大衆演劇《鹿島順一劇団》見聞録

全国に140以上ある劇団の中で、私が最も愛好している「鹿島順一劇団」の見聞録です。

平成21年6月公演、最適の劇場(蟹洗温泉・蟹座)で、最高の舞台《「新月桂川」「命の賭け橋」》

2016-09-30 18:03:08 | 劇場界隈

常磐線水戸経由でいわき駅、そこから二つめの四ツ倉駅で下車、旧街道筋とおぼしき通りをブラブラ歩きながら海岸線に出る。そこには「物産館」なる施設があって、土地の「海の幸」「山の幸」「工芸品」「加工食品」「地酒」等々、豊富に提供している。さらに海岸線に沿って北上すると、ちょっとした船溜まり、左手の山が大きく波打ち際に迫った場所(四ツ倉駅から徒歩20分)に「太平洋健康センター・蟹洗い温泉」は建っていた。右手は、まさに「太平洋」、およそ180度の視野で水平線を眺望できる景勝地、ロケーション「超1級」という折り紙付きの温泉施設といえよう。目玉は「日の出時刻」(今頃なら午前4時15分頃)、白みかけた水平線の一点に、針の穴ほどの「紅」が差したかと思うと、見る見るうちに半円、全円の「火の玉」が、天空に向かって上昇する、といった按配で、自然が織りなす荘厳なドラマを十分に満喫できる趣向である。加えて、レストランのメニュー「マッカリ」(韓国どぶろく)と「めひかりの唐揚げ」は絶品、ここでしか味わえない代物であろう。  
そんな施設(温泉旅館)の一郭に、大衆演劇の劇場「蟹座」がある。入館者は追加料金、宿泊者は無料、客席は全指定、飲み食い可能だが、レストランとは別という具合で、いたって好都合、観劇には最適の環境が準備されていると思う。
 公演は「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)の初日。芝居の外題は、昼の部「新月桂川」。
私は先月、同じ芝居を「近江飛龍劇団」で見聞済み。その感想を綴ったが、筋書は以下の通りである。
〈芝居の外題は「新月桂川」。桂川一家の若い衆二人(兄貴分新吉・近江春之介、弟分銀次・近江大輔)が男修行の旅から帰ってきた。二人とも親分(浪花三之介)の娘(座長・近江飛龍)に惚れている。帰ったら「お嬢さんと夫婦になって跡目を継ぐ」のも二人の夢、そのことになると兄弟分とはいえ「譲れない」。肝腎の娘は、銀次が「好き」、腕の方は新吉が上、親分は、背中合わせの一家・まむしの権太、権次(橘小寅丸二役・好演)のどちらでもいいから「首を取ってきた方に娘を与え、二代目を継がせる」とのこと、二人は勇んでまむし一家に殴り込み、目的通り、権太の首を挙げたのは、やはり新吉。銀次は土下座して新吉に、「頼む。その首を譲ってくれ!実を言えば、旅に出る前から、オレとお嬢さんはデキていたんだ」。「なんだって?・・・」ちっとも知らなかった新吉、激高して銀次を斬ろうとするが、そのたびに「ギンジサーン!」という娘の声が聞こえてきて、刀を下ろせない。つまるところ、自分を追いかけてつきまとう鳥追い女(轟純平・好演)と「一計を案じて」、嫁も跡目も弟分に譲る、というお話。〉
 「鹿島順一劇団」の配役は、桂川一家の親分・蛇々丸、若い衆新吉・座長・鹿島順一、弟分銀次・三代目虎順、親分の娘・春夏悠生、まむしの権太、権次・春大吉、鳥追い女・春日舞子といった面々で、その出来栄えは「いずれ菖蒲か杜若」。それぞれの劇団の「特長」が活かされ、甲乙つけがたい舞台であったと、私は思う。親分役の浪花三之助と蛇々丸(実際は父子?)の出来は「互角」、当然のことながら、若い衆二人は「鹿島劇団」が上、娘役は近江飛龍の勝ち、まむしの権太、権次は「僅差」で橘小虎丸、鳥追い女も「僅差」で春日舞子が勝ち、といった按配で、要するにこの二劇団が「合体」すれば、「日本一」の出来栄えになっただろうと、夢想した次第である。
 夜の部は「命の賭け橋」。振り袖火事で「一時解放」された囚人(春大吉)が、親孝行したいと木更津の母に会いに行く、それを許した役人A(虎順)と、見咎めた役人B(花道あきら)の「対立・葛藤」の物語。「三日後の暮れ六」までに囚人は帰ってくるか、帰ってこなければAは切腹、帰ってくればBは切腹といった「手に汗握る」サスペンス風ドラマ。見せ場は、囚人と盲目の母(春日舞子)の対面シーン。Bに傷つけられ「もう帰れない」と弱音を吐く囚人を前に、母は「帰れないのは、私がいるから・・・。一足先にお父つあんの所に逝ってお前の来るのを待っているよ」と言って自刃、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えながら絶命する。囚人は茫然自失。だがしかし、どこからともなく聞こえてくる法華太鼓、その勢いに押され、渾身の力を振り絞り、這うようにして引っ込む(退場する)囚人の風情は、たくましく「絵巻物」のように感動的であった。
 舞踊ショー、三代目虎順の「大利根無情」、ラストの「大阪シリーズ」は、ともに屈指の名舞台、大いに満足して仮眠室に一泊、帰路についた。
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芝居《悲劇「里恋峠」、更科一家親分(座長)の「喜劇的な」死に方》(平成21年5月公演・太陽の里)

