愚痴日記

愚鈍で痴愚な僕の続いていく毎日

移行

2010-06-05 08:25:26 | 日記
前々からURLとか機能制限とか気になる点が有ったので、移転しました。
http://muu-diary.blogspot.com/

遠くへ行けるのは天才だけだ

2010-06-02 02:48:20 | 日記
天才とは、踏み越える能力を持った人間のことです。
何を?
しがらみを。

今日は頭が重かった。
一点突破、一つのとこに集中すればものの一時間で終わったかもしれない課題の為に、夜を一つと授業を三つ使ってしまった。夜は僕を解放し、しがらみを見えなくさせるから、朝や昼間の様に未来を心配しなくても、それ程不安にはならない。集中力が切れやすい人間は、大きなものを完成し得ない。中途半端に作りかけたものは部屋の其処ら辺を埋め尽くし、やがて僕の寝る場所を奪います。
どうして、こんなに世界は広いんだろうか。
今俺はこの自分の王国に立て篭もり、世界の断片を拾ってるだけにも関わらず、世界の広さを感じてしまっています。

中学生の頃読んでた「シャーマンキング」のラスボス、葉王の口癖は「ちっちぇえな」でした。天才達にとって世界の広さなど自分を測る尺度でしかないのです。故に躊躇いなく、踏み出せる。そして、彼らは自分を測る為、不必要だと自覚出来るものをそこら辺に置いといて歩き続けるのです。そして、どこまでも遠くへ、遠くへ。

「一年読まなかった本は捨てろ」とある先輩が言っていました。その方が、本の為にもなる、と。でも、僕は捨てられない。思い出が有るから、もしかしたらまた読むから。
そうしてモノの重力に引かれ、あらゆる行動が緩慢になる。そして、段々ゆっくりとしていく動作がやがて停止した時はもう遅い。僕は独りであることから抜け出そうとしなくなる。居心地が良いから。

難しいなぁ、人間関係は。
俺は愕然とするほど凡人だ。


2愛+4愛-sunset

2010-05-18 00:14:10 | 日記
この写真は婦女の胸元を邪な気持ちで撮影したものでは決して無くて、マネキンを撮ったものです。

撮った時の俺の感情を説明すると、
この寝巻を羽織るお人形さんにエロスを感じるのは、この二次元に重きを置いた世代だけのものではない、動かぬ人の形をした何かにエロスを感じるのは普遍的な男性の欲求だ、いずれ俺がもう少し歳を取ってこれを見た時、またエロスを感じる事が出来るか実験したいね、よし、記録。
とまぁ結局とてつもなく馬鹿馬鹿しい感じで、店頭にあったマネキンを撮ってしまった写メなのだけど、

話は打って変わって俺には大学生らしく大学生の彼女が居て、彼女はとても優しい。
優しさ故に立ち入る事を恐れ、深く人間関係を追及する事をやがて面倒がり始め、結果友人が少ないことを俺は少し心配していました。
まぁ俺も人を心配していられる程余裕のある人間関係では無いのですが。
最近はそんな事も無く、せっせと架け橋を至る所に掛けんとしているようです。

で、その彼女に当写メを見られた。
何だったんだろう、じゃれた結果、ケータイが奪われて、撮った写メを見られていたんだったか。
そんなに危なげなもんが入ってる訳で無し、まぁ焦るのも変だ、どうぞ、でーん。
としていたが、思わぬ所に地雷があったものです。

彼女はたちまち優しさを発揮し、
眼と口はニッコリと笑いつつも、眉は八の字、苦笑といった表情を俺に見せながら、「あ、あぁ何も見てないからね」と少し詰まりながらケータイを俺に押し返してくる。

あっれー。彼女にこんな表情をさせながら素直にケータイを持ち主に返させる程衝撃的な画像なんてあったかしらー。
彼女が電源ボタンを押して待ち受け画面まで戻していたので、早急に俺は「カメラ」フォルダを見直します。

こいつかー。「違うんよ、これ、待っとる時間暇で、たまたまそこにあったマネキンになんかエロスを感じてしまって」焦って説明。丁寧に人形愛を告白してしまい、話はあらぬ方向へ。いや。人形愛という性癖自体は認めるけども、俺がそうだと告白しているのではなく。その赤裸々なやり取りというのは正に「彼女」という距離感が生み出せる会話なので、楽しいと言えば楽しいのですけども。


