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D的思考の広場

Nice to meet you! 日常のどうでもいい出来事から多角的に批評する広場です。

講演会

2005-11-15 11:50:03 | D的つれづれ
 日曜日に愛知芸術文化センターで名古屋大学主催の公開シンポジウムに参加してきた。ゲストがすごかったので行ってみることにしたのだが、なかなか高度な話でよかった。門外漢の人にとっては何の話か分からないと思う…。H.ハルートゥーニアンや吉見俊哉、司会者の坪井秀人ら。シンポジウム参加者もこれまた専門家も多く来ておりなかなか緊張感のあるものだった。名古屋でビッグな講演会が開かれることは少ないのでなかなか貴重な時間であったと思う。

卒論について(about my paper)

2005-11-12 11:37:57 | D的つれづれ
 最近忙しいこともあって、なかなかブログに学術的なことも書けなくなってしまった。なんとか再開したいものである。
 卒論も手を抜きたくないので本を読み続けの毎日だが、自分の論理が組み立てることは面白いなあと実感しながら頑張れている。まあこんながんばりはあたりまえのことだが。修正、削除を試みながらやっても細かな部分まで検討し、また各節との関連性を踏まえて書こうとするとやはり組み立てが難しくなってくる。予定としては、400字原稿用紙300枚以上だとしているが、どうなるかまだ未定というところだ。流れはできているのであとはどうつなげていくかが課題なのである。
 やってきてわかることは、自分の苦手な部分が出てくるとそこがどうしても物足りなさを感じてしまう。うーん、なんとか少しずつ克服していかねば。

自分にとっての目玉スポットか(the spot is good for me?)

2005-11-09 11:12:39 | D的つれづれ
 レジャー施設や大規模再開発によってできた建物が話題を呼ぶようになってきている。雑誌や新聞などでも目玉スポットやお店特集として紹介されているが、思うのは、それらの全ての施設がすべて自分とって観光などとして行きたいとは思わない。例えば、数年前に再開発事業としてできた東京の「六本木ヒルズ」は複数の大規模棟からなる複合施設として話題を集め、高級ブティックや日本初登場の店、高級ホテルなどが注目された。昔、知人が今度そこへ遊びに行くと言ってたのだが、その人はそこにある美術館やある店を見てみたいということで興味があったそうだ。そのあとで感想を聞いてはいないのだが、珍しいもの好きな自分にとっては一度は行ってみたいと思っていて実際に今年の3月に行ってみた。ところが、わたしにとっては見たいものが別にあるわけではなかった。ぶらぶらと回りながら面白そうなところに入ってみるという具合のものであった。そのため正直、歩き疲れただけであんまり面白くなかったというのが正直な感想だ。自分には目的がそこにはなかったからである。何か買うためにきたわけでもなかった。またひとりで来たのがそもそも間違いだった。男同士で来てもたぶんすることはないだろう。
 観光化を目的にした施設というのはかならず来客者の年齢、性別層などを考慮して作られる。ましてや六本木の近隣には青山、麻布などもある。階層もそれなりに意識されているに違いない。つまり、それに合わない人たちがそこに来てもすることはない。もちろんはじめから興味がなければなおさらのことである。そういうひとつの観光施設によって、さらに地区ごとの特性が分類化され固定化されてしまう可能性も十分強い。ただ誰かがある場所に別のニーズを呼び込むために新たなものを作り出すという意図は随所で見られるのだが。それが定着するというのも正直難しいものがあるように思われる。なぜなら人のつぼを押さえたことをしなければ誰も認めないからである。

退屈・・・(its boring)

2005-11-05 19:38:35 | D的つれづれ
 最近論文のことをしているだけで、何かかわったことがないので何か燃えることがない。まあ論文は筋をまとめて考察していると難しいけれど面白く真剣にできるのだが、大学の友達は何をしているのか。というのも、自分の周りの人は9割以上が大学院へ進学するというのでシュウカツ組の話をあまり聞かないので聞く面白みも感じない。まあこの時期は自分で自分の気持ちを高めていくしかないのかもしれない。
 ただ仲のいい人に会ったときは、バカ話や真剣な話の両方ができるので楽しく過ごしている。それだけでも気分が楽になる。感謝感謝。

「ベトナム・ドイモイ下における文化政策と多文化主義問題」

2005-11-01 23:24:22 | D的思想
 最近、ブログの手抜き工事がひどいように感じる。本論も大学2年ぐらいのころに授業で書いたレポートの全文である。結構手抜きしており考察がすきだらけのところがありますが、暇がある時に読んでいただけたら幸いである。

Ⅰ. はじめに 

1986年,この年はベトナムにとって歴史上大きな変革期のうちのひとつである。改革開放政策であるドイモイ〈刷新〉政策が開始されたのである。中国小平による改革開放路線,ソ連ゴルバチョフによるペレストロイカに通じる,内部からの社会主義の改革路線であり,始まってから18年が経とうとしているが,この間,ベトナム政府は経済政策を中心に,政治・文化政策も行ってきた。その結果,産業の発展に大きく貢献したことは今日の国際社会でのベトナムの位置を見れば明らかである。特に政治面,経済面における変化は数値などで表に出るために分かりやすい。しかし,〈思想文化〉面ではどうだろうか。実際,政府の文化政策により大きく変化してきている。
思想文化という面は国家の基盤となるため,政治面,経済面よりも目立たないところがあり,政策を実施している側にとっても重要視されなくなるという可能性もある。しかし,この文化面は,グローバリゼーションの拡大が進む今日において,自国のアイデンティティの保持,そして国民の教育政策などにおいて注目されるべき重要ポイントである。ベトナムに関して言えば,民族独立・統一を目指した戦時体制から,経済発展を目標とする「脱戦時体制(社会主義市場経済)」への動きが文化政策として試みられ,今後もベトナム社会の秩序などを考える上ではなしでは考えられない政策(視点)である。その政策の背景には,外的内的の両要因もあったことだろう。そこで今回は,それらの両要因を文化という視点で捉えながら,文化政策の概要を見ていき,そこからグローバリゼーション下におけるベトナムの多文化主義傾向と意義について人類学的視点から考えていくことにしたい。 