2016-09-23 19:55:58 | 平成21年5月公演・茂原

 芝居の外題は「里恋峠」。その内容は「演劇グラフ」(2007年2月号)の〈巻頭特集〉で詳しく紹介されている。それによると「あらすじ」は以下の通りである。〈賭場荒らし見つけた更科三之助(三代目鹿島虎順〉は、その男(蛇々丸)をこらしめようとする。そこに川向こう一家親分・万五郎(花道あきら)が現れる。実は、その賭場荒らしは万五郎の子分だったのだ。三之助は万五郎たち(梅之枝健、蛇々丸、赤銅誠)に一人で立ち向かうがすぐにねじ伏せられてしまう。この危機に、(更科一家・親分)三衛門たち(親分・鹿島順一、姉御・春日舞子、代貸し・春大吉)が現れ、三之助は助けられるが、早まった行為に怒った実父であり更科一家の親分の三衛門から勘当、旅に出ることに。その後、まもなく三衛門は病に倒れ、一家も落ち目になっていった。旅を終えた三之助が、更科一家に帰ってくると、家には瀕死の三衛門が・・・。事情を聴くと、三之助のいない間に、万五郎が三之助の借金のカタにと、お里(生田春美)を連れて行ったと言う。どうすることもできなかった三衛門は、お里だけにつらい思いをさせるわけにはいかないと腹を切っていたのだ。お里を取り戻すため、三之助は万五郎のところへ向かうのだが・・・。〉筋書は定番、何と言うこともない「単純な仇討ち、間男成敗の物語」。主役は三之助(虎順)に違いないのだが、見せ場は「落ち目」になった三衛門(座長)の「病身」の風情にあった。いわゆる「ヨイヨイ」で、身のこなしが「思うに任せない」様子が何とも「あわれ」で、通常なら「泣かせる」場面だが、景色は「真逆」(正反対)。カタをつけにきた万五郎とのやりとり、(三之助が書いたと言われる証文を手にして、文書の裏を見ながら)「いけねえ、いけねえ。もう目も見えなくなって来やがった」「・・・?。何やってんだ。それは裏じゃねえか」「・・・そうか、裏か」といって表に返し「・・・?。ダメだ。字も読めなくなってしまった。オレノ知っている字が一つもねえ・・」「・・・?バカ、それじゃあ逆さまだ」「なんだ・・・。逆さまか」が、何ともおかしい。加えて、「落ち目」三衛門に見切りをつけ、万五郎と「いい仲」になろうとする姉御(春日舞子)に思い切り蹴飛ばされ・・・。(ひっくり返りながら)「今日は、これくらいですんだ。まだ、いい方だ」といって笑わせる。自刃の後、三之助の帰宅を見届けて、「大衆演劇って便利なもんだ、こんな時には必ず倅が帰ってくることになっているんだ!」、極め付きは臨終間際、「お里を連れ戻し、オレの仇を討ってくれ」と言いながら「事切れた」か、と思った瞬間、息を吹き返し「あっ、そうだ、忘れてた。もう一つ言わなければならないことがあったんだ」で、観客は大笑い。「妹を助け出すことができたなら、里恋峠の向こう更科の地で、鋤・鍬もって《綺麗に》暮らせよ」と遺言。「今度こそ、本当に死にます」と断りながらの臨終は、「お見事」。
 九州の大川龍昇・竜之助にせよ、関東の龍千明にせよ、およそ名優というものは「悲劇を悲劇のまま終わらせない」、さげすまれ、いじめられ、哀れな様相の中でも、必ず「笑わせる」。なぜなら、その「笑い」こそが、弱者からの「共感」「連帯」の証であり、明日に向かって生きようとする「元気の源」になるからである。
 舞踊ショー、蛇々丸の「安宅の松風」は天下一品。弁慶、義経、富樫の風情を「三者三様」、瞬時の「所作」「表情(目線)」で描き分ける「伎倆」は「名人芸」。座長・鹿島順一の「至芸」を忠実に継承しつつ、さらなる精進を重ねれば「国宝級」の舞姿が実現するに違いない、と私は思う。
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芝居《「仇討ち絵巻・女装男子」で「宴会劇場」制覇》(平成21年度5月公演・九十九里「太陽の里」)