「ドキドキが無い」と互いに言い合う様な男女関係にどれ程の意味があるか。
金を使い、時間を使い、心を削り、一体何が生み出されるというのか。


最近は「恋人」というルール性に色々消費してるんじゃないかなー、と思っています。
ツイッターが爆発的人気を得たのも「140字」という制限があってこそ。
その制限というルール性に価値がある。

彼女だから、「好き」でなくてはならない。
好きという前提条件において、男女関係は完成をみる。
好きが暮らしに浸透していくと、好きが先なのか、関係性が先なのかあやふやになってくる。故に、夫婦生活はあやふやになった結果、社会的に明確な「関係性」を選択して、「好き」をあやふやにあやふやにしていくのだと思います。

ところが「恋人」には明確な社会性がない。契約や書類の基に成り立つ関係ではないのです。ルールは口約束であり、破った所で自分が何かを負う必要はない。じゃあ破れば良いのか。それでは「恋愛」というゲーム、って言ったらちょっとアレですけど、これが成立しない。というかそもそもそのルール破りたくねぇよ!ってのが好きってことなんではないのかなぁと。

ゲームとしては非常に難易度も高い上に、費やした分が戻って来なくて、更には赤字にまで追い込まれたとしても、楽しい。
本気で言ってんのか、マゾ的要素で言ってんのか自分でもよく分りませんが、飽きは来ないような気がします。

それがつまり「好き」が深化した…

恥ずかしくなったので中断。

本を置いて、街に出ようよ☆

2010-04-27 09:11:41 | 日記
ちなみに憧れはありますが、寺山修司は読んでないです。

同い年の知人がおめでた婚をするそうです。
日頃、ビッチだリア充だと憎しみの矛先を向けるのに忙しい俺ですが、いざ知り合いがそういう状態になるともう、祝う気持ちしか滲み出てこない。
不思議なものです。

というか、単に当人がすごく良い人なんですよね。人徳者。
結婚は人生の墓場だなんて言いますが、通過する瞬間は晴れやかで、美しくて、眩しいものであって欲しいです。そうある為には、やっぱり一人では生きていけません。無論、まず相手が居ない事には何も始まらないですけども。
周りに祝福される為には、日頃から寛容と忍耐と笑顔が欠かせません。パソコンを長時間してる人は顔面筋が衰えていざ笑おうとする時には顔が引き攣って不自然になる、という生活習慣病があるそうですから、早くも条件を一つ失ってしまった俺ですが、残り二つ位はもうちょっと引き延ばしていきたい点です。

さて。そんな訳で安産祈願のお守りを買いに行こうと思ったのですが、私のモットーは晴耕雨読。まぁ今思い付きでモットーなぞと書きましたが、実際の所、晴読雨読。出不精というやつなので、外出を決心するまでに、こうしてつらつらと文章を打ち込んで心の準備期間を設けているのです。死にたくないので、足からちょっとずつちょっとずつ水を掛けて、ひゃあん、冷たい。とか思いつつ身を沈めていくのです。そう、俺にとって外出とは一つの葛藤、戦場なのです。大学?教室に入るのなんてコロンブスですよ。世は正に大航海時代。限りないこの海の向こうに何が待っているのか。今だったら一つなぎの財宝とかそういうアレなのか。よし、行くぜ、みんな。などと夢想しつつ、三島やキングや澁澤を鞄に詰めていくと心強い。三島は剣士。澁澤は魔法使い。スティーブンキングはアサシン。俺は遊び人。歪んだパーティだ。先生、孫六で自分を斬っちゃ駄目です。先生、杖をそんな所に突っ込んじゃ駄目です。先生、死体をそんな風に扱っちゃ駄目です。おろおろ。
「仲間…それこそがかけがえのない宝だったんだ!」
そんなオチは夢オチ並みに許されざる悪だ。


