はるの路地学

ふぉと&ひすとりー

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姫路の狼煙地名 その2

2011-06-29 14:31:51 | 姫路の地名
■姫路市四郷町本郷■
 火山の南麓を占める四郷町は市川東岸及び八家川付近の八カ村を含み、昭和32年姫路市に合併。姫路の石舞台の別名をもつ宮山古墳群を擁する坂元に、平成5年市の埋蔵文化財センターが設立され古代におけるこの地の重要性が認識された。宮山古墳群と東方の沃野を隔てて対峙する麓ぎわの本郷集落の住人達は、南山を今でも火山と呼び、山裾に大歳神社を祀り境内を抜けた竹薮の中の10号墳は、埋蔵文化財センター長の話によると豪族首長墓で、6世紀後半~7世紀にかかる築造との事。辺りに散在する墳墓の存在が窺われる中、それがいかなる規模であるかは不明だが、火山のノロシ場に従事した烽長率いる烽子(のろしこ)たちが居住したムラの族長の可能性が模索できるようだ。

 
火山をバックに本郷村の大歳神社
         
        立て札が無かったら見落とすところだった 
                  
                 枯葉に埋れポッカリ口をひろげた墳墓
宇都宮市の事例から
 平成9年(1997)栃木県宇都宮市では烽(のろし)遺跡発見の成果を『烽[とぶひ]の道』と題して刊行した。その中で烽一字で(とぶひ・すすみ)と読むと解説し、遺跡が発見された場所は鬼怒川左岸沿いの断崖上の飛山城跡であると位置を報じ、「飛びという地名がノロシ設置の可能性を示唆する場合があり、これが変化すると富もありうる」と多くの例をあげている。この説を参考にしつつ先に述べた姫路市「西の広畑区京見山からの合図を受けて」を、もう一度振り返ってみることにしよう。

ノロシ山の可能性を秘める京見山
 南に広がる播磨灘が見通せる京見山の標高は261メートル、京の都が見えるとの山名の由来が取り沙汰される山は、大むかし山麓を瀬戸の波が打ち寄せる汀が広がり、断崖の柱状列石を「七つ岩」と名付け、沖往く船の山当てにもなった古代の姿を彷彿とさせる。想像たにしにくい現在の状況は、江戸時代後期に干拓された海は臨海工業地に変貌、波のひた打つ音が聞こえる麓の村「則直」は近年住宅化が進み、その影響もあって最近安全の為にJRの踏み切りが設置されて、土地の小字から「富津・ふづつ」踏切と名が付けられた。そこで思いついたことは、宇都宮市説にいう「飛ぶ火」の飛ぶが富に変化すると言う説を率直に受け入れると、富津(ふづつ)は以前(とみつ)の読みであったのではないかということである。そうであれば富津は「飛び津」の変化したもので、背後の京見山はまさに「ノロシ」やまであったと想定できる。しかし主要官道に沿っていない京見山は、西へのルートを海上に求めねばならない。無数の小島が浮かぶ以外に何も遮るものがまったくない瀬戸内の上空を、古代の通信網ノロシが四国へとまた本土へと湾岸ネットワークが張り巡されていたとしたら、その西端を担う京見山に地元住民として誇りがもてる。
 ノロシを探るにあたって、火の文字にのみこだわることなく、替え字や当て字はおろか、古代への眼差しを深めなければならないことを『烽(とぶひ)の道』から多く学ぶことができた。
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姫路の狼煙地名 その1

2011-06-14 14:04:01 | 姫路の地名
■姫路市御国野町御着■

 
 JR御着駅は朝夕を除けば、駅舎前は静かな時が流れている

 火山(ひやま)を確かめるために電車に乗った。JR西日本姫路駅を上発した上り電車が市川を渡ると間もなく右手車窓に標高166、8メートルの山が見えて来た。山の名は御着の南にあるので南山と呼ばれているが、少し前までは火山と呼ばれ火山の中に「向い山」という里山を含んでいたが、現在それらすべてを南山と云い山頂に立つと四方すべての眺望がきく。
「火山」」の立地
 