2016-09-20 08:41:08 | 平成21年5月公演・茂原

芝居の外題は、「仇討ち絵巻・女装男子」。開幕前のアナウンスは座長の声で「主演・三代目鹿島虎順、共演・《他》でおおくりいたします」だと・・・。何?「共演《他》」だって?通常なら、「共演・花道あきら、春日舞子・・・。」などと言うはずなのだが・・・?そうか、どうせ観客は宴会の最中、詳しく紹介したところで「聞く耳」をもっていない、言うだけ無駄だと端折ったか?などと思いを巡らしているうちに開幕。その景色を観て驚いた。いつもの配役とは一変、これまで敵役だった花道あきらが・謀殺される大名役、白装束で切腹を強要される羽目に・・・。加えて、その憎々しげな敵役を演じるのが、なんと座長・鹿島順一とは恐れ入った。「これはおもしろくなりそうだ」と思う間に、早くも観客の視線は舞台に釘付けとなる。筋書きは単純、秋月藩内の勢力争いで謀殺された大名(花道あきら)の遺児兄妹(三代目虎順・春夏悠生)が、めでたく仇討ちをするまでの紆余曲折を、「弁天小僧菊之助」もどきの「絵巻物」に仕上げようとする趣向で、見せ場はまさに三代目虎順の「女装」が「男子」に《変化(へんげ)する》一瞬、これまでは虎順と花道あきらの「絡み」だったが、今日は虎順と座長の「絡み合い」、どのような景色が現出するか、待ちこがれる次第であった。だがしかし、「見せ場」はそれだけではなかった。遺児兄妹の補佐役が、これまでの家老職(座長)に変わって、今回は腰元(春日舞子)。亡き主君を思い、その遺児たちを支える「三枚目」風の役どころを、春日舞子は見事に「演じきった」と思う。加えて芸妓となった妹と相思相愛の町人・伊丹屋新吉(蛇々丸)の「色男」振り、敵役の部下侍(春大吉、赤胴誠)のコミカルな表情・所作、芸妓置屋のお父さん(梅之枝健)の侠気、妹・朋輩(生田晴美)の可憐さ等々・・・。絵巻物の「名場面」は枚挙にいとまがないほどであった。
なるほど、「舞台の見事さ」に圧倒されたか、客筋が当たったか(今日の団体客は、飲食をしなかった)、客席は「水を打ったように」集中する。いよいよ「女装男子」変化(へんげ))の場面、若手の芸妓が見事「若様」に変身して、仇討ち絵巻は大団円となった。その「変化ぶり」は回を追うごとに充実しているが、欲を言えば「女から男への」一瞬をを際だたせるための演出、芸妓の「表情」が、まず「男」(の形相・寄り目でもよい)に変わり、敵役を睨み付ける、呆気にとられる敵役との「瞬時のにらみ合い」、その後、「声を落とした」(野太い)男声での「決めぜりふ」という段取りが完成したら・・・、などと身勝手な「夢想」を広げてしまった。
さすがは「鹿島順一劇団」、どんなに不利な条件下であっても、「やることはやる」、しかも一つの芝居を、いかようにも「変化」(へんげ)させて創出できる、その「実力」に脱帽する他はなかった。
 舞踊ショー、座長の「大利根月夜」、昨年末の座長大会DVD(「年忘れ顔見世座長大会」・関西大衆演劇親交会)で観た恋川純弥・平手酒造の姿が「色褪せる」ほど、斯界随一の名優を証づける面目躍如の艶姿であった、と私は思う。 にほんブログ村 演劇ブログへ


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舞踊・《忠義ざくら》(三代目虎順)は珠玉の名品、加えて若手新人の「変化」(へんげ)ぶり

2016-09-19 07:12:40 | 平成21年5月公演・茂原

 午後1時30分から「九十九里オーシャンスパ・太陽の里」で大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」。この劇場の客筋は「団体」「家族」で「海水浴」「温泉浴」「砂風呂」「バーベキュー」等々を「楽しもう」とする連中がほとんど、「なんだ、芝居もやっているのか。ついでに観てみようか」といった気持ちでやってくる。まさに「花より団子」、舞台よりは「食い気」、鰯の天ぷらや地魚の寿司を頬ばりながらの観劇とあっては、周囲は騒然、舞台の景色・風情を鑑賞するには「最悪のコンデション」といえるだろう。そんな中で、健気にも芝居の外題は「噂の女」。春日舞子主演、鹿島順一共演による「劇団屈指の名作」である。出来映えは、「いつもどおり」、絶妙な呼吸、音響、照明と「絵になる景色」の連続だが、客席の集中度は不十分、「宴会場の余興」程度に「汚されてしまう」のが、何とも口惜しい。「猫に小判」「馬の耳に念仏」とは、このことか。とはいえ、座長、春日舞子を筆頭に座員の面々は「腐ることなく」「手抜きすることなく」、最後まで「渾身の演技」を持続したことは「立派」。とりわけ、事の真相を知った後、姉「噂の女」(春日舞子)に、泣いて詫びながら、彼女の草履を「宝物のようにして」拭く弟・君男(花道あきら)の「姿」が、ことのほか「絵になっていた。
 加えて、舞踊ショー。座長の「弥太郎笠」、蛇々丸の「一心太助」、虎順の「忠義ざくら」は《至芸》そのもの。とりわけ、虎順の舞台、音曲は詩吟入り民謡で(唄・三門順子)、古色蒼然たる風情だが、おそらく劇団の伝統として代々受け継がれてきた演目であろう、また劇団の三代目として、初舞台以来、月に1度は披露してきたであろう、えもいわれぬ舞姿が、その「初々しさ」ゆえに観客の心を「間違いなく」打つのである。
 そういえば、この劇団の若手(新人)・春夏悠生(「明治桜」・二葉百合子)、生田春美(「木遣り育ち」・由紀さおり)、赤胴誠(「箱根八里の半次郎」・氷川きよし)の舞踊も、その「初々しさ」ゆえに感動的である。私は、彼らの入団当初から舞台姿(個人舞踊では、毎回同じ演目を繰り返している)を見聞しているが、その「変化(へんげ)」(成長)ぶりは、目を見張るものがある。「基礎・基本」の徹底を図るためだろうか、「技」の習得から習熟、熟達、熟練の「道筋」を「着実に辿らせようとする」師匠(座長、春日舞子)の(並々ならぬ)「教育力」(「技」へのこだわり)と、それに応え、伸びようとする彼らの(素直な)「学習力」が結びついている証だと、私は思う。まだまだ未完成、未熟な「技」に違いない。だがしかし、それは「花のある未熟さ」「末が楽しみな未熟さ」なのだ。
 「がんばれ、若手新人!あなたたちは着実に成長している。今のままでよい。そして、ひとつでも多く先輩の《技》を盗むこと、いざというときに《代役》ができるよう、訓練を怠らないこと」。この劇団にいるかぎり「明日の出番はきっとくる!」などという言葉を、(心中で)掛けつつ帰路に着いた。
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座長・誕生日公演・《越中山中母恋鴉・主役・浅間の喜太郎は「至宝級」》

