に響く。
▲手紙に添えてあった記録映画のDVD。気球造りに手を貸した山口や九州の元学徒が渡米して弔った映像もある。「戦争こそが加害者」と遺族に握手を求められる場面。憎しみを超えた和解の瞬間である。
▲映画の邦題は「紙の翼に乗って」。現地の慰霊碑に日本側から手向けた千羽鶴を思い起こさせる。折れば平和のシンボルになる和紙が兵器にも変わる。65回目の終戦の日のきょう,そんな歴史も胸に刻んでおきたい。


戦後65年-5

2010-08-17 01:05:10 | メモ
 ・・・
        《産経抄・産経:8月15日》

▼日本でラジオ放送が始まったのは意外と新しく,大正14(1925)年3月のことである。夏目漱石も森鴎外もこの「文明の利器」を知ることはなかった。先の戦争が終わったときも,放送開始後20年しかたっていなかったことになる。
▼そのせいかどうか昭和20年8月15日正午,昭和天皇が「終戦の詔(みことのり)」を述べられたラジオの玉音放送もかなり聞き取りにくかったという。「詔」そのものも格調高い文語調だった。それだけにラジオを聴いた人たちの多くは,事態を正確に知るのに時間がかかったようだ。
▼『新潮45』8月号の特別企画「私と玉音放送」に寄稿している作家,佐藤愛子さんの場合もそうだった。当時22歳で,結婚していたが,雑音でほとんどわからず舅(しゅうと)に聞いた。「皆,苦しいだろうがしっかり頑張ってくれということやろう」というので気が抜けた。
▼日本が降伏したことを知ったのはその日の午後になってからだったという。夜になると,灯火管制をつづけるか,やめていいかが問題になった。さらにその1日か2日後,部屋で子供を遊ばせていたとき突然,止めどなく涙があふれてきたのだそうだ。
▼佐藤さんはその悲しみの源を自ら,こう推測している。「みんなあんなに一生懸命戦ったのに。若者も壮年も老人,女,子供,みんなが国のために心身をすり減らしたのだ。私の涙の中には確かに戦友意識にも似た同胞への想いがあったと思う」。
▼恐らく当時の多くの人が抱いた感情だろう。敗戦を確認するのに時間がかかった分だけ,お互いをいたわる心が育まれたのかもしれない。そんな気持ちを持てたからこそ,奇跡ともいえる復興をなしえたのだ。65年たとうと,忘れてはならない。

戦後65年-4

2010-08-16 12:19:15 | メモ
 あの日・・・
         《春秋・日経:8月15日》

▼玉音放送が流れた8月15日というと,カンカン照りの空と蝉の声のイメージが染みついている。よく引用されるのは高見順の「敗戦日記」だろう。
「夏の太陽がカッカと燃えている。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」
▼小説も映画も,こういう情景を繰り返し描いてきた。その日はたしかに世の中をそんな静寂が支配していたに違いない。が,だからといって誰もが茫然自失となってただ頭(こうべ)を垂れていた,と思い込むのは早合点だ。当日のNHKラジオひとつをとっても,終戦関連のニュースが堰(せき)を切ったようにあふれ出している。
▼正午からの放送は「玉音」に続き,報道と解説に30分ほどを費やした。ポツダム宣言受諾をめぐる日本と連合国のやりとり,直前の御前会議の模様,この1週間の動きの説明などなど盛りだくさんだ。夜にかけては内外の反応や関係者の談話が加わり,さらに内閣総辞職のニュースが入ってくるという具合だった。
▼じつは多くの日本人が敗戦を冷静にかみしめ,そこに至る過ちを心に問うていたかもしれない。それから65年。年月を重ねるごとに、そんな自問が薄れていくように思える8月15日である。今年もあの日のように,カンカン照りと蝉しぐれの一日だろうか。鎮魂の祈りを捧(ささ)げつつ,やはり「なぜ」と繰り返したい。

