賀茂の徒然草

つれづれなるままに

力の時代の先はいかに

2017-07-19 11:25:20 | 随想

 ポストモダンはイデオロギー主導の時代を壊した。分裂し、多様化した感性主導の価値観は、ネオバロックが再統合する。そこではアニミズムの原始状況のように、力(パワー)、エネルギーが統合の芯となる。安倍政権をそのようにして成立している。もちろん近代的知性の上にではあるが、動物的な力が表舞台を牛耳る。野党をたたき、与党の力を伸ばすというスポーツ試合の様相が政治の世界を彩る。20世紀近代という周期の末期という現象である。そのプロセスの最終段階にトランプがいる。驚くことはない。プーチン、エルドアン、安倍晋三はトランプとウマが合うのであり、トランプによって乗り越えられたのだ。トランプがその流れで優れているのは、なお残っていた20世紀的理性という覆いを脱出し、飛び出したことである。

 それが周期のある一段階であるということは、さらに次の段階によって凌駕されるということである。理性をフェイクだと言い切ったトランプは近代世界をバカにして超越したのだが、その特権は古代神話の神に代わる古代の王にしか許されない類のものである。この世界が古代世界に似てきていることがそれを許しているのだが、このような状況は擬似的な現象であり、人々はそのうちにメディア上に展開される夢から醒める。全くの終末がそこに起こる。周期の論理が教えることは、カタストロフを経て新しい世界への大胆な飛び越えが起こるということである。

 与党の肥大化、野党の極少化という状況は、現在の与党・野党構造がまるごと無効化する形で終息するだろう。そこで神話化した20世紀的理性の解体が成就するのだが、その後はどのような状況になるのか。近代である以上、啓蒙の弁証法は続いている。21世紀的理性を研ぎ澄まし、純粋化して提示する作業が待っている。啓蒙とは見えていないものに言葉を与えて見えるものにすること。21世紀の主題とはなんなのかを整理し直す必要があるのだが、そう難しいことではないだろう。様々の主題はもう見えてきており、臆病に出てきているおぼろげな主題を、当たり前のものとすればよい。昨日今日に目に見えてきた気候変動理論の現実化などはそのうちのひとつだ。

 周期的現象として突き放すのは、一種の神の手による予定説ではあるが、それを神に帰してしまうのは近代人のすることではない。脳科学者に期待するのは、人間の脳が生理的にそのような周期を司っていることを明示してくれることである。未だ科学にならない部分を科学にするのが啓蒙というものである。脳の現象を科学で解明することが21世紀の主要な課題である。

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華やかなサン・ピエトロ教会堂建設の裏側で

2017-07-13 18:53:38 | 随想

 サン・ピエトロ教会堂の大改造が始まるのが1506年のこと。ブラマンテが設計者に選ばれており、これから百年をかけて、ミケランジェロを含む多数の芸術家がかかわる大事業が続く。贖宥状をめぐってアルプスの北では金満家と見なされた聖職者たちへの不満があちこちで火を噴き始める。ルターはそのような社会情勢を聖職者として正そうとした、ヴァチカンを頂点とする宗教権力のヒエラルキーを無用のものと訴えかける。ルネサンスからバロックの壮麗な様式で知られるサン・ピエトロ教会堂の建設は歴史的な芸術作品を誕生させたのだったが、その建設費用はどこから出たのか。精神の救済のために贖宥状を買わされる下層の市民は、教皇のルネサンス夢のために搾取され、貧困化し、新しい奴隷制にしばられることとなる。壮麗なルネサンスはアルプスの北側の庶民を犠牲にすることによって成り立っていた。ダビンチやミケランジェロによる人類史的な遺産を讃える時に、犠牲者たちのことは忘れがちである。ルネサンスと宗教改革は同じく人間性の復権をなしとげたが、それらはまるで裏表をなしていたのだった。

 ルターはヴォルムスの神聖ローマ帝国議会に赴いて、ほぼ死刑相当の審判を受ける。庶民に支持されたルターは支持者たちに拉致され、アイゼナッハ郊外のヴァルトブルク城に騎士として偽名で匿われ、そこの小部屋で300日の間に聖書のドイツ語訳を成し遂げ、その後の絶大な影響を残す。腐敗した教会組織はいらない、ただ聖書だけがあればキリストの真実に触れることができる。同じ頃、ローマではキリスト教の教会組織の頂点をなすサン・ピエトロ教会堂の大改築が始まっていたのだった。死を堵しての真理の訴え、なんとも敬服の一語である。家柄にも才能にも恵まれた、地方都市出身のルターは、エアフルトの学生時代に修道士に転身し、宗教的な真理探求に没頭し始めたのだったが、それがキリスト教の大分裂をもたらすことも、ひとつの驚きである。

 しかし真理の探求は奥が深い。ルターの仲介でツヴィッカウに聖職を得た若手トマス・ミュンツァーは、神のもとの普遍的真理を、世俗権力の横暴に対してもふりかざす。南ドイツからスイスにかけて、抑圧され、奴隷化されてきていた農民たちが各地で反乱を起こしており、若きミュンツァーはその運動に宗教的な真理のお墨付きを与えるという、ピュアな行動に出る。ドイツ農民戦争と呼ばれる騒乱は南ドイツを覆う歴史的事件となる。やがて手持ちの簡単な武器しか持たない農民軍団は、領主連合軍の大砲や鉄砲の軍団によって壊滅させられ、ミュンツァーは斬首刑となる。いかにも死刑をいとわなかったキリストとダブって見えてくる。ちなみに領主に可愛がられていたルターは農民軍団に死を求め、真理をあくまで宗教の内側に閉じ込めようとした。