Ⅱ. ドイモイ政策の歴史とその概要

そもそも政策には文化政策自体必要なのだろうか。その必要性は,各国で理由は違うにせよ,ベトナムのような多民族国家で,国全体が十分に発展してない以上,文化政策は少なからず必要となってくるだろう。そこで,文化政策の具体的政策を見る前に,ドイモイ政策が開始されるまでの歴史と政策全体の概要についてまとめ,そこから文化政策の必要性の一理由を示しておきたい。
まず,ドイモイ政策とベトナム共産党(以下共産党)とは切っても切り離せない関係にあることを念頭に入れておきたい。米国との戦争の末,1975年に南ベトナムは解放され,南北統一達成を果たした。しかし,その後の最大の課題は経済再建であった。その頃から社会主義体制の問題が表面化され,民主化運動の気風が東欧や中国でも見られるようになってきたこともあり,86年,共産党政府は市場経済を導入することにした。それがドイモイ〈刷新〉政策1)である。
ドイモイの目標は,市場経済に則り,国家管理のもとで人民を豊かにし,文化的で強い国家を建設することであるとされ,具体的政策として,企業の自主的裁量権の拡大,農業請負制の導入,海外資本の投資など大胆な対外開放政策,そして共産党党内の民主化推進など様々な改革を試みてきた。その成果は徐々に実り,2002年の実質経済成長率は7%2)となり,これまでの政策が成功していることを裏付けている。
 ソ連のペレストロイカは政治政策から始め,それを重視しすぎたため失敗したといわれている。その点,ベトナムは中国と同様に,マルクス主義的に言えば,社会の下部構造である経済から改革を始めたことは正解であったといえる。政治的にも安定し,生活水準も向上し,民主的な雰囲気も芽生えてきている3)。
 しかし,ベトナムは中国と同様,ソ連が崩壊した後も,これまで通り社会主義を掲げる共産党一党支配の国である。このことを考慮すると,必然的にひとつの問題にぶつかることになる。それは,社会主義体制と市場経済体制の並立は矛盾があるということである。
 平等で安定した暮らしを保障するというというマルクス・レーニン主義的意味での社会主義制度を取っている限り,所得の格差,雇用問題,党や企業内での汚職蔓延などの市場経済から生じる問題は大きな衝撃となる。それが降りかかってくるのが一般国民であり,彼らを支持基盤とする共産党にとって大きな打撃となるのは必至である。実際,社会福祉制度の整備は遅れているのが現実である。
 かつて中国政府は,その問題を少しでも緩和させようと市場経済化に対応した政治改革を構想しようとした。一時は失敗したものの,江沢民により改革は本格化し,現在まで少しずつ成果がでてきている4)。そのことを考えれば,ベトナムも中国の政策を比較・研究するなど,新たな方針(法治機能の充実など)を打出していく必要はある。
 また独裁は,強い国家,強い指導力への渇望にも支えられる。それは,国際環境が厳しいほど国内の団結が求められ,民主の要求が愛国の叫びに転じやすいからにほかならない。したがって,ベトナムの民主化の進展が「持続可能」であるかどうかは,法治の実現とナショナリズムの度合いにも左右されるであろうが,その意味でも文化政策は,国家の一要素である国民にどう向き合っていくかが今後の焦点となっていくことを考えれば,法治国家体制確立に必要不可欠な政策となってくるといえよう5)。

Ⅲ. 文化政策の概要と問題点

 文化政策の内容について様々な意見を比較しながらまとめていきたいが,時間と関連資料の数量の都合上により,今井昭夫(2002)の論文を参考にみていきたい。

a. ドイモイ以前の文化政策

 共産党の指導による文化政策は,ドイモイ開始前の1943年に制定された「文化大綱(De Cuong ve Van Hoa)」にまで遡る。この大綱が長年,共産党(制定時はインドシナ共産党)の文化政策の基本方針となっていた。同大綱は,全体は5部から構成されており,主に思想・学術・芸術の領域についての基本方針を策定したものであり,内容自体マルクス・レーニン主義の思想が大いに反映されているものとなっていた。作成年代のことを考えると,当時は欧米,日本の帝国主義政策が東南アジア諸地域にも及んできており太平洋戦争の真最中でもあった。その点から考えると,「新民主主義文化」のための革命闘争推進が重要な意味をもってくる。
 45年の八月革命によって,ベトナム民主共和国が建国された後,この「文化大綱」を広めようとしたのだが,当時マルクス主義を理解する人が少なく,あまり広まらなかった。そのドイモイ路線を採択するまでの間に幾度か内容の変更がなされてきたが6),結局,共産党指導の下での社会主義的側面が強調される政策がドイモイ以前の文化政策の特徴であった。

b. ドイモイ開始期の文化政策-第一の変革-

 そして,1986年12月の第6回共産党大会において改革開放政策であるドイモイ政策が採択されたことで,文化政策についても変革されることとなった。しかし,ドイモイ開始期には,文化政策に関しては,「文化、芸術はやむことなく党性と人民性を向上させなければならない」とされ従来の政策と大きな違いは見られなかった。しかしながら,ドイモイ路線をとった理由が,戦時から平時への転換と,さらには社会主義的市場経済への転換ということを考えれば,ドイモイ開始以降の価値観の変化は,必然的にその後の文化政策にも影響を及ぼすことになる。その価値観の変化の影響でドイモイ開始期の文化政策についても問題が指摘されるようになった。それは,第1に共産党の文化指導とその規制緩和の問題であり,第2に経済発展と文化とのかかわりの問題性についてであった。 
 前章でも指摘したように,社会主義体制を取る以上,文化に対する共産党・国家の指導・管理と創作の自由の問題が浮上してくるのは避けられない。以前の政策における硬直性・閉塞状況を刷新し,市場経済下においてでてきた政治的経済的汚職を打破するためにも,文化面での規制緩和が図られるようになってきた。1987年11月28日に,「文学・芸術・文化の指導を新しい歩みに発展させる」政治局5号決議が出されたことに始まり,その後,民主主義的側面の強化と教条的政策の変更が図られるようになり,一時は文学者・科学者の創作の自由が拡大され,政治に対する建設的批判も許容されるようになり,最初の画期的展開となった。この結果,1987年~89年にかけて,「ハノイの春」と呼ばれるほど文芸活動は大きな変革をみた。日常的現実の批判,そして個人の心理や個人の問題も描かれるようになった。文化部門の幹部が刷新の方向を支援・擁護したことにも変革の大きな後押しとなったようである。

c. 第二の変革-経済と文化-

 しかしながら,東欧の民主化運動が活発化し始めると,共産党は再び思想の引き締めに転じるようになり,91年のソ連・東欧社会主義圏崩壊後もさらに強化されるかたちで,党の指導・管理はより細かくなり,表現・情報公開などのメディア部門の自由性は失われ,限定的改革に終わった。
 ところが,90年代に入ると,経済の発展を第一の目的としたドイモイにも新たな問題が表面化してきた。市場経済に基づく社会主義を目指す中で,経済発展と社会進歩のつりあいの関係の問題がユネスコのシンポジウムを通じて浮上してきた。つまり,経済発展を進めれば進めるほど社会的・環境的コストが増大し,現代化と社会進歩の両立が困難になってくる可能性が現実問題として考えられ始めたのである。ベトナム政府は,ユネスコで議論された,文化を経済発展の中に組み入れるという手段で問題解決をはかろうという考え方に大きな影響を受け,第二の改革に乗り出すこととなった。
 そこで,経済発展の原動力としての文化や,経済発展に伴うマイナス面を調節するものとしての文化の役割がクローズアップされるようになった。公式的には,91年国会でのヴォー・ヴァン・キエット首相の演説において,「文化は発展の鍵であり,発展の原動力である」との認識が示され,経済と文化の相互作用性が強調されるようになった。そして,93年(1月14日)の共産党決議以降は,「文化は社会の精神的基礎であり,経済・社会の発展を促進する原動力であるとともに社会主義の目標」という認識が明確化された。その認識の中で,経済と伝統文化との関連で,「儒教文化圏経済発展論」の議論も盛んに行われ,また,経済と文化の調節により,グローバル化に対する民族的・国民的アイデンティティを保持するための「民族文化」防衛を中心課題にすえ,民族文化遺産の保存対策などが活発化されるようになった。