戦後65年-3

2010-08-16 09:05:25 | メモ
 昔と今の65年後
            《余録・毎日:8月15日》

▲「私の知っている貴方は必ず自己に対して責任を感じていられると思う。・・・連盟と手を分かつに至ったのは貴方の手によってである。この結果,日本は明治維新以来初めて世界に孤立したのであります」。
▲リベラルな外交評論で知られた清沢洌(きよし)が,日本の国際連盟脱退の立役者となった松岡洋右への公開状「松岡全権に与う」を発表したのは1933年のことだ。この年の連盟脱退が,その後の戦禍と敗戦・占領にいたる歴史の転換点の一つだったのはいうまでもない。
▲国民が玉音放送でポツダム宣言受諾を知った夏から65年が過ぎた。それがどれほどの時かは満州事変での国際連盟脱退が明治元年から65年後だったのを思い返せばいい。明治維新からその日までと同じ歳月が戦後を流れた。
▲英国はじめ列強の勢力均衡と植民地支配からなる19世紀国際秩序に適応し,国の独立を守った明治維新だ。だが米国が主導する20世紀の国際秩序や産業文明の変化にはあまりに鈍感な日本だった。自己改革を怠って侵略と戦争の迷路に入り込み,ついに独立も失った。
▲「松岡全権に与う」はその迷路の入り口となった連盟脱退での外交当路者の世論迎合を批判したことで有名だ。世論とはほかでもない,当時こぞって連盟への強硬姿勢をあおった新聞を意味する。清沢は迷走する日本において新聞人の責任を問い続けた人でもあった。
▲歴史は繰り返すといいたいのではない。戦後65年を迎えた新聞は21世紀の世界の新たなうねりにちゃんと目を見開き,それを報じているか。内外の戦没者の魂の平安を祈る日は,また新聞人が厳しく自らに問わねばならぬ日である。

毎日新聞 2010年8月15日

戦後65年-2

2010-08-16 08:53:42 | メモ
 口に出来ない悲しみは・・・
        《編集手帳・読売:8月15日》

◆―山の淋しい湖に
 ひとり来たのも悲しい心・・・
高峰三枝子さんの『湖畔の宿』(詞・佐藤惣之助,曲・服部良一)が世に出たのは1940年(昭和15年)である。替え歌が作られる。
◆―昨日生れたタコの子が
 弾に当って名誉の戦死
 タコの遺骨はいつ帰る
 タコのからだにゃ骨がない
 タコの母ちゃん悲しかろ…。
ひそやかに,しかし,たちまちのうちに全国に広まったと,鳥越信著『子どもの替え歌傑作集』(平凡社)にある。
◆戦死したわが子は遺骨さえ帰らない。大っぴらには口にできない悲しみを替え歌に託し,人々はそっと口ずさんだのだろう。
◆話術家の徳川夢声は,戦時下の日記に自作の句を書き留めている。
 “出鱈目(でたらめ)に 播(ま)きし菜種の 霜に堪え”
 “蝉(せみ)鳴くや 後手後手と打つ ヘボ碁打ち”
家庭菜園や囲碁の話題を装いつつ,播かれる「菜種」や打たれる「碁石」が,戦略なき戦争に翻弄される庶民を指すのは明らかである。暗号のような替え歌や俳句でしかありのままの心情を語れない時代があったことを,言論の末席に連なる者として忘れまい。
◆鎮魂と慰霊の日は,「声」の無事を確かめる日でもある。

 叔父(父の弟)の墓には爪と遺髪が収まっているだけだ。昭和20年3月18日,硫黄島で戦死したとされている。
当時,叔母(父の妹)夫婦は満州(中国北東部)に渡っていた。
叔父(母の弟)は中国で参戦していた。(後,ソ連で抑留生活を送る)
もう一人の叔父も呼び出しがかかっていた。
祖母は,息子の死を知らされないままに逝った。

当時は,どこの家庭でも,こうしたことが当たり前だったのだろう。

 硫黄島では,圧倒的な戦力の差にもかかわらず,日本人の戦死者約2万人に対して,米(連合)軍の死傷者はそれを上回った。本土決戦を避け,終戦を早めるために原子爆弾の使用が決断されたとも言われている。


戦後65年-1

2010-08-15 20:58:25 | メモ
 戦死や哀れ
                   《天声人語・朝日:8月15日》
▼戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ・・・
で知られる竹内浩三の詩「骨のうたう」は前半と後半で調子が変わる。後半では,白木の箱で戻った「遺骨」が,戦後の故国を眺めて覚える深い嘆きがつづられる。
▼無言の帰国をしてみると,人々はよそよそしく,戦争のことなど忘れたかのような変貌ぶりだ。そして
 がらがらどんどんと事務と常識が流れ
 故国は発展にいそがしかった
 女は 化粧にいそがしかった
と続く。浩三はルソン島で戦死している。切ない言葉は,戦後を予言したかのような一兵卒の心の慟哭である。
▼忘れがたい浩三の詩句を,倉本聰さんが書き,演出した劇「歸國」の舞台に重ね合わせた。南洋に果てた英霊たちが現代日本に立ち戻り,繁栄を垣間見る筋書きだ。テレビのドラマを見た方もおられよう。
▼舞台の劇は,英霊賛美に傾かず,説教臭さに染まず,重い投げかけがあった。豊かさと交換するように人の世の絆は細り,家族が崩れていく。故国を見た英霊たちの悲嘆は,多くの人の胸中に潜む感慨でもあろう。
▼きょう終戦の日。この日が盆と重なるのは,戦没者の思いが働いたかのようだ。迎え火,送り火,精霊流し。戦争の記憶と相まって列島の情念が一番深まるときである。得たものと失ったものを省みるに相応しい日でもあろう。
▼「戦争に負けるということは白いことなのだ」と故・吉村昭さんの近刊『白い道』にあった。その「白」は今,どんな色に染まったのだろう。めいめいが描いてきた「戦後」を問うように,65年目の夏がゆく。