大げさに文章を書いていって、自分で最早何を書いているのか分からなくなってくると、ちょっと陶酔感を覚える。きもちいい。



無防備

2010-04-24 14:55:29 | 感想
無防備

後輩に映画会社関係志望の奴が居て、
「邦画なんて大体テレビの延長で、大したもんなんか無いですよ!」ってやつが居て、
俺自身大学入学前後辺りまで
「ジェイポップなんて糞っすよ!邦楽でも良いのなんてバンプとスピッツ位でしょ!」なスタンスだったのであんまり声高らかに批判出来ないので、いやぁ邦画ん中にも面白いのあるよ?こないだ見たハルヒすっげぇ面白かったもん、って言ったら、いやぁアニメとかそっち系興味無いですから、と思い切り小馬鹿にされてイラッ。

まぁ話は逸れましたが、邦画だって収入だけ狙ってってる訳ではないんです。
この無防備っていう映画、倫理と表現の境界線が曖昧になって来た今だからこそ、生まれてきた映画の一つです。
物語は裏を書いたり、すごい伏線があったりとかいう映画ではなくて、一度死産を経験した主人公の女性と妊婦さんが出会い、妊婦さんが出産をするまでのやりとりを緩やかに描いた、いわゆる日常系の作品です。
主人公は町工場で働いています。たまたま、帰宅途中妊婦を発見し、買い物袋を持って上げます。何という事でしょう。妊婦さんは次の日から、たまたま主人公のいる工場で働き始め、主人公は彼女の教育係になったのです。
それで二人はぶつかり合ったり、分かり合ったりしながら、出産というエンディングへとゆっくり歩みを進めるのです。

主人公は死産の経験から「死」を色濃く背負い、仕事場だけでなく家庭にも負が満ちています。彼女も人間ですから普通の人のように驚き、笑うのですが、あちこちに暗さが散りばめてあります。しかし、ストーリーが進み妊婦との交流が進んでいく中で、段々暗さは取り払われていき、ラスト、出産シーンに立ち会う彼女が流す涙は、停滞していた彼女の人生が再び動き出す事を暗示しているように思いました。
劇中、主人公が成功することはほとんど無いのですが、この後に続く物語はぜひ明るいものでなくてはなりません。「出産」という全ての原点・親にとっての最大の喜びがゴール地点に設定してあるのはつまりここから物語が動き出すという意味合いだと感じたいのです。そうでなくてはラストが出産である意味がない。

で、何でラスト後が幸せである事に俺が拘るかと言いますと、この出産シーン本物なんです。妊婦を演じるのは監督自身の奥さんで、出産シーンの局部露出とかに臆する事なく、見事にカメラにおさまっているのです。
確か、出産シーンをモロに映画にしたのは今作が史上初のはずですが、もし、その出産シーンがこれから始まる悪夢の前兆として使われては余りに生まれてくる子が忍びない。綺麗事とは思いますし、全ての人間が幸せになれないのは分ってますが、せめて全ての誕生が祝福されているものだと思いたいのです。
そういう思いも含まれてないとは言いませんが、前後の脈絡関係無しに出産という情景には涙腺を緩ませる何かがありました。自分が生まれてくる時もこんなんだったんだろうか、なんて思うと涙腺緩和度二倍。

映画としてはそれ程面白いものでも無いですが、単にアングラ的好奇心を満たすだけの意味でも、生の神秘に触れるという意味でも、貴重な経験が出来る映画だと思います。


「おそいひと」や「ピンクフラミンゴ無修正版」などがDVD化される昨今。
まぁ今突然解禁された訳じゃないですけど、タブー視されていたものがどんどん「作品」へと投入されています。まぁ妊婦・近親相姦・獣姦・排泄・人体改造・身体欠損なんかはエロが何十年も先行してますけども、それは性欲の延長線上であり、どんな心境なんだろう?どんな背景があってのことなんだろう?という知識欲にシフトチェンジしてきた思いがこれらの映画化作品の根源にある訳です。