d. 第三の変革-愛国主義-

 そして,この「民族的・国民的アイデンティティ」という言葉が登場してくる中で,さらに国民国家としての文化政策の議論が活発化してくるようになった。近代化・工業化へ向けての精神的価値や人間モデルの育成が重視される一方で,民主的ドイモイ政策の中で新たな「愛国主義(パトリオティズム)」をどのように定着させていくかが大きな問題となったのである。その政策には,「すべてを豊かな民,強い国,公平で文明的な社会のために」という社会主義的スローガンを基に,市場経済化のひずみと貧富の格差拡大,政治的経済的腐敗・汚職の深刻化に伴う人民の反発を克服するために,共産党が社会主義への方向性を堅持し,国民経済の主導的役割を保ち,愛国心を呼び覚ましていく,という党の指導者層の情熱的感情が感じられる。しかし一方で,社会主義的市場経済に内在する矛盾拡大による国民の不満に対する党指導層の危機感もうかがわれる。そして,この問題は現在でも大きな問題となっており,今後の改善に期待がかかる。

e. 問題点

 以上がドイモイ下における文化政策の概要を三つの変革からみてみたが,今井は最後に次のような問題提示をしている。1つ目に,ドイモイ下でのベトナム文化の多様性が拡大され許容される傾向にあり,外部からの宗教の影響を回避するために少数民族の伝統が強調されるなど,「多様性の中の統一」をスローガンに文化の多様性の容認がなされる一方,政治的多元性は認められていないことから,党指導による統一への力が反作用的に働いていることである。「愛国主義」という一種の制約に国民を縛ることで,党の力が揺るぎないものにされていっている。2つ目には,21世紀に入った今日,グローバル化が進展する中で東・東南アジアの地域文化の中でのベトナムが強調されるようになった一方で,共産党によって「国際プロレタリア主義」が強調されるような状況も依然として存在していることである。特に前者の多文化主義に関する問題は,今後の世界情勢と国民国家論に照らし合わせて考えてみると,避けては通れない問題である。そこで次章では,ベトナム特有の社会情勢を考慮に踏まえた上で,国民国家と多文化主義の関係,そしてそれに伴う「愛国主義」について人類学的視点から考えてみたい。

Ⅳ. 国民国家と多文化主義-その問題点と今後の課題-

a. イデオロギー問題

 前章で,ドイモイの文化政策は新たな「愛国主義」というひとつのテーゼに行き着き,それが現在進行形の議論であることをみた。この言葉自体,しばしば個人(国民)と国家の関係において議論されるものであり,自由と平等を謳う近代国家においての一産物というかたちで,過去,本元の欧米,そして明治期の日本において「愛国心」という名のもとで「国民国家」を形成してきた。ましてやかつて「帝国」という政治形態をとっていた国家にとっては,多民族をひとつの枠にはめ込む手段として,国家的イデオロギーを上から築いていったという歴史が存在する。しかし,冷戦が終結し,ソ連をはじめとする社会主義が崩壊した今日,超高度の資本主義が拡大し,世界の一元化が進む中で,かつての国民国家としての境界存在が不明確になろうとしている。そのような中で,90年代からかつての国民国家の存続が叫ばれる一方で,これを契機に新たな「国民国家」の意識(ポスト国民国家論)が芽生え始めた。ベトナム自身も,8000万人近くの人口の中に,約60もの民族を抱えている多民族国家であり,これからの国際社会と国内政治を両立させていく上で以上の問題は大きな壁となっていくことだろう。
 しかし,ベトナムには,ドイモイ以前から続いているベトナム民族解放運動からドイモイ政策における現在までに,歴史的遺産としての国民国家のイデオロギーが築き上げられ内在しているはずである。ここでイデオロギーについて少し考えてみたいのだが,そもそもイデオロギーとは「社会基盤(経済的状況)に決定された社会認識の枠組みや制度」を指す言葉とされてきたが,果たして全てがそうであるのか。従来のマルクス主義の経済決定論的な限界性は,人類学や社会学でも大きな取り上げられており再検討がなさせてきているが,その「マルクス」の読み直しはこのイデオロギーを考える上で重要な視点である。「イデオロギー装置論」7)にあるように,社会基盤がイデオロギーを生み出すだけでなく,逆にイデオロギーが経済基盤や社会構造を決定していくという重層的決定は現実的に考えられることである。ベトナムにおいて,これまでに築き上げられてきたイデオロギー,つまりここで言うのは,政府の政策として創られたイデオロギーではなく,国民の生活基盤において形成されてきたイデオロギーのことであり,それが少しずつながらベトナムの社会に影響を与えていく可能性は,外部からの影響(グローバリゼーションなど)のもと今後強まっていくと考えられる。政府自身は,前章でも述べたように,その国民の意識がどの方向へ向かうか(民主主義に走ることなど)に危機感を感じているのである。
 国家の政治体制を「支配者-被支配者」という構造で考えるならば,その両者の釣り合いが国家の存続,または共産党の支配正当性ということに少なからず影響してくるはずである。そのためにも政府は,このドイモイ政策を中途半端な形で進めていくわけにはいかない。

b. 国民国家とグローバリゼーション

 先にグローバリゼーションという外部からの影響について触れたが,仮にこのグローバリゼーションが(西洋的)文明に変わるものではなく,文明化の最終段階として出現したものなら,ベトナムなどの旧植民地国家にとって第二の植民地主義,つまりポストコロニアル時代の新植民地主義ともいえる。グローバリゼーションという西洋資本主義の仕組みが一種のイデオロギーという形で蔓延している。
その意味ではアントニオ・ネグリのいう「帝国」8)の領域に入ってしまっているのである。そのような状況下において,少なからずの対抗は存在するが,このグローバリゼーション自体,コンピュータウイルスのように目に見えない蔓延性をもつものであるため,かつての解放戦争のように実践行動をするわけにはいかず,どう肯定しようと否定しようと,すでに浸透が拡大してきている。その意味では,その社会の中で,問われる文化やアイデンティティの意味も変化せざるをえない。
 多様性の中での民族的統一を目指すという国民国家のイデオロギー形成の中で,社会と生活の流動性とそれに伴うアイデンティティの重層化は必然的に生じるものである。世界システムの中で国家システムの一環として形成される国民国家は,国境によって国を閉ざす一方で,世界との交流を余儀なくされている。国民性や国民文化論によって代表される国民統合のイデオロギーは,そうした地域や国民の多様性の実態を覆い隠す役割を果たしているといえる。よって,グローバル化を押し進めているのは,資本主義だけではなく国民国家のシステム自体がからんでいるのである。
 
