ETERNAL LIFE

ブログの内容は梶原和義先生の著書からの引用です。

「おのずから」が本当の命

2015-11-18 13:46:48 | 日記
現在、皆様が生きておいでになることは、燃えていることです。命が燃えているのです。
現在の文明意識は、機能、構造的にしか考えていません。文明意識で生きていますと、皆様はますます不幸になります。皆様の魂がだんだんスポイルされていくのです。だからできるだけ早く悔い改めて、福音を信じて頂きたいのです。
私は地球ができたこと、そして地球がなくなってしまうことを見通して、お話しているのです。
専門学は目の前のことしか知りません。精神状態がかたわになっているのです。ユダヤ人のトリックにかかっているのです。
皆様はユダヤ人のトリックをご存じないでしょう。これは恐るべき、世界的、歴史的な大犯罪です。ユダヤ人のトリックは、比べものがない、巨大な犯罪です。皆様はその生贅になっているのです。
皆様は今生きている命を、本物だと思っているでしょう。これが間違っているのです。皆様の中に、悪魔が住んでいます。皆様の精神状態の、どこに悪魔が住んでいるのか。悪魔を追い出すことは、死を追い出すことですが、それをするためにはどうすればいいかということです。人間のカルマを追い出すために、どうすればいいかです。
イエスが死を破ったというのは、歴史的事実です。これは、今生きている命の他に、もう一つの命があることを示しているのです。皆様が今生きている命の他に、もう一つ、全く別の、死なない命があることを示しているのです。
例えば、礼儀、仕様、作法がなぜあるかです。これは、普通の生き方ではない、もう一つ別の生き方があることを、示しているのです。礼儀や作法をきちつと守っていけば、何かの形で、魂に係わりがあることを知っている。だから礼儀作法をやかましく言ってきたのです。
日本人は礼儀作法は知っていますが、それが魂とどういう係わりがあるかを知らないのです。今生きていることは何かです。これを本当に生きこなすことができるようになりますと、死なない命を現実に生きこなすことができるようになるのです。
女性は現在のセックスのあり方が間違っていることをうすうす感じているのですが、それなら正しいセックスはどういうものかが、分からないのです。男性は初めから分かりません。女性はそれが何となく間違っていることを知っているのです。礼儀作法とセックスについて、今のあり方が聞達っていることを、知っているのです。
学の本質は何か。例えば地球が存在することの本質が何かを、専門学は説こうとしていますが、結局死んで行くだけなのです。死んでいく人間が造ったものが、専門学です。大学を五つ卒業しようが十校卒業しようが、ただ死んでいくだけです。命の根源を教えずに、生活の方ばかりを教えているからです。魂には何の足しにもならないのです。
弘法大師も伝行大師も、日蓮も親鸞も、命について説いていません。般若心経でさえも、まともに読んだ人はいないのです。五蘊皆空を実行した人はいません。だから皆死んでしまったのです。
般若ハラミタを、実行した人はいないのです。だから、宗教ではない般若心経と言わなければならないのです。
地球が始まって、地球がなくなる時まで、過去、現在、未来を見通すような眼識で見ていかなければ、命の本体は分からないのです。
手が動く、足が動くというのは、天然の生理機能が働いている状態です。呼吸機能は天然の機能です。地球物理がそのまま人間の生理機能になっているのです。
ところが、皆様の心は天然の心ではありません。生理機能は天然の機能ですが、人間の意識で生きている。固有名詞の自分、自我意識の自分がいて、目に見える現象を実体だと考えている。これを肉の思いと言います。肉体的には天然の機能で生きていながら、精神では利害得失の判断ばかりをしています。これが死んでいく原因です。
学問はただ生活の知恵を説いているだけです。いくら学問を研究しても、こんなことは宗教では分からないのです。
人間の生理機能は天然ですが、意識は常識によって考えている。生態と精神がばらばらになっているのです。皆様の五官は、味わう、色や形を見る、香いを嗅ぐとかして、天然自然を見ています。ところが精神的には常識によって自分の都合ばかりを考えている。そのように、人間の生き方が矛盾しているのです。
天然自然を神と言います。日本式に言えば御天道様です。御天道様が皆様の五官の本質です。呼吸機能とか、消化機能は皆御天道様の働きです。
人間は御天道様に基づいて生きていながら、考えていることは、善悪利害ばかりです。人間が死ぬのはあたりまえです。生理機能と心理機能がばらばらになっているのからです。
人間が考えていることで、信用ができるものは一つもありません。現世の常識で考えているからです。現世の常識は、人間が生きている間しか通用しないのです。
天然自然の原理は、死んでからでも通用します。天然自然で生きている命を死んでからも持続させるにはどうすればいいか。皆様の考えを、天然自然と同じものにしてしまえばいいのです。神を信じるとはこういうことを言うのです。
常識は死んでしまう人間が考えたことばかりです。死んでいった人間、やがて死んでいく人間が造ったものです。死にたくないと思ったら、常識をやめるしかないのです。常識を捨てることは、大変なことかもしれません。いくら大変なことでも、死から逃れる方法は、常識をやめるしかないのです。
商売として常識を用いるのはいいのです。商売は命とは違いますから、常識的にすればいいのです。命のことは常識ではまにあわないのです。
人間は天然自然によって生きています。天然自然のものを見たり食べたりしていながら、天然自然のように考えることができないという、決定的な間違いを犯しています、だから、死んで行かなければならないのです。
宗教を信じるというのは、安易な方法です。人間の思いを変えないで、常識を持ったままで信じられると考えるのです。これはだめです。人間の常識は死んでから通用しないからです。
天然の意識は、死んでからでも通用します。花を見てきれいだと思う意識は、死んでからでも通用するのです。人間が常識で判断している善悪利害という考え方は、死んでから一切通用しません。
宗教の信心は、生きている間でも、その宗派内でしか通用しません。天理教の教義は、天理教の中だけでしか通用しませんし、創価学会の教義は、創価学会の中でしか通用しません。私が述べている天然自然の原理は、どこでも通用するのです。カナダでもロシアでも、ヨーロッパ、アフリカでも通用するのです。どこでも、いつでも通用する原理をつかまえなければいけないのです。
皆様は常識で生きるという癖がついていますが、その癖がいけないのです。その癖がどこから来たかを冷静に判断しますと、悪魔が人間の心理構造の中になぜいるかが分かるのです。
皆様はそれをつかまえる方法が、お分りになりません。肉の思いで生きているからです。霊の思いで生きるようになりますと、人間の心理構造のどこに悪魔が住んでいるか、どこをどのように叩けば、悪魔が出ていくかが、分かるのです。イエスはそれが分かつていたのです。