何を芸術とし、何を暴力とするかなんてのは個人の良識の範囲によって変化する訳で、「欲」が存在しない人間など居ないのですから、法律でそれを規制しちゃうのって人間性の否定に繋がると思う訳ですよ。
ち、違う。決して二次に変態性欲を催す自己を弁護している訳ではない。
そうじゃなくて、「それ」に何を感じるかは人により千差万別。「悪」の概念を見て染まりたくなる人も居るでしょうし、反面教師とする人もいるでしょう。無論、誰かの不幸を喰い物にした幸せなど所詮根拠薄弱なものですから、不幸を取り払うのは必然です。
しかし、どこまでいっても創作物は架空なのです。現実の模倣、心象の模倣。創作物を消して、影響を断て、なんて発言は俺もびっくりするようなめんどくさがり発言ですよ。
そうじゃなくて、「それは創作だ」ときちんと区別付けられる教育をすべきなんでしょ。自分の怠った責任を他人に求めるなんてどうかしてる。

表現の自由を叫ぶのだ!などと革新じみた事を言ってみたり。なう。

石ノ森版のヤプーって面白いんかな?

2010-03-25 22:56:19 | 日記
劇画家畜人ヤプー

日本四大奇書の一つに数えられる、家畜人ヤプー。
マゾヒズムの極致。
妄想暗黒日本史。
日本人男子はヒエラルキーの最底辺であり、白人様の家具としてしか生きられない、未来日本見聞録なのですが、右翼的にはまぁ許せん書物かと思われます。

ドグラマグラを買い、黒死館を買い、虚無への供物を買い、よし、あと一冊だ、って思ったら、激しく分冊してあり、その一冊一冊が微妙に値が張るので手が出んかったのですが、
石ノ森章太郎が描いたやつが復刻すると聞いて。
2310円。

以前、古本屋で500円で見つけたのですがうーん、絵柄が好かんなぁーって思ってスルースキルを発動させてしまった過去を悔む。
タイムマシンで戻り、あの頃の俺に会って、「どうせ買うから。な?な?」と諭したい。けれども、小心者の俺は自分と同じ顔をした奇妙な人物を正視する事叶わず、叫びながら逃走するのです。残された俺は茫然自失し、あ、俺が買えばいいんじゃないか、と当然のように過去世界に関与し、現在時間軸への帰還を果たすのです。
過去の世界を変えるのは絶対ダメだよ、のびた君。人の振りを見て、我が身を振り返りなさいってば。

以前、タルルートの江川さんが描いたやつをブックオフで立ち読みしたのですが、結構エグく描かれてて楽しく読んでしまいました。主人公の日本人、そもそもキモく描かれ過ぎ。けど欧米人目線なら猿だか人間だかよー分らん感じに見えてるんだろうか、日本人。奈何せん、結構巻数があるので、多分衝撃は少ないでしょうが、一冊にまとめられた石ノ森版を購入したいと考えておる次第です。
そう、元本の冊数が多いから、一冊にまとめちゃったものはいくら漫画の大家とはいえ、スコペッソスなペランペランな内容になっちゃってるんではないかといらぬ心配をしているのですが、今回の復刻版にあたって、丸尾末広があとがきを寄せているようです。じゃあ安心。この権威主義者め。そんなに肩書を持て囃すかぁー。はい、ワタクシめも何か人様にこうだと言える肩書が欲しいです。黙れヤプーがぁーっ。あぁーっ、名前を有難うございます、だんなさまーっ。


そんな虐げられたいマゾヒストには一読の価値アリ。ではないか。そうでもないかも。

スタンド名:ブンブンサテライツ

2010-03-21 22:44:30 | 日記
「EXPOSED」

ザムドに使われてたので、思わずCDを借りて来てしまった

・鳴き声「RUNAWAAAAAAAAAAAY!!!」
・誰からも拒絶される性格から「誰も近寄ってくるな」という思いが発現したスタンド。
・目視できる物体に触れた時、自分の運動エネルギーと相手の運動エネルギーを物体に与えてはね返す、斥力のような能力。

・自分の知っている分野では鬼の首を取ったように語り始め、自分の知らない分野では話しかけてきた人をすら無視する。
・流行りものを憎み、00年代以降を何事においても見下している。
・故にみんなから嫌われる。
・「ピロウズの曲で何が好き?」「ハイブリッドレインボウとか名曲だよね」「ランナーズハイ以降のピロウズとかwwwwwこれだからゆとりはwwwフリクリフリクリwwwwくひゅwwww」
・「ハガレンって少年誌のくせに結構ダークな世界観だよね」「ベルセルク差し置いてダークwwwwwファンタジーww等価交換自重wwくひゅwwwww」
・「現文のテストはn」ぷいっすたすた
・母親の三人称は「ババア」、お父さんの前では「お母さん」
・ランカとシェリルでどっちを取るか論争をしていると後ろの席で「ミンメイ一択だろwwwwゆとり乙wwwwwぷひwwww」
・「オタだよね」「ちげーし!!自分の理解できないことにはそうやってすぐラベルを貼り付けて思考停止ですかぁ?ゆとりクオリティマジ乙wwwww」

