無防備
後輩に映画会社関係志望の奴が居て、
「邦画なんて大体テレビの延長で、大したもんなんか無いですよ!」ってやつが居て、
俺自身大学入学前後辺りまで
「ジェイポップなんて糞っすよ!邦楽でも良いのなんてバンプとスピッツ位でしょ!」なスタンスだったのであんまり声高らかに批判出来ないので、いやぁ邦画ん中にも面白いのあるよ?こないだ見たハルヒすっげぇ面白かったもん、って言ったら、いやぁアニメとかそっち系興味無いですから、と思い切り小馬鹿にされてイラッ。
まぁ話は逸れましたが、邦画だって収入だけ狙ってってる訳ではないんです。
この無防備っていう映画、倫理と表現の境界線が曖昧になって来た今だからこそ、生まれてきた映画の一つです。
物語は裏を書いたり、すごい伏線があったりとかいう映画ではなくて、一度死産を経験した主人公の女性と妊婦さんが出会い、妊婦さんが出産をするまでのやりとりを緩やかに描いた、いわゆる日常系の作品です。
主人公は町工場で働いています。たまたま、帰宅途中妊婦を発見し、買い物袋を持って上げます。何という事でしょう。妊婦さんは次の日から、たまたま主人公のいる工場で働き始め、主人公は彼女の教育係になったのです。
それで二人はぶつかり合ったり、分かり合ったりしながら、出産というエンディングへとゆっくり歩みを進めるのです。
主人公は死産の経験から「死」を色濃く背負い、仕事場だけでなく家庭にも負が満ちています。彼女も人間ですから普通の人のように驚き、笑うのですが、あちこちに暗さが散りばめてあります。しかし、ストーリーが進み妊婦との交流が進んでいく中で、段々暗さは取り払われていき、ラスト、出産シーンに立ち会う彼女が流す涙は、停滞していた彼女の人生が再び動き出す事を暗示しているように思いました。
劇中、主人公が成功することはほとんど無いのですが、この後に続く物語はぜひ明るいものでなくてはなりません。「出産」という全ての原点・親にとっての最大の喜びがゴール地点に設定してあるのはつまりここから物語が動き出すという意味合いだと感じたいのです。そうでなくてはラストが出産である意味がない。
で、何でラスト後が幸せである事に俺が拘るかと言いますと、この出産シーン本物なんです。妊婦を演じるのは監督自身の奥さんで、出産シーンの局部露出とかに臆する事なく、見事にカメラにおさまっているのです。
確か、出産シーンをモロに映画にしたのは今作が史上初のはずですが、もし、その出産シーンがこれから始まる悪夢の前兆として使われては余りに生まれてくる子が忍びない。綺麗事とは思いますし、全ての人間が幸せになれないのは分ってますが、せめて全ての誕生が祝福されているものだと思いたいのです。
そういう思いも含まれてないとは言いませんが、前後の脈絡関係無しに出産という情景には涙腺を緩ませる何かがありました。自分が生まれてくる時もこんなんだったんだろうか、なんて思うと涙腺緩和度二倍。
映画としてはそれ程面白いものでも無いですが、単にアングラ的好奇心を満たすだけの意味でも、生の神秘に触れるという意味でも、貴重な経験が出来る映画だと思います。
「おそいひと」や「ピンクフラミンゴ無修正版」などがDVD化される昨今。
まぁ今突然解禁された訳じゃないですけど、タブー視されていたものがどんどん「作品」へと投入されています。まぁ妊婦・近親相姦・獣姦・排泄・人体改造・身体欠損なんかはエロが何十年も先行してますけども、それは性欲の延長線上であり、どんな心境なんだろう?どんな背景があってのことなんだろう?という知識欲にシフトチェンジしてきた思いがこれらの映画化作品の根源にある訳です。
何を芸術とし、何を暴力とするかなんてのは個人の良識の範囲によって変化する訳で、「欲」が存在しない人間など居ないのですから、法律でそれを規制しちゃうのって人間性の否定に繋がると思う訳ですよ。
ち、違う。決して二次に変態性欲を催す自己を弁護している訳ではない。
そうじゃなくて、「それ」に何を感じるかは人により千差万別。「悪」の概念を見て染まりたくなる人も居るでしょうし、反面教師とする人もいるでしょう。無論、誰かの不幸を喰い物にした幸せなど所詮根拠薄弱なものですから、不幸を取り払うのは必然です。
しかし、どこまでいっても創作物は架空なのです。現実の模倣、心象の模倣。創作物を消して、影響を断て、なんて発言は俺もびっくりするようなめんどくさがり発言ですよ。
そうじゃなくて、「それは創作だ」ときちんと区別付けられる教育をすべきなんでしょ。自分の怠った責任を他人に求めるなんてどうかしてる。
表現の自由を叫ぶのだ!などと革新じみた事を言ってみたり。なう。