2016-09-17 20:19:06 | 平成21年5月公演・茂原

今日は座長・鹿島順一、54歳の誕生日、といっても特別な趣向があるわけではなく、強いて挙げれば、芝居の主役を三代目・虎順と交代 したくらいであろう。外題は「越中山中母恋鴉」、どこの劇団でも定番にしているポピュラー(通俗的)な演目だが、この誰にでもできそうな月並みな役柄・浅間の喜太郎を、斯界きっての名優・鹿島順一がどのように演じるか、私にとっては興味津々、胸躍らせて馳せ参じた次第である。 ゴールデンウィークの中日とあって、施設(「九十九里太陽の里」・千葉)は「大入り満員」、劇場も「ほぼ満席」状態,赤子の泣き声、食事客の私語、従業員の立ち歩き等々、「騒々しい」雰囲気の中での舞台であったが、出来映えは「お見事」という他はなく、通常は1時間半かかるところ、今日は55分で閉幕、まさに「綺麗に仕上がった」典型というべきであろう。(観劇専門の劇場でない場合、観客の集中度が不足している場合、早々に芝居を終わらせるのが、この劇団の特長であり、だからといって、その出来栄えが(時間に)左右されることがないというのも、また、この劇団の特長なのである)
 この芝居、「瞼の母」の兄弟版という筋書きで、幼い頃、生き別れとなった母を訪ねる兄弟鴉の物語。といっても弟はヤクザ同士の出入りですでに落命、白布に包まれた「骨箱」という姿に変わり果てている。いまわの際に「おっ母さんに、会いてえなぁ・・・」といって事切れたとか。兄の喜太郎(座長・鹿島順一)は、その思いを遂げてやりたいという一心で、ここ越中山中までやってきた、という場面。通常(の劇団)なら、白布に包まれた「骨箱」を胸にぶらさげて(位牌の場合は胸に隠して)登場する段取りだが、今日の舞台は違う。さりげなく人目に晒されないよう、縞の合羽と三度笠で覆い隠しながら、「新吉(亡弟の俗名)よ、もうすぐおっ母に会えるかも・・・」と話しかける時、はじめて真っ白な「骨箱」が露わになるのだ。名優・鹿島順一の手にかかると、この「骨箱」は単なる小道具を超えて、魂の吹き込まれた「登場人物」にまで「変身」してしまうほどである。 生母(春日舞子)に再会したのは二十年ぶり、「たしかに私には二人の子があった。名前は喜太郎と新吉・・・」という生母の話を聞いて、「今度こそ間違いない・・・」と「小躍り」する喜太郎の風情は絶品、にもかかわらず、なぜか「けんもほろろ」の応対に加えて、その大切な、大切な「骨箱」まで、えんぎでもない!と庭に抛りだされる始末。汚れてしまった「骨箱」の砂や泥をていねいに、ていねいに拭き落とそうとする喜太郎の姿、それを見つめる生母の「動揺」が「一幅の屏風絵」のように鮮やかであった。
 覆水は盆に帰らず、この「仕打ち」によって、喜太郎は「生母との離別」を決意する。「あれほど慕っていた弟を、『えんぎでもない!』という一言で捨て去るとは・・・」
その悔しさ、憤り、言いようのない絶望感の描出は天下一品、以後、「骨箱」は喜太郎の胸に「しっかりと」抱かれて(吊るされて)、やさしく、温かく縞の合羽に包まれることになった。
 生母、妹おみつ(三代目虎順)の「窮地」を救ったあと、喜太郎がおみつに話しかけた。「いつもなら、君が私の役をやるところ、今日は私の誕生日、主役を譲ってくれてありがとう。でも、久しぶりで、緊張のしっぱなし。セリフもとばしとばしで、どうもスンマセン」と言って、生母にまで謝った。とはいえ、それは一時の「息抜き」(アドリブ)、再び「骨箱」を抱きしめると、「それじゃあ、ごめんなすって!」という言葉を残し、一目散に(生母、妹を「一瞥もすることなく」)退場する「寂しげな風情」は、名優・鹿島順一の実生活・生育史を踏まえた演技の賜物であり、並の役者には到底及ばない「至宝級」の舞台姿であった、と私は思う。
通常の劇団なら、座長の「誕生日公演」、ケーキやプレゼント、御祝儀が飛び交う「賑々しい」雰囲気に包まれるのだが、そんなこと(誕生日イベント)には「いっさい無頓着」、「私如きの誕生日など、お客様には、何の関わりもないこと」と言って、普段どおりの舞台を務める姿勢が、何とも「潔く」「晴れやかで」、さすが実力ナンバーワン・「鹿島順一劇団」(別名自称・「劇団・火の車」)の面目躍如、という(誕生日)公演に、私は心底から満足・納得したのであった。 にほんブログ村 演劇ブログへ


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芝居《「木曽節三度笠」・虎順、当面の課題》(平成21年3月公演・川崎大島劇場)