・「スタンドバトルで銃とかwwww自分の撃った弾で頭ブチ抜いて死ねよwww」とか言いながらミスタの撃ったピストルズを一発跳ね返すが、二発目が曲がって自分の後ろから飛んで来て長い台詞を吐いてる途中で「がっ」って言いながら脳漿ぶちまけて死亡

亡念のザムド、ちょっぴり擁護する

2010-03-21 20:10:33 | 感想
自分が使った時間を無駄と思いたくないので
少しだけ思い返しておく

宮崎アニメ!とかエウレカ!とかさんざん罵倒されていたにも関わらず、
OP見て、何これチョーカッケェ
って思ってついつい全話見てしまった、亡念のザムド。

ある日、突然事件に巻き込まれた主人公が変身ヒーローになっちゃうというお話なんですが、
冒頭、父親が口にする「人は考え続けなくてはならない」がメインテーマとして最後まで貫き通せてたアニメ。と思いたい。

変身した時点で「我を忘れてしまう」→「感情に身を任せてしまうと石になる」という設定のもとで、考え続けることを主人公に強制させる訳です。まぁ言っちゃえば、主人公の目的は「自分探し」で、結局エヴァなんですけどね。

ただ、物語が「変身出来る自分は自分ではない」→「変身出来る自分を認められるようになる」→「変身した事で自分自身を見失う」→「自分を取り囲む人のおかげで自分を再発見する」→「ラスボスは敵だが、自分でもあった」→「我を忘れる」→「9年後、再発見」
って感じで何回自分を見つけりゃ気が済むんだよ、とイライラするような話故に、叩かれるのもよーく分ります。おまけに、その我を忘れたら終わり設定のおかげで、変身能力者達が本気を見せる事があまり無く、派手な戦闘シーンがないために壮快感がない。

あ?じゃ何を楽しめっつんだよ?
変身ヒーローとかバトルものとかいう訳ではなく、このアニメは人間関係を楽しむべきなのです。

①母性との向き合い方
カキスという軍人が出てきましたが、彼は「母性」=「過去」に縛られており、前に進む人間を否定し、自分の横かそれより後ろに居てくれる人のみを欲しています。このアニメでは基本的にそうした「前に進まない事」=「考える事をやめた者」に対して死が待っています。
対して、主人公アキユキの母は母らしい強さを見せつけてくれますが、アキユキはそうした母の庇護を最終的に前向きに拒絶する事で母の下を去っていきます。故に、生きます。

②敵との向き合い方
クジレイカというフルネームだかファーストネームだかよく分らん彼女は少数民族の長であり、長であるからには保守です。差別を受けた民族の代表としての憎悪から敵に挑みますが、当然負けます。「憎悪で戦う事」=「考える事をやめた」だからです。保守に否定的なアニメです。死ぬのは絶対ダメなんだ!
対して、主人公アキユキは最終決戦にも関わらず、敵と戦う事は即ち己と向き合う事である、などと余裕をぶちかまし、挙句、自分を見失った敵に「己」を与えてやる始末。イケメン。

③過去との向き合い方
今を肯定できない奴は無論思考停止なので死にます。
ヒロイン、ナキアミはそれでも誰にも死んで欲しくない!と言いますが、その師、サンノウバはみんな一度に死ねば苦しくないよ、世界は浄化されるんだよとか言います。サンノウバ一味は故に死にます。
主人公の親友フルイチは、主人公の事が大好きな女の子・ハルが大好きですが、主人公が側に居たが為にハルは自分を見てくれなかった、どこからやり直せばハルは自分の事を見てくれるんだ?と悩み、悩んだ末、死にます。くそっ

