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豊文堂日録

日々の事柄に対する感想意見等

「見えんけど、おる」の世界を認め始めた

2010年03月31日 22時12分02秒 | 教育

    ー朝ドラを見ながら考える―           
退職してからこの方、NHKの朝ドラを見る習慣になっている。その時間帯に都合の悪いときには録画と言う手があり、しかも今はVHSの時代と違い比較的簡単に録画がセット出来る。加えて、見終わると消去簡単である。それゆえに朝ドラを見る習慣になり、見ないと一日のうちのどこかで録画されたものを再生して家内と見ることにしている。その朝ドラを見ながら考えることが多い。
今週の月曜日から「ゲゲゲの女房」と言う新ドラマが始まっている。ゲゲゲのきたろうの作者水木しげるの女房を主人公にしたドラマである。舞台は島根県の安来。きのうきょうは、昭和10年代頃の話であるが、女房になる「布美枝」の小さい頃の話である。祖母が毎夜、寝る前に孫たちに妖怪の話をしている。その祖母と主人公布美枝との会話の中に、「怖いけど面白い。」「見えんけど、おる。」というセリフがある。この後のセリフ、「見えんけど、おる。」と言う部分について、思うところがある。つまり、この言葉こそ戦後長い間、子供の心から消えていた言葉である。
     ―「見えんけど、おる」の世界を認め始めたー
戦後の長い間、見えんものはいない。見えないものは存在しないという今から思えば実にこっけいなものの見方、考え方が世の中を風靡していた。しかし、最近になって、「見えんけど、おる」の世界を少しずつ認め始めた
まだ一部で続いているのであろう。それを端的にあらわすことばに、「科学的」と言う単語が使われていた。つまり、すべて科学的でないと良しとしないのであり、それは、非科学的と言う語によって否定されてしまう。まだまだ、われわれの周りには、その言葉を使うことが進んだ人間のように思っている人もいる。「見えんものは、いない」の世界である。
決して科学を否定するつもりはないし、科学は科学で尊重すべきであるが、科学で認められたもの以外はこの世に存在しないというのはどんなものか。
私は高校生の頃から、「科学的」の言葉をかぶせられたものには、疑問に思う習慣がいつかついてしまっていた。かといって、理科が嫌いではなかったし、生き物を飼ったり、小動物を取ってきて水槽に飼ったりすることが大好きであった。
一方で、目に見えないもの、目に見えない力とかの存在は、小さい頃から意識していたし、実際に体験もした。それを否定されると、子供でも面白くない。
もちろん、お化けの存在だとか、妖怪の存在を知る体験はしたことがないからなんともいえない。
どちらにしても科学一辺倒の思想を唱える者を信用しないのは、今も変わっていない。
私たちの頃と違い、今は、テレビでいろいろなことをやって見せてくれる。中には、手品紛いのものもあるが、目に見えないもので存在しそうなものがある。例えば、「気」と言ったものは物理の法則では説明できないもののようであるが、どうやら存在しているようであるし、人間が生きていく上で大きく影響を与えるものであると思う。
どちらにしても、この世の中は、科学で証明できない事象はまだまだある、と言うよりも、科学で証明されていないものの方が多いのではないか。科学がいくら進んでも作ることのできないものに生命がある。遠い将来においてひょっとしたらと思われるが、これほど不確実なことはないであろう。
「みえんけど、おる」という主人公「富美枝」のように言える子が今の小学生にどれほどいるのだろうか。私たちの世代より、きっと多いのではなかろうか。
表現が回りくどくなったが、「宗教と科学」については、別の機会に譲りたいと思う。