2016-09-16 18:23:58 | 平成21年3月公演・川崎

 JR川崎駅から大師行きバスに乗り、追分停留所で下車、徒歩3分程度で「大島劇場」に着く。午後1時から大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)。座長の話では3月で「関東公演」は終わり、ということだったので、4月からは地元(関西)に帰るのかと思いきや、「演劇グラフ」の公演予定を見ると「えびす座」(福島県)となっている。なるほど「関東公演」は終わりだが、またもや「東北公演」が始まるということではないか、ならいっそうのこと、青森、新潟を回って再び「東京」(浅草または十条)を目指せばよい。先月の水戸ラドン温泉と違って、大島劇場は小さな、小さな芝居小屋、50人も入れば桟敷が一杯になるような「狭さ」、これまで見聞した劇団の中では「橘小竜丸劇団」だけが「大入満員」であった。今日は、初日の日曜日、開場1時間前に到着したが、先客はまだ1人、どうなることやらと案じられたが、「産むが易し」、開幕前の客数は30人を超えていた。芝居の外題は「木曽節三度笠」。筋書は大衆演劇の定番、ある大店の兄(花道あきら)と弟(三代目虎順)が、使用人(?)の娘(生田春美)を争奪しあうというお話。実はこの弟、兄とは腹違いで、今は亡き大店の主人(兄の父)の後妻になった母(春日舞子)の連れ子であった。行き倒れ寸前の所を母子共、大店の主人に助けられ、今は兄弟で大店を継いでいる様子・・・。弟は娘と「相思相愛」だったが、兄が横恋慕、弟は母の進言に従って娘をあきらめる覚悟、でも娘は応じない。兄は強引にも娘と「逢瀬」を楽しもうとして、土地のヤクザ(親分・座長、子分・蛇々丸、春大吉、梅之枝健、春夏悠生、赤銅誠)にからまれた。その場に「偶然居合わせた」弟、兄・娘を守ろうとして子分の一人(たこの八・春夏悠生)を殺害、やむなく「旅に出る」。そして1年後(あるいは数年後)、ヤクザの「股旅姿」がすっかり板についた弟(実はナントカの喜太郎)が帰宅、土地のヤクザに脅されていた母、兄・娘を窮地から救い出して一件落着。「時代人情剣劇」と銘打ってはいるが、眼目は、亡き主人にお世話になった母子の「義理」と、親子の「情愛」を描いた「人情芝居」で、三代目虎順の「所作」「表情」が一段と「冴えわたってきた」ように感じる。「口跡」は、まだ単調、「力みすぎ」が目立つので、「力を抜いてメリハリをつけること」が課題である。
 夜の部も客数は30人、芝居の外題は「心模様」。蛇々丸の兄(医者)と前科者の弟(三代目虎順)が「絡む」、「近代(明治)人情喜劇」とでもいえようか。まさに、直情径行で純粋無垢な性格、それでいて「刑務所帰り」という「下品」な風情を、虎順が「初々しく」しかも「鮮やかに」「品よく」描出していたように思う。三代目虎順は、いずれは座長、そのための器(素質)は十分、その「芽生え」を感じさせる舞台ではあった。もう一つ、「口跡」の魅力が加われば、座長への道が早まるだろう。「鹿島劇団」の《売り》は、何と言っても「音響効果」、「見ての美しさ」同様に「聞いての美しさ」を追求していることである。役者は「顔かたち」を衣装・化粧で「飾る」ように、「自分の声」(口跡)も飾らなければならない。「いい声」「魅力的な声」もまた役者の「命」なのである。三代目虎順の「口跡」は、まだ単調、合格点をつけられるのは「春木の女」の「お妙」くらいか・・・。同世代の恋川純、橘龍丸には「水をあけられている」。「所作」「表情」同様に「口跡」の魅力を体得することが、三代目虎順「当面の課題」だと、私は思う。
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芝居《「人生花舞台」・水戸ラドン温泉千秋楽の夢芝居》(平成21年2月公演)

2016-09-15 20:46:01 | 平成21年2月公演・水戸

2月公演の千秋楽、芝居の外題は「人生花舞台」であった。先月(1月公演・つくば湯ーワールド)とは違って、旧版どおり、元歌舞伎役者(老爺)・座長、清水の次郎長・花道あきら、一家子分大政・蛇々丸という配役だったが、水戸の舞台の最後を飾るためには「座長が主役」、なるほど、「立つ鳥は後を濁さない」という劇団(座長)の誠実さに脱帽する。花道あきらの次郎長、座長に比べて「貫禄は落ちる」が、彼独特の「人情味」(温かさ)の風情が魅力的、加えて、三代目・虎順の「三五郎」、蛇々丸の大政が舞台の景色を引き立てる。中でも、主人公・老爺(元歌舞伎役者)が次郎長に「昔話」を披露する場面(座長の長ゼリフ)で、一家子分役の、虎順、赤銅誠、梅之枝健、蛇々丸らが「凍りついたように固まって」座長の話に耳を傾ける様子は、圧巻。座長はいつも言う。「芝居で大切なのは『間』(呼吸)です。長ゼリフは意外に簡単。自分のペースでしゃべればいいのだから・・・。だいたいねえ、その(主役の長ゼリフの)時、他の役者は誰も聞いてなんかいませんよ、ひどいときには居眠りしている奴らだっているんですから・・・。」通常の劇団ならおっしゃるとおり、でも座長、あなたの劇団は違います。大先輩の梅之枝健を筆頭に、すべての座員があなたの「芸」を学ぼうと、必死に修行しているのです。その姿に、私たち観客は感動するのです。その姿から私たちは「元気がもらえる」のです。さてこの芝居、座長の相手は花形役者役の春大吉。この1年間で、一つ一つの「所作」「表情」に「見違えるような進歩」が感じ取れる。まず第一に、老爺自身が歌舞伎の実力者、その実力者(鹿島順一)が「惚れ惚れ」するような「芸」とはどのようなものであろうか。その姿を「具現化」することが春大吉の使命なのである。彼は「よく精進した」と、私は思う。花形役者の「色香」は十分、課題(目指すべき目標)は、坂東玉三郎の「品格」であろう。この演目を「鹿島順一劇団」の十八番として確立するためには、いつでも、どこでも、誰でもが、この花形役者役に挑戦できるという「からくり」を設けてみてはどうか。いわば、座長・鹿島順一が指南役、一人前の「登竜門」として、花道あきら、蛇々丸、虎順、赤銅誠が「次々に」花形役を演じる(試み)ができたなら・・・、本当の「夢芝居」と言えるのではないだろうか。
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芝居《「あひるの子」・名文句の「謎」》(平成21年4月公演・東洋健康センターえびす座)

