クインシー・ジョーンズ自叙伝

クインシー・ジョーンズの半生を彼の飾りのない、そして鋭い洞察力で描かれた物語。

マイケルとE・Tとスピルバーグその3

2010年12月26日 | クインシー自叙伝第35章
救済 マイケル・ジャクソン 児童性的虐待疑惑(1993年)の真相

「クインシー・ジョーンズ自叙伝」より
(2002年10月)
原題「The Autobiography of Quincy Jones」
著者 クインシー・ジョーンズ 訳 中山啓子

第35章 スピルバーグ
その3

クラレンスはスティーブンや私も含めて当事者すべてと付き合いがあり、シェインバーグもよく知っていた。彼は感謝祭の翌日、弁護士事務所に私たち全員を集め、話し合いをもたせた。



マイケルの弁護士にマネージャー(たぶんジョン・ブランカ)、CBSレコードの副社長に顧問弁護士、それに私とロッド・テンパートンが顔を揃えた。そして、その日のうちに決着をみた。


ウォルター・イェトニコフはエピックの親会社CBSに50万ドルのアドバンスが支払われることを要求した。ウォルターとCBSはそのすべてを、自分たちのものにし、私やマイケルには1セントも支払わなかった。


結局ユニバーサルは、豪華で素晴らしい『E.T.』のボックス・セットを50万セット、発売した。そのセットはすぐさまコレクターズ・アイテムになり、アルバムはグラミー賞を受賞した。


私とスティーブンはその一件で子供のように言い争った。CBSとユニバーサルが対立したため、私たちは1年以上、話しを交さなかった。


(美しいアスペン、スノーマス、コロラド)

すべてが解決し、私は翌年のクリスマス休暇に家族をアスペンへ連れていった。そしてスノーマスのスロープでスティーブンと偶然、出会った。


私たちは立ちどまり、抱き合った。彼は「ぼくが悪かった。あんなことを引きずるべきじゃないよ」と言った。私も「俺も悪かったんだ」と謝り、絶交状態にピリオドが打たれた。彼は「ぼくとクインシーは真剣に友情を築いた」と好んで言うが、そのとおりだ。


(アスペン、スノーマス)

翌年、私たちは、映画『カラーパープル』という形でささやかなプレゼントを授けられた。私とスティーブンは、キャシー・ケネディ、フランク・マーシャルとともに『カラーパープル』を共同で、プロデュースした。


その小説の映画化は、とくにロサンゼルスでは人々の意表を突いた。私が13カ月の間、スティーブンとともに脚本から撮影まで日々取り組んだことは、ひとりの天才と映画を製作するという、一生に一度の劇的な体験だった。そして、私たちは友人として深い絆を結んだ。



マイケルとE・Tとスピルバーグ 以上

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マイケルとE・Tとスピルバーグその2

2010年12月23日 | クインシー自叙伝第35章
救済 マイケル・ジャクソン 児童性的虐待疑惑(1993年)の真相

「クインシー・ジョーンズ自叙伝」より
(2002年10月)
原題「The Autobiography of Quincy Jones」
著者 クインシー・ジョーンズ 訳 中山啓子

第35章 スピルバーグ
その2

私はささいな問題についてはユニヴァーサルの弁護士が解決するものと決めてかかり、すぐさま仕事に取り組んだ。


そのプロジェクトは難物だった。ストーリーブックには可もなく不可もない物語がついていたが、私たちは、映画を観ていないリスナーがレコードを聴くことによって、そのストーリーを完全に理解できるよう、歌詞に置き換える必要があった。




また別のテープ・リールに録音する時間さえなく、一連の会話、音楽、特殊効果を40分のテープ・リール1本に収めた。当時はデジタル編集ができる時代ではなく、まさに悪夢だった。私たちは6週間かけて完成させた。その間、同時『スリラー』に取り組んでいたが、『スリラー』の制作期限は残り2か月ほどに迫っていた。


エピック・レコードは、『E.T.』に関するマイケルのレコーディングを噂に聞きつけていた。スティーブンが加藤堂の拠点にしていたユニヴァーサル・スタジオ内のMCAレコードは、黒人アーティストの第一人者を起用するにあたり、エピックに許可をとろうとしなかった。


それは「マイケル・ジャクソンはスティーブン・スピルバーグと仕事ができることを喜ぶべきだ」というMCAの姿勢を反映するようなやり方だった。彼らはマイケル・ジャクソンという人物を尊重していなかった。


エピックの社長ウォルター・イェトニコフはついに我慢の限界に達し、まくしたてた。「クインシーなんかうんざりだ!スティーブン・スピルバーグなんて知ったことか!シド・シェインバーグもユニヴァーサルもまっぴらだ!」。彼は現金で50万ドル支払わない限り、『E.T.』のストーリーブックの発売を差し止めると勧告した。


スティーブンとキャスリーン・ケアリーは、私が入れ知恵したと誰かに吹き込まれたに違いない。私が一体なにを入れ知恵したというのだろう?ユニヴァーサルの連中は、業界誌に目を通し、当然マイケル・ジャクソンが世界的な大物のレコーディング・アーティストのひとりであることを知っているはずだった。


『オフ・ザ・ウォール』は1000万枚を売る勢いだった。入れ知恵するべきものはなにもなかった。


ユニヴァーサルは相変わらず無頓着な様子で、実際、意に介していなかった。そして、シド・シェインバーグと長い付き合いのスティーブンがユニヴァーサルに忠実だったのは無理もない。