c. 国民国家と多文化主義

 国民国家の形成自体がグローバル化の国内浸透は避けられないとするならば,多文化主義の問題をどう捉えていくべきなのだろうか。
 多文化主義は,ひとつの理念であると同時に歴史的事実である。多文化主義の語は一般に,ある単一の社会や集団の中に複数の文化が共存している状態を示すとともに,そのような多文化共存の状態を望ましいと考え,積極的に共存の推進を図ろうとする,政策や思想的立場をさすものとされている。当初は,文化的多元主義(cultural pluralism)という語が用いられており,この語は主としてヨーロッパ系の移民間の平等や文化的多様性の主張であったが,後に先住民や黒人や非ヨーロッパ系の住民,あるいは性差別やあらゆる身体的社会的差別に苦しむ人々の権利擁護や文化的多様性の主張までを意味する語として多文化主義(multiculturalism)という語が用いられるようになった。カナダ(71年)やオーストラリア(73年)では国是として多文化主義政策が採用された。
 多文化主義は,一言語‐一文化‐一民族(国民)といった古典的な国民統合の理念に対立する構造である。ではなぜカナダやオーストリアは国民国家の概念と対立する多文化主義を採用したのだろうか。実際,両国では多文化主義をめぐって矛盾と混乱をもたらされ,国家の秩序を乱し破壊する国民統合の撹乱者として,保守主義者などから非難の声があがった。多文化主義は国家の解体と国家の時代の終焉を予告するものであるとして,『文明の衝突』を著したサミュエル・ハンチントンはその例として挙げられるだろう。確かに,上記の古典的な国民統合の理念から考えてみると,多文化主義は秩序を乱す存在となるだろう。しかし逆に,多文化主義側から考えてみるとどうだろうか。多文化主義は,古典的な原理ではもはや維持不可能で,機能不全に陥った国民国家を再生させるために創出された,国民統合の新しい形態であるという考え方をするならば,国民国家理念が問題視されることになる。いずれの側に立っても,多文化主義が国民国家の危機を示していることには変わりはない。
 国民統合はこれまで,人種的,民族的,文化的,言語的,宗教的,階級的,社会的,性的など,あらゆる差異が利用されて行われてきた。国民国家のこのような差別的抑圧的構造が現に機能しているからこそ,多文化主義は人種的・民族的な問題を越えて,性差や階級,同性愛者や障害者,マイノリティーの問題などのあらゆる差別の問題に広がっていったのである。しかし国民統合に排除の構造があることで,多文化主義が出てきたとすれば,多文化主義に将来の望みが十分あると考えるのは少し楽観的だろう。カナダやEUのような超国家において,多文化主義は,世界経済のために,国家的文化政策に取って代わるものとされるかもしれない。多文化主義政策をグローバリゼーションの一環として,つまりすべてを規範から逸脱したものとして,差異を必然的に均質化する効果を利用して,グローバリゼーションの文化政策が多文化主義となることは十分にありうるからである。
 しかし,このことをベトナムにそのまま当てはめることはどういうことを意味するのだろうか。共産党一党体制により社会主義と市場経済という大きな対立構造を両立させている限りでは,上記の意味での多文化主義を持ち込むことは不可能である。そのことは資本主義経済の方向へ進むことになるからである。では,文化の多様性を認めていく中でベトナムという国家を発展させていくには,どういう方針を取るべきだろうか。共産党がさらなる政治的多元性を進めていけばよいのであるが,それでは党の存続が危ぶまれるため簡単には進めるわけにはいかないだろう。では逆に多文化主義についての発想を変えてみるとどうなるだろうか。国民国家の論理を逆転し,国民の多様性が国民のアイデンティティを保証し,国家の統一と「安定感」をもたらすという,新しい時代の到来を予想させる論理も考えられるが,難しいところである。


※一度に掲載できる文字数の関係上、「まとめ」以降は、註、参考文献とともにコメント欄を見ていただきたい。

「アフリカ文学から考える人類学的諸問題―白人・黒人文学とその解釈,そして対話―」

2005-10-31 00:59:29 | D的思想
 以下の評論は、わたしが大学3年のころだったかにある授業の中間レポートで書いたものである。時間も限られていたため今から思えば稚拙な文章であるがそのまま載せておきたい。

 「アフリカ文学」,「アフリカ芸術」とは一体どういうものだろうか。このことを説明せよと言われても特徴や歴史などの点から上手く説明するのは難しい。何か概念的なものが存在しないからだ。それはアフリカ独特の地理的,民族的,歴史的状況の存在のため「日本文学」,「イギリス文学」,「アメリカ文学」などのようにある一般的概念に基づいて枠を築くことは不可能だからである。この状況のことを考える前に,私自身,記憶の限りではアフリカ人の書いた文学作品をほとんど読んだことがない。昨年ノーベル文学賞を受賞したクッツェーの作品くらいだろう。実際このクッツェー自身,南アフリカ出身の白人作家ではあるが,主な活動は旧宗主国のイギリスでありブッカー賞というイギリス最高の文学賞を二度受賞している大作家である。このことから考えると,その複雑的状況によって何が「アフリカの」文学なのかが我々につかめなくさせていることがわかる。
 そしてもう少し幅広く考えてみると,我々はアフリカを知らない,という単刀直入的な結論に達する。このことは決して大げさなことではない。文学に関してみても,彼らは(アフリカ出身の作家)は何のために本を書くのか,旧宗主国に対する旧植民地国家の一国民による訴え(抵抗)なのか(もしくはなのだ),などという考え方が何らかのメディアを通じて一般論的考えになってしまっている。確かに,彼らにこの気持ちがなければあのような作品は生まれてこないだろう。しかし,いつの間にか我々のその「感情」が強調され,何か言葉だけが宙に浮いたような状態(ドメイン拡張)となってしまい,その対象が見えなくなってしまっている。つまり,アフリカイコール元西欧諸国の植民地であり,それによって彼らの伝統的文化・価値観が変えられてしまい,また人種隔離政策という悲惨な過去を持つ地域という単純な図式と結び付けてしまいかねないのである。
 このことは一般認識の領域だけでなく学問領域の中でも存在している。アフリカ人作家の作品を評価する学者(人類学者だけでなく)やジャーナリストたちの著書の前書きやあとがきを見てみると,「彼らの作品」を媒介にして自分たち自身(我々日本人)の内面的精神,民族的伝統的歴史観を原点に戻って回顧する必要性を説いた内容のものが多く目に付く(もちろん文学に関するものだけではない。また私が読んだものの内容にもよるが,古い著作ほどそのような傾向は強く感じられた)。文化の多様性というものを意識しすぎてしまって何か自分達の見失ってしまったものを再考しようと主張しているようで極端な言い方をすれば自虐的な感情に陥ってしまっている。つまり学者特有の反省的に自文化中心主義を排除しその代わりに極度の文化相対主義に取りつかれて(超越的視点にとらわれすぎて)しまい,研究者本人が無意識的にその主義に埋没してしまって(自分という主体を忘れてしまって)いるのである。そしてその多くは上記のように「その必要性があるのではないだろうか」というような結びで終わってしまっている。
 このように見てくると,アフリカというのは我々日本人(日本人に限ったことではないが)には全くと言っていいほど遠くて遠い地域なのである。換言すれば表面的な関心(つまり,このグローバル化の中での国際交流,異文化理解という名の下での関心)はあっても結局のところ無関心なのである。現にあれほど国際的異文化交流の環境を整えた大学と謳っている当大学でも図書館の配架区域に「アフリカ」コーナーはない(私が幾つか見つけた本は文学コーナーにあり,当然「アフリカ文学」というコーナーではなく「フランス文学」などにあった。そして文学以外の著書は名古屋図書館にはほとんど見当たらなかった。人類学コーナーと人種コーナーぐらいか)。しかし,このことを踏まえた上で我々は今日のグローバリゼーションの拡大という現実の中,次のステップへ進んでいかなければならないことは確かなのである。