 骨のうたう  竹内浩三(1921-1945)

 戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ
 遠い他国で ひょんと死ぬるや
 だまって だれもいないところで
 ひょんと死ぬるや
 ふるさとの風や
 こいびとの眼や
 ひょんと消えるや
 国のため
 大君のため
 死んでしまうや
 その心や

 白い箱にて 故国をながめる
 音もなく なんにもなく
 帰っては きましたけれど
 故国の人のよそよそしさや
 自分の事務や女のみだしなみが大切で
 骨は骨 骨を愛する人もなし
 骨は骨として 勲章をもらい
 高く崇められ ほまれは高し
 なれど 骨はききたかった
 絶大な愛情のひびきをききたかった
 がらがらどんどんと事務と常識が流れ
 故国は発展にいそがしかった
 女は 化粧にいそがしかった

 ああ 戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ
 こらえきれないさびしさや
 国のため
 大君のため
 死んでしまう
 その心や

墓碑に刻まれた詩文
 
 私のすきな三ツ星さん
 私はいつも元気です
 いつでも私を見て下さい
 私は諸君に見られても
 はずかしくない生活を
 力一ぱいやりまする

 私のすきなカシオペヤ
 私は諸君が大すきだ
 いつでも三人きっちりと
 ならんですゝむ星さんよ
 生きることはたのしいね
 ほんとに私は生きている

最高齢者は行方不明

2010-08-15 13:22:31 | メモ
 100歳以上不明281人
              《中国:8月15日》
 全国で所在不明が明らかとなった100歳以上の高齢者は14日までの共同通信のまとめで281人に達した。各地の自治体は不明者の住民票削除に着手。・・・・

 相次ぐ高齢者の行方不明
              《天声人語・朝日:8月13日》

 これはもう,おめでたい国というほかない。「最高齢記録」がずんずん更新されている。神戸市が「125歳の女性」なら大阪市は「127歳の男性」だという。長生き関西,130歳も夢じゃない。おいおい。
▼日ごと広がる高齢者の所在不明問題。次々と出てくる長寿者は住民登録上の話で,実際には長らく行方知れずの人ばかりだ。125歳の住所は公園,127歳は別の区で死亡届が出ていたが,一部台帳に消し忘れがあった。確かな最高齢は佐賀県のおばあちゃんで,113歳8カ月である。
▼経緯は様々だろう。家出を知られたくない,帰ってきた時のため住民票は削らない,やがて家族も齢(よわい)を重ね・・・。紙に寿命はないから,死亡届が出ないと書類の中で延々と生き続ける。
▼東京の「111歳の男性」が死後32年で見つかったのが始まりだった。関西の名誉のためにつけ加えれば,行政の怠慢を認め,実態調査を精力的に進めるほど,妙な長生きがいち早く表に出ることになる。全国の現実を思うと空恐ろしい。
▼日本では毎年,8万件の捜索願が出され,身元不明の遺体が千以上も見つかるそうだ。「ふらりと出たまま」から,「どこの誰やら」へ。漂泊のうちに,肉親の記憶は色あせ,実名は無名に漂白される。長寿大国の名が泣く怪事である。
▼子や孫に囲まれて暮らすお年寄りばかりではない。独居はつらい。さりとて弔いもないまま,役所の書類棚で生かされ続ける高齢者は悲しすぎる。お盆に帰るに帰れず,あの世でぼやいている人も多かろう。なんでやねん,と。

 『100さい,百歳』と金さん銀さんがお元気だった頃が懐かしい。
当時は,長寿の方に行政が面会しお祝いを手渡してた。今はそこまで手が回らなくなったのか。
親類縁者とのつながりもここまで薄くなったのか。
お盆の最中。人の世に光り射す話を聞きたいものだ。

 成田きん, さん,蟹江ぎん,さん 《Wekipediaから》
 1892年8月1日,名古屋市で一卵性双生児として出生。数え年百歳のとき名古屋市長から長寿の祝いを受けたことから一躍有名になり,新聞,テレビに登場することとなった。
 きんさんは,2000年1月23日に死去。享年107歳。ぎんさんは翌2001年2月28日に死去。享年108歳。