一番間違っているのは、自分が生きていると思っていることです。この考えは無茶苦茶です。自分が生れたと思っている。こんなバカな理屈はないのです。生まれる前に少しでも自分が生れたいと思ったのなら、自分が生れたと言えなくもないのですが、皆様はそう思ったことはありません。
皆様は生れる前には、自分という意識は全くありませんでした。この状態が、永遠の命の原則です。自分という意識は全くなかったが、命はあったのです。この状態を信仰と言います。
イエスは生れる前に、自分はいないという意識を持っていた。それをそのまま持って、この世にやってきたのです。イエスは生れる前に父なる神が分からなかった。生れたことによって、父なる神が分かったのです。イエスの場合、生れたことがプラスになっているのですが、皆様は生れたことが、大マイナスになっているのです。
五官の働きは隠し絵になっているのです。皆様は、隠し絵をご存じでしょう。一見して何が書いてあるか分かりませんが、よくよく見ると、その中に何か目的のものが描かれているのです。絵の中に、別の絵が隠れているのです。
皆様の命は隠し絵です。皆様の命の中に、もう一つ別の命が隠れている。これを見つけたものが勝なのです。
まず、自分がいないことが分かることです。自分がいないことが分かりますと、お正月がきたように、気持ちが変わってしまうでしょう。
神が日本人にお正月を与えているのは、新しく生れることを経験させるためです。欧米人にはクリスマスという状態で、キリストを信じるというチャンスを与えているのです。日本の場合は、年が新しくなるのです。欧米の場合は命が新しくなるチャンスを与えているのです。
どうすれば命が新しくなるか。悪魔が住んでいるのを見つけて、追い出したらいいのです。今まで、こういうことを教える人が、日本にはいなかったのです。五蘊皆空を本当に説明できた坊さんは一人もいなかったのです。般若心経は仏教を否定しています十二因縁とか四諦八正道を否定しているのです。
これは唯識論の中心思想です。仏教の重要な教義を、般若心経は否定しているのです。般若心経は仏教の経典ではないのです。ところが寺は、般若心経を仏教の経典として用いている。全くずぼらな、いいかげんな話です。でたらめもいいところです。坊主が正直に、般若心経を読んでいない証拠です。ですから、宗教ではない般若心経と言わなければならないのです。
皆様は天然自然に生きていながら、常識という不自然な感覚で生きておいでになります。自分の常識で、好き嫌いを判断しています。常識は全部間違っています。これを信じたままで死んでいくのですから、恐ろしいことになるのです。
自分の精神構造を根底から考えるのです。根底から変えるには、どこをどうしたらいいかです。精神構造の働きが、天然自然と同じになればいいのです。甘いものは甘い、辛いものは辛いとなればいいのです。砂糖が甘いという感覚は、地球がなくなってからでも通用するのです。
砂糖が甘いという感覚は、永遠の命の感覚です。お茶を恵んでも、ご飯を食べても、永遠の命を味わっているのです。これが分かると、飲み方、食べ方が変わってくるはずです。皆様の考え方を、天然自然の在り方に合わせていけば、皆様の精神が、天然自然の本質を受け取ることができるようになるのです。そうすると死ななくなるのです。
地球がなくなっても、天然はなくなりません。自然は地球と共に消えてしまいます。太陽も地球もなくなりますから、自然はなくなりますが、天然はなくならないのです。
天然のことを、「おのずから」と言います。「おのずから」の原理が、永遠の原理です。これを勉強しなければならないのです。これは一番確かなことです。ここへ行くしかないのです。すべての人が行きつくところが、天然です。
「おのずから」の知恵が、そのまま永遠の知恵になるのです。その知恵をどのようにして受け取ることができるか。それを受け取るためにどうするかです。人間の常識をどのように変えたらいいかです。
人間が生きていることは、燃えていることです。それを現実に経験しながらハートが燃えないということは、その人のハートが死んでいることを意味しています。
女性が本当に狙っているのは、それをはっきり経験している男性です。白馬に乗った王子様とはそのことを意味するのです。女性の心は人格的ハートと言うべきものです。女性自身では何か分からないが、常識で判断できないものを狙っているのです。
女性は白馬に乗った王子様、シンデレラを狙っているのですが、それは今の男性とは違います。それを女性は知っていますので、心の本質を夫に与えようとしないのです。
現在皆様が生きていらっしゃる命は、本当の命ではありません。もう一つの命を見つけるのです。もう一つ命とは、もう一つの考え方です。肉体は天然自然によって生きていますが、考え方が聞達っています。考え方が天然自然の様になれば、人間は死ななくなるのです。
今の皆様の命は、仮の命です。仮の命を脱ぎ捨てて、本物の命を見つけるのです。皆様の肉体構造は天然自然のあり方になっています。皆様の舌は甘いものを甘いと感じますし、辛いものを幸いと感じます。この舌の感じ方が皆様の常識になってしまえば、皆様は死なないことが分かるのです。
現在生きている命が本物ではないことが分かりますと、病気になっても失望落胆しません。人間はいいことも悪いことも、すべて経験をしているのです。これが命の経験です。病気の経験、恋愛の藍、職場の経験、家庭の経験と、色々な経験をしています。これはすべて本物のたとえです。
人間の生態を考えるといいのです。人間の生態はそのまま魂の働きです。魂がなければ生態は経験できません。
皆様がご自分の生態をよくごらんになりますと、聖書を見なくても分かるようにできているのです。これはなかなか難しいので、よほどの人でなければ分かりませんが、聖書がないからと言って福音が分からないのではないのです。
中国にかつて現われた老子は、分かる知恵を持っていました。イエスより四百年位前に生れていたので、イエスが分からなかったのですが、今生れていれば、はっきりイエスが分かったでしょう。
老子は釈尊と同じ頃に生れていました。同じころにギリシャでは、ソクラテスが生れています。これらの人々は、イエスの半分位は分かつていたようです。
本当の命は、聖書がなくても、イエス・キリストがいなくても、素直になれば分かるようにできているのです。


ユダヤ人の回復が一番大きな問題

2015-11-18 13:45:51 | 日記
一度死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることが、人間の運命です。現世の人間は、このために生きているのです。裁きを受けるというのは、地獄へ行くという意味です。
人間は自我意識で生きています。自我意識は、本人が意識してもしなくても、神に逆らうのです。神に逆らわないで生きることはできないのです。
寒いとか暑いと言って、いつも神に逆らつているのです。客観的なすべての条件に対して、主観的に反応するのが、自我意識です。自我意識はそうしないでは、いられないのです。
三十年も五十年も、長い人は八十年も九十年も、たえず神に反抗し続けているのです。それが魂の裁きの原因になるのです。