2016-02-16 22:10:21 | 劇場界隈

東北新幹線郡山駅からバスで20分、磐越西線喜久田駅(無人駅)から徒歩15分のところに東洋健康センターはある。インターネットの情報では、やたらと劇場の「悪口」が書かれていたが、「聞くと見るとでは大違い」。数ある健康センターの中でも、浴室の広さ、泉質のよさ、仮眠室の追加提供等々、ぬくもりと、きめの細かなサービスにおいては、屈指の施設だ、と私は思った。もっとも、鹿島劇団は、観客への「癒し」・「元気」のプレゼントにおいては屈指の実力の持ち主、この劇団が行くところ、行くところの施設・劇場には、つねにそうした「至福の空気」が漂うことは間違いない。劇場の案内では「人気劇団初登場!!」と宣伝されていたが、鹿島劇団を「人気劇団」と評す「小屋主」の目は高い。地元常連客の評価「今日は土曜日、いつもなら大入りだが、なにせ初めての劇団だから、それは無理か・・・」。鹿島劇団の「人気」とは「数」ではない。今日も、秋田から「元気」をもらいに「駆けつけてきた」御贔屓がいるではないか。強いて言うなら、「お客様のために、あえて《大入り》を目指さない」とでも言おうか、「ゆとりのあるスペースの中で、楽しんでいただきたい」とでも言おうか、いずれにせよ、観客の「数」にかかわりなく、つねに「超一級の舞台」を目指すことがこの劇団の特長なのである。
 芝居の外題は「アヒルの子」、社会人情喜劇と銘打った筋書で、登場人物は下請け会社員の夫婦(夫・鹿島順一、妻・春日舞子)と娘・君子(生田春美)、その家の間借り人夫婦(夫・蛇々丸、妻・春夏悠生)、電気点検に訪れる電電公社社員とおぼしき若者(鹿島虎順)、親会社の社長(花道あきら)という面々(配役)。この人たちが繰り広げる「ドタバタ騒動」が、なんとも「ほほえましく」「愛らしく」、そして「滑稽」なのである。以前の舞台では、娘・君子を三代目虎順、間借り人の妻を春大吉、電気点検の若者を金太郎が演じていたが、それはそれ、今度は今度というような具合で、本来の女役を生田春美、春夏悠生という「新人女優」が(懸命に)演じたことで、「より自然な」景色・風情を描出することができたのではないか、と私は思う。だが、何と言ってもこの芝居の魅力は、座長・鹿島順一と蛇々丸の「絡み」、温厚・お人好しを絵に描いたような会社員が、人一倍ヤキモチ焼きの間借り人に、妻の「不貞」を示唆される場面は「永久保存」に値する出来栄えであった。なかでも《およそ人間の子どもというものは、母親の胎内に宿ってより、十月十日の満ちくる潮ともろともに、オサンタイラノヒモトケテ、「オギャー」と生まれてくるのが、これすなわち人間の子ども、七月児(ナナツキゴ)は育っても八月児(ヤツキゴ)は育たーん!!》という「名文句」を絶叫する蛇々丸の風情は天下一品、抱腹絶倒間違いなしの「至芸」と言えよう。その他、間借り人の妻が追い出される場面、娘・君子が「おじちゃん!」といって帰宅する場面、社長の手紙を読み終わって夫(座長)が憤る場面等々、「絵になる情景」を挙げればきりがない。要するに眼目は「生みの親より育ての親」、きわめて単純な(何の代わり映えのしない)筋書なのに、これほどまでに見事な舞台を作り出せるのは、役者それぞれの「演技力」「チームワーク」の賜物というほかはない。その「演技力」の源が、座長・鹿島順一の生育史にあることは当然至極、彼ほど「育ての親のありがたさ」を実感・肝銘している役者はいないかもしれない。加えて素晴らしいことは、蛇々丸を筆頭に座員の面々が(裏方、照明係にいたるまで)、座長の「演技力」に心酔、各自の「実力」として「吸収」「結実化」しつつあるという点であろう。ところで、件の名文句にあった「オサンタイラノヒモトケテ」とは、どのような意味だろうか、その謎もまた、この芝居の魅力なのだ・・・・。 
 歌謡・舞踊ショーで唄った、座長の「瞼の母」(作詞・坂口ふみ緒 作曲・沢しげと)は「日本一」、島津亜弥、杉良太郎、中村美津子らの作物を軽く凌いでしまう。理由は簡単、三十過ぎても母を恋しがる「甘ったれな」ヤクザの心情・風情に「最も近い」のが、旅役者・鹿島順一、番場の忠太郎への「共感度」が違うのである。そのことは、2コーラス目台詞の最後「逢いたくなったら、俺ァ瞼をつむるんだ」などと、原作通りには吐かないことからも明らかである。「瞼をつむる」?、間違いではないかもしれない、とはいえ、通常なら(ヤクザなら)「瞼を閉じる」「目をつむる」と言う方が自然、そこで鹿島順一の台詞は以下のように改竄されていた。《逢いたくなったら、俺ァ目をつむろうよ・・・》蓋し名言、脱帽する他はない。にほんブログ村 演劇ブログへ


