■姫路市四郷町本郷■
火山の南麓を占める四郷町は市川東岸及び八家川付近の八カ村を含み、昭和32年姫路市に合併。姫路の石舞台の別名をもつ宮山古墳群を擁する坂元に、平成5年市の埋蔵文化財センターが設立され古代におけるこの地の重要性が認識された。宮山古墳群と東方の沃野を隔てて対峙する麓ぎわの本郷集落の住人達は、南山を今でも火山と呼び、山裾に大歳神社を祀り境内を抜けた竹薮の中の10号墳は、埋蔵文化財センター長の話によると豪族首長墓で、6世紀後半~7世紀にかかる築造との事。辺りに散在する墳墓の存在が窺われる中、それがいかなる規模であるかは不明だが、火山のノロシ場に従事した烽長率いる烽子(のろしこ)たちが居住したムラの族長の可能性が模索できるようだ。
火山をバックに本郷村の大歳神社
立て札が無かったら見落とすところだった
枯葉に埋れポッカリ口をひろげた墳墓
宇都宮市の事例から
平成9年(1997)栃木県宇都宮市では烽(のろし)遺跡発見の成果を『烽[とぶひ]の道』と題して刊行した。その中で烽一字で(とぶひ・すすみ)と読むと解説し、遺跡が発見された場所は鬼怒川左岸沿いの断崖上の飛山城跡であると位置を報じ、「飛びという地名がノロシ設置の可能性を示唆する場合があり、これが変化すると富もありうる」と多くの例をあげている。この説を参考にしつつ先に述べた姫路市「西の広畑区京見山からの合図を受けて」を、もう一度振り返ってみることにしよう。
ノロシ山の可能性を秘める京見山
南に広がる播磨灘が見通せる京見山の標高は261メートル、京の都が見えるとの山名の由来が取り沙汰される山は、大むかし山麓を瀬戸の波が打ち寄せる汀が広がり、断崖の柱状列石を「七つ岩」と名付け、沖往く船の山当てにもなった古代の姿を彷彿とさせる。想像たにしにくい現在の状況は、江戸時代後期に干拓された海は臨海工業地に変貌、波のひた打つ音が聞こえる麓の村「則直」は近年住宅化が進み、その影響もあって最近安全の為にJRの踏み切りが設置されて、土地の小字から「富津・ふづつ」踏切と名が付けられた。そこで思いついたことは、宇都宮市説にいう「飛ぶ火」の飛ぶが富に変化すると言う説を率直に受け入れると、富津(ふづつ)は以前(とみつ)の読みであったのではないかということである。そうであれば富津は「飛び津」の変化したもので、背後の京見山はまさに「ノロシ」やまであったと想定できる。しかし主要官道に沿っていない京見山は、西へのルートを海上に求めねばならない。無数の小島が浮かぶ以外に何も遮るものがまったくない瀬戸内の上空を、古代の通信網ノロシが四国へとまた本土へと湾岸ネットワークが張り巡されていたとしたら、その西端を担う京見山に地元住民として誇りがもてる。
ノロシを探るにあたって、火の文字にのみこだわることなく、替え字や当て字はおろか、古代への眼差しを深めなければならないことを『烽(とぶひ)の道』から多く学ぶことができた。
火山の南麓を占める四郷町は市川東岸及び八家川付近の八カ村を含み、昭和32年姫路市に合併。姫路の石舞台の別名をもつ宮山古墳群を擁する坂元に、平成5年市の埋蔵文化財センターが設立され古代におけるこの地の重要性が認識された。宮山古墳群と東方の沃野を隔てて対峙する麓ぎわの本郷集落の住人達は、南山を今でも火山と呼び、山裾に大歳神社を祀り境内を抜けた竹薮の中の10号墳は、埋蔵文化財センター長の話によると豪族首長墓で、6世紀後半~7世紀にかかる築造との事。辺りに散在する墳墓の存在が窺われる中、それがいかなる規模であるかは不明だが、火山のノロシ場に従事した烽長率いる烽子(のろしこ)たちが居住したムラの族長の可能性が模索できるようだ。
火山をバックに本郷村の大歳神社
立て札が無かったら見落とすところだった
枯葉に埋れポッカリ口をひろげた墳墓
宇都宮市の事例から
平成9年(1997)栃木県宇都宮市では烽(のろし)遺跡発見の成果を『烽[とぶひ]の道』と題して刊行した。その中で烽一字で(とぶひ・すすみ)と読むと解説し、遺跡が発見された場所は鬼怒川左岸沿いの断崖上の飛山城跡であると位置を報じ、「飛びという地名がノロシ設置の可能性を示唆する場合があり、これが変化すると富もありうる」と多くの例をあげている。この説を参考にしつつ先に述べた姫路市「西の広畑区京見山からの合図を受けて」を、もう一度振り返ってみることにしよう。
ノロシ山の可能性を秘める京見山
南に広がる播磨灘が見通せる京見山の標高は261メートル、京の都が見えるとの山名の由来が取り沙汰される山は、大むかし山麓を瀬戸の波が打ち寄せる汀が広がり、断崖の柱状列石を「七つ岩」と名付け、沖往く船の山当てにもなった古代の姿を彷彿とさせる。想像たにしにくい現在の状況は、江戸時代後期に干拓された海は臨海工業地に変貌、波のひた打つ音が聞こえる麓の村「則直」は近年住宅化が進み、その影響もあって最近安全の為にJRの踏み切りが設置されて、土地の小字から「富津・ふづつ」踏切と名が付けられた。そこで思いついたことは、宇都宮市説にいう「飛ぶ火」の飛ぶが富に変化すると言う説を率直に受け入れると、富津(ふづつ)は以前(とみつ)の読みであったのではないかということである。そうであれば富津は「飛び津」の変化したもので、背後の京見山はまさに「ノロシ」やまであったと想定できる。しかし主要官道に沿っていない京見山は、西へのルートを海上に求めねばならない。無数の小島が浮かぶ以外に何も遮るものがまったくない瀬戸内の上空を、古代の通信網ノロシが四国へとまた本土へと湾岸ネットワークが張り巡されていたとしたら、その西端を担う京見山に地元住民として誇りがもてる。
ノロシを探るにあたって、火の文字にのみこだわることなく、替え字や当て字はおろか、古代への眼差しを深めなければならないことを『烽(とぶひ)の道』から多く学ぶことができた。