神に反抗し続けていることは、人間が生きている間、神を裁き続けていることなのです。神を軽蔑し続けているのです。皆、無意識にこれをしているのです。
誰も神を軽蔑しているとは思っていないでしょう。寒いことについて、暑いことについて、幸いこと、甘いことについて、すべて文句を言うのです。甘ければ甘いことが気に入らない。辛ければ幸人間は与えられた客観条件に、心から服従できないのです。なぜかと言いますと、自我意識という主観意識があるからです。自我意識という主観意識があるために、客観的な条件にはどうしても反抗したくなるのです。これが神を裁いていることです。
これを人間は毎日、毎日、無限に行っているのです。これが皆様の習慣になっているのです。
頭がいい人は頭がいいように、悪い人は悪いように、神を裁いているのです。女は女のように、男は男のように、神を裁くのです。女の人は男よりスケールが小さいですけれど、やはり神を裁いているのです。男は積極的に神を裁きますし、女は消極的に裁いているのです。毎日、毎日、何かをしていても、していなくても、寝ても起きても、神を裁き続けているのです。これが死んだ後に、魂が裁かれる原因になるのです。必ずそうなるのです。裁かれるというのは、地獄へ行かなければならないということです。
人間はすることなすことが、皆気にいらないのです。自我意識を持っているからです。自我意識が喜ぶのは、自我意識の欲望に適したときだけです。
宗教は死んでから何かいいことがあるようなことを言います。キリスト教も仏教も、天理教も創価学会も、どんな宗教でも、神や仏を信じると、死んでからご利益があると言います。死んでからご利益があるというのは嘘です。いことが気に入らないのです。こういう形で、いつも神を軽蔑しているのです。本当の神が分かりますと、生きているうちに魂の目が開かれて、自我意識がすっかり消えてしまうのです。そうして自我意識ではない、全く別の意識を与えられるのです。そして神の懐にすっぱりと入ってしまえるのです。これを、神の国へ入るというのです。
イエスはこれを実行しましたので、甦って復活したのです。自我意識を捨てさえすれば、イエスの復活を信じることができるのです。
ところが人間は、自我意識を捨てることができません。自我意識を捨てることは、現存在の人間の本質が分からなければできないのです。
旧約聖書の創世記にありますが、人間の祖先であるアダムが罪を犯したことが本当に分からなければ、できないのです。
人間の祖先である人祖が何かが、まず分からないのです。人祖が分からなければ、メシアは分かりません。
人祖とメシアは同じものです。アダムが罪を犯したことが、なぜ現在の私たちが罪を犯したことになるか。アダムが犯した罪に対して、なぜ私たちが責任を負わなければならないかということです。これに対してキリスト教は、はっきり言わないのです。説明できないからです。
人祖というのは人間の祖先だと思っているのです。そうではないのです。私たちが現世に生まれてくる前に、前世がありました。その前世にアダムがいたのです。この説明がキリスト教ではできないのです。アダムが何のためにいたのでしょうか。何をしていたのでしょうか。これが分からないのです。
釈尊もこれが分からなかったのです。彼は素朴な人間で、行をして悟りを与えられると考えたのです。正確に言えば行をすることをやめて、全く無心になって、明けの明星を見て、悟りを開いたのです。偉い人ではありましたが、アダムがエデンの園にいて、神から食べてはいけないと言われた善悪の木の実を食べた。これが何のことか、さっばり分からなかったのです。
人間は前生で、食べてはいけない善悪の木の実を食べて、罪を犯して死んでしまった。そして現世に追放されてきたのです。現世は罪人ばかりがいる収容所なのです。
現世にいる人間は、全員、必ず死ぬ運命にあるのです。六十四億の人間は皆、無期懲役刑に処せられた囚人です。だから死にたくないのに死んで行かなければならない。死にたくないのに死んでいくというのは刑を執行されるということになるのです。
人間は罪人ですから、毎日、神を裁いているのです。神をぼろくそに言っているのです。造り主である神を、踏みつけにしているのです。食べるものから着るものまで、健康のことから、天候のことまで、何から何まで神を悪者にしているのです。神が気に入らないのです。人間が生きているのは、実はそっくりそのまま、悪魔が生きているのです。それを皆様が知らないだけです。
人間は自分が生きていると思っている。自我意識は悪魔の意識です。悪魔が人間という恰好で生きているのです。まずこのことを、よく承知して頂きたいのです。
聖書に次のように書いています。
「もし私たちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にひとしくなるであろう。私たちは、このことを知っている。私たちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、私たちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、既に死んだ者は、罪から解放されているからである。
もし私たちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中から廷らされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配していないことを、知っているからである」(新約聖書ローマ人への手紙6・5~9)。
仏教では、個々の人間が消えてなくなるとは言わないのです。個々の人間が存在することが、空だと考えるのです。
しかし、現実に存在する人間を、どうすればいいのか、説明できないのです。ただ空じてしまえと言うのです。ただ空じてしまえと言うだけなら、観念論になってしまうのです。空じてしまうには、そのような手続きがいるのです。空じてしまう方法がいるのです。
聖書には、十字架という空じる方法があるのです。彼の死の様において、彼と結びつくという形で、人間自身をなくしてしまう方法があるのです。仏教にはそれがないのです。だから、自分で自分を空じるしかないのです。空じたらいいというけれど、なかなか空じられません。具体的な方法がないからです。
イスラム教にもないのです。イスラム教は現実に生きている神を問題にしているのです。これは現実にいる人間を認めた上での神になるのです。つまり、現実の人間という意識の方が強いのです。神より人間の方が先にあるのです。これがイスラム教の非常に悪い点です。イスラム教はどこまでも現世主義です。
現世に人間が生きていてもしかたがない。なぜなら、現世の人間は必ず死ぬからです。現世の人間を認める宗教は、やがて滅びていくでしょう。宗教そのものが間違っているからです。
仏教は現世の人間を認めていないのです。認めている宗派もありますが、これは仏教ではないのです。空じるという宗派は釈尊に近いのですが、空じると言っても、空じる方法がないと空じられないのです。自分自身が消えてなくなることが不可能です。
