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◎『プーさんの鼻(作:俵万智)』

2012-09-26 | 音楽・映像
『プーさんの鼻(作:俵万智)』…少し難解になりますが、よく噛み締めるといい詩ばかりです。

■おさなごの指を押さえてこの淡き小さき世界のふち切り落とす by 『プーさんの鼻(作:俵万智)』           


tawara200512俵万智歌集「プーさんの鼻」を読んで: 小説のような日々


短歌は、本来、きれい事を忌避すべき詩型であるが、実際はどうなのか。他者に当たれない、自分自身の瑕疵による出来事、あるいは真の修羅場を歌人はしっかりと詠っているか。私にとって、かねてから課題となっているテーマの一つだ。


俵万智の歌集「プーさんの鼻」(文藝春秋刊)は、彼女がシングルマザーという選択を行った帰結が、巧みに描かれた歌集だ。ピンク色のソフトカバーで、1,300円という手頃な値段、おそらくそこそこの部数は出るのだろう。

ぽんと腹をたたけばムニュと蹴りかえす なーに思っているんだか、夏

夕食はカレイの煮つけ前ぶれを待ちつつ過ごす時のやさしさ

前屈みになりて校正続ければぐいとおまえはかかとつっぱる

昨日咲いた花とおんなじだけ生きて命ちいさくのびをするなり

どこまでも歩けそうなる皮の靴いるけどいないパパから届く

泣くという音楽がある みどりごをギターのように今日も抱えて

生きるとは手をのばすこと幼子(おさなご)の指がプーさんの鼻をつかめり


お馴染みの万智節である。口語が五七の句にぴったりと収まっていて、さくさくと読み進めることができる。
引いた歌のうち、5首目の「どこまでも歩けそうなる皮の靴いるけどいないパパから届く」がなければ、ごく普通の新米お母さんの姿だ。衒いなく、ごく自然な、読者の心にすっと届く歌ばかりだ。
しかし、俵はシングルマザーである。既に、シングルマザーが自然ではないと断言できる時代ではなくなっているが、父親の名前が空欄のまま、母子が生きてゆくのは、やはりたいへんなことではある。

この歌集を読み通し、かつて時代を代表した女流歌人が子を産み、育て、幸せで充実した毎日を送っていることに、ある種、ほっとした気分になった。しかし、「短歌バーサス008」の「短歌の現在」において加藤治郎が指摘しているように、「シングル・マザーを選ぶことの葛藤、恋人との関係や自分の家族に告げたときの波紋など、多くのパートはカット」されていることも事実だ。

母親になり、我が子の一挙手一投足を歌にすることは、俵ほどの力量なら容易い。しかし俵は、人目にさらしたくはない、忌まわしい事実を詠わなかった(「発表しなかった」と言った方が正確かもしれないが)。もちろん、俵の周囲の人々は、俵の選択を認め、優しく見守り、時にはサポートしているであろうことは想像に難くない。それでも、心の葛藤や他者を巻き込んだ修羅場は少なからずあっただろう。そのような場面が詠われてはじめて、「プーさんの鼻」は、名歌集として後世に残るのである。

歌人には、天上からものを見るように心がけることが、一つのスタイルとして求められるように思う。地べたを這い蹲っている自分をさらすような歌は、もともと求められていないのかもしれない。歌人の美学からすれば、修羅場は歌の場面として、あり得ないものなのかもしれない。

小説の場合には、悲劇は美しく、事件は劇的に、そして感動を引き出す装置を据えるのが常套であるが、現代短歌の場合も抑制的ではあるが、近年、その傾向は多分にあるように思う。
そうした作品群の場合、リアリズムが稀薄になる。事実を覆い隠す一方で、心に思い浮かべたものに胡椒ひとふりほどのフィクションを加える。それによって読ませるといった歌が今日日おいように思うのだ。

「プーさんの鼻」には、歌を日頃読まない一般の人々が「わかる」感情表現が巧みに盛り込まれている。そうした人々に代わって感情を言葉にするのが俵の役割であり、それゆえ俵は、代作作家として評価される。そして、俵の取り込んだリアリティに深みがある必要はない。人々が、映画を観たり小説を読んだりするように、読者は俵が繰り広げる世界を素直に感動できればよいのだ。
俵がシングルマザーであるということを前提として、子を産み育てている多くの母親達が感情を共有できればそれでよいのかもしれない。

俵を入り口として、人々を真の短歌の世界に導き入れることが求められるが、それはどのような方法で行われ得るだろうか。なかなか答えは見つからない。またしても俵で終わってしまう読者を数多く生み出し、また短歌は深い深い森へと帰っていくのだ。

 

プーさんの鼻立ち読み出来ます!






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