 さて最初に述べたアフリカ文学に話を戻そう。先に私は,アフリカ文学の実体を一般化することは難しいと述べたが,我々はその理由について解釈の問題を中心に考え,そしてさらに人類学的思考の諸問題と有用性について考えなければならない。
 まず,アフリカについて我々がイメージするものにはどんなものがあるだろうか。人種差別,女性差別,飢餓,難民,民族的アイデンティティなど最近の国内外で問題にされるようなカテゴリーが並ぶのではないだろうか。これらの問題は政治的経済的な側面にとどまることなく文学というひとつの文化的カテゴリーの中にも内在している。その文学の中でもこのことが特に強調されるべきなのが「アフリカ文学」と言っても過言ではないだろう。それは,一般に黒人文学とされるもの,白人文学とされるものなど1)の中にも「解釈」という問題において内在していることはこれまでの人類学的研究によっても議論されてきている。ここでなぜ白人文学(しかもルビまで付いている)にも差別,アイデンティティの問題が関わってくるのかと疑問に思うかもしれない。しかし,ここで言う白人とはアフリカ生まれの白人作家のことを意味し,彼らの中にはアフリカ以外で活動している者もいる。そのような状況の中で文学的解釈(書物を本として一般人を媒介にして捉える解釈,書評,解説),人類学的解釈(書物をテキストとして捉える解釈)を通じて白人作家自身にある種の心的葛藤が生じているのである(もちろん彼らだけがこのことで悩まされているのでもない。むしろここで言う葛藤とはこの解釈が存在する社会に対して疑問視していると言ってよいだろう)。
 その白人文学について考えるということは,これまで常に対になってきた黒人文学(の解釈とカテゴリー生成過程)についても触れなければならないだろう。黒人文学,この言葉が作られたところというのはどこだろうか。アフリカではない。黒人文学についての書物を見ると,その対象は「アメリカにおける黒人文学」ということになっている。黒人の集中地域のアフリカでこの言葉が生じたのではなく彼らの移住地域でこの言葉が生じたことはある種の歴史的皮肉さと奇妙さが見られる。しかし,この「黒人文学」,「アメリカ黒人文学」というような呼び方の奇妙さ,つまりなぜ「日本人文学」とは言わずに「黒人文学」などと言うのかは,それ自体が単なる奇妙さにとどまらない重要な意味をもっている。この奇妙さを考えることはこの「黒人文学」,そしてそれと対になる「白人文学」という言葉が生じた歴史的(人類学的)背景とそれらの特性を解釈するための要件である。
 我々が自国の作家の作品を読む場合,例え文学作品というものについての理解が苦手であったとしても,主に自分自身の鑑賞力によって読み,研究家や作家の解説は必要としない(もしくは少ないか読書後に読むぐらい)。しかし外国文学の作品を読むとき,我々は異文化の知識,歴史的背景などの予備知識を少しでも吸収しようとするため解説を読み込んでしまい,時には作品自体よりも解説の方を鑑賞してしまいかねない。つまり,解説(解釈と言い換えてもよいだろう)の我々読者に及ぼす影響力の比率は自国文学作品よりも大きくなる。ましてやアメリカで生まれた黒人文学に対する我々の受け取り方は,歪められた文学をさらに歪めた文学というかたちで概念づけられ,解説の影響力の度合いは増してしまう。黒人文学の場合,アメリカの黒人をめぐる生事実が直接解説になっていく傾向があるため,我々読者はこれらの真実に関心が惹かれすぎて,事実の度合いをそのまま黒人の生み出す文学作品の文学上の価値の重みに直結させる恐れも生じてしまうのである。
 前者は自らの鑑賞が解説に優先しているのに対して,後者は予備知識を前提とした上での鑑賞ということになる。後者について言い換えれば,先入観でもって物事を見てしまうことと同じことなのである。黒人文学はアメリカという国の環境の生み出したもの,数的にも十倍の人口を擁している白人が絶対的な支配権を握っている社会の,不可避的なひずみが生み出した文学と言えよう。白人批評家による「黒人文学」批評,黒人文学の民族的伝統的特質を,アフリカの黒人民族の古くからの文化伝統にまで遡って把握するだけの学識,方法が解釈者の中に完全に欠けていたのである。しかし文化相対主義の影響をも受けて黒人文学における解釈の多様性が認識されるようになってきた。”Black is beautiful”のそれまであった美意識(特殊性)が新たな解釈をもとに再美意識化され始めたのである。この風潮自体,国際化が広がる中で異文化コミュニケーションとしての媒介的な役割として大きな成果をもたらしたことは否めない。しかし逆に言えば,この相対主義自体,他(異文化)に対する視点を強調する一方で自分に対する眼差しと良い意味にせよ悪い意味にせよこれまでに起こった歴史的な事実をなかった,もしくはその事実を認識してはいるが考慮に入れないこととして捉えてしまうようになった。理屈としては認識しているのだが,実際考える際になると無意識に互いの汚点を消去して捉えてしまうのである。このある意味で自虐的で逆差別的思考観念により複雑な立場にいる者達への認識(解釈)の歪みが表面化されることになった2)。
 その点で考えなければならないことのひとつに「アフリカ出身の白人による文学(白人文学)」があるのである。その白人文学に対して無関心なのは「アフリカ文学」を研究している人の中にも見られるそうである3)。白人側の「情報」や意識などを無視することで,アフリカ人の側の主張と自らを一体化しようとして,その視点からアフリカの文学を「研究」の対象として,一般的アフリカ文学もしくはアフリカ各国の文学を紹介するということになれば再び大きな歪みが生じることは否めないだろう。アフリカは黒人中心の集まりの地域なのだろうか。現実を見てみると過去の西欧諸国の植民地政策の歴史の跡は今でも色濃く残っている。白人も住んでいる。しかし幾ら過去の植民地政策を非難することはあってもその歴史を忘却することはできない。むしろその事実をこれからも意識していかねばならない。私が最初に挙げた南アフリカ出身の白人作家クッツェーもその白人文学に属する作家のひとりである。
 クッツェーは1940年南アフリカのケープタウン生まれた。コンピュータ・プログラムや言語学を南アフリカとアメリカで学び,1974年,『ダスクランド』で長篇デビューし,「In the Heart of the Country」(1977)と「Waiting for the Barbarians」(1980)で,南アフリカで最も権威あるCNA賞を受賞。1983年に発表した『マイケル・K』では,英国のブッカー賞,フランスのフェミナ賞を受賞するなど世界中で高く評価される。そして1999年発表の『恥辱』で,史上初の二度目のブッカー賞を受賞し,2003年にはノーベル文学賞も受賞する大作家である。私は,先述の通りアフリカ文学ではクッツェーの作品『恥辱』しか読んだことがなかったが,この作品を読んだことは学術論文を読むこと以上に価値があった。
この話は,人生ロードから転落し,自分の人生を見つめ直そうとするある男の人生を描いている。アパルトヘイト廃止後の南アフリカ,中年の大学教授デヴィッド・ラウリーは,二度の離婚を経験し,以来,欲望に関してはうまく処理してきたつもりだった。しかしある時,20歳の教え子に惹かれてしまい,歳の差や社会的な立場もわきまえずに関係をもった時から事態は変貌してしまう。やっと幸せな日々を送ることができると思いきや,その学生から告発されて辞任に追い込まれてしまうことになる。仕事も友人も失い絶望のどん底に陥ったデヴィッドは,自分の娘が切り盛りする片田舎の自作農園へ転がり込む。誰からも見捨てられた彼を受け入れてくれる娘の温かさ,自立した生き方に触れることで恥辱を忘れ,粉砕されたプライドを繕おうとする。しかし,ようやく取り戻したかに見えた平穏な日々を突き崩すような事件(娘のレイプ事件)が起こってしまう。その事件をきっかけに父娘の関係と自分の周りの知人関係が崩れていくことになる。クッツェーが描くのは,新しい価値観と古い価値観,力が混在する社会に暮らす人々の不安や弱さであり,不条理な展開を軸に,若さと老い,欲望と道徳のはざまで揺れる人間そのものである。妻と家族を失った中年男性が,性欲という泥沼の中で哀しいくらいもがいてみせる。職も名誉も失いながら、それでも性欲に振り回されてしまう情けなさは一部の人間だけにかかわることでなくこの矛盾した世界で生きていく我々すべての人間の醜態を突いている。主人公の男性の内面を自分自身の心に自己投影しながら読み進めていくと,人間誰しもが持っている心の醜さの構造自体が否応なく明るみにされることで何か今まで自分が信じてきたものに対する疑いのようなものが湧き出してくるのである。
繰り返しとなるが,クッツェー自身は南アフリカ生まれの白人である。南アフリカの歴史を見ればわかるのだが,帝国主義の影響を受けアパルトヘイトと呼ばれる人種隔離政策を経験してきた同国では白人的価値観と黒人的価値観,そして白人黒人共存の価値観などがせめぎあい,現在でもその重層的な価値観との葛藤は人々の内に根付いている。クッツェーは白人であるがゆえ,白人黒人両者の価値観の混在に困惑しながら自分の居場所や南アフリカの人々の生き方というものを英語もしくはアフリカーンス語4)を用いることによってアフリカだけの問題に留まらず他の人種,民族にも訴えかけているのである。そういう状況を考慮せずに解釈を進めている一部の知識人や一般人(それが白人側にせよ黒人側にせよ)によって彼らの葛藤がさらにファジーなものに変えられてしまう。
パッシングという言葉をご存知だろうか。ある人種の人が別の人種として適用することをさす用語である。例えば,アメリカでは法律上「白人」以外の血が混ざっていると「白人」ではなかった。そこで,「白人」意識を持っていたのに突然「黒人」に分類されたり,心理的抑圧を感じながら「白人」として通用したりと,様々な問題が生じたのである5)。このことが人種差別や迫害として非難されてきたが,最近ではこの複雑な立場を逆手に取ることで,新しい自らのアイデンティティを求める議論が広がってきた。このことは,他から押し付けられたアイデンティティと自分の意識とのずれ,戦略的に他のアイデンティティ表象を利用する意味を問うものであり,法律的に平等が成立した後で起きる新たな差別を考える際の大きな示唆となるはずである。クッツェーは,小説という活字体を用いることで,しかも英語を主体とすることでこの問題を問いかけてきたことになる6)。
我々(文字文化をもつ人達)は自分の思考を活字化することで他人から認められようとしてきた。アフリカに関して言えば,もともと活字文化の薄いアフリカにこれまでの西洋諸国との関係から活字文化が移入された。そのことがアフリカの伝統的価値観を変えたことは否めない。しかし,平等ということが叫ばれる一方で,自分たちが経験した悲惨な過去を忘れようとするあまり今度は自分たち自身のことを見失ってしまう。それは二人称の関係だけの問題ではなく,それを読み取る(傍観する)第三者の立場の問題でもある。人間は,クッツェーが訴えるように,決して良い面ばかりを認識するわけではない。よって学問も自分の研究の充実(完結性)だけを目指しているのではあまりにも情けない。その歪みや矛盾を我々はどう捉えなければならないのか。解釈をめぐる問題として,我々はどう相手と向き合っていかねばならないのだろうか。そのことが,国家レベルにせよ個人レベルにせよ,これから我々に課せられた試練のように思えてならない。