なにしろシェインバーグがジョーン・クロフォード主演のテレビ映画『夜のギャラリー』ではじめて彼を監督として抜擢し、その後も『ジョーズ』を撮らせたのだ。スティーブンは、その件に関して耳を貸そうとしなかった。


(ジョーン・クロフォード)

(ミニ知識*ジョーン・クロフォードのお話=初TV監督作『夜のギャラリー』の撮影中、熱心な青年監督のスピルバーグに心奪われた大女優がひとり。その人の名前は『グランドホテル』で知られる名女優ジョーン・クロフォード。『夜のギャラリー』に主演した彼女は、近くにいた記者にこう語りました。
「あの子(スピルバーグ)のところへ行ってインタビューしてきなさい。彼は、これから一生ハリウッドを引っ張っていく映画監督になるから」それから数年後、彼女の言葉のとおりスピルバーグはテレビ映画『激突』以降次々にヒットを飛ばすヒットメーカーになっていったのです! ジョーンとの友情も、彼女が亡くなる日まで続いたのでした。1977年5月10日膀胱癌、心臓発作で亡くなりました)




私は『スリラー』に取り組む間、セッションの間や深夜でさえ、とにかく終日『E.T.』のストーリーブック用のアルバムに関するファックスを受け取り、電話会議を行っていた。


それは数カ月に及び、双方顧問弁護士が応酬を繰り返した。ついに私の親友でフィクサーのクラレンス・アヴァンが介入した。クラレンスは、伊達に黒人のゴッドファーザーと呼ばれているわけではない。彼はイェトニコフのところへ行き、調停するよう依頼された。


クラレンスはスティーブンや私も含めて当事者すべてと付き合いがあり、シェインバーグもよく知っていた。彼は感謝祭の翌日、弁護士事務所に私たち全員を集め、話し合いをもたせた。

マイケルとE・Tとスピルバーグその3へ続く

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マイケルとE・Tとスピルバーグその1

2010年12月21日 | クインシー自叙伝第35章

救済 マイケル・ジャクソン 児童性的虐待疑惑(1993年)の真相


「クインシー・ジョーンズ自叙伝」より
(2002年10月)
原題「The Autobiography of Quincy Jones」
著者 クインシー・ジョーンズ 訳 中山啓子

第35章 スピルバーグ
その1


マイケル・ジャクソンと2枚目のアルバムに着手しようとしたころ、私はスティーブン・スピルバーグと出会った。


スティーブンが『E.T.』を撮影している間、私はマイケルの『スリラー』をレコーディングしていた。私とスティーブンは、当時スティーブンと交際していたワーナー・ブラザーズの音楽出版部門の幹部、キャスリーン・ケアリーに紹介された。そして私とスティーブンは、意気投合した。


彼はいうまでもなく天才だが、天才にありがちな気分屋ではなく、いつも同じように人と接し、いろいろな意味で現実的な思考の持ち主だった。スティーブンは私を『E.T.』のセットに案内し、彼が撮影する様子を見せた。


また彼とキャススリーンは、マリブやニューヨークやイーストハンプトンで私をスティーブ・ロスとコートニー・ロスに引き合わせてくれた。私たちは休暇をアスペンや南フランスでともに過ごした。


スティーブ・ロスは、葬儀社からワーナー・コミュニケーションズを築いた夢想家で、その後タイム社とワーナーを合併させた、大物中の大物実業家だった。ビジネスに関して、私が彼から学ぶことは多かった。

やがてスピルバーグは、「Q,互いに研修しよう」と言い出した。そこで私は『スリラー』をレコーディングしていたウエストレイクのスタジオに彼を連れていき、シンセサイザーの前に座らせた。


そして、彼は『E.T.』を撮影しているレイヤード・スタジオに私を招き、石油の煙を遮る防護マスクをつけさせて、カメラのファインダーとディレクターズ・チェアを私に譲った。


『E.T.』が公開され、世界的な大ヒットを収めると、スティーブンは私に『E.T.』のストーリーブックに添える曲を書き、マイケルのヴォーカルでレコーディングするよう依頼した。すでに『スリラー』の進行が予定よりも遅れていたが、ストーリーブックに必要な曲はわずか1曲ということで、私は引き受けた。


そしてマリリン・バーグマン、アラン・バーグマン、ロッド・テンパートンに作詞・作曲を依頼した。スティーブンは、そうしてレコーディングしたマイケルの曲を気に入り、思わず叫んだ。


「これはすごい!Q,『E.T.』全体のアルバムをつくるというアイデアはどうだい?」と言った。それはひとつのチャレンジだった。そしてそのチャレンジは、映画史上最大のヒット作になった2時間の映像を40分のサウンドに要約しなければならないことを意味していた。

スティーブンは、この種のレコードを制作するには時間を要するということがわかっていなかった。さらにエピックは、進行が遅れている『スリラー』に不安を感じ始めていた。


そうした状況の中、スティーブンの28歳のプロデューサー、キャシー・ケネディと彼のフィルム・エディター、ブルース・キャノンが『E.T.』の製作プロセスの記録、音響効果のテープ、ジョン・ウィリアムズの全スコアと映画の台本を詰め込んだ段ボール箱を持ち込んだ。


私はささいな問題についてはユニヴァーサルの弁護士が解決するものと決めてかかり、すぐさま仕事に取り組んだ。

E,Tストーリーブックは←はこちらでマイケルの素敵な歌声とナレーションが聞けます。

マイケルとE・Tとスピルバーグその2へ続く