ミソハギ

2010-08-14 06:02:38 | メモ
 盆花ミソハギ
      《余録・毎日:8月13日》
▲ながれの岸のみそはぎは,誰も知らない花でした。
 ながれの水ははるばると,とおくの海へゆきました。
 大きな,大きな,大海で,小さな,小さな,一しずく,誰も,知らないみそはぎを,いつもおもって居りました。
 それは,さみしいみそはぎの,花からこぼれた露でした。
▲金子みすゞの詩「みそはぎ」である。詩のようにミソハギは湿地に自生する高さ1メートルほどの多年草で,ちょうど今の季節に紅紫色の6弁の小花を穂状につける。お盆の精霊花だといった方が分かりやすい方もおいでだろう。
▲「千屈菜」「禊萩」「溝萩」「鼠尾草」。これみなミソハギにあてられた漢字である。語源説も「水辺に生えるからミズハギ」「花が小さいので微萩(みそかはぎ)」「行者が禊(みそぎ)の時に挿して拝んだのでミソギハギ」など実に多彩だ。
▲地方により「水懸草(みずかけぐさ)」の異名があるのは、お盆で先祖の霊を迎える精霊棚にミソハギの束を使って水をかけたからだ。江戸時代の随筆によると,この草はのどの渇きを止めると信じられ,死者の渇きをいやそうと広まった習俗である(深津正著「植物和名の語源」)
▲「みそ萩や水につければ風の吹く」
は,一茶の妻の新盆の句という。精霊花としてのミソハギはお盆の前の12日から13日の朝にかけて野山から摘み取り,それが祖霊を家に迎えることを意味したといわれる。風となって戻った亡妻の霊と一茶は何を語らったのだろう。
▲今は精霊棚もないお盆をお迎えの方が多かろう。だがこのお盆休みのひと時,ミソハギでなくとも花一輪なりとも生け,風に耳を澄ましてはいかがだろう。心に訪れるものと静かに語らえばいい。

 恥ずかしながら,このような花があることさえ知らなかった。まして,『盆花』としてお供えすることなど・・・。

《ミソハギ》


“心の凝り”は

2010-08-13 23:22:07 | メモ
 “心の凝り”もひと言で治る

《編集手帳・読売:8月13日》
◆〈私バカよね おバカさんよね…〉とはじまる細川たかしさんの歌『心のこり』が世に出た頃,曲名を見て,ある人が言ったという。「肩だけでなく,心も凝るんだねェ」。
◆出版社で編集者の経験が長い須磨野波彦さんが著書『日本語探偵出動』(冬花社)に書いていた。『心のこり』は,もちろん「心残り」だが、その人は「心の凝り」と勘違いしたらしい。
◆人は何かでミスをすると,〈私バカよね〉とつぶやいてストレスをため込む。ストレスが「心の凝り」であることを思えば,まんざら意味の通らぬ勘違いでもない。
◆ストレスを抱えた女性は妊娠しにくい――米国立衛生研究所などが研究結果をまとめた。子供を望む夫婦は,妊娠に失敗したことのストレスでいっそう妊娠しにくくなる悪循環に陥るという。「心の凝り」は生命の誕生にまで影を落とすようである。
◆〈言ハザルト見ザルト聞カザル世ニハアリ 思ハザルヲバイマダ見ヌカナ〉。
古歌にもあるように,「思わない」ことほどむずかしい行為はない。過去のつまずきは忘れるのが一番と分かっていても,心は肩のように揉(も)んでほぐせないのがつらい。

※ 嫂のお盆休暇にあわせて還暦祝いをするという。横浜の息子を訪ねて,家族で関東の旅を兼ねるという。
その間母をショートステイにと聞いたので,それなら拙宅でということになった。

 12日,母を迎えに行ったときの兄,
「すみませんねぇ,お世話になります」
このひと言で,心の澱がすっと雲散霧消する。

 過日妹が帰ってきた。なにやら高級そうなお菓子がお土産で恐縮だ。
今まで,腰が痛いとか,捻挫をしたとか,娘の出産が近いとか,今回は,島で一緒に過ごしたらどうかと指示までしてくれる。
 誠にありがたいことだが,果たして,嫂にねぎらいの言葉の一つもかけてくれただろうか。

 今月初め,高校同窓会の案内が届いた。封書には7000円の入場整理券とワープロの案内状が1通。丁寧に,「参加しない場合は返せ」とある。
「おい,お互いに古希だ。今後会えるかどうか,一杯やろうや」
そんな電話なら,いくらへそ曲がりな私でもその気になったかも知れない。