聖書にはキリストの十字架によって結びつけられるとあります。イエスが死んだ状態によって、イエスに結びつくとあります。十字架をまともに信じることによって、十字架につけられて人間は消えてしまうのです。これ以外に自分をなくす方法はないのです。
個々の人間は、必ず死ぬ人間です。死んでから必ず裁きを受ける人間です。毎日、朝から晩まで、神を裁き続けているからです。自我意識に逆らうと、いちいち文句を言うのです。口に出さなくても、心の中で文句を言っているのです。神を憎み続けているのです。だから、人間は死んだら裁かれるに決まっている。そして地獄に行くことになるのです。
人間は自分が自分の力で生きているのではないのです。天然自然によって生かされているのです。それを自分が生きていると思っている。自分が生きているという考えが原罪なのです。
人祖であるアダムが罪を犯した。人祖アダムが何者であるかを、はっきり言ったキリスト教は、世界にないのです。創世記二章、三章が分からないからです。
未だかつて、アダムの正体が解明されたことがないのです。神話だと思っているからです。アダムとイエスの関係が分からないのです。
アダムが罪を犯した結果、大変なことが起こったのです。善悪を知る木の実を食べてはいけないと言われたのに、食べてしまった。その結果、一人の人格が、数百億に分裂したのです。これが原罪です。
聖書に、現象世界が造られた理由について、次のように書かれています。
「私は口を開いて譬を語り、世の始めから隠されていることを語り出そう」(マタイによる福音書13・53)。
キリスト教では神が地球を造った基本的原理が、全然説明されていません。十字架の救い、罪の許し、贖罪論ばかりを言っているのです。嬢罪論は基本的原理ではないのです。
一度死ぬに決まっている人間、死んで地獄へ行く人間は、基本的原理が全然分かっていないのです。
人祖アダムが善悪の実を食べて罪を犯した結果、元の完全人格が無数に分裂した。無数に分裂した人格が現世に生まれてきたのです。
現在の文明は、瀬戸物の欠けらのような人格の集まりです。その人間が、神をあざけったり、ののしったり、軽蔑したりしている恐るべき集団です。嘘を言ったり、人を憎んだり、人をののしったり、呪ったりする人格ばかりです。
完全人格は神をほめること、神を賛美すること、神を喜び、神の内に命を見いだす人格です。今の地球に、こういう人格が全くいないのです。神を信じることができない、欠陥人格ばかりなのです。自分で神を信じようと思う。そんな信仰は神の前に通用しないのです。
皆様は個々の人格を問題にする悪い癖があるのです。この癖をやめるのです。そうすると聖書が分かつてくるのです。自分自身が生きていると、どうしても人を呪ったり、憎んだり、苦しんだり、悲しんだり、文句を言ったり、腹を立てたり、軽蔑するに決まっているのです。
地球ができる前の世界、数百億に分裂しない前の人格に帰るのです。そうすると信じることができるのです。
自分が信じるのではなくて、地球ができる前の基本的な原理で信じるのです。神が太陽系宇宙を構成して.いる原理、天地万物の構成原理で信じるのです。現在の地球に、六十四人間が生きている原理を知らないで、聖書を勉強しているから分からないのです。
分裂した人間は原罪の欠けらです。原罪の塊がアダムです。アダムが何百億に分裂してしまった。分裂した人間は欠陥人格です。こんなものがいくら聖書を勉強しても、分かるはずがないのです。神を信じることができるはずがないのです。
この点で、世界中のキリスト教は全部間違っています。地球構造、太陽系の構造じたいが、聖書の構造の第一原則なのです。
皆様は数百億に分裂する前の人格に帰らなければならないのです。これはイエス・キリストに結びつくことになるのです。イエス・キリストという完全人格に結びつくことが、罪を犯す前のアダムに帰ることになるのです。
アダムは罪を犯したために、数百億に分裂した。私たちは分裂した人格ではなくて、分裂する前の人格に帰れるのです。これをイエス・キリストを信じるというのです。
分裂した人格は統合しなければならない。統合すれば、死から逃れることができるのです。
この点、日本国憲法は重要な示唆を与えてくれています。天皇は、日本国の象徴であり、日本国民の統合の象徴であると書いています。日本国民の統合とは人格の統合を意味するのです。ここに人間が救われる秘密があるのです。
天皇は日本国民の人格の象徴ですが、キリストは、全人類と全生物の統合の象徴です。人間一人ひとりがバラバラに生きていれば必ず死んでしまいますが、全人類、全生物が統合しますと、絶対に死なない、完全人格になるのです。ここにおいて、人類と地球が完成されるのです。
やがて復活したキリストが地上にやって来ます。そうして、完全な人間が歴史的に証明されるでしょう。そして千年間の完全平和、絶対平和が実現するのです。私はこの日が一日も早く実現することを、心から望んでいるのです。


舞台裏に隠れているユダヤ人

2015-11-18 13:44:49 | 日記
日本人の常識で考えますと、天地が造られたことが何のことか、さっぱり分からないのです。古事記に国が造られたことが書いてあります。泥の中へ棒をつっこんで、それを引き上げて、雫が落ちたところが島になって日本ができたとあります。全く幻想みたいなことを書いていますが、一つの考えとしてはあり得るでしょうけれど、天地の万物の創造という具体的な考え方から言いますと、ほど遠いのです。
これは日本だけでなく、中央アジア、中東地方の国々の古い歴史の中にもそういう記述があるようですが、きわめて抽象的で比喩的です。
ところが、旧約聖書の創世記第一章は、非常に具体的に万物創造の段階を書いています。鉱物の創造、植物の創造、動物の創造、人間の創造というように、各存在についての段階を、原理的に示しているのです。
現在、万物がある、天地があるという事実は誰でも分かります。あるというのは、結果であって、この結果ができるためには、原因、原則がなければならないのです。
物はあるべき理由があって、存在しているのです。物があるべき原因がなければならないのです。物がある原因は、現在の文明概念、学校教育でも、一切分かつていないのです。物がある、地球があるとはどういうことなのか、存在とは何かが、全く不明のままなのです。
日本には日本書記がありますから、天地創造については無関心だとは言えないかもしれませんが、中国人はほとんど考えていないようです。
中国は日本より歴史が古いのですが、孔子、老子、孟子でも、天地が造られた原因について言及していません。生活のあり方、政治のあり方を嘉にして述べているのです。孔孟の教えは家庭の問題、政治の問題を中心にしているのです。これが四書五経なのです。
だいたい宇宙の中で、太陽系以外の墨は、正体がはっきりしません。固体である惑星はほとんどないのです。ガス体か液体なのです。ところが地球と地球周辺の星は固体になっているのです。固体である惑星が既に珍しいのです。
地球に住んでいる私たちから考えますと、太陽系宇宙は個体の星がいくつかありますから、全宇宙には個体の星が無数にあると考えるのです。ところがそうではない。惑星は本来的にはガス体であるのが常態なのです。