 社会主義政権時代の東ドイツでは革命の先駆者としてミュンツァーは公式に讃えられ、その名残か、記念碑として彫像が各所に建っており、今もトマス・ミュンツァー学校という名の学校もある。ルターの陰であまりポピュラーな観光対象とはなっていないようではあるが、最後の拠点となったミュールハウゼンには農民戦争博物館がある。宗教改革500年記念祭の今年、「ルターに嫌われた兄弟たち」といった風な特別展を開催して、やや楽天的な記念祭を少し楯突いていた。我が身をふりかえって、真理探求を第一とする現代の科学者のひとりとして、複雑な思いがする。

 ダビンチは芸術に科学を導入し、新しい文化を開いた。ルネサンス文化はそのようにして人間文化の時代をもたらしたことに変わりはない。しかし、大金をかけて華麗化するルネサンス文化が、世俗的欲望を捨てようとする急進的な宗教改革を覆い隠してしまっていることを忘れてはならないだろう。中世から近世への転換は、形を残さなかったさまざまの勢力によっても実現したのだった。芸術様式を語る際に、華々しいものばかりに目を向けるだけでは事の半面した見たことにはならない。形なき何か、ネガティブな何か、否定の行動(偶像破壊のような)、等々も含む芸術論が求められるところだろう。

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宗教改革500年記念年

2017-07-13 13:30:01 | 随想

 ルターがヴィッテンベルクの城教会堂扉に95箇条の書面をはりつけた1517年から、ちょうど500年。ドイツ旅行を計画していて、ドイツ各地で500年記念の行事が展開されていることを知り、この機会にそのいくつかを巡ってきた。キリスト教徒でもないので、高校時代の教科書を思い起こす程度の知識状態だったが、よそごととはいえ宗教改革というものの大きさを知ることとなった。各地の展覧会は主にはルターによるドイツ語訳聖書やその関連の文書などが中心であり、流して見る程度しかできなかったが、キリスト教という枠内ではあるものの、真実Wahrheitを押して曲げない一人の孤独な人物がなしとげた大事業を概略、知ることとなり、感銘が深かった。

 もっぱら関心は建築様式の変遷にあり、後期ゴシックの頂点の時代に起こった宗教改革は、ルネサンスと言ってよいのかどうかだった。すでにイタリアではルネサンスという文化革命は盛期に達していたが、アルプスを超えて行くには手間取り、ドイツではなおゴシック様式の伝統が続いていた。しかし、その後期ゴシックの様式は複雑な編物状のリブの文化に移行していた。ルターが関わったというTorgauという小都市の宮城付属礼拝堂があるというので、見に行った。それは、なるほどだった。説明書によると、聖餐のテーブル、説教壇、オルガン、そして集会所としての空間、その4つが必要なだけで、他は省くべきだとするのがルターの考えであり、それが反映されているのだった。そこにはイタリア・ルネサンスからの様式的な影響は認められず、そもそも建築形式として新しいものではなかったが、図像を省き、無駄のない、一種の還元的な建築像がそこにあった。連想したのはアドルフ・ロースの装飾否定であり、オットー・ヴァグナーの必要性論だった。天井には確かにゴシック様式のリブ・ヴォールトがかかっているのだが、隆盛を極めている後期ゴシックの華麗な形式は見られず、構造形式に従いつつ、合理化されたリブ・ヴォールトが目には新鮮だった。私にはアール・ヌーヴォーからモダニズムへの転換を連想させた。

 宗教改革に伴って各地で偶像破壊運動が展開され、キリスト像、マリア像といえどもその犠牲となっていたが、ルターはそのような破壊運動には関わらず、芸術物には寛容だったと言い、ここにもかつてクラナッハの描いた祭壇画が備えられていたらしい。しかし、特に南ドイツで華麗化する後期ゴシックの様式とは確かに一線を画しており、それは初期機能主義と似た心理を連想させた。イタリア・ルネサンスは次第にドイツへも浸透してくるという常識的な構図は考え直さなければならないかもしれない。イタリア・ルネサンスがポジティブな文化活動だとすれば、ここではネガティブなルネサンスが起こっていたようである。つまり、装飾的なもの、過剰なものを削り取り、本質的なものを露出させるという仕方である。これはドイツ語圏での初期モダニズムに相通じる。それはこれ以上に目立った建築様式を生まないため、ほとんど歴史書に取り上げられることはないが、改めて注目し直すべきポイントである。

 中世の建築様式にはほとんど関心がなかったので、見過ごしてきたが、この機会にシュベービッシュ・グミュント、アンナベルク、インゴルシュタットなどで後期ゴシック最盛期のリブの文化を見てきた。その他の都市でもホール式教会堂がこの時代の主たる様式となり、様々のヴァリエーションを生んでいたことに改めて感銘を受けた。説教を中心に据える宗教改革は、いわばこのような後期ゴシックのホール式教会堂に始まっていたのかとも思わせた。そこにドイツ流のルネサンスが再発見できるのかもしれない。この当時のキリスト教の宗教儀式や宗教共同体のあり方を詳細に見る余裕はないので、それ以上を掘り下げようと思わないが、この発見はこれからも気に留めておきたい。

 

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