もうお分かりかと思いますが、全体的に保守死ね、と言わんばかりのテーマですね。
説得によって生き残った人間は保守から革新へと思想が変化しています。
ただ、その弁明の為にかなり迂回する為に、全体的に哲学的な発言とテンポの遅さが見られるため、分りにくい作品になっちゃったのではないでしょうか。

「考え続けなくてはならない」という結論はかなり早い段階で出るのですが、それを補強する為に言葉を変え、品を変えて、何度も同じ話が出てくる。それがテンポの遅さの原因になってます。同時進行させられないなら、片方を完全にやり切ってから次に移ればいいものを、悩んでるシーンを何度も出す。そりゃ遅く感じてきますよ。


全体の雰囲気はかなり良い。
音楽も絵もすごく良い。
ただ、地味。
OPでホイホイいくと、痛い目を見る。
うん。雰囲気は好きなんだ。

あと、変身後主人公の横からフォルムはちょっとやだった。
DVD2巻のパッケに惹かれて見始めた訳ではない。訳ではないのだ。

虫と歌

2010-03-20 07:44:58 | 感想
「虫と歌」

俺が線が細い絵、あんまり好きじゃないのはそこに熱烈な思いの反映を感じられないからです。無論、漫画なんて所詮暇潰しだし、そんな疲れるの読みたくない、ってのも分りますが、せっかく時間使うならちょっと疲れるくらいのを読みたいのが俺。

しかし、書き込みが少ない、線が少ないから、思いが希薄であるというのは早計。
「デフォルメ」は世界を無理矢理シンプルに捕え直し、三次元の模倣では無い、二次元が二次元である事の優位性を探さなくてはならない、逆に知能と感性をフル回転させる作業なのです。

古くはトキワ荘、彼らが生み出した「漫画表現」を流用しつつ、8頭身のキャラが画面を走り回るのが現代の主流漫画表現でしょうか。
頭身は(理想的な)リアルに近いキャラクター達がこぼれ落ちそうな眼や一本線の鼻を装備してるのも変と言えば変。今こそ、ディズニー的、手塚的なデフォルメに立ち返ることで、漫画が漫画たろうとしてもよいんではなかろうか。俺が好きなウエダハジメ、西島大介はそうして立ち返りつつももっと可能性があるんじゃない?とゆるーく挑戦してる感じ。

前置きが長文化しました。
この『虫と歌』って漫画で初めて市川春子さんって人の漫画読みましたが、これはすごい。
頭身はすらっと少女漫画の理想形の如きですが、線のシンプルさが一筆書きかよ、って位簡素。簡素な線は作者の熱を排除して、共感・同情で泣かせることを拒絶し、読者の心にダイレクトにストーリーをぶつけることに成功しています。

内容。
四編の短編からなる本ですが、一貫してテーマは『人外が人を模倣する悲喜劇』。
そもそも模倣という行為はその対象以上には成り得ないという主観的悲劇・客観的喜劇を併せ持つものです。
昔からヒト以外のものがヒトになろうとする物語は世界中の人に愛されるテーマでした。
人魚姫しかり、雪女しかり。
なぜ愛されるか、それは分り易いからだ、と思います。
劇中人物と自分を重ね合わせた時、明らかに自分とは違う点がある。
劇中人物の独力でその違いを越えられない為に、自分の想定する結果とその行為にギャップが生まれ、笑いや涙が生まれるのです。ビートたけしも言ってましたよ、「笑いの源は差別」って。
『人外』にはその明確な自分との差異がある。

この短編集に登場する四人、いや人じゃないんですが、人と数えたい四組は皆自分が人ではない事を自覚しながらも、人を否定せず、人にそっと寄り添う。
テーマはすごく日本的というか、湿度の高い「泣ける」系なんですが、この春子さんの線と描き方はかなり乾いています。人物の心情を解剖学的に、下品に深く切り込んだりせず、あったことだけをサラッと描きだす。だから、喋る事・する事そのものが思想になり、読者の心にスッと沁み込む。読後感も非常に爽やかです。

俺の好きな話は『日下兄妹』。
言ってしまえば、うる星やつらから連綿と続く押しかけヒロインものなんですが、当初は単なる「違和感」が「妹」に成長していく物語。主人公はクーデレ。
「育てる」ってのはきっと誰にでも楽しいもので、その間の苦労を苦労と感じる割合によってその楽しさに個人差が出るものなんだと思いますが、知り、分ろうとし、分り合おうとした時、既に育ち切ってしまっているのが育成の常。
故に別れ。
何で顔も無い「ヒナ」がこんなに可愛く見えるんだろうか。