 本論では「我々はアフリカについて何も知らない」ということを,批判を承知で強調して訴えてきた。このことは専門家達に対する強烈な暴言と聞こえてしまうかもしれない。しかし,私はここである一部の人達だけに対して非難をするために「…ではないだろうか」という弱い表現を用いなかったのではない。このようなことを学問という学術領域の面だけを考えても実際問題意味はないことは明白だからである。つまりもっと広い視野で現在我々が住む同時代性(現実)の,そして将来性の問題として総合的に向き合っていかなければならないのである。まもなく2004年が終わるという現在,グローバル化が世界各地に確実に浸透していく中で論文や書物だけの机上の議論だけをしても意味がない。もちろん学術的議論の活性化は一般レベルへの普及につながるため大いに結構なことであるが,仮にその議論自体が空回りをしたときはどうなるだろうか。まさしく一部の知識人だけの領域となってしまっており,またこれは学問をする目的を見失ってしまっていることにもなる。
一般人がある学術的(この言葉には政治的そしてジャーナリズム的な意味も含まれている。つまり知識人が行う議論の内容)な思想の影響を,メディアを媒介して受けることでそれは彼らの思考の一部となる。そして一般大衆の思考の影響を受けて知識人達はそれに対する社会の仕組みを研究する。つまり知識人(理論)と一般大衆(日常生活における一般的思考)の間の思考的流路の循環が存在していることになる(アルチュセールの「イデオロギー装置論」7))。よって全体的で内外向的でかつ重層的な議論の場を創出させるためには,専門家と一般人(国際的な繋がりも含めて)との知識の共有を進めることで学術研究の意義を確認していかなければならない。
 最近では「対話」の問題が重要視されるようになってきている。このことは人類学的な議論となっているだけでなく,政治的外交問題としてまで大きく評価され議論の的となっている。しかし上記の循環のことに当てはめて考えてみると,一般大衆のことを決して無視するわけにはいかないことがわかる。その点を学術的にも一般論的にも深く追求していかなければならないだろう。
 私自身の立場から言うと,私自身学生という立場に位置し,言わば知識人と一般人の中間的位置に存在している。その中間的立場に位置するため悲観的に見てしまえば中途半端(私自身アフリカについて議論しているにも係わらずアフリカへ行ったことがなく関係書物もろくに読んだことがないという場違いなところにいる)であり,逆に前向きに見てみるとある意味で流動性を兼ね備えた両者の仲介役的立場にある8)。前者の立場から考えてみると,学問的理論(理屈)ばかりに縛られてしまい,人類学もしくは学問をすることは一体何のためにあるのだろうか,と自問してしまい混乱してしまいがちである。しかし後者から考えると,学術的思考や立場をある程度把握しており,かつ一般人の感情も見抜きやすいため新たな疑問が生まれ次のステップに進みやすい。このことは後者のみならず前者の立場も少なからず考慮してみると,現実に即して物事を考えることができ,また学問をする原点を振り返ることができるのである。つまり臨機応変に行動できるのに最も近い存在とも言えるかもしれない。
今回,私はこのような対場からアフリカ文学を例にとって考察してきた。つまりこの議論というのは決してアフリカだけの議論に関係ないことは明白である。しかし最後にアフリカについての議論に振り返ってみるとあるひとつの疑問が湧いてくる。何故かつての帝国主義者や人類学者達はアフリカという地域に調査を求めたのか。そして彼らは何を思いアフリカを見つめたのか。また,我々は知らない地域にアフリカを連想してしまうのは何故だろうか。このことを政治的,経済的側面ではないところから考えると,ある意味で彼らも何も知らなかったからだということに気づくだろう。その意味でアフリカを学ぶもしくはアフリカと対話し臨機応変に対応することは,我々に初心(原点)に戻る視線を与え異文化に対する関心を再び呼び起こしてくれることになるのだろう。
しかし私は思う。このようなことを考えている時点で私自身が何も知らないのだ。知ることができるのは,時は刻々と過ぎているということである