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平成21年2月、水戸ラドン温泉で大団円!《関東公演双六の上がり》

2015-11-23 20:55:53 | 劇場界隈

我孫子発10時27分快速水戸行き電車で、水戸ラドン温泉に向かう。大衆演劇「鹿島順一劇団」2月公演の初日を観るためである。1月公演は「つくば湯ーワールド」、茨城県民の中にも30~50人程度の「贔屓筋」ができたようだが、なにせ「美鳳」だの「新演美座」だの、無骨・野暮天な芸風がもてはやされる土地柄、「長居は無用」を決め込んで、早々に「帰阪」されることを祈念する。座長の口上によれば、関東公演は3月まで、心底より「御苦労様」と労いたい。
 さて、実を言えばこの私、昨年12月中旬から「闘病生活」を続けている。これまでの病歴は、①無症候性脳梗塞、②前立腺炎・前立腺肥大であったが、新たに、③慢性皮膚炎(湿疹又は汗腺炎)が加わった。症状は、胸前、背中、肩、腕、太股などが「ただひたすら痒い」ということである。「痛い」「息苦しい」といった症状に比べれば「まだまし」といえるが、それにしても「イライラする」「集中できない」という点では、かなりしんどい。これまでに3度、医師を替えたが、いっこうに改善されないのは何故だろうか。第一の医者は高名だが高齢(おそらく80歳代)で、耳が遠い。こちらの話を看護師が通訳する始末だが、これまでの処方ではピタリと(薬を使い終わる前に)と治癒していた。だが、今回はいっこうに改善しない。そこで第二の医師、東京下町の診療所、彼もまた高齢だが耳は聞こえる。「冬場になると湿疹がでます。いつもは薬を塗ると治るのですが、今回はよくなりません」というと、患部を一見して「ああ、慢性湿疹ですね。注意点は二つ、汗をかかないこと、患部を掻かないこと。薬を出しますから、薄く塗ってください」ということであった。脇で初老の看護師がしきりに論評する。「そんなに厚着してたら、汗をかかない方がおかしい。さあ、脱いだ、脱いだ、あんたまだ若いんだから・・・」、なるほど、体が汗ばんだときに痒みがひどくなる。的確な助言に恐れ入り、薬を頂戴して帰路についたが、その量たるや微々たるもの、三日もすればまた通院しなければならない。塗布してみたが痒みはとれない。そこで第三の医者登場、大学付属の総合病院皮膚科、今度は30歳代とおぼしき女医で一見たよりななかったが、患部を触ったり、皮膚片を顕微鏡で覗いたりという方法で「汗腺炎」という診断であった。以後2週間以上、服薬、塗布治療を続けているが、症状に大きな変化はない。一番効いたように感じたのは、「つくば湯ーワールド」の天然温泉であったが、これから行く「水戸ラドン温泉」の効能はいかがなものか・・・。
 水戸駅北口から路線バス(大洗方面行き)に乗って、栗崎で下車。徒歩1分で「水戸ラドン温泉」に到着。入館料は525円とべらぼうに安い。日曜日と会って客が殺到し、浴室のロッカーに空きがなく「しばらくお待ち下さい」とのこと、「先に、芝居を観ます」といって劇場(レストランシアター)に赴いたが、その異様な光景に仰天した。収容人数500人とは聞いていたが、その舞台の大きいこと、広いこと・・・。通常の劇場の3倍は優にあるだろう。客席は二人掛けのテーブルが(小学校の机のように)すべて舞台と正対している。その座席が、な、な、なんと満席。私が最も愛好する「鹿島順一劇団」が500人の観客を前に公演するなんて、夢のような話。しかも、芝居の外題は、劇団屈指の十八番「春木の女」とあっては、感激の極み、私の涙は留まることを知らなかった。「育ちそびれた人をバカにしてはいけない」「白い目で見てはいけない」といった「人権尊重」を眼目にした芝居を「初日」にもってくるなんて、だからこそ、私は鹿島順一が好きなんだ。この座長は「本気で仕事をしている」。ここは関東、さだめし「忠治御用旅」「会津の小鉄」など「武張った」演目からスタートすれば評判があがるだろうと思うのに、あえて関西を舞台とした人情劇で勝負を賭けるなんて、その「気っ風」のよさに感動する。
公演初日の「春木の女」、出来栄えは「永久保存版」、500人といった大人数の中でも、役者と役者、役者と観客の呼吸はピッタリ、最後列で突然鳴り出した携帯電話の呼び出し音が、舞台の座長にまで聞こえていようとは・・・。咄嗟に「あんたたちがだらしないから、携帯電話まで鳴り出しちゃったじゃないの!」といったアドリブで対応する座長の機転が、何とも可笑しく、場を盛り上げる。梅の枝健、春日舞子、蛇々丸、三代目虎順、花道あきら、それぞれが「精一杯」の役割を果たして、大団円となった。
 この劇団の関東公演は、平成19年11年に始まり、ほぼ1年3カ月、来月の川崎大島劇場で終わるそうだが、今月の舞台は「大劇場」、双六で言えば、まさに「上がり」といった景色である。おそらく、「鹿島順一劇団」、最高の舞台が「水戸ラドン温泉」で終わるだろう。私自身もまた、ここらあたりで「大衆演劇三昧」を「上がり」にするような時がきたようである。
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芝居《永久保存版・三浦屋孫次郎》と劇団の「売り物」(平成21年正月公演・つくば湯ーワールド)