あちこちに散りばめてある「ギャップ笑い」もドロッとさせないことに一役買ってます。
「ああん やめて ごろうさん こんなところじゃおとうさまに」
「こっちにしなさい」
のやりとりなんか暖かさと同時にニヤリがもうね。
変な漫画じゃないよ。

おすすぬ。


どうでもいいけど「なけるー」ってのはこの「シオフイター」と同じようなテンションなんじゃなかろか。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9436556

消失の方が夏戦争より面白かった訳

2010-03-08 13:12:07 | 感想
やったー!
男二人で見に行ったのでフィルムもらえたお!
じゃんけんで負けたのでショボーンってなったけど
どんなフィルムか見た途端、友人が譲ってくれたお!
優しい友人が持ててムーはしわわせだおっおっ(^ω^)

何の場面かと言えば
ゆきたんの家のドアという超絶レアシーンな訳ですが、
別段サマーウォーズとハルヒに共通点つったらアニメだって事位なのになんで比較とか頭の悪い事をするかと言えば、俺が去年から外に見に行った映画って、これとエデンとゲバラ位なんですよ…
また上手い具合に脳内で二つが対称的なイメージで咀嚼されたので駄文を書き連ねます。


まず、サマーウォーズ。
隆盛した自動化社会は人間を疎外し機械と人間を対立させる、というターミネーターなりギーガ―なりが描いてきた近未来批判モティーフと田舎の大家族の中に放り込まれた主人公がラブラブコメコメするという萌系的モティーフを合体させるという、どちらもありがちなテーマながら合体させることで新鮮な物語にしてる映画。
大家族が主眼に置かれているので、出てくる登場人物はほとんど同じ家系の人。ただ、兄の妻やら叔父の息子やら何やらで、出てきた人間の相関関係はあまり覚えてないです。
で、そうしてキャラがいっぱい出てくるにも関わらず、どんどんイベントが発生するので、あまりキャラが覚えられず、それぞれの印象が薄い。
確かにすごく面白かったです。ですが、主人公を男子高校生にしたのに、したのに。
ジュブナイル、つまり少年の成長物語という要素があまりに弱い。

冒頭、先輩が恋人の振りをしてくれ、どっちでもいいからとお願いするシチュエーションの気恥ずかしさ。じゃんけんで勝利することでその役を勝ちとる主人公。
ここで既にフラグ、一本のストーリーが見えちゃってる訳です。

大変なイベントが発生→意外な勇気・男気を見せる主人公→先輩「きゃーすてき!好き!」

せっかく田舎の名家のほのぼのした人間関係をリアルに描けてもパーですよ!
周りの状況全てがその主人公のラッキーっぷりを擁護する言い訳になっちゃうんですから!

それで最終的に主人公が見せる強さっていうのは元からカンストしてる能力。
結局、能力と状況が重なっただけじゃねぇか。ラッキースケベがっ!
映画開始後の主人公と終了後の主人公に「変化」が見受けられないのです。空気のくせに良い目を見る主人公、という感じで説得力が足りず、今一歩な印象だったのです。
いや、面白いんですよ。
でも、面白要素を詰め込み過ぎて、主張が薄れちゃった残念さ。
テレビアニメでやったらもっと名作に成り得たなぁと思いました。




消失。
見てすぐ、ということもあるので去年見た映画と比べれば不公平とも思いますが。

消失、ってことで、ある朝起きたら大事な友達の存在が物理的・意味的に消えていて、自分だけがそれを覚えているという話。
こっちも主人公が男子高校生なんですが、主人公は主演であると共に、語り部なのです。つまり、物語は回想のスタイルを取ってます。
しかし、この男、現実に居たなら確実に嫌がられる。いつも皮肉な表情・語り口で、何をするにも「やれやれ」、むっつりスケベで、なんでも人よりちょっと上手くこなせる、という。

