地方から上京する若者の心情に触れた経験がある。
単身上京しようとしていた若者だった。06/11/13「貧乏旅行(43)─沖永良部島の漁師、そして旅の終わり」に書いた、上野行きの列車で乗り合わせた少年だった。
それは、1972年の夏のことだった。大学生だった私は夏休みを利用して北海道を旅行した。20日間ほどの旅行を終えて、夜、函館から青函連絡船に乗り、青森から夜行急行列車で上野に向かった。
津軽海峡を渡る時、いくつものイカ釣り船の漁火(いさりび)が船のデッキから見えたのを覚えている。
その少年は、列車のボックスシートの私の向かいの席に座っていた。青函連絡船から乗り継いで、青森駅を列車が出発したのは夜遅くだった。固いシートに背もたれてずっと眠っていた。
福島県の白川を過ぎた頃に目を覚ますと、朝になっていた。列車は栃木県に入り、宇都宮辺りからは列車を降りる人や乗ってくる人で、車内は少しずつ活気を取り戻し始めていた。
私は車窓から山や畑を眺めていたが、前に座っている少年がそわそわし始めたのに気づいた。
「初めて東京に行くんですが、仕事はどこで探したらいいですか?」
突然、少年が話しかけてきた。
少年は北海道の生まれだった。中学を卒業してしばらく地元にいたが、東京に出て働きたいと思って上京することにしたと言った。
詳しい事情は忘れてしまったが、建設蟲草Cs4か何かの親類の仕事を手伝っていたようなことを言っていた。東京に行けば、もっと給料を貰えるんじゃないかと思ったと、そんなことも言っていた。
少年は私よりも少し年下だったが、すでに社会に出て働いていたので、私よりは大人びた感じもあった。
それでも、私と同様に世間をまだ良く知らない少年が、当てもなく単身上京して仕事を見つけようという勇気というか、その思慮のなさに少々たじろいだ。
「東京には、親戚とかはいないの?」
と、私は訊いた。
少年は、「いない」と答えた。
「上野に着いたら、どこに泊まるつもりなの?」
少年は、泊まるところもないし、泊まる金もないと言った。
その当時、上野駅には手配師と呼ばれる人たちがいて、仕事を探して上京してきた人間に声を掛け、山谷のドヤ街などに連れて行って、建設作業などの仕事を周旋(しゅうせん)していた。
手配師たちは暴力団の傘下にあるといわれていた。
山谷というのは、年配の人ならご存知かと思うが、当時、日雇い労働者が泊まる簡易宿泊所が集まっていた地域で、早朝に手配師が山谷の交差点で、その日、建設や土木の肉体労働の仕事をする日雇い労働者を集めていた。
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