旧約聖書第一章三節には「地は形なく、むなしく」という言葉があります。地は現在の地球を指していますが、始めは形がなかったのです。しかも空々漠々として、何の目的も持っていなかった。つまり星雲状態であったという意味になるのです。
百五十億年前の大宇宙は、空々漠々たる状態であった。そこに大爆発が生じて、宇宙ができはじめた。地球は四十五億年位前に形を取り始めたと考えられているのです。
地球という惑星は、私たち地球にいる人間が見ているから普通の状態のように考えられますが、宇宙全体から見ますと、全く不思議な物体になるのです。あらゆる星は、原則的には星雲状態です。ガス体の塊であって要素そのものであるのに、地球は要素どころか、森羅万象という物体が存在しているのです。それには非常に深い意味がなければならないのです。
地球になぜ森羅万象があるのか。一口に植物と言っても、千々万々の種類があって、整然としているのです。リンゴはリンゴのように、ナシはナシのように、桜は桜のように、何千年も続いている。これは一体どういうことなのか、なぜそのように理路整然として、驚くべき科学性、合理性を持って存在しているのかということです。これには現在の人間の常識や学問では考えられない大原則がなければならないのです。
皆様の生活には、常識、知識という学問的な考え方、生活主義的な考え方、義理人情の考え方があります。これは顕在意識です。
この他に潜在意識があるのです。これは日常生活の表面に現れていませんが、学問や常識の根本原則にあたるものです。人間の心理状態の底の方に隠れているのです。例えば良心です。良心の正体が分からないのです。なぜ人間に良心があるのか。良心は心理機能の葦な面でありながら、皆様の考え、行動に必ずしも同調しません。
人間は良心にいつも監視されているような状態です。人間社会には警察機構があります。警察は法を破る者に対して干渉します。もし警察機構がなければ、法律を造っても守られないのです。
日本の社会では、警察力が活力の源泉になっています。法律を遵守するために、日本の警察は優秀な働きをしている。これが良心の働きなのです。
一体人間の中に良心がどうしてあるのだろうか。警察は日本の立法府が造ったものです。国家構造から見れば、警察は簡単に説明できるものですが、警察力と同じような働きをしている良心の働きが、どうしてあるのだろうか。この説明が現在の学問ではできないのです。
人間とは何か。善とは何か、悪いとは何か。漠然としているのです。極端な善とか極端な悪は分かりやすいのですが、その接点になると分からないのです。
これが皆様の生活に非常に微妙な働きをしているのです。自分がいいと思うことが、他人から見れば悪いことになる。これはどういうことなのか。本当の青票害得失の原点はどこにあるのだろうか。学問にはこういうことをはっきり割り切る原理がないのです。これは地球が造られたこと、人間がこの世に生まれたこと、理性と良心を持っている不思議な生物が現れたことの意味をよく考えなければ、分からないのです。
人間は地球を自分たちの都合の良いように勝手に使っています。石油をとったり、鉱物資源をとったりしている。これについて正当な説明ができる学問がないのです。専門学はそういう不完全なものなのです。断片的なことは説明しますが、根本的なことは説明しないのです。説明できないのです。これがユダヤ主義です。
ユダヤ人は現在、文明の舞台裏に隠れているのです。文明の舞台回しをしているのです。舞台裏で仕事をしていますから、ユダヤ人のことが分からないのです。ところが舞台裏の仕事が表面を動かしているのであって、舞台裏が分からないと、表面のことも分からないのです。
文明はその舞台であって、そこで人類が芝居をしているのです。この舞台裏が分からないと、文明の将来、人間の命の根本原理が分からないのです。そこで宗教ではない神、人間存在の本質をはつきりつかまえなければならないのです。
舞台裏に隠れているユダヤ人を、表に引っ張り出すことが必要なのです。ユダヤ人は世界をひっかき回す思想を持っている。この思想を持ったままで表面に現れてきますと良くないのです。今の文明は非常に危ない状態になっているのです。
宗教ではない聖書を正しく勉強しますと、天地創造の根源が分かるのです。人間が何のためにこの世に現れたのか、神と人間との本質的な関係がどうなっているかが分かるのです。
現在の文明ではこういうことが全然分かっていません。人間存在の実体が魂であることが、全然分かっていないのです。江戸時代までの日本人は、諸行無常という言葉は常識だったのです。今の日本人は諸行無常が全然分かつていないのです。
人間の常識は生活するための道具にはなりますが、自分自身の本質を弁えるためには一切役に立ちません。人間存在の本質は魂ですが、現代人には魂が全く分からないのです。江戸時代までの人にはおぼろげながら分かっていたのです。
良心を知るためには、天地創造がはっきり分からないとだめです。人間が何のために地球上に生まれたのか、一体地球は何のために造られたのかを勉強しないといけないのです。
潜在意識が人間生活に非常に重要な役割を演じています。今の学問は顕在意識の方ばかりを考えていて、潜在意識の開発を全然していません。そのために日本人は人格的に崩壊しつつあるのです。これが一番恐ろしいことなのです。





ユダヤ主義の害悪

2015-11-18 13:44:00 | 日記
現世に生活しているという立場からだけお考えになると、会社に勤めている人は会社のことを第一にお考えになります。生活のことを第一にお考えになるのは当然です。これは現在の文明主義的な考えでありまして、私たちは現世に生きていることだけが人生のすべてではありません。
現代人は現世に肉体的に生きていることが、人生のすべてであると思いこまされているのです。肉体的に生きているということが、自分のすべてであると思いこまされています。これが現代文明のユダヤ主義の非常に悪い点です。ユダヤ人は本来こういうつまらない思想に落ち込んでしまうような民族ではないのですけれど、彼らは数千年の間神を信じそこなっている。神を信じそこなった結果、とうとう神に反抗してこういう考えを持ってしまったのです。
そのために、全世界の人間に、彼らの反逆心を植えつけるというけしからん思想を持ってしまった。これが現代文明の中心思想になっているのです。死んでからのことを一切考えない。これが現代文明の考え方です。
生きている間だけの生活主義、生活万能主義だけを考えているのです。これが近世から現代にかけての文明思想であって、この被害を日本人は、最も強く受けているのです。これがユダヤ主義の大きな害悪です。
ユダヤ人が白人を騙した。白人が世界全体を騙している。これが文明の大欠陥です。やがて、現代文明は根本的に崩壊するでしょう。神に逆らつているからです。聖書の原点に逆らつているのです。根本的に、文明構造は崩壊してしまうでしょう。ユダヤ人が崩壊してしまいますと、文明は崩壊してしまうのです。
こういう愚かなことがどうして起こったのかと言いますと、人間の世界観が根本的に間違っているからです。
人間は現世に生活するためにだけ生まれてきたのではありません。現世に生活することによって、利害得失はどういうものか、霊魂はどういうものか、肉体構造はどういうものか、物と事の関係はどうなるのか、命とは何か、神とは何かを冷静に、正確に勉強するために生まれてきたのです。