 【補足・感想】

 本論は抽象的であったので,もう少し具体的に考えてみたい。
 近年,各地の大学で学部学科の新設が相次いでいるが,それらの名前を見てみると「国際」,「(異)文化」,「人間」などという言葉が良く使われていることがある。一種の流行ではないかと感じてしまうのだが,この状況というのはどういうことから起こるのだろうか。確かに現実的に社会的に国際化を考えてみると当然の現われかもしれない。これはある意味で本質主義的立場に立つ考え方である。しかし,社会構築主義的立場に立って考えてみると,社会が思想を生み出し,メディアを媒介してカノン(正典)化されることになる。このカノン化の問題は人々を盲目にさせてしまうことにある。メディアの影響は非常に大きいのである(そのためメディアリテラシーの議論が盛んなのはそのためでもある)。しかし我々は常に目を見開いていなければならないことは本論でも述べた。
 専門家(研究者)は,物事を完璧に読み取らなくてはならないと無意識のうちに認めてしまう。それはある意味で科学性を強調している。反対に一般人は,自らの思考に外部からの理論を組み合わせて考えを深めようとする。両者の特徴を併せて考えてみると,相手の堅固とした部分のみ示し,歪んだものは見せず,また考えようとはしない。つまり,我々は自分自身の正しいと思う事柄について疑うことしないのである。学問的(教育)レベルではその見直しのための議論が盛んになってきているが,それをもう少し一般化できないものだろうか。
 我々は常に矛盾した世界でこれまで他人という異文化を持つ人達と上手く付き合いながら生活してきた。他人と付き合うのは非常に難しい。時には進み,また時には止まらなくてはならない。近所と付き合うことがどれだけ難しいか思い浮かべてみると分かり易いだろう。国際化が広がる中,我々の他人という概念が距離的にも意味的にも拡大することでさらなる課題を乗り越えていかねばならない。
 今回は,自分の主観を強調しすぎたため何か意見文のようになってしまったことは否めない。もう少し南アフリカの文学の具体性,そして日本との文学での交流の現状などを盛り込みながら幅広く検討していきたかった。また解釈人類学や「厚い記述」など学術的議論にも踏み込めると良かった。しかし,今回私が主張してきたことは自分自身への言い聞かせと捉えれば決して無駄ではなかっただろう。

※註と参考文献はコメントを参照されたい。

どちらがいいのだろうか(which is better?)

2005-10-30 22:37:31 | D的つれづれ
 いきなりちょっと下品なことを言うかもしれない。
 もし、ペットボトルに入った「水道水」(それなりに飲めると判断していただきたい。東京の水道水でもいいかもしれない。)と、トイレの手洗いの蛇口から出る最高級の天然水、あなたならどちらを選ぶだろうか。そのふたつしかないという条件であると想定していただきたい。
 なやむ選択である。

~とは何か(what is ...?)

2005-10-29 21:18:38 | D的思想
 わたしたちは入門書か何かの本を読むとき、「○○とは何か」もしくはズバリ「○○概説」という本を参考にすることが多い。手っ取り早く概要を知るためにはそういったものを読んでみることが一番の方法かもしれない。
 ただそれをいつまでもバイブルのように手に握り締めていては意味が無い。それは辞書ではないからだ。あくまでもある人が編集した一手段をまとめたものである。もちろん優良な入門書があることは否めないし、著者がはじめから入門書として書いたものではなくあとから入門書として認定されてしまっているものもあるため、その判断はわたしたち利用者に委ねられる。理解しておくべきことは、入門書に書かれていることもあくまでもたくさんの流れがあるうちのひとつにしかすぎないということである。そのことをわきまえていないと、つまりその内容に対する判断力がないとそれしかできなくなり入門書としての価値はさがってしまう。あくまでも入門書は、表紙に入門書と書かれているものであればなおさらだが、入門書なのである。

歴史の見方(how to see history)

2005-10-27 02:08:12 | D的つれづれ
 われわれが学校の授業で習う歴史の授業は基本的に古い時代から新しい時代というかたちで習っていく。教科書もそういう流れで書いてあるからそれはしょうがない。一般概説書にしてもそれは同じで編年体的に記述されている。
 記述に関してはここでは別においておいて、問題は学ぶ側にとってみれば古いほうから新しいほうへと習うことが唯一の相応しい学習方法といえるかどうかだ。わたしは受験勉強のとき、はじめはなんのきっかけでこうなったのかはよく覚えていないのだが、後ろから教科書を追って復習していたことがある。もちろんその流ればかりをやるのではなく、古から新、新から古という両方の流れを交互に進めていった。そうしたところ、新しい時代から古い時代へ遡るというかたちでやることによって新しい視点が開け、つまり普段われわれは古いほうから新しいほうにしか進めないような感覚が身体化されてしまっているからかもしれないが、自分で問いを設定しながら(この場合、試験に出てくる設問を考えるということだが)歴史の流れを部門的にもカバーできるようになっていた。
 今に至ってはそんな受験用の歴史は第一に重視することではなくなっているが、いろんな歴史学の本を読んでいるとき、受験のときのその考え方(方法)は今でも役に立っているように思える。何かが起こったから次に何が起こったではなく、何かが起こった背景には何があったか、という問いを自らの内に自然と発することができるようになったことで社会的背景の複雑かつ重層的であることがわかり、自分の頭のなかでその複数の背景を批判検討する分析思考を身につけていたのではないかと今になって感じることである。
 もちろんそうしたわたしの方法が正しいとは限ったことではないが、あのときの経験は今の自分の思考回路のなかにしっかりと身についている。

サブカルを研究?(about studying of sub-culture)

2005-10-23 19:40:38 | D的つれづれ
 サブカル関連本はたくさん書店に並んでいる。サブカル研究も盛んになってきている。ただサブカルを研究するのはいいのだが、何のためにサブカルを研究するのかを認識していない人がいるという危ない領域でもある。
 サブカルチャーという言葉にサブがあること自体、一般的なカルチャー、いわゆるハイカルチャーと差異化されていることを意味する。サブカルの呼称の歴史的背景を見ればわかることだが、下級階級のたしなみ、文化というかたちで二項化されている。つまり、サブカルをやるにもハイカルを見なければならないし、逆にハイカルをやるにもサブカルを見なければならない。
 要するにサブカルをやるにしても自分の研究することに責任をもたなくてはならないのである。サブカル研究を特別扱いにして(括弧でくくって)向き合うことはできないのである。

