オリンピックのトリビア

古代・近代オリンピック、パリ五輪2024等について

東京五輪と 東京市域の人口推移

2016-12-31 | オリンピック
 
東京五輪を開催する 東京の市域の 展開

1.明治中期の東京の 市 町 村 (村は水色 町は緑色 東京市は桃色) (「市町村変遷パラパラ地図」より)


市域の中心に 住む人 働く人の 集まる 「古町(麹町 神田_日本橋_京橋)」

古町と 周辺の田園は 一体となって「江戸の市域」となり、明治時代には「東京市」となりました

(*)明治/大正/昭和初期の 東京市は 代表的な駅で言うと
  東西は 錦糸町駅-四ツ谷駅辺、
  南北は (荏原郡品川町でなく東京市芝区に設置された)品川駅-上野駅辺の 領域


明治時代の「東京市」の外側には 「農村」が広がり、「町(宿場町)」が 五ヶ所(*)に 散在しています

(*)五ヶ所の宿場町 : 五街道の四宿「品川宿」「内藤新宿」「板橋宿」「千住宿」と 水戸街道「新宿(にいじゅく)」

古町に上水を供給する 上水取水地辺の 風景 (今日の地下鉄「早稲田駅」辺)
明治後期 上記地図「c」の「戸塚村」の 田圃に建てられた 東京専門学校(早稲田大学)
田圃を自らの領域として 江戸川が蛇行し、すぐ下流が 江戸川と 神田上水の 分流点


明治後期 「戸塚村」の隣 「東京市 小石川区/牛込区」区境の
江戸川(飯田橋先で 日本橋川/神田川に 分流)の 花見風景 (今日の地下鉄「江戸川橋駅」辺)
水面と 岸の近さにも 要注目です (現在 水面は 岸より ずっと 下の方にあって 触れることもできません)




2.大正時代以降の「東京市」「東京(特別区)」の 人口推移 (実績と 今後の推定(東京都2012))

東京五輪開催年が 人口の山となっています (↓グラフ赤点)



一つ目の山は 開催されなかった東京五輪(1940)の 山

二つ目の山は 東京五輪(1964)の 山。 三つ目の山は 東京五輪(2020)の 山

1923年関東大震災直後の時期 1940年台の戦争の時期 1990年台のバブル崩壊時期が 人口の谷


このグラフには 1930年(人口200万人)と 1935年(人口600万人)の 間の線が ありません

これは 昭和初期 1932年に「東京市」の範囲に 変更があり、人口データの基盤が異なるためです

さて、ここで問題です

下に挙げたのは「元々の東京市」の地図です(桃色部分)。

「東京市」の範囲は どう変更されたでしょう...?


          昭和初期 1932年の「元々の東京市(江戸時代以来の市域)」と「近隣五郡(町村部)」
          (「市町村変遷パラパラ地図」より)

解答例

昭和初期 1932年に 「近隣五郡(町村部)」が 「東京市」に 編入されました

「近隣五郡」は それぞれが元々の「東京市」と同等の広さなので、

東京市の広さは 一気に 六倍超 (具体的には 約80平方km → 約600平方kmと 七倍超) になりました...

この「超拡大版の東京市」を引き継いでいるのが 今日の「東京(特別区) = 東京二十三区」です


参考1.地名

近隣五郡の郡名は 奈良時代の律令制の 武蔵国(むさしのくに)の郡名

「豊嶋 としま」「多麻 たま」「荏原 えはら」「足立 あたち」「葛飾 かつしか (元下総国)」に拠るもの

因みに 江戸の市域の主要部分は 律令制の「武蔵国豊嶋郡 むさしのくに としまぐん」に属します

cf.江戸の市域地図「武州(=武蔵国)豊嶋郡江戸庄(=荘)図(1632頃刊行), 掛軸版折畳版 (題簽「寛永江戸図」)


参考2.年表

江戸 (1603-1867) 「江戸」誕生

明治 (1868-1912) 「江戸」が「東京市」に

大正 (1912-1926) 「東京市」近郊の「村」が 次第に「町」に 1923 関東大震災

昭和 (1926-1989) 

   1930年 内務省復興局の震災復興事業終了(東京市と近郊の「町基盤」整備 昭和/大正/明治通りの展開)

   1932年 東京市 東京五輪1940(震災復興五輪)に 立候補

         東京市の市域拡大 (約80平方km → 約600平方km)


   1936年 東京五輪開催決定 1938年 東京五輪開催返上 最終的に1940五輪は戦争のため非開催に...

   1945年 東京大空襲 終戦

   1964年 東京五輪1964(戦災復興五輪)

   2020年 東京五輪2020


---

東京五輪1964は「人口増加 対処五輪」

市内の「職」と 郊外に拡散する「住」を 鉄道や道路で 結びました


東京五輪2020は「人口減少 対処五輪」

東京五輪2020後 2080年には 東京(特別区)の人口は

昭和初期 1935年の東京市の人口(600万人↓グラフ赤点)に 戻り

その後 明治期の人口に 近づいていくことが 予想されています (冒頭「明治中期の東京の市町村」図 参照)


東京五輪2020は 市域の 縮小と 充実を考える 好機かもしれません

実際 既に、住む人 働く人の 集まる 市域の中に

(「人口増加への 対処」の為に 潰されてきた)

ぼんやり遊歩できる 水辺や 田園や 森を、再創造する 様々な試みが 行われています





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