ところが現代人は、現世にしがみついているのです。現世の生活にしがみついている。これでは、必ず地獄へ行かなければならないことになるのです。
なぜかと言いますと、現代文明には目的がないのです。現代の国家には目的がありません。学問に目的がありません。政治にも、経済、法律、道徳、宗教にも目的がないのです。現代文明のあらゆるものに目的がないのです。永遠の目的がないのです。
目的がない文明は、自滅するしかないのです。文明を信じて生きている方はご自由です。目的がないことを承知して文明にかじりついているか、文明から逃れて神に目を向けるか、どちらかです。
生活はどうでもいいというのではありません。生活をまじめにするのは結構ですけれど、生活のために霊魂を犠牲にしてはいけないのです。魂は永遠のものです。生活は現世だけのものです。これをよく考えて頂きたいのです。




人間の思想に固執するユダヤ人

2015-11-18 13:42:39 | 日記
まともに福音を信じるだけでも、なかなか大変です。神が日本人に要請していることは、命を与える霊になるということです。イスラエルの悔い改めを祈るとはどういうことか。旧約時代からの伝統ですが、誰かのために祈るなら、祈りっぱなしではなくて、祈りの内容を自ら実行しなければならないのです。
誰かを救いたまえと祈るなら、その人に命を与えなければならない責任があるのです。命を理解するだけでも大変です。さらに、命を与えるという段階になると、一層難しくなるのです。
ヨハネは言っています。
「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、命の言(ことば)についてーこの命が現われたので、この永遠の命を私たちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠の命は、父と共にいましたが、今や私たちに現われたものである」(ヨハネの第一の手紙1・1、2)。
よく見てという所を文語訳の聖書では、つらつら見てと訳しています。漢訳では目撃してとなっています。手でさわるというのは、ちょっと触るというのではなく、ずっと触るという意味です。
日本語の文語訳の聖書では、目に見て、つらつら見て、手で触るとなっていますが、つらつら見るというのは、ちよっと見るのとは違います。見て見る。穴があくくらいに見るのです。これをしようと思いますと、よほどの正直さがないと分からないのです。
本当に神の言葉を信じる楽しさ、おもしろさを会得できない原因は、正直さがないからです。現代人は不正直です。いいかげんなのです。いいかげんに聖書を読んで、いいかげんに信じているのです。つらつら見ていない、ちよっと見ているのです。
つらつら見るとはどうすることか。例えば画家が花を描く場合に、じつと花を見ます。見て、見て、見破って、その花の真髄が心に映るまで見るのです。ただ形だけを描いても、絵にはならないのです。
花の実体が自分の心に焼きつくまで、見破らないといけない。ここが素人の写生と、芸術家の絵との違いです。
食物を食べる場合、ただ口に入れて食べるのとは違います。食べる時、その味わいの真髄を、魂に受け止められるような食べ方をするのです。これが、つらつら見ることになるのです。
これをすることができると、神を信じて生きることが、うら恥ずかしい気がするのです。肉体で神の前に生きていることが、こっぱずかしい気がするのです。
人間は現世で、でたらめに生きています。生きていることが全くでたらめです。自分自身で嘘っぱちであることを知りながら、平気で図々しく生きているのです。
肉体的に神の前にいることが、恐れ多いことなのですが、肉体人間のままで神の前に生きていることが、最も恐ろしいことであり、みっともないことです。これが、うら恥ずかしいと言わなければならない心情です。
生かされているということが、そのまま神です。生かされていることは、ピンからキリまで、神の働きです。口では言えないほど、デリケートなものです。これが分かると、人間社会のでたらめさ、常識で生きている世界の嘘っぱちさが、よく感じられるのです。
今日は、いい天気ですねという挨拶に、もう嘘があるのです。本当に感じていることと違ったことを言っているのです。言っていることに、おべっかや、迎合、でたらめさ、人をおだてる気持ちがあるのです。自分の本心が、そのままスムーズに出ていないのです。
ペテロは言っています。
「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、一切の悪口を捨てて、今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(ペテロの第、の手紙2・1、2)。
人間の心に悪があふれています。人間の常識には悪があふれています。それに気がつかないと、今生れたばかりの乳飲み子という心境が、分からないのです。
混じりけのない霊の乳を慕い求めなさいと言っています。混じりけのない神の言葉のニュアンスは、今生れたみどり児でないと、分からないのです。
大人の気持ちで聖書を読んでもだめです。本当に正直に聖書を読む、正直に神を信じるのです。正直に生きるのです。丁寧に生きるというのは、正直に、正確に、正当に生きることです。
生きるというのは、なかなか難しいことです。正直に、正確に、正当に生きることが、本当の生き方なのです。この生き方は、大人ではできないのです。混じりけのない神の言葉が分かつてこないと、できないのです。
詩人が詩を詠むように神を信じるのです。芭蕉が月を詠んだように、水原秋桜子が滝を詠んだように神を見る、神を信じるのです。
現在の世界が純粋経験の世界です。純粋経験の直下でなければ、神に接触することはできません。こういう気持ちを、自分で訓練するのです。
大人の心は悪で満ちています。ちよつと口から出る言葉が、もう嘘です。利害得失の計算が、無意識でされているのです。これができることが、美徳とされ、大人だと言われているのです。
ユダヤ人に命を与えるとすると、正当に、正確に、正直に生きなければならないのです。人間が生かされていることの本質を、そのまま正確に生きるのです。こういう生き方を心掛けるのです。
ちょっとした挨拶でも、真心からするのです。そうでないと、神の要請に答えることはできないのです。本当に神を喜ぶほど楽しいことはありません。
生かされていることを喜ぶのは、敬虔なことです。うやうやしい楽しさです。これを味わって頂きたいのです。楽しさを自分の気持ちの中に醸し出すような気持ちを持ちながら、生活して頂きたいのです。
命を与える霊にならなければならないのです。普通の人間ではいけないのです。人々の魂に、命を与える霊になるのです。そのための第一の資格は、「わが魂は主を崇め、私の霊は救主なる神をたたえます」(ルカによる福音書1・46、47)というマリアの心境です。魂が主を崇めるというのは、今述べたことを言うのです。