今日の一言(what i am thinking now)

2005-10-20 22:34:18 | D的つれづれ
 待ち続けて、待ち続けて、それを最後までやった者だけが何か幸というひとときを味わうことができる。

自己を知るためには(how to know about myself)

2005-10-19 23:17:16 | D的思想
 自分のことは自分が一番よく知っている、ということは自明のこととしてよく言われることかもしれない。体調の良し悪しについては、他人は顔色などからは多少判断は出来ても、それがどれだけなのかという具体性についてはわからない。そういう点に関しては間違っていはいない。
 しかし、このことことはある意味間違っている。というのは、自己を確立するのは他者を認識してからということは自我論などの領域では言われていることであるが、そのことを踏まえて考えてみると、時に自分よりも他人のほうが自分に対してより客観的に見ることができ自分では認識することができない視点から覗くことができるからである(今日の社会ではリースマンの言うような「他者志向型」人間の社会であることからもある意味ことのことが強調されることであるかもしれない)。よって自分が自分のことを一番よく知っているというのはある意味で正しいとはいえない。人はときに自分の気づいてほしいところを見てくれることもあるし、また時に自分以上にそれを深く考えられる人もいる。そんな人はめったに自分のまわりに現れるものではないが出会っただけでそれは幸せに思わなくてはならないだろう。
 では少し学問的に考えたとき、このことはどう解釈できるだろうか。というのは、われわれはある対象を、ここでは〈他者〉とくくってしまうが、それをいかに語るかということが人文科学における課題である。そんななかで、自文化についてを対象にしたときに、それを研究していくためには自文化に住む人による自文化についての論文だけを参考にしていていいのだろうかということである。自分が他者をいかに語るかということは常に認識していても、逆に他者が自分をどんなふうに語っているのか、他者が自分を語っているという事実をも認識しなくてはならないだろう。そのことを踏まえると、自文化についての考察の一助になることだろう。
 ただ、他文化を対象としている人にとって今度は逆に発想を転換させなければならないかというと簡単に転換することはできず、これまた難しいものなのである。

弱さと強さ(weak and strong)

2005-10-18 11:19:34 | D的つれづれ
 人は誰しもが弱さをもっている。しかし、人によってその自分の弱さをそとにわざと出してしまう人とそうでない人もいることも確かである。
 弱さをそとに出してしまう人とそうでない人、つまりあえて自分の弱さを隠して見せないようにする人、彼らの考えは人さまざまであろう。けっして自分を弱いと思ってほしくないし、何が何でも自分の欠点と感じているところを見せたくないという気持ちもあるかもしれない。逆に、見せてしまう人は、自分の弱さに気づいてくれてそれをかばってくれそうな人を意識的か無意識的かは問わないが探しているのかもしれないし、性格として何も考えずに弱さとして他人に映ってしまうのかもしれない。
 ここからは自論になるのだが、男に関してはむしろ自分の弱さは見せてはいけない。もちろんその弱さを知っている人気づいている人はいるかもしれないが、公けの舞台ではそれを人目にさらすことはしないようにすることが何かポリシーであるようにわたしは思う。弱さを隠すこと自体、それは弱さとはならずむしろ強さとなって現れるものだからである。ただ私的なところではそれをはきださないとやっていけないのであるが。そんな空間をつくりだすこともひとつの強さかもしれない。

あると邪魔なもの

2005-10-17 14:43:01 | D的つれづれ
 国家試験の監督官のバイトをした。主任監督官と監督補助のふたりでペアを組んで一教室の監督をする。自分の仕事をうまく機能させるにはふたりの要するに意気投合が多少とも必要になってくる。はっきり言って、2時間以上もほとんど何もすることがない退屈な仕事なので意気投合というようなかっこいい表現があうのかどうかわからない。ただそんなたいしたことをしないはずなのにそれでも上手くことは進まないのはいらいらしてしょうがない。
 時々教室内を受験生のカンニングはないかなどのチェックをするためにぐるぐる見て廻るのだが、わたしとペアを組んだ奴(はっきりそう言わせてもらう)はわたしが指示しないかぎり自分から動こうとはしない。受験票や解答用紙回収の際も、受験番号、住所などの書き忘れなどがないかチェックするのは当然なのにそれもしないで持ってくるという始末。結局最後の解答用紙回収のさいに点検せずにもってきたためひとりの受験生をおじゃんにしてしまった(とはいうものの、その受験生も何回もこちらが注意しているのにそれを怠ったのは自業自得である)。
 また今回は初めての経験があったのだが、ある受験生が気持ち悪さに倒れた。わたしが駆けつけたとき彼は前の席でぼーっと突っ立ったままでこちらのほうを見ていた。わたしは彼にすぐ事務局のほうに知らせるように言ったのだが、それは彼の行動の鈍感さに嫌気がさしていたためでもあり口調が強まってしまった。彼は、若し大切な人がぶっ倒れたらそのときどうしているのだろうか。余計な心配をしてしまう。とはいうものの、何とかその受験生も元気を取り戻せたのでよかったのだが。
 はっきり言って、今回の仕事は自分でやったほうがまだ効率よかったのかもしれない。時として少人数でやったほうが効率が上がるときがある。自分と合わないような人とペアを組んだときが最悪なときだ。集団で行動するとき、チーム編成を間違えると最悪になったという経験は多くの人がもっているかもしれない。またその集団におけるリーダーは複数のときもあるかもしれないが、そんなたくさんはいらない。寡頭制の原理というのが、ひとりリーダーをあてて側にひとりの有能なサブをおいておく。あとは縦と横のつながりの編成を構成していけばいいだけだ(世の中そんな簡単にはいかないことは承知であるが)。ただ無理に合わないような人を側においておく必要はない。むしろ何も毒気にもならない人のほうがましなのだ。ときにそのような人間をもみ手にすり手の人間と呼ぶことがある。

逃れ得ないこと(what we cant escape from)

2005-10-15 11:38:34 | D的つれづれ
 人のまわりには逃れ得ないことはあるだろう。ただなかには「逃げるが勝ち」ということも言われるように「逃げるも勝ち」という楽する方向へ向かおうとすることも可能である。
 物事に対して可能な限り楽な方法でベストな形に済ませようと望むのが、人のひとつの願望であるかもしれない。しかし、どうしてもそれを通り抜けないかぎり前へ進めないことがときにある。それはしばしば人に与えられた関門と呼ばれることがある。それにぶち当たるごとに人を強くする。しかし、何が強くなったのかは当の本人が知ることはその場では分からない。人に指摘されてそれを知るのか、あとになってみて気づかないうちに克服していたことを知る、ということもあるだろう。きっとそれでいいのだ。人は自分に対して意外に知らない。いや知ろうとしてないだけかもしれない。というのも、人は他者を見て自分を認識するという鏡の構造が身体化されているからである。