 孫にと,手作りケーキを頂いたのでお礼の電話に対して叔母(母の弟のつれあい)からは,逆にねぎらいの言葉を頂いた。

 ここ2年余,つい狭い心に澱や凝りが溜まることがあったが,そうしたものも,二人の短い言葉でほぐれる。
 心残りのないように,“裏ブログ”に思いの丈を綴っておこうか,などと考えても見たが,その必要はなさそうだ。
 人とは,なんとも単純なものだ。


65年目の広島,8.6-8

2010-08-07 15:26:22 | メモ
 8月6日,秋葉忠利広島市長による“平和宣言”と小学生2人による“平和への誓い”が発表された。平和宣言は過去の者も含めて平和宣言によって確認できる。
 国連事務総長パンキムン(潘基文)の挨拶に日本語が取り入れられたが,秋葉忠利市長は被爆者の願いを代弁して,広島弁でその一部を表現した。私なりに翻訳すると,
「ああ やれんのう,こがあな辛い目に,なんで遭わにゃあ いけんのかいのう」
=「ああ やりきれないなあ,このような辛い目に,どうして遭わなければ ならないのだろうか?」
「こがあな いびせえこたあ,ほかの誰にも あっちゃあいけん」
=「このように 恐ろしいことは,ほかの誰にも あってはならない」

 平和への誓い

ぼくの大好きな街,広島。緑いっぱいの美しい街です。
65年前の8月6日,午前8時15分。
人類史上初めて,原子爆弾が広島に落とされました。
一瞬のうちに奪われた尊い命。変わりはてた家族の姿。
原子爆弾は人々が築きあげた歴史や文化をも壊し,広島の街を何もかも真っ黒にしてしまったのです。

しかし,焼け野原の中で,アオギリやニワウルシの木は,緑の芽を出しました。人々も,街の復興を信じて,希望という種をこの地に蒔きました。
傷つきながらも力いっぱい生き,広島の街をよみがえらせてくださった多くの方々に,ぼくたちは深く感謝します。

今,世界は,深刻な問題を抱えています。紛争や貧困のために笑顔を失った子どもたちもたくさんいます。私たちの身近でも,いじめや暴力など,悲しい出来事が起こっています。これらの問題を解決しない限り,私たちの地球に明るい未来はありません。

どうしたら争いがなくなるのでしょうか。どうしたらみんなが笑顔になれるのでしょうか。
ヒロシマに生きるぼくたちの使命は,過去の悲劇から学んだことを,世界中の人々に伝えていくことです。
悲しい過去を変えることはできません。しかし,過去を学び,強い願いをもって,一人一人が行動すれば,未来を平和に導くことができるはずです。

次は,ぼくたちの番です。
この地球を笑顔でいっぱいにするために,
ヒロシマの願いを,世界へ,未来へ,
伝えていくことを誓います。

平成22年(2010年)8月6日
  こども代表
     広島市立袋町小学校6年    高松 樹南
     広島市立古田台小学校6年   横林 和宏

 Commitment to Peace
August 6.2010


We love Hiroshima, our beautiful, green city.
Sixty-five years ago on August 6, 8:15 a.m.
The first atomic bomb in history was dropped on Hiroshima.
In an instant, many precious lives were lost. Bodies and faces of loved ones were completery disfigured.
The bomb destroyed traces of history and culture cultivated over the years by many people. and the city was reduced to ashes.

Amidst the burnt ruins. however, phoenix tree and tree of heaven buds began to sprout.
These buds gave citizens the hope and faith that they could rebuild their city.
In spite of the destruction and despair, citizens pulled themselves together and gave it their all catch day to reconstruct the city, and we are extermely grateful to them.

There are many serious problems in the world today. Many children have lost their smiles in the conflict and poverty that surrounds them. Sad things such as bullying and violence are taking place in our everyday lives. If we do not work to solve these problems, there will be no future for us.

How can we resolve these conflicts? How can we bring smiles to everyone's faces?
It is our mission as the youth of Hiroshima to learn from past tragedies and tell the world what we know.
We cannot change what happened in the past, but we can learn from it, and if each of us acts with the strong desire for change, we csn build a peaceful world.

It is our turn next.
To fill the world with smiling people, we promise to convery our wish from Hiroshima to the world and future generations.

Children's Representatives
Mikina Takamatsu (sixth grade, Hiroshima City Fukuromachi Elementary School)
Kazuhiro Yokobayashi (sixth grade, Hiroshima City Furutadai Elementary School)