真心を込めて、日本人の大人的な病的状態を治してあげるのです。大人の心は病気にかかっているのです。精神柄患者を扱うように、恐れおののきながら接しなければならないのです。びくびくする必要はありませんけれど、慎重に、そして大胆に、愚直、率直に、接するのです。人にものを言う場合だけでなくて、人の話を聞く場合も同じことです。生ける誠の神に気にいられるような、ういういしい感覚を持つのです。
大人のような、すれっからしの感覚ではだめです。結婚をして、愛が垢だらけになってしまうと、神の愛を清純な感覚で受け取れなくなるのです。これは困ったことです。男が女を汚す。女が男を汚す。男と女が汚しあいをするくらいなら、大したことはないのですが、愛の本質を手垢だらけにしてしまうことが悪いのです。結婚生活そのものが、粛然とした状態で、もう一度清められること、婚約時代のようなニュアンスに、帰るくらいの気持ちが必要です。そうすると、神が人を愛している神の持ち前の良さ、アダムが陥罪以前に、エデンの園で感じていたような、ういういしさが分かってくるのです。その時のアダムは、ういういしい気持ちを持っていた。だから、二人とも裸にして恥ずかしいとは思っていなかったのです。その感覚を持つくらいの気持ちを、持ってほしいのです。
キリスト教の人々が神を信じているのは、古女房のような信じ方をしているからだめです。神をなめきっている。理屈だけで割り切りすぎているのです。そういうものではなく、愛に触れるういういしさ、それを体で感じるような素朴さを持って頂きたいのです。
私たちが命を与える霊になるためには、そういう訓練を、毎日する必要があるのです。神が私たちに責任を負わせて、イスラエルを回復しようと考えているのです。
私たちは生ける神のシール(印)を与えられて、それをそのままイスラエルに与えなければならない責任があるのです。
生ける神の印(シール)とは何か。生きていること、即ちリビングが、そのまま神の印です。リビングが正真正銘の神の実体です。これをイスラエルに与えなければならない責任があるのですから、私たちはイスラエルを返したまえと祈りはじめたのです。祈りはじめた者は、その完結を果たさなければならない責任があるのです。私たちはそれができるのです。神は喜んでそれをさせてくれるでしょう。
オーガスチンは信仰者であり、神学者でした。カトリックの聖人でもありました。有名な「懺悔録」を書いていますが、聖書が全然分からなかったようです。初めの命の言葉が分かっていなかった。
初めに神が天地を造ったと創世記に書いていますが、初めは時間がなかった時です。そうでなければ、初めという言葉があるはずがない。初め以前があったはずで、その時神は何をしていたのか分からない。ある人は言うであろう。その時神は昼寝をしていたかもしれないという人間に、どういう刑罰をしたらいいかを、神は考えていたというのです。
人間の思想は、良かれ番しかれ、根本から間違っています。神学でも、哲学でも、どんな学問でも、人間が造った思想は、根本から聞達っているのです。これをよくよく承知しなければいけないのです。
ユダヤ人が創世記を読む気がしないというのは、人間が造った思想に興味を持ちすぎているからです。人間の思想を離れてまで、創世記を勉強しなければならないという必要を感じないし、人間の思想を乗りこえて勉強をすることに対して、警戒を感じるのです。人間の思想の大系を壊滅させる危険を犯したくないと思うからです。
ユダヤ人は人間の思想に、千金の重みを感じているのです。彼らは創世記が嫌いではなくて、人間の思想に重心を置きすぎている。これがユダヤ的な発想です。
これを神から見ると、サタンの会堂に属する者になるのです。ユダヤ人と称して実はユダヤ人でないもの、内容的に言えばサタンのシナゴグに属する者になるのです。こういう人々があなたがたの足元にひれ伏すと書いているのです(ヨハネの黙示録3・9)。
ユダヤ人の基本的な欠陥を、よく承知しなければいけないのです。彼らはなぜ創世記を敬遠するのか。創世記を敬遠することが、新約聖書を敬遠する土台になっているのです。
創世記を敬遠すると、アブラハムの信仰に関係がなくなるのです。出エジプトから出発すると、モーセの思想につながるのです。アブラハムの思想に関係がない、アブラハムが神にひれ伏したという所は、読んでいないのです。
創世記を敬遠したくなる彼らの気持ちは、出エジプト記以下の聖書に重点をおきすぎているからです。これがサタンのシナゴクになるのです。ユダヤ民族が救われたとか、ユダヤ民族が得をしたとか、神がユダヤ民族にすばらしい栄光を現わしたとかいう所だけ、読んでいるのです。
人間の考えが、根本から間違っていることが、分からないのです。ユダヤ人でも、異邦人でも、人間の考えそのものがサタンの考えであって、人間の考え方に合理性を認めようとすることが、神に対する反逆になるのです。
人間は根本的に、神的な性格に造りかえられなければならないです。人間の考えに一切魅力を感じない人間になってもらいたいのです。
例えばユダヤ人についての判断でも、ユダヤ人についての欠陥でも、できるだけ神的な角度から把握するのです。人間的な、文化史の流れという角度からの把握になりますと、ユダヤ人の間違いの根底にまで、いけなくなるおそれがあるのです。
ユダヤ人の考えの根底は、人間を認めたことです。ユダヤ史を認める前に、彼らは人間存在を認めているのです。
この点から見ますと、釈尊の方が正しいのです。仏教は本当の空を知りませんから問題になりませんけれど、人間を認めないという所から出発している般若心経は、ユダヤ教にとつて頂門の一針になるのです。
般若心経は、論理不徹底、論理的欠陥はありますが、その長所は認めなければいけないのです。五蘊皆空と言いきるような乱暴さ、無眼界乃至無意識界という無鉄砲さは、ユダヤ人をサタンの会堂から、引っ張り出すためにはいいのです。
五蘊皆空とは、あらゆる神学、あらゆる哲学、あらゆる学説は、皆だめだと言いきっているのです。日本人に向かつては、般若心経の長所を振り回すといいのです。一切空というのは、日本人だけでなく、ユダヤ人も切ってしまうのです。
聖書には密月の状態が、所々にあります。雅歌はそればかりです。神と人のハネムーンが理解できないと、信仰のやりがいがないのです。信仰は神学めいたもの、思想めいた、教訓めいたものになってはいけないのです。そうしないと、本当の味わい、嬉しさ、楽しさが出てこないのです。
ダビデは理屈の世界に生きていたのではありません。彼は神のハネムーンの世界に生きていたのです。アブラハム、モーセ、ダビデの三巨人のロマンチシズムを、よく理解しなければいけないのです。神のロマンを理解するために、人間の思想を踏み潰してしまうのです。足台にしてしまうのです。
まず私たちがしなければならないのは、神とのハネムーンに、できるだけ入ろうとすることです。論理は後から教えられるのです。イエスの話し方には、論理はほとんどありません。こういう人間を助けた方が、神としては助けがいがあるのです。論理を知っていても、それを使わないで、正直に真髄を言う方が、神は助けやすいのです。
神が十分にイエスを助けることができたのは、イエスのあり方が神の癖をよく知っていたからです。神にかわいがってもらうためには、神の癖をよく知ることが必要です。