2015-11-15 20:35:22 | 平成21年正月公演・つくば

午後1時から、つくば湯ワールドで大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)。芝居の外題は「三浦屋孫次郎」。笹川繁蔵(春大吉)を暗殺(しかし、正面からの一騎打ち)した旅鴉・三浦屋孫次郎(花道あきら・好演)と飯岡助五郎一家の用心棒(座長・鹿島順一)の「友情物語」で、「男の盃」を取り交わし、共に「あい果てる」という筋書きだが、開幕から閉幕まで「寸分の隙もない、一糸乱れぬ舞台」の連続で、それぞれの役者が「適材適所」に「えもいわねぬ」風情を醸し出していた。ビデオに収録、「永久保存」に値する出来映えであったが、座長の頭の中には「そんな野暮なこと」「みっともないこと」を行うつもりは微塵もない。芝居の出来不出来は「時の運」、「今日が駄目でも明日があるさ」といった「はかなさ」「いさぎよさ」を感じるのは、私ばかりであろうか。
 さて、この芝居についてはすでに見聞済み、当時の感想は以下の通りであった。(平成20年2月公演・川越三光ホテル小江戸座)
〈芝居の出来栄えは昼・夜ともに申し分なかったが、特に、夜の部「男の盃・孫次郎の最後」は素晴らしかった。実を言えば、私は先日(2月15日)、この芝居と全く同じ内容の舞台を浅草木馬館で見聞していた。外題は「笹川乱れ笠」、劇団は「劇団武る」(座長・三条すすむ)。寸分違わぬ筋書で、私の感想は以下の通りである。「本格的な「任侠劇」で、「実力」も申し分ないのだが、「息抜き」(力を抜いて客を笑わせる)場面が全くなかった。それはそれでよいと思うが、ではどこを「見せ場」にしているのだろうか。刺客が笹川一家の代貸し・子分達に「わざと討たれる」場面、血糊を使って壮絶な風情を演出しようとする意図は感じられる。だが、客の反応は「今ひとつ」、表情に明るさが見られなかった。やはり、観客は、笑いのある『楽しい』舞台を観たいのだ」。
 たしかに、「鹿島順一劇団」・「男の盃・孫次郎の最後」にも「笑い」はない。しかし、役者一人一人の「実力」「意気込み」「ひたむきさ」、相互のチームワークにおいて「全く違う」印象をもった。まさに「役者が違う」のである。この芝居の主役は、外題にもある通り、三浦屋孫次郎(花道あきら)だが、それを支える飯岡一家の用心棒(座長・鹿島順一)の「演技力」が決め手になる。自分自身を「ヤクザに飼われた犬」とさげすむニヒリズム、しかし孫次郎の「侠気」に惚れ込むロマンチシズムが「混然一体」となって、何ともいえない「男の魅力」を醸し出す。この用心棒の存在がなければ、芝居の眼目(男の友情・「盃」)は半減・消失してしまうのだ。「劇団武る」で、孫次郎を演じたのは座長(三条すすむ)、用心棒を演じたのは副座長(藤千乃丞)であった。台本に対する「解釈の違い」が、出来栄えの「差」に大きく影響していると思われる。もし、その配役が逆であっったら、どのような結果になったかわからない。全く同じ筋書の芝居でありながら、「鹿島順一劇団」は「横綱・三役級」、「劇団武る」は「関脇・前頭級」であることを、あらためて確認できた次第である〉
 当時、座長演じる用心棒について、〈「ヤクザに飼われた犬」とさげすむニヒリズム」〉、〈孫次郎の「侠気」に惚れ込むロマンチズム〉と評したが、今日の舞台を見聞して、そのニヒリズムの根源をよく理解できた。つまり、この浪人、武家社会の「しがらみ」の中で、最愛の女を失い、その時の「地獄絵」が脳裡に焼き付いて、かた時も離れることがなかったのだ。座長の芝居は「いい加減」、その時の気分によって、セリフが「長く」なったり「短く」なったりする。(客が聞いていないと思えば、さっさと省略する)おそらく前回は、そこらあたりを「端折った」に違いない。それでも、浪人のニヒリズム、ロマンチズムは見事に「描出」されていた。それこそが、鹿島順一の「実力」に他ならないと、私は思う。今回、口上での座長の話。「うちの座員が、お客様に尋ねられたそうです。『おたくの劇団の《うりもの》は何ですか?』その座員が言うのです。『座長、うちの劇団の《うりもの》は何ですか?』私は答えに窮しました。みんな《うりもの》であるような、ないような・・・、強いて言えば、劇団ですから「劇」、「芝居」ということになるでしょうねえ・・・。でも、特に《うり》ということは考えていません。役者だってそうです。みんなが《花形》、みんなが《主役》だと思っています。なかには《ガタガタ》《花クソ》もいますけど・・・」
 私見によれば、「鹿島順一劇団」の《うり》は、①座長の実力(かっこよさ)、②座員の呼吸(チームワーク)、③舞台景色の「鮮やかさ」(豪華さとは無縁の艶やかさ)、④(垢抜けた)音曲・音響効果の技術、⑤幕切れ風情の「見事さ」、⑥「立ち役」舞踊の「多彩さ」等々、数え上げればきりがない。中でも、一番わかりやすく、誰もが納得できる《うり》は、「音響効果」、特に「音量調節」の「確かさ」であろう。私にとって防音用耳栓は、大衆演劇観劇の「必需品」だが、唯一、この劇団だけが裸耳(耳栓不要)で見聞できるのである。
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