原作ありの強みとは、そこからはみ出せない代わりに、既にしっかりとした基盤が存在しているということ。つまり、設定の矛盾を考える必要が無い為、脚本と設定が過不足無く融和するという点にあると思います。例え、劇中に登場しない前説明があっても、原作で補完してくれ、という言い訳が出来るのです。だからこそ、設定説明を省略して本筋に移行しても違和感が少ない。しかし、それは逆に原作未読者への不親切な導入になる恐れがある。
消失はそこの説明・導入のバランスが非常に良くて、本筋に必要なシーンは回想を用い、本筋とは関わりない設定部分は台詞に登場するに留めて、テンポを損なわないように気を付けていました。

肝心の本筋ですが、
タイトルにもなっている「涼宮ハルヒ」というトラブルメーカーの女の子が起こすイベントに嫌々、受動的なスタンスながらも、全てきちんと付き合ってる主人公。
「余裕」「上から目線」「許容力」がある事を抑制しながらも、そんな自分が大好きな人間なのです。
実はこの作品世界ではハルヒは自覚の無い神であり、無自覚に思考を現実世界に反映させるという壮大なトラブルメーカーなのですが、彼女の願望が呼び寄せた「未来人」「宇宙人」「超能力者」と連携を取る事で、その力を借りてハルヒの起こす事件を解決するのがこれまでの主人公だったのです。
事件が起きる→解決しないと世界滅亡級の危機→嫌々ながら主人公が動く
というのがハルヒシリーズの流れなのですが、本作では映画の初めの方で「神たるハルヒ」が存在しなくなります。神が存在しなくなるので、未来人も宇宙人も超能力者も無かった事になる。

果たして、それは自分の求めていた平和な毎日なのか?

概して人間は羨望する生き物です。
自分の状況を把握するのは本当に難しい。客観的視点を手に入れるのは「客」、「他人」が存在するからこそ。
他人の状況と自分の状況を比較し、「あいつの方が俺よりいい状況じゃないか?」と羨むからこそ、自分の状況が見えてくるのです。
だからこそ、「失って初めて大切なものに気づく」という大変愚かな文言が生まれちゃう訳です。

この主人公は受動的に事件に巻き込まれるのが常でした。
「やれやれ、またか。」
しかし、自分が主体的に行動を起こさなければこれまでの世界が無くなる。
自分の居た世界が普通は手に入れられない超魅力的な世界だったことに気付くのです。
無論、世界変革系(パラレルワールド、タイムリープ、記憶からの抹消、セカイ系等)には以前・以後の間にもっと絶望的な差があるものがたくさんありますが、物語の面白さを決める点はそこではなく、「主人公がいかに力強く自分の意思で以後の世界を勝ちとるか」という点にあると思うのです。
その点、この主人公の意識の変化するシーンは非常に分りやすく、熱く、かっこいいシーンでした。シモン(兄貴は死んだ!もういない!)やうしお(俺たちは今太陽と戦っている!)並み。

あと、勝ちとる際に使われる能力について。
これは主人公だけが操縦できるロボットだったり、世界を作り変える能力だったりまぁどうしても主人公補正のかかる力ですが、本当にそれを使いこなすには作中で様々な成長を必要とします。
しかし、サマーウォーズでそれにあたる主人公の数学能力、作品が短期間の話のせいもありますが、元から劇中トップクラス。言い換えれば、その主人公が絶対的に必要だった訳ではなく、数学能力のおまけとして主人公が付いてきた、感。

対して、消失での主人公はだいたい適当になんでもこなせるけど、決め手は何も無し。
事件に対して翻弄される事で、自分には何の能力も無い事を自覚する、つまり無知を知ることで、自分が今為せる最大限の行動を思いつくのです。「消失」を通して、主人公の内面ははっきりと成長する。そのはっきりと成長した感じが見えず、サマーウォーズはひどくご都合主義的に見えちゃうのです。


「事件」を通して、「少年が精神的に成長する事」。
創作物に様々なタイプがあるのは勿論ですが、伸びしろのある人間を主役に据えるというのは、いかにその伸びしろを変化させるかがその創作物の魅力を決定する要因だというのはちょっと暴論ですか。

等身大のはずのヒーローが超人的な活躍をするのも勿論楽しい。
けれども等身大のヒーローが等身大の成長をするのはもっと楽しいと思う。

なげー。