奥さんにとつて一番重要なことは、ご主人の癖を知ることです。ご主人のさがの癖を知ることです。それが分かると、よい奥さんになれるのです。
ユダヤ人は神の癖を全然知りません。さがが合わないのです。神のさがと、ユダヤ人のさがとが、全然合わないのです。しっくりいかない。ハネムーンの味が出ないのです。
パウロは掟は霊なるものであると言っています。これは神とのさがが合った言い方です。この見方がユダヤ人にできないのです。
ユダヤ人は、肉なる人間が、肉の頭で掟が守れると考えている。その掟が霊なるものなのです。肉なる人間、自我意識で生きている人間がいくら読んでも分からない。ところが、それを読んで分かろうと考えている。ユダヤ人と神とは、さがが一致しないのです。主人のさががよく分からない奥さんと同じことです。
ユダヤ人は愛が分からないのです。なぜ分からない掟が霊なるものであることが分からないからです。人間が肉なるものであることも分からないのです。
ユダヤ人は、割礼を受けたから、霊だと思っている。割礼は肉なる儀式であって、霊の儀式ではないのです。だから聖霊を受けなければだめです。約束が霊なるものです。掟も約束も、両方共霊なるものです。霊が分からなければ、神が分かるはずがないのです。
ユダヤ人に向かつて、聖霊を受けよと言わなければならないのです。
ユダヤ人は人間の文化文明を信じすぎています。こんなものは、宇宙的に見れば、単なる瞬間の過渡現象です。地球が存在することが、ちりの現象です。こういう雄大なスケールから見れば、地球創造は過渡現象です。
もう一つユダヤ人が知らないのは、神の安息です。これが全然分かつていません。だから、自分自身の業を行っていることになるのです。神の安息は神聖で、尊いものです。人の霊は、まず安息に入らなければいけない。そうなると楽になるのです。
人間の思考方式を軽蔑する気持ちを持つことです。ある場合は、それを用いなければならない時もあるかも知れませんが、それを信じてはいけないのです。
ダビデやモーセそれをしていたのです。神とのハネムーンに入っていた人々です。神とのハネムーンに入らなかったら、彼らみたいなことは言えなかったでしょう。
旧約聖書にある話ですが、神がギデオンに、ミデオン人を滅ぼしに行けと言いました。十五万人のミデオン人が囲んでいる時に、三百人の兵隊で攻めたのです。
その時ギデオンは、「あなたが本当の神であるかどうか分からない。今晩、羊の毛を庭先に出しておきますので、羊の毛だけは夜露で濡らさないで下さい。それができるなら、あなたを全能の神と認めます」と言ったのです。
その晩、からからの良い天気でしたが、夜露がたくさんおりた。羊の毛だけはからからで、露のかけらもなかったのです。ギデオンはもうー回、今度は逆のことを要求したのです。羊の毛だけはたっぷり露を含んでいて他はからからに乾いていたのです。
神にこれだけだだがこねられるのは、神をあば父と呼んでいたからです。ギデオンのようなずうずうしさ、パウロのような頭の切れの鋭さ、イエスのような素朴さを持って頂きたいのです。
命の喜び、生きている喜びが、そのまま信仰にならなかったらいけないのです。自分が信じるのではない。生きていることがそのまま信仰ですから、信じる必要はないのです。生きていることが救いであるという事実を、つかまえるのです。信じたら、もう間違っているのです。これと同じものは、恋愛しかありません。死んでから天国へ行く。死んでから救われるというのは、神に逆らったかんがえです。神は生けるものの神です。アブラハムが生きていた時に、神はアブラハムの神だったのです。
その後、イサクの神になっています。アブラハムの神はもうなくなっていたのです。イサクが死んだ後は、ヤコブの神です。神はこういうものです。
生きているその場で、神をつかまえなかったらだめです。鼻から息を出し入れしているというその場で、神をつかまえるのです。この神をつかまえなければ、信仰にはなりません。
今という時に、神を証できなければいけないのです。お茶を飲んでいる時でも、ご飯を食べている時でも、お風呂に入っている時でも、神の証ができなければ信仰とは言えないのです。心臓が動いていることが神ですから、この神とつきあっていたら、いつでも神の証ができるはずです。
日本人は電気という言葉を使い出してから、神を崇める気持ちがなくなったのです。神を物理的に形容すると、電気になるのです。電気は神そのものです。これが命です。命と神と電気は一つのものなのです。電気は命の動的状態です。
第一の死(肉体の死)から抜け出していなければなりませんが、第一の死を警戒する気持ちがないと危ないのです。それなら、どういう気持ちで生きたらいいかということです。
現在、私たちは、肉体的に生きています。しかし、原則的に、肉体的に生きていないことを知っていなければいけないのです。神がその人の魂を、この世から取ろうとしない所を見ると、肉体的にこの世に生きていなければならない理由が、神の側にあるのです。だから、その人を生かしているのです。その時、生かされているのは、神の御心だと考えるのです。
現実的に生きているという感覚は、完全にはなくなりません。もしなくなったら、おなかもすかないでしよう。人間は衣食住を前提にして生かされているのですから、原則としてはこの世に生きていないのですけれど、現在、神の御心によって生かされているということを、理解することです。
従って、自分の生活感情、生活意識については、今までの惰性と考えるのです。自分は本当は肉の思いで生きているのではなくて、肉的に生きていた時の惰性があると考えたらいいのです。肉の思いが出てきても、自分はだめだと思わないことです。
イエスは、羊は羊飼いの声を聞く。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出すと言っています(ヨハネによる福音書10・3)。英訳では彼自身の羊を、名によって呼び出すとあるのです。
キリストが私たちを呼んでいるのです。羊飼いの呼び声を聞き分ける素質を持った羊の名を呼ぶという意味です。名(ネーム)は、本質又は実質を意味します。ですから、霊的な生き方を自分の実質だと心得ている人は、羊飼いの呼び声を聞き分けることができるのです。名によってとは、その魂の質によってということです。ですから、霊的に生きたいと思っている人は、霊的な呼び声に従えるのです。肉的にしか生きていない人は、霊的に呼ばれても、自分のことだと思わないのです。命の文にしるされた名というのは、人間のプレゼンス(presence)、リビングの本質を意味しているのです。
人間のリビングは何かと言いますと、アライブ(a live)ということと、プレゼンスのことです。今生きているということと、存在しているということです。プレゼンスは基本的な実質、アライブは動態的実質です。基本的な実質と動態的実質の二つがリビングになるのです。
神はリビングです。神というリビングのジャンルに属していれば、命の文に名が記されているのです。神というリビングのジャンルに属していなければ、命の文に印されていないのです。このことを、よく承知していなければならないのです。