 火山はその名のごとく山頂で薪を燃やし、火や煙を立ち昇らせて国の一大事急変を麓の村に知らせたであろうと噂に高いノロシ山で、九州の大宰府から都へ異国侵攻などの報せを、西の広畑区京見山から受けいち早く東の加古川市日岡へ送ったといわれている。しかし京見山は他のニ山の立地に比べるとノロシ火を連想させる地名ではなく、三山ともにこの間の事情を正確に記した文献も見当ず、それに基づくものは山の立地とそれらしき地名が参考になっているのみである。
 御着村の推移 
 江戸時代の中期宝暦12年(1762年)ころに書き下された播磨の地誌『播磨鑑』に、「いにしへは神のあかしの火の山の やしろ久しき道芝をふむ」と記載されている。それにもかかわらず以後の消息はプッツリと途絶え、明治9年に提出された字限図に、御着の小字として火山が登載された。しかし明治22年省線とよばれたJR山陽本線が開通し、御着地内を通過することになり再度字限図の調整が行われたようで、図に鉄路図が書き加えられているが、これには年月の記入はない。明治22年兵庫県姫路市御国野(みくにの)町は御着(ごちゃく)と国分寺それに深(ふか)志野(しの)の三カ村が合併して御国野村を名乗った、いわゆる合成地名のはしりともいえる。南山の東を流れる天川は、御国野町内を抜けると高砂市と境域を分けつつ南流して瀬戸の海にそそぎ、陽光降り注ぐ海辺には行基が拓いたと言う古代塩田の景観を留める大塩や福泊がある。ここで産出した塩の行方は、馬や牛の背に括り付けられ馬坂と呼ばれる峠道を越えて北へ向うと、古代の山陽大道と出合う。そこには延喜式兵部省に記された古代駅制にのっとった「佐突(さずちの)駅家(うまや)」の確定地、姫路市別所町北宿が控え、火山との密接な関連性が重要視される。
       
   御着村の南端の火山遠景・過去に省線と呼ばれた在来線が新幹線の脇を通る

 
先祖が眠る麓の御着村墓地に無常の風が吹きこもる

 なぜなら中国の制度に倣ってわが国でも外敵侵攻に備え軍防制度を発足させ、防人と烽制(のろしせい)を置いたのは、『日本書紀』によれば天智天皇の3年(664)、初めて九州、壱岐、対馬の3ヶ所に設けられ、まさしくノロシ時代の幕開けとなった。古代の広域通信網は、まもなく見晴らしのきく海沿いの山に促進設置され、播磨においては上記の三ケ所と伝えられている。
 山上の自然環境はきびしく天候に左右され、発信されたノロシノ合図が受け手に届かない場合、また送ることが出来ない時は、徒歩で山を下り連絡する、と軍防令に定められているため、官道に設置されて常時馬30匹を備え、また役人を常駐させていた佐突駅家の存在を、見過ごすわけにはいかない。
汚染されていない自然と、空中に遮るものの無い時代に最速な情報伝達であったノロシを、中国の詩人杜甫は「国破れて山河在り…烽火(ほうか)は三月に連なり」と、緊迫する戦況の中、絶え間なく揚げられるノロシが長期にわたることを、46歳の幽閉の身ながら案じている詩がある。
 
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麦秋

2011-06-06 22:00:57 | 出合い
■姫路市網干区津市場■

一面に広がる麦畑、豊さを感じるひと時を過せた

       
     間もなく麦刈りが始まり収穫が終ると、パンになるのかな、それとも
     自家製の饂飩かな、そーめんかな。

                
           夕方に福が舞い込んできた。筍好きの童に破竹の差し入れ
           いよいよ筍シーズンも終章



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火の見櫓70 姫路市

2011-05-17 15:13:50 | 火の見櫓 ふるさとの記憶
■姫路市網干区津市場 再掲■
 津市場地区の火の見櫓が土地区画整理の都合により移築された。とは言え移動はわずかばかり、消防車庫は新築されたが赤燈が消防車庫の存在を報せるのみで鐘は外された
その一部始終の記録、人物映像は最小限に留め配慮したつもり。 
         
12月23日、自治会長宅倉庫に仮置かれていた備品の移動が始まる。まずポンプ車に空気を入れる二人                  

そのまま牽いて出発、カメラが追いつかない


残りの備品は車に積まれて移動、これまでぶら下がっていた鐘と
赤いガソリンの入れ物


何に使うのか聞いたけれど失念、
        
昭和62年入魂式を終えたポンプ車の記念写真もちゃんと残っている

重たい鐘を若い二人が吊り下げるのを下で見守る会長
           

以前の景観には及ばないが、致し方ない

機能と景観は別のもの。蒐集する目的からは大きく外れた一例。
それでも道標は埋められずに辛うじて残されたのが気休めとなった


こんなに大小の鳶口が残っているとは驚き、ヘルメットも綺麗に棚に並べられた。整理整頓の達人揃い

これで、いつでも出動が出来る。皆さんご苦労様でした
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火の見櫓69 袋尻

2011-05-06 21:22:23 | 火の見櫓 ふるさとの記憶
■たつの市揖保川町袋尻■
 
 村へ侵入する悪霊を防ぐ大榎は、御神木なのだろう。幹に巻かれた注連縄もまだ真新しい。
後ろにそびえる大屋根の寺院の在りかから、櫓の位置はほぼ村の中心とみてよさそうだ
 
河内消防第四部器庫の文字が読み取れる。アッ烏が寄ってきた。スピーカー五つ鐘有り

  揖保川町汚水マンホールに描かれているのは町花サルビアと金木犀

 
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